Troublesome Conflict
橘 紀里
面倒くさい奴
彼がその男に初めて会ったのは、生徒指導室だった。咥え煙草——一応火は点いていない——によれたシャツに緩いネクタイというどうにもその部屋に似合わないその男は、戸を開けて入ってきた彼を見るなり、あ、と間抜けな声を上げた。
伏し目がちな切れ長の瞳に、雪のような白皙の頬。同年代の友人からは若干引かれるくらいの端正な顔立ちに、肩を越えて緩く流れる黒髪は女子たちが羨む艶やかさ。往々にしてその美しさは厄介ごとを引き寄せるから、彼にとってはさほどありがたいものではなかったけれど。
それでも、誰も文句のつけようのない、綺麗な笑顔をつくって間の抜けた顔に畳み掛けようと口を開きかけたその時。
「あーそりゃしょうがねえわ。似合ってるし」
「……は?」
「お前それなんか理由あんの?」
それ、とは伸ばした彼の髪であることは明白だった。つまるところは校則違反で呼び出されたのだが、それにしては質問がおかしい。
「別に。ただ、女子は問題ないのに男だけ指導が入るのは納得がいかない気がしますね」
「校則は校則ってことでここは一つ何とかならんかね」
談合でも持ちかけるかのような胡散くさい言い草に思わず目を見開くと、相手は火のついていない煙草を咥えたまま、さらに胡乱な笑みを浮かべる。
「俺としてもこんなの面倒くさいわけよ。お前さんがすっぱり切ってくれりゃあ時間を無駄にしなくて済むし、こうして準備までしていたわけだが」
見れば机の上には銀色のハサミが置かれている。それも比較的きちんとした美容室で使われるような、細く優美な物が。
「そんだけ似合ってりゃ、まあ切りたくないっつー気持ちもわからなくはねえし、無理矢理切るなんてのは、まあ言語道断だわな」
「別にそういう理由じゃないですし、普通に暴力ですよ、それ」
「まあそうか。俺としてもクレームは避けたいし、ということですっぱり切ってくるわけにはいかんかね?」
「代金とか払ってくれるんですか?」
「千円カットでよけりゃ。ああ今はちょい値上げしてんだっけか? その分くらいは上乗せするぞ」
皮肉のつもりで言ったのに、相手はあっさりと頷く。そういえばこの男の名前はなんだったか、と今頃になってよく知らない相手であることを再度認識する。
「タカハシ。あ、はしごだかの方な。化学の教師だぞ、それくらい覚えとけ」
「他学年のセンセイの顔とやたらと平凡な名前を一致させておくほど脳の容量余ってないんで」
「学年一位がよく言う。せっかく将来を嘱望されてんだからそのくらい妥協しとけよ」
よくご存知で、と肩を竦めて笑ってやろうと思った時、のそりと相手が立ち上がってすぐ脇に立った。彼も低い方ではないが、目線がさらに十センチは高い。飄々とした雰囲気は変わらないのに、立っているだけで威圧感がある。
思わず身を引こうとしたが、無骨な手が伸びてきてそれを封じられてしまう。殴られるのかと身をこわばらせた彼に、相手は煙草を咥えたまま口の端で笑った。やけに優しげな手つきで彼の髪をつまんで顔を覗き込んでくる。
「何で切らねえの?」
「面倒だから」
「そんだけ?」
ぐっと、髪を掴む指先に力がこもる、痛みを感じるほどではないが、不穏さを感じさせる程度には、強く。
「あんたこそ最後に切ったのいつ?」
「さあ、先月くらいじゃね?」
「絶対嘘だろ」
伸びた前髪はお世辞にも手入れされているとは言い難い。うっかりタメ口になっていたが、相手は気にする風もなかった。
「お前は切るのが面倒くさい。俺は、お前が切ってくれないと呼び出して説教を続けなきゃならんのが面倒くさい。めんどくせえが
「あんたの煙草と相殺で見逃すってのは?」
「コレは没収品を検品してただけ」
「咥えんのも?」
「そ」
だから、まあ切っとく? と綺麗な銀色のハサミを握りしめてニッと笑った顔は全然本気ではなかったし、彼が何を言おうと気にするわけでもない、というのがありありと伝わってきた。
「面倒くさいなら、あんたが辞めれば?」
「あ?」
「おれは髪を切りたくないし、あんたはおれに説教を続けたくない。あんたが辞めれば
暴論に呆れるかと思ったのに、相手はふむ、と顎を撫でながら首を傾げた。
「ナイスアイディアだな」
「は?」
間抜けな声を上げた彼に、相手は彼の肩をぽんぽんと叩いてハサミをケースに放り込む。それから煙草を胸ポケットにしまうと、もう一度ニッと笑って部屋を出ていこうとする。
「全然意味わかんないんだけど?」
そう言った彼の声に、扉の前で振り返った顔は、やけにすっきりしていた。余裕のその表情がやたらと癇に障って、そのまま駆け寄って正面に立つ。深く考えずに、何かに突き動かされるように襟首を掴むと、相手が目を眇めた。ぞくりと背筋が冷えたが、そんな自分に苛立って、あえて相手を睨みつける。
「何なんだよ?」
「まあ、そんな綺麗な髪、切りたくねえし?」
似合ってるからな、と言った声はやけに不穏で、本能が逃げろと警告する。だが、その前に大きな手が伸びてきて後頭部を掴むようにして引き寄せた。ざらりとした感触が触れて、しばらく拘束されて、すぐに離れる。
「他の教師にちょん切られないようにな」
傲然と笑って、あとは捨て科白なのか気遣いなのかよくわからない言葉を残して、今度こそ部屋を出ていってしまった。
「マジで、何なんだよ……?」
口元を押さえて振り返った机の上には、使われなかった銀色のハサミがやけに綺麗な輝きを放っていた。
それきり、本当にその男は生徒指導室に戻ってくることはなかった。どころか、ほとんど失踪に近い消え方をした、と聞いたのはそれからしばらく経ってからだった。
彼の心に余計なざわつきと、髪を切らない理由だけを残して。
Troublesome Conflict 橘 紀里 @kiri_tachibana
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