そして、みゆきさんは道に倒れて、マリコさんの名を呼び続けることになった。

@deadduckbill

第1話

 医療ビル五階の内装は、他階とは余程、違っている。壁天井は、卵色と生成色との二色で塗り分けられ、床は木目調の模様にしてある。照明は、強すぎない電球色のものが施設されて―――とにかく、淡く柔らかくを主題に造作してある。それが、雪の降り出す前のよく晴れた日に見られる、濃い夕暮れの光に、ますます柔らかである。暖房と夕日に、温もっているようなのである。

 そこに丁度、上りのエレベータが着く。ふたりの女性が降りてくる。ひとりは丸顔で、礼を失しない程度の平服を厚着している。やや細面のもうひとりは、髪をひっつめた黒のスーツに、丈の長いコートを着込んでいる。お互いの仕事終わりに、待ち合わせて来たものらしい。ふたりは館内地図を確かめると、ある医院の自動ドアをくぐった。看板には、白地に桃色の細い書体で、レディースクリニック、と書かれている。女性科を標榜しているのである。

 集成材で作られた受付台に予約を告げると、すぐに診察室前のベンチへ通された。座ると暖房が暑いくらいである。ふたりは上着を畳んだ。布張りのベンチのすぐ脇には、白い小さな本棚がある。上に置かれたラックには、子宮、乳房、卵巣、生理、といった文言の並ぶリーフレットが差してある。紙の角は、指の先が切れそうなほどに鋭い。平服は手持無沙汰に、あれこれと取ってみる。スーツは、壁に貼られた啓発ポスターを眺めている。どちらも真剣に読んではいない。ただ、何かせずにはいられないので、目を動かしているだけである。そのうち、診察室の引き戸が、音もなく開きしな、首だけ出したのは、看護師である。マスクをしているから、顔は判然としないが、若い女性らしい。ふたりに目だけで微笑みかけながら、

 「〇〇みゆきさん、△△マリコさん、診察室へどうぞー。」と、明るい声で呼びかけた。ふたりの名は、みゆきさんとマリコさんという。平服のみゆきさんは不動産会社で事務を執っている。スーツ姿のマリコさんは興信所の調査員をしている。顔は似ていないから、係累ではない。では、どちらかが付き添いの友人なのかというと、そうでもない。予約の際にあった問診票には、ふたりともの名が書かれている。お互いが当事者同士なのである。呼びかけられたふたりは、「あ、はい。」とだけ慌てて答えておいて、軽く身じまいしてから、立っていった。

 診察室の中も、廊下の内装がそのまま続きである。無数の書類が乗る医師の机も、複雑な医療機器も、乳白色で、角がとられている。眼鏡をかけた女性の医師は、ふくよかだが頑健そうで、柔和な面持ちをしている。調度との釣り合いは、計算されたが如く、似つかわしい。「理解あるお医者さん」との評判も信じるに足るようである。氏名生年月日の確認があった後、医師はふたりの用向きをさらりと切り出した。

 「精子提供で、お子さんをお迎えしたいとのことですが―――。」


 ――――――――――


 決して安くない払いを済ませると、ふたりは医院を出た。診察は、支援団体との間で行われた、長い話し合いの延長であった。医院はその支援団体に紹介されたのである。医師は団体から、ふたりの詳細を知らされていた。それでも、面談じみた診察を怠らなかったのは、事前情報との矛盾がないかを試験すると同時に、人となりも見るためである。医師は裁定者の任を帯びていた。本人たちの希望に対して、本人たちよりも強い責務を持つのである。その後、各種検査を終え、残された課題は、精子の入手先であった。個人から得るのは無茶である。民間の精子バンクは金銭が絡んでくる。その点は、支援団体と詰める予定があることを伝えると、医師は頷いた。それで、ようやく帰されたのである。

 ほうっと溜息ついたふたりは、エレベータへ戻った。窓の外はすでに夜景である。ビルには小規模の医院が集められ、総合病院の態を成してある。地階には調剤薬局もある。下りのエレベータには、各医院から患者が乗るのである。

 ふたりの先客は、片目をガーゼでふさいだ男の子とその母親とであった。六階には眼科がある。そのうち、男の子は、母親の腕にぶら下がりながら、診察をおとなしく受けたご褒美をねだり出した。「ねーえー、お菓子ー。」母親は声を落とし、「はい、はい。静かに、ね。」とだけ返事をする。男の子は、弱った自身のかわいらしさを利用するだけの才覚を発揮しているのである。あまりの無邪気さに、ふたりは思わず目を細めた。いつか、自分たちの子が、あんなふうに手にぶら下がってくること妄想しているのである。話の決まった親子は、微笑みを交わし合い、静かになる。

 四階はない。三階では、杖を突いたおばあさんが乗ってくる。しゃっきり立っていたのが、入ってくる際には、ひざが悪いのか片足が遅れた。エレベータの隙間に、一瞬、杖の先をとられた。慣れていないのである。壁に張られた案内板には、整形外科の文字がある。おばあさんは、ようやく操作盤の前に陣取る。

 内科や歯科がある二階から乗って来たのは、マスク姿の蒼白な青年である。入るなり、かごの隅にもたれると、からだを折るほどのひどい咳をした。それを必死に抑えようとするのが、いかにも病身である。咳の合間には誰に言うでもなく、かすれた小声で謝る。しかし、その声さえも咳に遮られがちである。空気が足りないらしく、大きな深呼吸が、ひゅうひゅうと鳴る。肺病みなのである。

 エレベーターを地階で出ると、すぐに往来である。ふたりは「開」ボタンを押して、乗り合わせた人らを先へ通した。みなお辞儀をしていく。最後に出ると、道行くはずの雑踏が、歩みを止めて右手を見ている。道向こうのビルの壁面を、ぼんやりした赤い光が一定のリズムで横切っていく。なんとなく、街のざわめき方も大抵でない。薬局の前には数人が話し合って、その中には薬剤師の白衣もある。何らかの事件の予覚に、ふたりも右手を覗く。誰もかれもの視線の先にあるのは、すぐ角の交差点である。すでに薄く人垣があり、その隙間から見えるのである。

 前部のひしゃげた軽自動車であった。丁度、運転席の正面が、信号機の支柱にめり込んでいる。相当な速度で打つかったとみえて、根元の砕けた支柱が、ボンネットから屋根まで寄り掛かり、一直線に圧し潰している。外装が無理に畳まれた亀裂から、部品がはみ出し零れ落ちている。フロントガラスの残骸が、枠の端からぶら下がっている。救急隊員と警察官が辺りを走り回っている。起こって間もないらしい。まだ煙が上がっているような気配である。ふたりは、修羅場に茫然と見入った。

 そこへ、鋭い笛の音がした。誘導棒を振った警官が車道へ出、車を制止させる。それより前には、警察車両が赤色灯を高く掲げて、徐行を促している。二台の救急車が、サイレンとスピーカーもけたたましく、車道へ合流する。その声が、夜のビル群を間遠になっていくころ、警察の拡声器が響いた。緊急搬送を出して、現場の整理がつき、危険の少なくなったところから、歩道の通行を再開させたのである。無論、歩行者用の信号も止まっているから、手信号を使う。にわかに崩れた人垣は、未練たらしい動きであるが進み始めた。軒下の見物も、一段落ついたために、三々五々に別れていく。薬剤師の白衣もいつか見えない。

 ふたりは気が付いて、人波に混ざった。向かう駅へは件の交差点を渡るのが近道である。現場の周りには、大きく非常線がとってある。警察の誘導に、人の流れは道の一方に片寄せられる。細くせられた人流は、自然、事故現場の真横で淀む。その中には、写真を撮るひとがいる。電話口でまくしたてるひとがいる。光る画面を指で動かすひとがいる。近づきすぎて警官から注意されるひとがいる。しかし、大半はちらと横目をやるだけで、おずおずとからだを縮こめて通り過ぎる。

 その様子は、大きな猪の狩られたのを遠巻きに覗いているようである。突如、現れ、停止した暴力の、また動き出すのではないかという不安とともに、わくわくと浮き立つ雰囲気がある。通行人の頬が色づくのは、なにも寒さのためばかりではない。緊張を伴い静かに沸き立つそれは、死生への素朴な感動である。しかも顕著なことには、その猪は、脳天をこん棒でたたき割られた、生々しい姿を晒しているのである。

 駅方面への人流は、横断歩道の向こうまで続いている。ふたりが渡る直前に、警官が誘導棒を水平で止めた。ふたりは、行列の先頭で待つ羽目になった。みゆきさんは、マリコさんと肩を触れ合わせた。はぐれる惧れはないにせよ、心丈夫に保つためには、別の体温が要ったのである。かすかに余裕ができると、目の端に赤くきらめくものが見えた。みゆきさんが、そちらへ首を向けたのは、予想があってのことではない。

 しかし、それは血であった。車道の黒い舗装の上に、回転する赤色灯に照らされて、ぬらぬらと蠢く粘菌ような、一条の血であった。こんもりと、乾きらず、いまだ動くような錯覚をもたらす鮮血であった。

 みゆきさんは、せめて目を背けなければいけなかった。が、視線は、その元を辿らずにはいられなかった。遡るにつれ太くなる血の条は、ついに血溜まりへ行きつく。その表面には、黒い砂ぼこりが点々とまぶされている。ガラスの粒やプラスチックの破片が埋まっている。そのまま、視線は血溜まりの中心へ、源へと―――。

 と、突然、血は青に遮られた。警察がブルーシートを立て出したのである。流れる血の先は、内へ消えていた。警官のひとりが血の端を踏んでいく。そこここでフラッシュが焚かれる。事故現場は配慮に覆い隠されたのである。

 みゆきさんは前へ向き直った。からだから力が抜けていった。だが、目に焼き付いた光景は、容易には消えない。瞼を指で押さえれば、ネガフィルムのように色の反転した、青白い血が、今も流れているようである。どこからか、巻き込まれがあったらしい、という話が聞こえてくる。血は、たしかに、車内から漏れたにしては、量が多過ぎるようだった。救急車は二台あった。みゆきさんは、マリコさんの方を見た。正面を向き、静かに動かず、己の置き場を堅守している。みゆきさんは、ぎゅっと目を閉じた。血の残像が、瞼の裏に融けていく。暗闇がざらつき、からだがふらつくまで待った。そうしてから、目を開けると、ちょうど振られた誘導棒に従った。

 交差点を超えると、混雑は途端にほどけた。同時に、わくわくした興奮も霧消した。ふたりは黙って歩いた。どっと疲れがやって来たのである。話すべきことは、山ほどあった。仕事のこと、今日の診察のこと、支援団体とのこと、提供相手のこと、事故のこと、夕食のこと・・・。しかし、疲れていた。話したところで、疲れが増すばかりなのは、語らずとも了解し合っていた。ただ歩くしかなかった。

 それにしてもなぜ迂回しなかったのか?みゆきさんは夜空を見上げた。三日月が、驚くほど小さく、弱弱しかった。マリコさんと沈黙のうちに駅まで歩き、ぼそぼそと別れを告げ、電車に揺られ、部屋までの道すがら、考えたが、頭の奥に、ことば未満が、熱く蒸気のように渦巻くだけで、答えは出てきそうにもなかった。遠回りということは、事故を目にしたときに、真っ先に思いついたことである。しかし、言い出さなかった。それは、はじめて訪れる街ということもあった。土地勘もなく、駅から医院までは、地図に検索をかけたのを頼りにしたのである。それを、改めて調べ、最短経路の案内を無視しながら、慣れない街をさまようのは、いかにも難儀に感じられた。それに、見物もしないで帰っては損だ、というような、好奇心もあった。明日、会社でするための、ちょっとした話の種にはなる、というわけであった。だが、つまりは、面倒だったのだ。一日の仕事を終え、神経を使う診察を受けたのである。疲れていた。駅へは、ただ、目の前の人の流れに身を任せるだけでよかった。ふたりとも、何も考えずに帰りたかったのである。

 みゆきさんが、自分の部屋に帰ったのは、そう遅すぎる時間でもなかったが、手には夕食の菜が入れられた茶色のビニール袋を提げていた。鍵を開け、ただいまと言いかけ、やめた。コンクリート造りの建物は、独居にしては広い間取りである。それに、いやに、ガランとしている。玄関を狭くしている傘立てには、大小、透明色彩、華美武骨の別なく、何本も刺さっている。下駄箱の上には、鍵置き替わりの小皿が乗る。その引き違い戸の一方を引けば靴が並んでいるが、もう一方は開けても空である。中身の半分が丸々、抜き取られた恰好である。

 短い廊下を通り、台所の三ツ口コンロと流しの間に、手提げの袋を置く。袋の奥の壁際には、三合炊きがうずくまっている。居室の灯りを点けると、寒々しさが増す。本棚には歯抜けが目立ち、もたれかかりも多い。まるまる空の段もある。収納棚には、化粧品や充電器など、身の回りの細々としたものが、無造作に詰め込まれている。食事から日記まで、万事その上でこなすこたつ机も、大ぶりなものである。ベッドはダブルサイズで、その上に、いくらか服の投げ出されている。

 端的に言えば、ふたり暮らしの片方が出ていった形である。しかも、残された跡が整理されていないから、別れは、つい最近に出来したものである。

 みゆきさんは、カバンを放り、エアコンを操作すると、ベッドに座った。深く短いため息をつき、上着のまま仰向けにからだを投げだした。広すぎるベッドは、からだを楽々と収める。目を瞑れば、地平線の先まで転がっていけそうである。そのまま、じっとしていた。それから、勢いよく、目を開けた。涙はない。再び、ため息をついた。脚で反動をつけ、立ち上がった。クローゼットを開ければ、吊り戸の中も、下駄箱と同じように、片側にしか服はなかった。着替えを済ませると、一日中、保温され、端の固くなったご飯と、買って来た菜とで、夕食をとった。風呂釜の横でシャワーを浴び、軽く体操をし、歯を磨き、少し本を読んだ。眠気はいつもどおりに来た。洗濯は、休日にまとめてすればよかった。


 診察のあった週末、みゆきさんは、待ち合わせ場所へ向かっていた。行きつけというまでではないが、何度か訪れたことのある喫茶店である。店は、駅から少し歩いた細い路地の中にあった。

 地下鉄の駅を出れば、道幅の広い繁華な通りがある。通りに面した建物は、どれもが大きく、幅を利かせている。外観は、淡い色合いのタイル張りや、骨組みを見せるガラス張りが多い。柔らかさや親しみやすさ、胸襟を開いたところを演出したものだろう。しかし、それは、返って建物のかさばりや重み、固さを強調するばかりである。裏へ回れば、人いきれをたっぷり吸って湿った都会の塵埃に、細かく傷つき薄汚れているのである。指でなすれば、きっと、日を問わずいつも冷たく、こするだけでは落ち切らない、かすかにべとつく黒い汚れが、指紋の溝へこびりつくのである。

 そんな、にぎにぎしい通りから、ひとつ路地へ入る。それだけで、街の音が随分、遠ざかる。周囲の高層の建物が遮るために、車の音もざわめきも、間延びして耳を刺さない。人影すらもまばらである。道端に屑も落ちていない。閑静というほどには寂然としない、そぞろ歩くに適した道である。

 その一角にある喫茶店の空は、いつも余計に青く見える。平屋の正面扉の横には、鉄柵で囲んだ露台が張り出してある。敷地の所々には、ひょろ長い植栽を施してある。白壁に柿色の瓦を乗せた建屋は、南仏の田舎家といった印象である。それが周囲から、いかにも浮いている。世に取り残されているという感じである。入口扉のガラス面には、ひとつのステッカーも貼られていない。路上に店の幟も立っていない。全体が、木と土とわずかな鉄とで成り立っているようである。プラスチックが似合わぬ風貌である。一見でふらりと立ち寄るには、ちとむつかしい店構えなのである。

 実際に、みゆきさんは、マリコさんに連れられて、初めて来たとき、入るのに勇気が要った。軽やかに店の扉を押すマリコさんの尻にひっつき、きょときょとしながら敷居をまたいだ。今はもう、その木の扉を気遣いなしに開けられる。からこん、と乾いたベルが鳴る。奥からはいと声がする。店員が床板を軋ませながら出てくる。品よく頭をひとつ下げる、「いらっしゃいませ。」満員で入れなかったこともないが、ふたり占めできたこともない店である。

 待ち合わせを告げると、露台の席へ通された。通りに面した柵の近くである。マリコさんは、座ったままで迎えた。片顔に、頬杖をついて、微笑むのである。言葉はない。みゆきさんは、これを信頼のあかしと採った。椅子は鋳鉄で、蔦を模してある。卓も同じ意匠で、白大理石の丸い天板の中央には、日よけの傘を差す穴が閉じられている。小春日和に風はなく、雲はわずかである。とはいえ、平日の午過ぎに客の姿も少なく、隣客の女性ふたり組までは、卓を三つか四つ、隔てている。大きな笑い声は聞こえるが、会話の内容まではつかめない距離である。

 みゆきさんは、注文を済ませると、横顔のマリコさんを観察した。頬杖を外した手でカップを持ち上げ、道向こうのビル辺りを見るともなく見ている。耳隠しの黒髪が、微風に揺られ、さらりとしている。薄化粧は望む顔を作るためではなく、生来の美容を際立たせるためのものである。寒さに上気するのか、やわらかな頬は淡く色づいている。遠くを見やる瞳は、うるんだように濡れ、まつ毛に乗った涙のしずくが、瞬きの度に、晴れた日にきらめく。カップを上げる手指もたおやかに、桃の唇をコーヒーで湿す。いつにも似ず、けだるそうに、半ば放心の様子である。

 みゆきさんは、これらを総合して、きれいだなあ、というただ一語にまとめた。それも声には出ない。彼方を見つめる横顔に、満足の嘆息をもらしたのである。たしかに、美しさはひと際であるらしい。愁いの漂う瞳の辺りに、魅力の出所を尋ねるのは、惚気のためばかりではなさそうである。その証拠には、露台の前の道行く人が、たびたびくれる一瞥は、まぎれもなくマリコさんに向いている。対面に座るみゆきさんの嘆息は、こういうところからも出たのである。

 見惚れる間も、マリコさんは無言である。みゆきさんは、自然と視線の先を探った。通りを挟んだ向かい側には、オフィスビルがある。その外構にある花壇が妙だ。小さなアーチがふたつ据えられ、花たちは、それを彩るように植えられているのが、一方は冬枯れの花が荒涼としている。しかし、もう一方には、同じ花が今が盛りかのように咲いているのである。一方は凍みた花たちが、萎びて色褪せ、うなだれた茎にぐらついている。それが、もう一方は、花の配置こそうりふたつだが、まるで季節が止まって、きちんと天を仰いでいる。造花が植わっているのである。ビルには造花会社の展示室が入っている。春には、美しさが生花に劣らぬことを宣伝し、冬にはこうして奇妙な光景で目を引くのである。

 しかし、それを知らぬみゆきさんには、どういう仕掛けがあるか、諒解できない。まさか宣伝とは思い至らない。わずかに心細くなって、視線を元に戻すばかりであった。マリコさんは、いまだに横顔のままで、何も言わない。みゆきさんが、花壇のことを話題にしても、言われてから気が付いたように、「ああ、うん・・・。どうなってるんだろうね・・・。」と簡単な応答したのみである。取り付く島もない。そういえば、店員に注文をするときも、軽い雑談の間も、いつにも増して素っ気ない。目を避ける素振りさえある。しかし、それにしては、声だけ明るい。言葉少なな中にも、どこか弾んだ調子がこもっている。みゆきさんは、なんとなく不安になってきた。

 不安を抱けば、それだけでは済まない。最悪の未来を、唐突に別れを告げられることを想像するのは、暗い魅力がある。そうならないと確信しているからこそ、楽しまれる類のものである。しかし、この場合はそれに当たらない。みゆきさんは苛立つ。隣客や店内に続く戸口、往来を左見右見する。つぎつぎ話を投げっぱなす。それが尽きると沈黙する。マリコさんは、あくまで受け身である。顔は相変わらず、彼方へ向けたままである。ひととき、飲み物をすする音だけになる。

 みゆきさんは、カップを見つめた。白磁の中のコーヒーは、いつか微温っている。半分ほど残った浅い水面は、黒というより赤褐色に近い。自らの顔の歪んで映っていることは、みゆきさんを嘆息させた。先ほどのとは、まるで意味合いの異なったものである。そこで、本日の主題を切り出した。提供者とする面会の相談である。

 「昨日の話なんだけど・・・?」実のところ、喫茶店で会う前から焦れていたのである。昨夜の電話は、尻切れトンボであった。どうせ、今日、会うからと、いい加減で打ち切ったのは、マリコさんの方である。

 マリコさんは振り向いた。カップを上げた手はそのままで、首だけを動かして、問うた相手を真っ正面に見据えたのである。目と目がまともに打つかった。自然、みゆきさんは、瞬きとともに視線を切った。それからすぐに向き直った。といって、再び目を合わせるというのではない。顔全体を薄めに概観したのである。

 そこに発見したのは、一本の縮れ毛であった。マリコさんの頬に、一本の縮れ毛が張りついていたのである。先ほどまで隠れていた片頬に、弾力のある太く長い毛が、しっとりと身を這わせているのである。みゆきさんには、二の句がつげない。しかし、当の本人は、気付かないのか、平然と問い直す。

 「どうしたの・・・?なにを、見とれているの?」微笑みながら、茶化すように言うのである。

 みゆきさんは、目を見開いたまま、答えられない。縮れ毛に魅入られたかのようである。とにかく太く濃い毛である。子供を欲しがるくらいだから、ふたりが褥を共にしたことは数知れない。マリコさんは、いつでもどこでも大抵きれいにしている。一部は永久脱毛の施術を受けている。とはいえ、そのあたりの機微への理解もあるから、残すべきところは残してある。脇などはその一例だが、いつも、不毛の地であったかのように剃った跡すら認められない。他の部分も見苦しくないように手入れは欠かさない。みゆきさんが思い返せば、直近の際には、さほど伸びてはいなかったはずである。そもそもの質も異なる。広げられた脚の付け根に手を添えながら、殊更長く鼻を埋めていたのだから間違いない。縮れ具合も色もだいぶ違っている。もっと素直で柔らかく、薄い色をしているのである。触れれば、さやさやと心地よくはあれ、件の毛のような弾力はないはずである。それに、つき方も余程おかしい。ちょんとくっついているのではなく、全体が湿り気を帯びて、べったり張り付いているのである。

 無言で見つめられるのに、恥ずかしいのか戸惑ったのか、マリコさんは、

 「うん、それで・・・?」と、軽く微笑んで、先へ促した。しかし、みゆきさんは、それどころでない。いつから、ついているのか。すでに気付かれているのか。店員にも客にも、不審な素振りはなかったか。通行人の視線の意味は、何だったろうか。猛烈な速度で振り返り、点検しているのである。ことばまでは回らない。

 かといって、話を始めたのは、みゆきさんの方であるから、いつまでも黙ってはいられない。無言の抗議と取られるのは、遺憾である。そこで、当座の判断を下した。どうも気付かれてはいないようだ、というのがそれである。では、次はどうしたらよいか。それとなく注意するのは至難の業である。マリコさんに不快を起こさせてはいけない。店員や隣客に気付かれてもいけない。今は周囲にいなくとも、いつ誰が来るとも限らない。店員が新たな客を間近い席に通すかもしれない。露台の客が、手洗いへの通り過ぎざま、不図、目をやったら、それまでである。どうする。どうする。どうする。焦ったみゆきさんは、つい、言いそびれてしまった。

 「うん・・・。ええと・・・?どこまで、話したっけ・・・?」

 昨日の話の復習が始まった。マリコさんが先導した。今度は、みゆきさんが、生返事になった。縮れ毛が気になって、ろくろく頷くこともできないのである。マリコさんの頬で、はり付いた毛は、蛇のようにのたくっている。

 そのうちに、毛は風で乾いてくる。端が跳ねあがりはじめ、本来の立体性を取り戻そうとしている。遠からず吹き飛ぶだろう。それでも、一向、気が付かない。マリコさんのカップの中身は、ずいぶん少なくなっている。みゆきさんは、なぜとはなく、大げさに振り向いた。自分の頬にも毛がついていて、それを振り払うかのようである。幸い、近くに店員はいない。ほかの客とも距離がある。

 いっそのこと、言ってしまおうか。案外、笑い話で済むかもしれない。口を開きかけたが、話を断ち切るのは、できにくい。時機を逸していたのである。逡巡するうち、ほとんど、マリコさんだけが喋る。その間、縮れ毛も、くちびるの動きに合わせて蠕動する。どういう具合か、視界へは入らず、顔をくすぐることもないのである。カップを上げても、ちょうど手には触れないらしい。毛先だけが躍る。

 みゆきさんが、その動きに注目するうち、毛は二重写しになる。いつか見た光景が思い出される。映像は、後面から立ち上がり、徐々に輪郭を鮮明にし、現在より前面に展開される。彼とひとつ同じ部屋に暮らしていた、ある日のことである。あの時も、毛は踊っていた。いや、毛根をつままれ、もてあそばれていた。


 ―――――――――――


 縮れ毛は、ページの間や、冷蔵庫の中に、いつの間にやら潜んでいる。その理由を、話していた時だ。彼は、どこかしら少年らしいところの残った声で言った。

 「まず、あれは陰毛じゃないんだ。大抵が腋毛だよ。なにしろ、人間、一番動かすのは手だからねえ。それで腋が、服や二の腕に擦れるんだな。」

 「擦れて毛が抜けるだろう。それで、腕を動かすんだから、袖や裾から、飛んでいくんだな。そうそう、和服じゃあ、袂があるだろう。落語じゃあ、無精者があそこに、ごっそりため込んでたなんて話もあるんだ。まあ、陰毛じゃ、そうはいかないさ。」

 「陰毛はなんというか、あまり擦れる場所には生えていないだろう。あけっぴろげ、というかさ。腕と脚の動きを見れば、わかるけど。そうだな、うまく言葉にできないけど、たとえば、歩くにしてもさ、腕も足も、基本は、前後に振るよね。けど、陰毛はその前後の振りに対しては、平行に生えていない。でも、腋毛は、大部分が平行して、しかも、挟まれてる。だからよく擦れる。で、腕を動かす、よく落ちる、ってことなんじゃないかな。」

 「なんでこんなところに?って場所にあるのかは、静電気か、服の繊維にひっかかってるのかもね。服の内側や、腕にくっついて、振られたときにぱっと離れて、入り込むんだろうなあ。」

 「それにね、証拠もあるんだ。」

 「なにって、数えたんだよ。」

 「だから、部屋に落ちてた毛さ。大変だったんだよお。一本々々さあ。」つまんでいた中々な剛毛を、ゴミ箱へ落とす。照れ隠しのように、微笑みながら。

 彼は、わたしたちが暮らす賃貸の、彼が占領していた一室に落ちている縮れ毛を拾って、数えたらしい。すっとんきょうな、学者肌の人物が見えてくるようだ。

 四半期、季節ごと、三か月に一回しかしない掃除の時に、集めたらしい。結果は、やはり暑くなるにつれ数を増し、夏が最も多く、寒くなるにつれ徐々に勢いを失い、冬に入ると明らかに数を減らした、との事だった。表まで見せられた。

 仕事柄、大抵、自室にこもっていたので、息抜きに、部屋の床を、ちょっとしたフィールドワークの舞台としたのだろう。

 しかし、この研究には、穴が多い。まず、問題の焦点は、彼の部屋着にある。夏には、やせた白い身体に、腋毛が目立つタンクトップに短パンで、冬にはスウェットの上下に毛足の長いフリースを重ねる。

 開口部の大きさが違いすぎる。それに、短パンの裾から陰毛がふわりと落ちることもあるではないか。パンツのこともあった。締め付けるのが嫌いだと言って、愛用するのは医療介護用の腰ゴムが緩い品だった。それに、彼の、貧弱な体毛は、強く擦れることがなくても、すっぱり毛穴を見放して、音もなく床に落ちる気もした。

 それに、彼の毛は自分と比して、かなり濃い。腋毛も陰毛もしっかりしている。それを見分けることは、相当に困難では・・・。


  ――――――――――


 「ねえ、聞いてる?」怒りよりはおとなしく、疑うような、居丈高の声が響く。みゆきさんは、それで、途端、埒もない思い出から覚めた。「それで、会うの、いつにしようか?」マリコさんは、不相変、真っ正面から見据えていた。口調にも、詰め寄るような、圧力がこもっている。大急ぎでごまかすしかない場面である。

 「ああ、うん・・・。おかわり、頼もうか?」

 咄嗟に検めると、いつかマリコさんの頬から、縮れ毛は消えていた。呼ばれてきた店員にも、妙な素振りはない。遠い隣客にも、横目を使うような者はない。ほっと、胸をなでおろした。が、みゆきさんの顔は、すぐに曇った。

 なぜ、あんなところに毛があったのか?幻覚、見間違いの類とは思えない。突拍子もないところから見つかるのは、縮れ毛のならいである。しかし、恋人と抜き差しならぬ話をするというのに、鏡は一度も使わなかったというのか?

 マリコさんは、背筋を伸ばしたまま、カップに唇をつけ、熱さを測っている。「それで、いつ会う?」カップを静かに置きながら、先ほどとは打って変わって、優しく尋ねるのである。それでいて、目はしっかり合わすのである。

 「会う」というのは、未来の仮の男親との会見のことである。先日の診察でも、選定の話は出た。間に医院をかませば、まったく顔を合わせないでも、ことは済ませられる。だが、支援団体に相談すると、相手を紹介するにあたって、ぜひ会うように、と薦められた。ふたりは、血の繋がりを求めたから、会うのはひとりでよかった。

「なるべく、早い方がいいと思うの。まず、会ってみなければ、はじまらないわ。」

 マリコさんは、静かにきっぱりそう言うと、足を組み、再び視線を外した。みゆきさんは、ことばに詰まった。回想から覚め、疑念を押し込めたとはいえ、いまだ縮れ毛が目の前にちらちらするようであった。それで、ふと、今この場で話を進めてよいものか、迷いが生じた。で、

「もう少し、考えてからでもいいんじゃないの・・・?」と、弱気に出た。

 そこからの問答は、牛歩のごとくであった。堂々巡りがあり、愚痴の応酬があり、水掛け論があった。しかし、結局は、急な変心という弱味を持っているだけ、みゆきさんが不利であった。それで、やはり会見はしよう、という話に落着した。日取り諸々の調整役である支援団体への連絡は、マリコさんが請け合った。そうして、話が決まってから、一杯ずつコーヒーを干した。その間には、雑談が出る。忍び笑いが出る。気の置けない、和やかな会話がある。それから、ふたりはそれぞれ、家路へついた。

 みゆきさんの足取りは、はじめ、今日の会見が、上首尾に終わったように、軽やかであった。しかし、歩くうちに考え始めると、どうも疑念が晴れない。そればかりか、刻々、濃厚になるようである。徐々に首が下がって来、靴音が高くなる。そのまま、飛び込むように、部屋へ帰りついた。

 玄関扉を強く引いた拍子に、傘立ての中の黒く大きい一本が、もたれかかってきた。うるさそうに手で押し退けて、鍵を放れば狙いは外れて、小皿ではなく下駄箱が、くぐもった音を響かせる。その下駄箱を開ければ、靴は奥側ばかりにせせこましい。その分、手前側の空き場所の、どこへしまうも自由なはずである。が、片寄せられた中に、一足分、すき間があるのは、朝に抜き出したあとである。つい、そこへしまった。流し台へ、惣菜の入った袋を置く。水切りの上には、独居にしては多くの皿が、数日前からなおざりである。。上着をベッドへ脱ぎ捨て、手洗いへ入る。隅にある、小さなゴミ箱は、以前に彼が足をひっかけて、斜めにずれたままである。それを、足で直した。食事を終え、ひと心地つくと、からだを伸ばして、室内を見回した。部屋には、なにもかも、ひとりには過ぎたものばかりである。

 みゆきさんは、断ろう、と思った。そこへ、マリコさんから、連絡が来た。会見は来月の頭に決まったとのことである。たとえ、どんな人が来ても、断ろうと思った。しかし、そのことは、返信には盛り込まなかった。今日は、笑顔で別れたのである。またぞろ、話を蒸し返して、一日の終わりに、責めをおうのは、やりきれなかった。

 そうして、そのまま、会見の日を迎えた。

 会見は、支援団体の事務所の会議室で用意された。仲人役たる担当者は、淑女である。髪は短く、大ぶりな眼鏡をかけている。おっとりとしながら、如才なく、いかにも世慣れて、あたりが柔らかい。先に入ったふたりに、いくつかの注意を与え、雑談を交わす余裕まである。そうこうするうち、別の職員が入ってくる。会見相手が訪れたと連絡に来たのである。担当者は、案内に出ていく。

 ふたりきりになると、みゆきさんは、あちらこちらと目をやる。髪をいじくる。机を指でこすり、手を撫でさする。のどが粘っこくなり、トイレへ行きたくなる。何がさて、朝不謀夕の態である。マリコさんは、静かに相手の履歴書を手に取っている。会見が決まった翌日に、担当者が送ってよこしたものである。もちろん一般の履歴書とは、よほど違っている。履歴も書かれてはいるが、形式はアンケートに近い。恋愛遍歴すら、あけすけにしてある。中でも、書いた本人による人生の省察が字眼である。読み物としても、なかなかに面白い。幾度も読み合い検討したので、大体は諳んじている。それが今は、緊張の靄がかって思い出せない。目に入ることばは支離滅裂で、とりとめがない。思い出す切っ掛けにしようと読んでいるが、漫然と目を晒すことにしかなっていないのである。なにがさて、ふたりとも、緊張していた。

 が、まもなくドアの向こうの音に、耳をそばだてた。来たようだった。担当者に連れられ、提供者が入ってきた。さわやかなところのある青年である。身なりは清潔で、黒の短髪に、微笑みを浮かべているのは、いかにも優しげである。丁寧な挨拶の声も、硬くはあるが、明るい。ふとした仕草と歩き方には、品の良さすらあるようである。みゆきさんは、好印象を得た。担当者も交え、いくらか話すうち、その感はさらに深まった。話しぶりは控えめだが弁は立つ方で、率直すぎるきらいがある。それでいて、一席打つような野暮はしない。相槌も適当である。意見の相違に対しても、頭ごなしの拒絶をしない。話は弾み、担当者が注意するまで、時計を見ないでしまった。別れも和やかに、ふたりは相手を見送ったのである。

 部屋に残されたみゆきさんとマリコさんは、それぞれの印象を語り合った。それは、おおむね、一致していた。しかし、みゆきさんは、決意の通り、疑義を呈した。「こういう場に、慣れすぎている。」と、何気なさを装い、ぎごちなく言ったのである。難癖と変わるところはなかったが、履歴書には提供した回数などは書かれていない。言い分としては、ずいぶん苦しい。が、ためらいを抱かせるだけには用立った。相談の末、戻った担当者には一考を要すると告げ、別の提供者との会見を依頼した。

 それから、幾度も会見がある。種々様々な男性が来る。筋骨たくましく、まじめ一辺倒な若者、知的で静かで、こざっぱりした紳士、目に悲しみを帯びた、お道化者の優男。みゆきさんは、遠回しに大胆に、その全てにみそをつけた。同人で、三度目の会見より先へ進む者はなかった。

 断る回数が重なってくると、マリコさんの語気も変わってきた。「なにが、気に入らないの・・・?」「どうせ、また、断るんでしょ・・?」「ほんとうに、わたしたちの子ども、ほしいの?」「わたし、もう、わからない。好きにすれば?」云々。

 平生の会話が険を含むようになっても、みゆきさんは断り続けた。折々、なぜこうも剛情だろうと、顧みることもないではない。会ってみれば、気に入る人間も出てくる。初回には、みゆきさんの方が入れ込んでいることさえある。そんな際は、マリコさんの顔も晴れやかになる。すると、みゆきさんには、独り室の決意が思い出されるのである。それで、断ってしまう。苦しいことは苦しかった。しかし、みゆきさんは、いつかそれを打っ棄ってしまった。自分の剛情もマリコさんへの不審も、時の氷解させるに任したのである。根底には楽観があった。子供を欲しがる間柄である。しがらみは、そうそう解けない。簡単に別れを持ち出されるものではないと、高をくくっていたのである。しかし、繰り延べを続けても、現実は仮借ない解決を迫ってくる。

 マリコさんが、あの学者肌の彼と、仲睦まじく歩くのを見たのである。

 はじめは、彼ひとりの姿であった。ある会見の日、最寄り駅構内で、その懐かしい影を目端にとらえた時は、犬も歩けば棒に当たるものだと、首を縮めた。改札の混雑に、振り返れば、すでに人波にまぎれていたから、寂しいようだったが、さして気にも留めなかった。しかし、ここに縮れ毛を介した疑念は、萌芽したとみえる。

 次に見かけたのは、マリコさんとの待ち合わせの日、あの喫茶店への道すがらであった。いつものごとく、繁華な通りから路地へ入ると、彼の後姿がある。呼びかけるには大声をもってしなければならない距離である。近づくのに躊躇う内に、ふいと別の路地へ消えてしまった。店の方角とは違っていたが、みゆきさんは、足が動かなかった。うすら寒い気がした。その後も、マリコさんと会う毎に、彼の影は視界をかすめた。縮れ毛と、彼と、ふたつの疑念に拍車がかかった。繋げて考えるのは、いかにも自然であった。丁度かみ合うのに、絶望でも憎悪でもない、安堵にも似た、込み入った感情が生まれた。現代では、刑はすべて、時間を責め具にしている。懲役や禁錮は単純に奪い取るものである。罰金は、それを稼ぎ出した時間を徒労にする。だが、死刑は趣を異にしていて、それに至るまでの待ち時間を刑の一部にしている。確実な死に様が、常に目の前にぶら下がって、去ることがない。恐れの中に、一滴、待ち望むような心持ちの生まれることは、種々の手記で知られるところである。

 そして、その日はやってきた。みゆきさんは、気もそぞろな会見を終え、マリコさんと別れ、路地へ潜んだ。すでに、尾行しないではいられないほど、疑念は膨らんでいる。目立たぬほどに変装して、靴を覚え、道に合わせて距離を調節しながら、後をつけた。コツは、いつか寝物語に教わったことである。それでも、足がふらつくのは、不慣れな為ばかりではない。片やマリコさんは、周囲を気にせず、よどみなく歩く。駅へ来た。休日の夕暮れ時で、人出はみな、いまだ着膨れているから、看取される気遣いはない。構内を進むと、マリコさんは、すっと手洗いへ入った。外で待っていられるほど、余裕のあるみゆきさんではない。わずかな時間をおいて追った。

 マリコさんは、大きな鏡を前に、頬紅を使っていた。他に人影はないようである。白い洗面台の上には、化粧道具が広げてある。みゆきさんは、それだけ見てとると、個室へ駆け込んだ。立ったまま仕切り壁に手をつき、抑えた荒い息をした。その中でも耳敏く窺えば、マリコさんは、化粧直しに入念らしい。プラスチックや陶器の触れ合う音が矢鱈と響く。音は随分たってから止んだ。小さく「よし。」と言うのが聞こえる。足音が遠くなっていく。みゆきさんは、見失うのを危惧したのと捨て鉢とで、水も流さず、勢い込んで出て行った。

 手洗いを出かけると、入れ違いに来た女性と、あわや打っかるところであった。女性は蒼褪めて、口元をハンカチで覆っている。みゆきさんが咄嗟に謝るのに、頓着しないで、中へ滑り込んでいく。前を向けば、連れであろう男性の茫然の顔と目が合った。男性とちょっと頭を下げあうと、マリコさんを探した。

 幸い、すぐそこを歩いていた。尾行が再開される。相変わらず、マリコさんが心付く様子はない。とくに気兼ねなく歩いて、そのまま、駅を抜ける。駅前の通りには、林立する商業ビルが客入りの便宜に、協力してひと続きの庇を投げかけている。広い往来を行き交う人は多い。しかし、みゆきさんは幾分、歩きづらくなったように感じる。駅併設の交番の前を過ぎる時には、やけに縮こまった。植え込みの角に屯する、女性の集団と目が合えば、自分のことを噂するかと邪推した。

 突如、マリコさんの歩調がやや速まった。待ち人が近いのである。ビルの庇の支柱のひとつで立ち止まった。別の靴と相対している。みゆきさんは、男物のそれに、見覚えがあった。いつか、室の下駄箱の、今は空いている場所に、収まっていた品である。ひどくゆっくりとしか、目を上げられなかった。

 服装も仕草も変わりなかった。果たして、彼の姿であった。ふたりは、二言三言、笑い合い、言葉を交わした。いかにも親しげであった。明らかな雰囲気があった。そのまま、肩寄せ合って、歩き出した。マリコさんから、手に手をとった。みゆきさんは、途端に、人間の事が、わからなくなった。

 みゆきさんは、難なく、逢引きの現場を、ものにした。しかし、「なぜ?」と、ひと言、詰問するにも近づけない。想像と違わない光景は、むしろ混乱を呼んだ。気ばかり急いて動けないのである。そのうちにも、ふたりは、人の流れに消えようとしている。追いかけなければならないと直覚した。しかし、反射で出た足はもつれた。

 それで道に倒れて、マリコさんの名前をくり返し呼び続けることになったのである。

 「マリちゃん。」

 声は小さい。ぶつぶつと、呪いか、祈りか、どちらにも似ていた。擦りむいた手のひらから、血がにじむ。痛くはなかったが、そこだけ、熱いのである。ストッキングの膝小僧が、裂けたらしく、風が通る。和らいだとはいえ、冬の歩道の、タイルは冷たい。体温が奪われて、寒気が芯を侵したが、立ち上がらないでいた。

 「マリコさん。」

 タイルの表面は、滑らない配慮に、ざらついている。モザイクで、簡単な模様が作ってある。その上に、黒い水玉模様が散っている。吐き捨てられたガムの行きつく先である。継ぎ目の所々が、ひび割れ、砂を噛んでいる。つい側には、薄く苔さえついている。別のひび割れから出る二本の草は、ひょろりと頼りなさげである。

 「マーちゃん。」

 行きかう人々の足は、みゆきさんの近くに来ると、動きを緩める。しかし、そこから大きく避けて通った。みな、ただでさえ疲れているのである。厄介ごとに巻き込まれるのは御免だと、訴えるようである。みゆきさんは、ひとりで起きなければならないだろうか、と考えると、恥ずかしさにわくわくしてきた。

 「マリコ。」

 「あ、あのう、大丈夫です、か・・・?」とうとう、声をかける人があった。みゆきさんには、丁度それが、起きる潮時になった。

 みゆきさんは、目を一度、強く閉じ、思い切りよく開くと、手を突いて、そろりと上半身を起こした。一組の若い男女が、狼狽の表情で、のぞき込んでいる。みゆきさんは、気づかないでしまったが、駅の手洗いですれ違ったふたりである。男性の方が、手を差し伸べた。それにすがって、立ち上がった。服についた汚れを払うのを、男性が手伝った。顔の砂は、女性がハンカチで拭った。

 「大丈夫ですか?」しゃん、と立ったので、安心と見てとったようである。

 「はい、すいません。ありがとう、ございました。もう、大丈夫です。」みゆきさんは、髪を直しながら、急に、恥ずかしくなって、目を伏せた。

 「救急車とかは・・・?」「いえ、ほんとうに、大丈夫です。」「え、と、そうですか・・・。」「はい。ほんとうに、ありがとう、ございました。」

 気まずい、沈黙があった。みゆきさんは、深々、頭を下げた。

 「じゃあ、もう、大丈夫ですから、あの、ありがとうございました。では、すいませんでした。ありがとう、ございました。」

 まだ、心配そうな、ふたりを残して、さっさと、歩いていったのである。手のひらの血は、いつか止まっていた。

 どこをどう帰ったのか、定かでないが、みゆきさんは、自室の扉の閉まる音で、ようやく泣けた。段差のない、上がり框に突っ伏した。涙はさほど、出なかったが、長いこと、うずくまっていた。目を閉じ、深手に耐える、小動物のようであった。


  ――――――――――


 夕闇に、産科医院は、暗かった。最近、盛んに叫ばれている、電力需給の逼迫への対応かもしれなかった。みゆきさんには、どうでもよかった。ここへすら、マリコさんに呼びつけられて、理由もわからず、足を運んだというだけである。

 彼と、どこでどうして出会い、なぜ関係を持つに至ったのか、問い質せないまま、日々は過ぎ、提供者との会見は、徐々に回数が減っていった。支援団体との連絡も、マリコさんが一手に引き受けているので、みゆきさんは、もうなにがなにやら、わからなくなっていた。この頃では、唯々諾々と、従うだけである。

 診察室に呼ばれ、医師から話をされても、はあ、はあ、と気のない返事をするばかりで、何も聞いてはいない。だから、マリコさんが、精子提供者が決まった、と話したとき、ああ、そうか、と、諦めただけであった。

 医師が同意の確認を求めた。みゆきさんは、無言で、曖昧に笑った。

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そして、みゆきさんは道に倒れて、マリコさんの名を呼び続けることになった。 @deadduckbill

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