嘘に触れる

月井 忠

第1話

 私は夫を顔で選ばなかった。

 今、夫の顔はアジアで十五位の顔をしている。


 私が生まれる前に、網膜埋め込み形の映像投影技術が確立した。

 もちろん、私もすでに埋め込んでいる。


 社会インフラはそれまでと一変したらしい。

 昔は案内標識や広告、信号機というものが物体として存在していたという。


 今はそこにあるかのように投影されている。

 もちろん、実際の世界には何もない。


 投影されているのは私の網膜ディスプレイにだ。


 前世紀にはメタバースというものがあったらしい。

 ちょうど、その世界が現実世界と融合したと言った感じだ。


 当時はAR、拡張現実というものもあったらしいが、その延長と言えばいいのか。


 私が見た世界を入力情報としてネットにアップし、計算し加工した後で網膜に出力、つまり投影するという技術らしい。

 こうすると現実世界と仮想世界が完全に融合する。


 処理能力や通信速度は飛躍的に上がり続け、今ではタイムラグなしで現実と見紛うほどの仮想世界が融合している。

 あらゆる物の表面がデジタル情報で上書きされていく。


 そして、最後には人の顔を上書きした。


 今、夫の顔はアジアで十五位の顔をしている。

 私はこの顔が好きだ。


 本物の顔はもう何年も見ていない。


 この技術は過去にはディープフェイクと言われていたらしい。

 元の顔の表情を入力情報として、計算し加工した後で作られた顔の表情を出力する。


 その出力先が網膜に変わっただけだ。

 私が夫の顔を見ている間、常に顔を変換して、私の網膜に投影している。


 今では網膜投影をしていない人はいない。

 そのため、見たい情報を見るだけではなく、見せたい情報を見せることも可能になった。


 私は自分の顔をいくつも持っている。

 お気に入りの顔はアジアで二位の顔と自分の顔を融合して作ったものだ。


 普段はこの顔を設定している。

 初対面の相手には、私の顔は予め作っておいた顔として表示される。


 これはデフォルトでそうなっているというだけだ。

 相手が私の顔を変えたいと思うなら上書きすればいい。


 この技術が開発された際、ひと悶着あったという。


 人格を否定する技術だとか、神への冒涜だとか。

 しかし、結局人々は誘惑に負けた。


 相手の顔を自分好みに変えることに。

 自分の顔を自分好みに変えることに。


 実際、良いこともあった。


 自分の顔に自信がなくて卑屈になる必要がなくなった。

 自分の顔にコンプレックスを持つという概念がなくなったのだ。


 本物の顔に化粧もしなくなった。

 簡単なスキンケアだけすればいい。


 以前、本物の顔に異常が起きてもわからないという問題が起きたので、それからは本物の顔の情報をきちんと反映する設定ができた。

 私の顔にニキビできたら、作られた顔にもニキビができる。


 更には人間関係の不和が減った。

 相手と喧嘩しても、相手の顔を変えることで心機一転、関係を再構築できるらしい。


 今も喧嘩の後は距離と時間を取るということは重要だ。

 顔を変えるという項目が後ろに追加されただけだ。


 人間関係というのは、どこにでもある。


 夫婦間の争いが減ったことで離婚率が減少。

 家族間の争いが減ったことで犯罪が減少。


 個人間の争いが減ったことで国家間の争いも減りつつあるらしい。


 更には人種差別が劇的に減った。


 変えられるのは表面だ。

 当然、肌の色も変えられる。


 肌の色が嫌いなら、変えてしまえばいい。

 もちろん、中には血が汚れていると言い出す者もいた。


 しかし、今では服を変えるように肌の色も変えられる。

 服を着替えたことで血が汚れるというのは、さすがに無理がある。


 未だに、この技術に対する反対勢力はいる。

 見た目に振り回されるべきではなく、本質を見るべきだと。


 それも間違いではないと思う。

 ただ、人間は視覚情報を頼る生物だ。


 それを知性のみで否定するほうがおかしい。

 腹が減っても、座禅を組んで精神を保ち、絶食しろと言っているのと同じだ。


 それなら人間の本性を理解した上で、見た目をいじるほうが健全だろう。

 過去には顔にメスをいれて整形したらしい。


 さすがにそれは、私も反対だ。

 それでも、見た目を変えたい欲求には賛成だ。


 私たちは常に嘘に触れている。

 この嘘は、私たちの脳に真実として記憶される。


 私は夫を顔で選ばなかった。

 ただ、前世紀の顔を変えられない時代に出会っていたら……。


 私は夫を選ばなかった。

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