催眠アプリを使い始めて10年経った。妻から機種変しないの? と疑われています。

yysk

催眠アプリを使い始めて10年経った。妻から機種変しないの? と疑われています。

 そろそろスマホを買い換えないの? と妻が言う。今使っているスマホは10年物。自分でもさすがに買い換えるべきだと思う。

 しかし、それはできない。できるはずがない。いつ壊れるともしれないが……むしろここまで保ったことが奇跡だとも言える。あるいは、それがいちばんの不幸だったのかもしれないが――『不幸』だとは思えないことこそ、俺がクズである証拠なのだろう。

 愛着があるんだ。連絡くらいにしか使わないし、ね。そう答えると妻は納得がいかない様子で「そう……?」と首を傾げた。


 催眠アプリ、というものがある。エロ漫画の読み過ぎだろうって? 俺もそう思う。しかし、10年前のある日――いつの間にか、俺のスマホにインストールされていた。


 当時の俺は中学生。今の年齢なら『なんか踏んだか?』とスパイウェアを疑うところだが、中学生だからな。ネットリテラシーなんて今よりはずっと薄いものだ。スマホも買ってもらったばかりで浮かれていた、ということもあるかもしれない。

 とにかく、俺は催眠アプリを見たときに『選ばれちゃったか~』なんて思った。そりゃね? まあね? 疑いがゼロだったってわけじゃないよ? 明らかに胡散臭すぎるからな。でも中学生だ。いきなり異能に目覚めることを密かに夢見ていたりしたのと同じだ。神か何かはわからないが、とにかく俺は『選ばれた』のかもしれない。そう思ってとりあえず姉に試した。効いた。女子高生が犬になった。気の強い姉がわんわんと鳴いて俺に頬ずりするわけがない。俺は催眠アプリが本物であると信じ込んだ。……あっ、ちょ、やめて。舐めないで。さ、催眠解除っ! 姉がハッとして俺を見た。催眠中の記憶はないらしい。


「なんでアンタのこと抱きしめてるんだろ……寝ぼけたのかしら」


 そう言いながらも顔を赤くしている姉はそれからも何やら言い訳を続けていたが、俺は催眠アプリに興奮してそれどころじゃなかった。これは……本物だ! テンションの上がった俺は催眠アプリをどうやって使うかを考えた。検証? よくわかんない。今ならもうちょっと色々と考えてから使ったと思うが、当時の俺は中学生。中学生だから仕方ない。中学生にしたってもうちょっと色々と考えてもよくないかって? はい。


 ということで俺は好きな子に催眠アプリを使って『俺のことを好きになってください!』と命令した。なった。姉と同い年、隣に住むお姉さんだ。姉とは違って優しいし、めちゃくちゃ美人だ。あといいにおいがする。学校でも人気らしいが、それは当然だと俺は思う。テレビで見るどんなアイドルよりもかわいいからな。

 家族ぐるみの付き合いなのでお姉さん――美也さんとは食事をともにすることもあった。美也さんのご両親は多忙であり、夜遅くまで帰ってこないこともある。そういったときには美也さんはウチで食事をしていく。そんなときに「美也はウチの高校でもモテモテだからね」なんて話しているのを聞いたのだ。そのときに言った。何って? さっき言ったのと同じことだ。テレビで見るどんなアイドルよりもかわいいんだから当然だろうねと口にした。美也さんは真っ赤になっていた。そんなところもかわいい。俺はほくほくした。姉に絞められた。い、息ができねぇ……! ギブ! ギブ!


 とまあそんなこんなで俺は美也さんに憧れていた。世界一かわいくて世界一やさしい女性なんだ。俺が憧れるのも当然だろう。好きにならないわけがない。しかも隣に住んでいるから距離も近い。やばい。めちゃくちゃいいにおいする。結婚したい。小学生の頃から俺の夢は『美也さんのお婿さん』だった。世界一かわいくて世界一やさしい女性のお婿さん……これは頑張らないといけないぞ。俺は頑張った。その甲斐あって学生時代は学年主席から落ちたことがない。


 しかし、それだけでは好きになってもらえるかどうかはわからないことも確かである。というか明らかに男としては見られていない。子ども扱いされている。そんな中学生の頃の俺に降ってきたのが催眠アプリだ。頼ってしまってもおかしくないだろう。俺は催眠アプリに頼り、美也さんに好きになってもらった。やったぁ! 俺は喜んだ。催眠アプリを使えば美也さんにどんなことでもしてもらえる。フフ……自分が怖い……。俺は美也さんに勉強を教えてもらった。美也さんは完璧なので勉強ができる。しかも高校生のお姉さんだ。催眠がなければ勉強を教えてもらうなんて恥ずかしいが(美也さんにはいつもかっこいいところを見せたいので)催眠があれば……なんと! 美也さんから勉強を教えてもらえるのだ! 姉? バカだから無理だ。

 あと……じ、実は、勉強だけじゃなくて、ちょっとえっちなこともお願いした。膝枕をしてもらったのだ。勉強の後、ご褒美にって感じで……。美也さんの脚はすべすべでやわらかくていいにおいがした。スカートだったし。えっちだった。


 それからの人生、俺は催眠アプリに頼りきりだった。同時に催眠をかけることができる人数には限りがあったが……それでも、これを使えば誰でも言うことを聞かせられる。そう、例えば……美也さんの秘密や悩みも知ることができる。

 え? 他? 美也さんばっかりだって? それは仕方ないだろう。同時に催眠をかけることができる人数には限りがある。一人だ。美也さん以外に催眠をかけたら美也さんにかけた催眠が解けてしまう。美也さん以外に催眠をかけることはできない。


 しかし美也さんが居るのだ。俺は何でもできる気がした。できた。すべてこのアプリと美也さんのおかげだ。俺は神と美也さんに感謝した。祭壇をつくり崇め奉った。姉に引かれた。


「……あの、私の写真を拝んでるって聞いたんだけど」


 しかも美也さんにバラされていた。バカ姉め。なんてことをしてくれるんだ。そう思った。しかし冷静になって考えてみると美也さんは世界一かわいいのだから拝んでいてもおかしくはない。俺は胸をトンと叩いて言った。美也さんのおかげで今の俺がありますからね。美也さんに感謝することは当たり前です。


「ええっと……そ、そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、言い過ぎじゃないかなぁ……。正直、私なんて何もしてないし」


 そんなことを言い出したので俺は自分が美也さんのおかげでどれだけ頑張ることができたのかを語った。二十分ほど語ったところで止められた。美也さんの顔が真っ赤になっている。


「わ、わかったから、それ以上はやめて」


 かわいい~。俺は素直にそう思った。恥ずかしがりながらも口元がちょっとゆるんでいる。そういうところもかわいい。


「そ、そういうの口に出すのはどうかと思うなぁ!」


 俺はぜんぶ口に出るタイプだった。でもかわいいのは事実では……? 真面目な顔でそう尋ねると美也さんは「口答えしない! ……キミはこう、もっとオトメゴコロを知るべきだね。そんなんじゃモテないぞ」とお姉さんぶった。俺は美也さん以外からモテたくないですが……。


「だからそういうこと言うなぁー! ……中学生、中学生、中学生。よしっ! とにかく、写真を拝むのは禁止ね! ちょっとこわいからそれ! 感謝するなら私に直接言ってくれればいいし!」


 確かに。俺は思った。やっぱり美也さんはすごい。そう伝えると美也さんはなぜか苦笑を浮かべていた。そういう表情もかわいい。


 俺が高校生になった頃、美也さんは大学生になっていた。催眠アプリを使い、俺は美也さんに好かれている。女子高生と男子中学生の恋愛はちょっとと言われていたのでまだ付き合ってはいなかったが、さすがにそろそろ付き合いたかった。美也さんは世界一魅力的な女性だ。大学はこわい場所だと言う。誰に言い寄られたとしてもおかしくはない。俺は美也さんに付き合いましょうと頼み込んだ。難色を示された。アプリを使った。俺は美也さんと付き合うことになった。やったぁ!


 常に美也さんに催眠をかけてはいるものの、どういう催眠をかけるのかはそのたびに指定しなければいけない。最初にかけたのは『俺のことを好きになってほしい』だ。『付き合ってほしい』ではない。催眠アプリを使って『付き合ってほしい』と伝えない限り、催眠は上書きされない。いくら俺のことが好きでも美也さんの倫理観において『中学生/高校生と付き合うのは……』という思いがあったならば難色を示されてしまうこともある。たびたび「キミは同年代の女子に目を向けてもいいんじゃないかな」なんて言われたのも、俺のことを気遣ってくれていたからなんだろう。なんたって俺には催眠アプリがある。美也さんが俺のことを好きでいてくれたのは間違いないが、好きだからこその気遣いというものもあるのだろう。


 ということで付き合い始めてからはいちゃいちゃした。俺には催眠アプリがある。恥ずかしくてなかなか頼めないことでもなんでも頼める。添い寝とか。えっちなことも頼める。頼んだ。すごかった。美也さんの耳かきは間違いなくR18モノだった。


 そんなこんなで大学に進学した。大学は忙しかったが、俺には美也さんが居る。それだけで満足だった。六年経ち、卒業試験、国家試験を合格した俺は美也さんからプロポーズを受けた。まだ俺にはろくな収入がなかったのでプロポーズをするのは先延ばしにしていたのだが、美也さんはそんなことを気にしなかった。俺は収入は大事なことだと思うので渋ったが美也さんに押し切られた。どっちにしたってもう同棲してるしどうせ結婚するんだから早いほうがいいでしょとのことだった。確かに。俺は納得した。催眠アプリを使えば先延ばしにすることもできただろうが、このときに使わなかったのは、たぶん、俺も結婚したいと思っていたからなのだろう。俺は夢を叶えた。


 そんなこんなで美也さんと結婚したわけだが……ある日、こう尋ねられたのだ。「そろそろ機種変しないの?」と。当たり前だろう。俺が使っているスマホはかれこれ10年物。まだ動きはするものの、動作も不安定になってきた。いつ故障してしまってもおかしくないだろう。


 だが、新しいスマホにするわけにはいかない。催眠アプリはいつの間にかインストールされていた。再インストールは不可能だ。


 催眠アプリがなくなってしまえば、俺は終わりだ。美也さんに嫌われてしまえば生きていけない。……そもそも、催眠で得た好意が『好かれている』と言えるものなのかと言えば、それはやはりハリボテでしかないとしか言えないだろうが。


 思えば、最初に『好きになってください』なんて催眠をかけた時点で間違いだったのだろう。いい思いはした。不幸だとは思っていない。だって、このアプリがなければ俺なんかが美也さんと結ばれることはなかっただろうから。美也さんには申し訳ないが、俺は美也さんとどうしても結婚したかった。どうしてもいっしょに居たかった。それだから、このアプリを使ったことが『間違い』だとは思えても、決して『不幸』だとは思っていない。罪ではある。罪悪感は抱いている。しかし、それでも――たとえハリボテでしかなかったとしても、美也さんと過ごしたこの10年は、間違いなく幸せだった。


 この幸せがいつまで続くかはわからない。だが、ほんとうに、いつ故障してしまってもおかしくはない。いつかは終わる。絶対に。早いか遅いかの違いでしかない。

 だとしても、俺は少しでも遅くあってほしい。一日でも先延ばしにしたかった。一日でも長く、この幸せに浸りたかった。


「……なにか、隠し事してない?」


 ギクリ。俺は震えた。スマホの機種変を勧められてからというものの、妻――美也さんからの視線に疑念が混じっている。催眠の使い所だろうか。しかし、最近は動作がちょっと不安定になってきた。アプリが落ちたりしたら困る。だから新しい催眠をかけるのは億劫なのだ。可能な限りアプリは使わずに済ませたい。


「やっぱり。……結婚、したくなかった?」


 そんなことはない。俺は首をブンブンと振って否定した。いったいどうしてそういう考えになるのか。俺は意味がわからなかった。確かに渋りもしたが、あれはあくまで俺の甲斐性の問題だ。それ以外には何もない。


「でも、キミは人気者だし……わ、私とは、結婚したのに、未だにそういうこともしてないし」


 俺が人気者で何が問題なのだろうか。確かに俺は何でもできる。美也さんにふさわしい男になるために今まで頑張ってきたつもりだ。それだから多少は人気になってもおかしくはないだろう。美也さんへの愛を語るとサーッと潮のように引かれたが。中学生の頃からそうだった。みんな五分もしないうちに「あっ……ご、ごめんなさい! 時間があるから行くね! お、お幸せにー!」なんて逃げるからな。げせぬ。俺はまだまだ語り足りないと言うのに……。


 結婚したのに未だにそういうことをしてないのは……もちろん、催眠アプリがあるからだ。結婚までしておいて何をと思われるかもしれないが、催眠でそういうことさせるのって、なんか……ね。萎えそう。エロ漫画とかだとめちゃくちゃ興奮するのだが、現実だと難しい。『まだ手を出してないから』と自分に言い訳してるのかもしれない。ちっぽけな道徳心の防波堤だ。手を出しても出してなくても最低なクズであることには変わりないが、それでもこれを守ることが俺にとっては最後の一線だ。結婚はしてるが。


「……き、キミがどうしてもって言うなら……嫌だけど、浮気も、いいけど。でも、私は……私は、どうしてもキミと居たいよ。だから、結婚も……急いで、してもらったわけだし」


 浮気なんてしていない。美也さんといっしょに居たいのは俺もいっしょだ。いったいどうすれば信じてもらえるのだろうか。


「……じゃあ、シてよ」


 それはちょっと……。俺は渋った。美也さんの目が涙で潤む。「や、やっぱり、私のことなんて――」


 くそっ。仕方ない。俺は催眠アプリを起動させようとスマホを取り出す。


 パシッ、と美也さんが俺の手からスマホを奪った。


 ………………あっ。


「……ごめんね。最低だと思う。結婚しているとは言え、ひとのスマホの中を勝手に見るなんて……でも、どうしても、気になるの。だから――」


 ちょうどロックを解除したところだったので美也さんがスッスッとスマホを触る。俺は美也さんの手からスマホを奪い返そうとしたが難しい。俺は美也さんが好きだ。彼女に乱暴することなんてできない。


 美也さんがまず開いたのは大手のメッセージアプリだ。俺にも美也さん以外との交友関係はある。そこまで密に連絡を取っているわけではないものの、それなりにはメッセージを送り合っている。その中身を調べるつもりなのだろう。

 ただ、それを見られても特に困ることはない。スマホを奪われたときの俺の様子から何かあるに違いないとは思ったらしいが――他人とのやり取りの中で俺がしているのは常に美也さんの自慢話だからだ。


「……き、キミのお友達に私のことがめちゃくちゃ誤解されてそうなんですけど」


 顔を真っ赤にした美也さんが言った。何が? 俺は思った。美也さんは最高のお嫁さんだ。世界一かわいくて世界一やさしい。そんな彼女と結婚できて幸せだと伝えて回るのは人間として当たり前の行為だろう。義務とさえ言える。


「これ未婚の人に送ったらブロックされてもおかしくないと思うよ……」


 この程度でブロックされるなら仲良くなっていない。実際に会って話すときよりもずっと控えているのだから。


「これで!? ……け、結婚式でキミのお友達を呼ぶのがこわくなってきたんだけど」


 俺たちはまだ式を挙げていない。俺がまだ安定しているとは言えないからだ。研修期間を終えてからになるだろう。……もっとも、このまま美也さんとの関係が続いたならば、だが。

 メッセージアプリから多少の疑いは晴れたとは言え、俺が何か隠しているということ自体は変わらない。スマホを奪われたときの俺の動揺もある。美也さんは緊張した面持ちでスマホを操作する。


 そして、見つける。


「『Hypnosis』? 聞いたことないアプリ……」


 Hypnosis、催眠術だ。そのままだな。見たことないアプリならスルーされる可能性もあったが、美也さんは違った。試しにとそのアプリが開かれる。


「……催眠?」


 マズい。催眠アプリの操作は簡単だ。画面に表示されている催眠と書かれた文字をタップすれば催眠をかけられる。催眠解除という文字をタップすれば催眠は解除される。つまり、美也さんがその文字に触れれば、それだけで美也さんにかけた催眠は解除される。


 美也さんの催眠が解除されたら、いったいどうなってしまうのだろうか。……そのことについて、深く考えて――今までは目を背けて、深く考えていなかったから気付けなかったことに気付いてしまった。


 催眠中の記憶は残らない。……10年、催眠はかかっている。


 その状態で催眠が解除されたら、どうなってしまうのだろうか。


 俺は美也さんの手を取った。美也さんがびくりと震える。……どうなるかはわからない。わからないが、最悪の場合、美也さんはこの10年の記憶をすべて失うことになる。


 美也さん。……聞いて、ほしいことがあるんだ。


 俺は懺悔した。今までのこと。催眠アプリのことを。そして、解除したときのリスクも。

 すべてを語り終えた後、動揺するような気配もなく美也さんは尋ねた。


「……私以外だと、一回しか使ってないんだよね?」


 そう言えばそうだ。試しに姉に使ったことがあるだけだ。催眠中の記憶がなくなるということも姉に試したからわかったことだ。


「そう……」


 俺の答えに美也さんは考え込むような仕草をした。荒唐無稽な話だ。信じてもらっていないのかもしれない。彼女は言った。


「でも、そろそろこのスマホ、ヤバそうだけど」


 え? 俺はスマホを見た。ガクガクと画面が震えている。ヤバそう。そう思ったのも束の間、アプリが落ちた。


 ……あっ。


 俺は美也さんを見た。美也さんの様子は何も変わらない――なんてことは、なかった。催眠アプリは本物であり……それだから、やっぱり美也さんに影響を与えていたのだ。


「……記憶は、消えてない、けど」


 でも、と美也さんは続けた。下手な嘘をついているのかとも思ったけれど、確かにそのアプリは本物だったみたい。


 それはつまり、俺が美也さんにかけた催眠が解除されているということであり――美也さんが俺に対して向ける険しい視線を思えば、彼女が何を考えているかなど一目瞭然だった。


 唇をつんと上向かせて、彼女は言った。


「キミの催眠のせいで、私、もうアラサー処女なんですけど」


 ――なんですって?


 俺は自分の耳を疑った。え? なに? どういう話の流れでそうなったの? そんなふうに戸惑っていると美也さんに押し倒された。


「付き合い始めてから手を出してくれないし、好き好き言うくせにシてくれないし、同棲を始めたらさすがに……って思ったけど四六時中いっしょに居るくせに最後の一線は越えないし……わかる? いっしょのベッドで寝てるのに手を出されなくて悶々としていた私の気持ちが……!」


 美也さんの目が据わっている。天井の灯りを背にして、獰猛な獣じみた目で俺を見下ろす。


「でも、そもそも『シてくれない』って考えがおかしかったのよね。……催眠のせいなのか、私から手を出すって発想がなかった」


 えっと……その……美也さん? 俺、催眠アプリなんかで美也さんの好意を得た最低のクズなんですけど――


「それはそうだね。キミは最低だよ。……だから」


 美也さんの顔が降ってくる。


 彼女の吐息が耳をくすぐる。


 ――これは、そのお仕置き。


 するり、と彼女の手が滑るように俺を撫でた。




      *




「昔、キミのお姉さんが言ってたんだよ。いきなり弟に甘えたくなって抱きしめたりしちゃったって。……それで『たぶん、記憶はなくなったりしないんだろうな』と思ったの。本物だとは……思わなかったけれど」


 結果として記憶を失わずに済んだが万が一があったと主張する俺に美也さんは言った。

 俺が美也さん以外に催眠アプリを使ったのは一度だけ。姉の催眠しか解除したことがなかった。それだけで本物だと信じ込み検証も何もせず美也さんに使ってしまった俺がバカだった、という話になるだろう。


 しかし、それでも催眠が本物だったということに代わりはないのだ。美也さんは何も思わなかったのだろうか。


「いや、そりゃ『自分を好きになれ』なんて催眠をかけるのはどうかと思うけど……記憶が消えたわけじゃないし、もう結婚してるし。今更? って感じだよね。キミのことも好きだし」


 美也さんが、俺のことを……!? 俺は動揺した。催眠なしで好きだと言われることは初めてだったからだ。


「と言うか、催眠アプリなんてなくてもキミのことは好きになってたと思うけど。むしろ遠回りしたような気持ちだよ。それについてのお説教もた〜っぷりあるから、覚悟しておくように」


 はい。しゅんとして俺はうなずいた。お仕置きと言う名前のご褒美も、結局のところ美也さんのほうが『お仕置きされている』ような状態になっていたからな。ぐつぐつと煮込まれたアラサー処女の性欲は尋常なものではなく、俺をして遥かに凌駕するものであり――


「それはいいから! ……恥ずかしいし」


 顔を赤くする美也さんを見てムクムクと起き上がるものがあった。ベッドの中でくっついている美也さんに当たる。非難めいた目を向けられる。


 俺は話を変えた。でも、美也さんは『催眠アプリなんてなくても〜』なんて言ってくれたけど、俺は催眠アプリがなかったら美也さんとこうなってなかったと思う。美也さんが催眠抜きに俺のことを好きになってくれたのにしたって、催眠がなくちゃなかったことなんだから。


「……そこは『催眠なんてなくても結ばれる運命だったんだ』ってよろこぶところじゃないかな」


 キミってそういうトコあるよね。美也さんがぷくぅと頬を膨らませる。俺の答えがお気に召さなかったようだ。しかし俺は不機嫌美也さんがかわいすぎたのでそれどころではなかった。かわいい〜。


「キミってホントにそういうトコあるよね!」


 顔を赤くした美也さんが言った。かわいい。


 しかし……美也さんが許してくれたとは言え、俺が催眠アプリを使ったことには変わりない。俺が最低のクズであることは間違いない。


 10年間、あなたのことを騙してきた。あなたの心を弄んだ。


 そんなこと、絶対に許されるべきことじゃない。


「……キミのそれも、独りよがりなものだと思うけれど」


 被害者である美也さんにそう微笑まれて、俺は言葉に詰まってしまう。その通りだ。結局のところ、俺は自分が許せないだけ。この罪悪感さえも、独りよがりな自己満足に過ぎない。


 だから。


「そんなに言うなら、罪を償う?」


 それに付き合ってくれる美也さんは、やっぱり、世界一やさしい人で。


「私の人生を変えたんだから――キミの人生、私にちょうだい?」


 首に手を回して、ひっそりと囁く。


 世界に隠しごとをするみたいに。


「一生かけて、私のことを幸せにして」


 ……美也さんが、許してくれるなら。


「うん。……あ、それと」


 いい感じの雰囲気になったところで美也さんが言った。


「催眠アプリ……私も、ちょっと使ってみてもいい?」


 え? いいですけど……何に?


 とりあえずスマホを渡してから尋ねた。美也さんはにっこりと笑って即答する。


「催眠アプリと言えば――やっぱり、えっちなことに使うべきだと思うの」


 なんですって?


 戸惑う俺に美也さんが催眠アプリを使った。


 ……。


 催眠ってすごい。


 へとへとになって、俺は素直にそう思った。


 スマホの機種変は、まだまだ先になりそうだ。

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催眠アプリを使い始めて10年経った。妻から機種変しないの? と疑われています。 yysk @yyskh

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