それでもあなたは転移する?
向野こはる
それでもあなたは転移する?
そこを訪れたのは、偶然だった。
話には聞いていたことがある、『お金を払って異世界に行ける店』。眉唾ものだろうと人は言うが、実際に行って帰ってきたと証言する人もいる。夢と
外観は古びた雑貨屋。場所は環状線を途中で降りた、駅の後ろ。アーチ状の屋根がかかる商店街を左に曲がり、古くからある店が連なる薄暗い一角に、その店はある。
扉を開ければ、からん、と綺麗な鈴の音がした。店内を見渡すと、本当に雑貨屋も兼ねているのか、古めかしい物から、意外にも最近のものまで、小綺麗に並んでいる。
物珍しさに見渡していると、店の奥から声をかけられた。
「ごきげんよう、お客さま。まぁ、珍しい。学生さんね」
黒く長い髪に、透き通るような肌の美女。白と青のワンピースは少し型が古いが、レトロデザインが可愛いらしかった。年齢は二十代くらいだろうか。こちらを見つめて細まる浅葱色の瞳に、目が離せなくなる。
緊張して上手く口が動かせないが、意を決して尋ねた。
「……もしかして、ここって、……い、異世界に行ける店、ですか?」
美女もとい、おそらく店主は、少し目を丸くした後、朗らかに笑う。
「ええ、もちろん。嬉しいわ、学生さんって、ほら、噂は好きだけど、お店まで来てくれる人は少ないから。どうぞこちらにいらっしゃって。プランだけでもご説明するわ」
手招かれて、店の奥に進む。
商談用の机なのだろうか。足の低いテーブルを、一人掛けのソファーと、二人掛けのソファーが囲む。その光景だけで胸が高鳴り、現実と違う余韻に浸れるようだった。
二人掛けのソファーに座っていると、店主が良い匂いの紅茶と、外国製の缶に入ったクッキーを出してくれる。ティーセットは年代物だろうか。それでも綺麗に輝いていて、思わず顔を綻ばせた。
店主は黒い革張りの、ノートに似た形状の冊子を差し出す。
「扱っているのは、『異世界転生』と『異世界転移』プランの二つ。少し高いけれど、学割も行っているのよ」
冊子を開けば、分かりやすい料金表とともに、各プランの詳細が列挙してある。
まずは『異世界転生』プラン。
これは異世界に『転生』し、死ぬまでの人生を謳歌する。転生先を例に挙げると、貧しい奴隷から繁栄を極める王族まで様々あった。とはいえ転生先を選べる訳ではなく、意外と普通に暮らして寿命を迎える可能性もあるという。加えて、転生先で前世──つまり今の自分──を思い出す事はなく、料金もかなり高い。
そしてこのプランは、胎児から人生をやり直すプランのため、一度こちらの世界で死ぬ必要がある。
そして『異世界転移』プラン。
これは異世界に『転移』し、死ぬまでの人生を謳歌する。転移先は選べないが、転生プランより劇的で、苦労を重ねながらも最後は幸福な人生を歩みやすい。料金も転生プランより安上がりだ。しかし懸念事項として、今の記憶はあるものの、着の身着のまま放り出される為、自分で活路を開いていくアクティブさがないと難しい。
そしてこのプランは、異世界で死ぬと、こちらの世界に戻って来られるのが特徴だった。
読み込んでいた視線を上げれば、店主は柔和な目でこちらを見ていた。
「……これって……転移の方が、お得じゃ……?」
「考え方次第ね。わたしは転生プランの方がオススメだけれど」
「そうなんですか?」
「だって、考えてみて。着の身着のまま、言葉が通じない外国に放り出されるのと同じよ?」
言葉が通じない、という発言に、驚いて言葉を詰まらせる。
こちらの様子に美女も目を丸くし、次いで心底愉快そうに声を上げて笑った。
「他のお客様もそうなのよね。どうして異世界で日本語が通じると思うのかしら。異世界には異世界の歴史、文化があるのは当然じゃない。言語や食生活が違うのは普通のことよ。漫画やゲームじゃあるまいし」
突然、現実に頭を殴られた気がして、恥ずかしくなる。プランの詳細を当たり前のように会話しているが、この『お金を払って異世界に行ける店』だって、大変な非現実。頭がおかしくなりそうだった。
だが、どうしてか興味を惹かれて、席を立つことができない。
黒い皮表紙の冊子を握りしめ、視線を落とした。
「で、でも、転移だと、ここに帰って来られるんですよね?」
異世界で死ぬと、ここに戻って来られる。異世界に転移する前の自分にだ。印刷された文字をなぞれば、店主はティーカップを手に取り、口をつける。
「ええ。今この瞬間に戻って来られるわ」
「ほら、やっぱり、転移の方がお得ってことですよね」
「そうかしら? 異世界で……例えば、今から七十年ほど生きて、大往生で亡くなったとしましょう。その記憶を残した状態で、この場所に帰ってくる。それって大変ではなくて?」
「え、だって、長い夢を見てたって事になりません?」
自然と興奮して語調が強くなる。
こうした非現実的な会話そのものが楽しい。心のどこかで、漫然と過ごす毎日に光が差したような、そんな新しい風を感じ取っていた。
店主は少し考える素振りを見せてから、こちらの顔を覗き込む。
「長い夢、ね。良い表現だわ。でもねお客さま。その夢はあなたを、竜宮城へ連れ去られた漁師にしてしまうかもしれない。夢か現実か、判断がつかなくなってしまうかもしれない。……想像してみて。七十年過ごした世界から、突然元の世界に戻る過酷さを。それまで話していた言語が、親しんできた食生活が、触れてきた文化が、手元から溢れる日々を」
浅葱色の瞳は、まるでビー玉のように感情がなかった。ゾクリと悪寒が背中を駆け上がって、冊子を握る両手が僅かに汗で滑る。
「それでもあなたは、転移する?」
飲み込んだ唾が、喉元で絡んで歪な音を立てた。
良き人だとも思う。非現実的な店だが、店主として矜持があるのだろう。責任を持ってプランの良し悪しを説明してくれている。祖母が先日引っ掛かった通販詐欺より、よほど善良で親切だった。
沈黙するこちらに、再び目尻を緩ませた店主は、紅茶を勧めながら眉を下げた。
「……怖がらせてごめんなさいね。でも、リスクを承知の上でお願いしたいの。その冊子、差し上げるわ。どちらのプランも、入金があってから適用になるから、そこまで気負わず平気よ」
「え、ここで何かする訳ではないんですか?」
「ええ、何もしなくていいわ。……あ、もちろん、ここで電子決済するのは大丈夫よ。ただ、システムの都合上、分割払いが出来ないのが申し訳ないわね。学割が効いても、高額であることに変わりはないから、親御さんとご相談してね」
ぐるぐると判断の付かない思考を回路で蠢かしながら、店主が包んでくれたクッキーを受け取り、冊子を片手に店を後にする。夢見心地で、もしかしたら本当に夢を見ているのではないかと思ったが、振り返ってもその店は存在していた。
携帯端末で写真を取り、ひとまず帰宅しようと駅へ向かう。電子切符で改札を通過し環状線に乗り込めば、退勤や放課後の学生に推し揉まれ、一気に現実の波が押し寄せてきた。
スクールバッグの中で、冊子が教科書に挟まれている。
人物が特定されないように、最寄りの駅へ降りてから、ベンチに腰を下ろして携帯端末を取り出す。交流アプリへ店の写真と共に、今日の出来事をかいつまんで書き込むと、瞬く間に拡散されていくのを、胸の高鳴りを押さえつけながら見下ろしていた。
* * *
ウェブ通帳を確認すると、入金があったらしい。金額は『異世界転移』プラン。少し時期がずれているが、おそらく先日来店した学生だろう。
料金はけして安くないが、学割は手が届かない金額ではない。アルバイトを詰め込んで給与を貯めれば、両親に泣きつかなくとも支払える金額だと言えた。
時計を確認すれば、そろそろ先方がやってくる時間だった。伝手で手に入れた英国の紅茶を振る舞おうかと、鼻歌混じりに店内を歩く。
最近はソーシャルネットワークサービスの発達によって、来店客も賑わいを見せていた。一時期はめっきり減っていたので、嬉しいかぎりである。『異世界転生・転移』事業だけでは食べていけない為、雑貨屋を兼用していたのも幸いし、今日の商談は主にそちらの話だった。
何を買い付けようかと思いを巡らせていると、乱暴に店のドアが叩き開けられる。
目を丸くし見れば、先日迷い込んだ学生だった。
先日見た時と同様に、どこかの学校の制服に身を包んでいるが、その足取りは頼りない。
「※※※****」
学生が何事か話し、訴えかけてくる。顔つきはもはや、少女時代の天真爛漫さを忘れた大人のそれだ。聞いたことのない言語で、イントネーションも現実離れしている。
どうやら学生は、よほど頑張ったらしい。
「*※*、*※**、※※※*」
「まぁまぁ、ごめんなさい、お客様。わたし、あなたの言葉が分からないわ。翻訳アプリの対応もないようだし。困ったわねぇ」
にこやかに対応するが、学生の焦燥は変わらない。むしろ、戸惑いは大きくなっているようだった。
おそらく向こうも、こちらの言語が通じていないのだろう。
彼女は望み通り『異世界転移』し、新たな人生を謳歌したのだ。
母国語も忘れてしまうほど、どっぷりと。
彼女が何年、何十年、異世界に居たのかは分からない。
日常的に母国語を使わない生活に慣れてしまえば、記憶から薄れていくのは明白だ。本人が意識して覚えている工夫をしなければ、他に日本語を使う人間でも居なければ、どんどん言葉は失われてしまう。
それは同時に、異世界の環境に馴染もうとした、努力の賜物とも言える。まだ年若い彼女の将来、その頑張りは必ず身を結ぶだろう。
夢か現か分からない、彼女にとっての異世界で、心を保っていられるなら。
泣き喚き聞き取れない言語を話す学生に、さて困ったものだと息を吐き出す。往々にしているのだ、こういう若人が。
今は亭主が不在にしているため、異世界の言葉を翻訳できる相手も居なく、このまま放り出すのも客商売として気が引ける。
そういえば、と考えが思い当たり、亭主が使用しているライティングビューローを探った。こういう時のために渡す案内文が、保存されていたはずである。
該当の文章を探し当て、内容を確認する。振り込み用紙がセットになっている小冊子だ。少し記載内容が捻くれているような気もするが、無愛想で不器用な亭主らしい文章に、少し笑みが溢れた。
「お客さま。こちらを持って、ご家族に相談なさって。アフターサービスの一環よ」
「※※※*」
「ふふ、さぁ立って、涙を拭いて。……当店がご協力出来るのは、ここまでだわ。自分で決めたことですもの。最後の責任は自分に襲い掛かってくるものよ」
言語が違うので難しいかもしれないが、家族であれば問題ないだろう。
まだ何事か言い募る学生を励まし、店の扉を潜らせる。ふらふらと歩いていく背を見送ってから、ほっと胸を撫で下ろして扉を閉めた。
* * *
無口な亭主に腕を絡ませながら、晴れやかな空の下を歩いていく。新しい白のワンピースに、厚手のコート。青のアクセントが可愛らしいブーツは、有名ブランドだけあって着心地が良かった。
新しい服は気分も嬉しくなる。揃いで買ったマフラーも暖かく、少女に戻った時のような心地だった。
「ねぇあなた。今日は……、あら?」
ふと、人だかりが出来ている反対車線に目を向ける。高層ビルが立ち並ぶ一角で、どうやら何かあったらしい。立ち止まった亭主に倣い、野次馬よろしく眺めていると、ショルダーバッグの中で携帯端末が震えた。
電話だろうか。否、今日は休業日なので、家からの転送も切っている。何事だと取り出せば、銀行からの入金通知のようだった。
画面を操作し確認すると、先日対応した学生の名前が、カタカナ表記で記載されている。
亭主が作った案内文に、分割でも承ると書いていたはずなのだが、桁数を数えれば一括入金のようだ。よほど切羽詰まってしまった事が伺える。
「……あらあら、こちらの異世界では、頑張れなかったみたい」
不思議そうに覗き込む亭主に、画面を見せ苦笑する。彼は無表情のまま頷いて、再び腕を絡ませ歩き出した。
相変わらず『異世界転移』プランの方が人気で、帰ってきた後の異世界の事など何も考えていない。
自分達が行っているのは、夢を提供する慈善事業ではなく、現実的なビジネスだ。アフターサービスは承るが、それ以上は手の施しようがない。
とはいえ、内容を見直す必要もあるだろう。毎度勧めている『異世界転生』プランでは皆、こちらの世界で死なねばならない、という事実にばかり目がいってしまうようだ。
入金さえすれば、いつ死んでも適用されるというのに。
「少し書き方を変えた方がいいのかしら。ねぇ、あなた。どう思う?」
携帯端末をバッグの奥に仕舞い、一度、肩越しに野次馬の集まりを振り返った。
遠方からサイレンの音がする。
それでもあなたは転移する? 向野こはる @koharun910
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