第35話番外 金色の海
「俺、結婚することになった」
「そうなの? おめでとう。でも、わざわざこんな遠いところまで言いにきてくれたの?」
「そうだよ悪いか! 後少しは残念そうな顔をしろ!」
「なんでよ。おめでたいことなのに。ああ……でもそうか。あなたが結婚しちゃったら、もうこんなふうに気軽に悪口を言い合えなくなるから、それはちょっと寂しいかな?」
「悪口言ってたのはいつも俺だよ。お前には相手もしてくれなかったじゃないか! でも、少しは寂しいって思ってもらえんなら、俺はもう満足だ」
「お互い、もう大人だもんね」
「そうだな……」
ヨアキムは小さいが、しっかりした作りの家の中を見渡した。堅実であまり飾り気がなく合理的。それでも暖かくて居心地がいい。
まるでこの家の女主人そのままで。
「ここはいいところだな」
「でしょう?」
アンは満足そうに微笑んだ。
窓の外には金の海。
今にも刈り取られんとする麦の畑だ。風にたなびいて、まさに黄金の大海のように見える。
「忙しいのか?」
「ええ。ほどほどには。忙しい方が楽しいし」
「お前らしいな。まぁ、ここからなら三日で首都にも行けるし、そう不便なところでもないしな。俺だって言っとくが、報告だけでここに来た訳じゃないぞ。地方に新しく建てた病院と、土地の開墾の
「はいはい。偉くなっちゃって。今、国土開発院にいるんだって?」
「ああ。まだ下っ端役人だけど。何かを作る部局にいたくてな。二年間の軍隊生活も勉強になったけど、何かを生み出す組織じゃない」
「まぁそうよね。それで、ここをどんな風に報告するの? 事務官様」
アンは飴色の大きな瞳を悪戯そうに煌めかせた。ヨアキムはほんの少し息を飲んだようだが、なんとか取り繕って手帳を取り出す。
「そうだな。河川の築堤工事も順調で、この先洪水の心配は減るだろうな。一方、新しく品種改良した麦が二年連続豊作だというし。この地方はいずれ我が国の穀倉地帯になるだろう。ま、そんなところかな」
「当たり前よ! だってマリオンが監督してるんだもん」
「はいはい」
胸を張るアンに
「で、新しい病院の方は? 病院だってみてきたのでしょ_」
「ま、有能な医長と事務長のおかげで、滑り出しとしてはいいんじゃないの?」
「ちょっと! 有能な師長補佐もいるんだけど!」
「ああ。そう言えばいたな。今日はなぜだかいなかったが。どした?」
「え? うんまぁ、今日はたまたまお休みだったのよ。あなたが来ると知ってたら出勤したわ」
「そうか。わざと知らせなかったからな。まぁ、職員力を合わせて、地域の医療を充実させてほしい。看護師長補佐殿」
ヨアキムは手長を胸ポケットにしまい込みながら言った。
「やっぱり偉そうねぇ。でも、それくらいの方があなたらしくていいわ! ヨアキム」
「やっと名を呼んでくれたな」
「え? ああ、うん」
アンはちょっとだけ、しまったと言う顔になった。
「でさ、俺の結婚相手のことだけどな」
「うん。でも……どなただっけ?」
「学園では俺たちより一つ下の級にいた子だよ。ユリエって言うんだけど。ファランシーズ男爵令嬢」
「ファランシーズ? 私あんまり交際範囲広くなかったから思い出せないわ」
「そうだろうと思った。お前学園内では浮いていたからな」
「まぁね。でもソフィとローリエとは、手紙のやりとりしてるから、そっちの事情にもまるきり疎いわけじゃないのよ。それでそのご令嬢はどんな方なの?」
「実は、俺も婚約するまで知らなかった。で、会ってみたらさ」
「うんうん」
アンは興味深そうに身を乗り出した。
「おとなしそうに見えて、実はしっかりしてて、勉強も運動も普通だけど、結婚しても何か仕事がしたいんだってさ」
「へぇ〜。貴族にしては変わった人ね。でも楽しそうな人だわ。友達になれそう」
「そうだろ? 俺も最初はびっくりした。だって、見かけは全然違うけど、中身はお前にちょっと似てる、アン」
「……そう、なの?」
アンはほんの少しだけ眉を顰めた。
「ああ、だから結婚を決めた。どうせ、しなくちゃいけないんだからと思っていたけど、今では結構気に入ってる」
「本当に良かったわねぇ。いつか会いたいな」
「そうだな。つか、お前も首都の方に戻ってこいよ。この二年、すっかりご無沙汰じゃないか。引退されたフリューゲル閣下も寂しがっているだろう」
「お母さまがいるから平気よ。一度は二人で会いにきてくれたし。それに来年には必ず帰るわ」
「来年? 今年じゃなくて?」
「今年はどうにもやることが多いのよ」
珍しくアンは曖昧な言い方をした。
「じゃあ結婚式にはきてくれないのか?」
「うん……ちょっと無理かも。ごめんね。でも、来年は必ず会いに行くから。たくさんお土産を持ってね」
「……忘れるなよ。俺とお前はいつまでも友達なんだからな」
「十年前のあなたに聞かせてやりたいセリフね」
「ちぇっ! 言ってろ。じゃあ俺は帰る! ご両親からの贈り物も確かに届けたからな」
ヨアキムは背後に置かれた大きな荷物を顎で示した。それは封も切っていない二つの大きな箱だ。
「ありがとう。悪いけど、私からの手紙を頼むわね。これ」
アンも水色の封筒を差し出す。
「ああ。見送らなくていい。ここで」
ホールに出たアンにそう言うと、ヨアキムは優雅に片足を引いてアンの手を取った。
「では、ごきげんよう。レイルダー少佐夫人」
手の甲への口づけは寸前で止められ、ヨアキムは扉を開けた。
明るい秋の陽がどっとなだれ込む。
「済んだか、小僧」
前庭で柵の修繕をしていた男が立ち上がった。
野良着を着ていても際立つ美しさに、ヨアキムは内心舌打ちをする。
「はい、終わりましたよ。ちゃんと結婚の報告をしましたし、手紙も預かりました。ほら!」
懐から出した分厚い手紙にチラと視線を走らせ、レイルダーはなおも青年を問い詰める。
「俺のアンの名を呼んだり、触ったりしなかっただろうな?」
「え〜え、ちゃんと守りました。守りましたとも! そんなに俺が信用できないんですか?」
実は一度名を呼んで、呼んでもらったことはこの際だから黙っておく。アンも言わないだろうし(というか、気がついていない)。
「……できるわけないだろ。俺だって、アンの頼みでなけりゃ、誰が二人きりになんてするもんか」
「その点は感謝してます。正直意外でしたけど」
「少しは認めてやってるしな。で、どうだ? 俺のアンはやっぱりすごいだろう?」
「……ええ、すごいです。勝てる気がしない」
「あたりまえだ。俺だって会った時からずっと負けっぱなしだ」
「変わりましたね、あなたも」
顎に少し生えた無精髭のことを言っているのではない。
「変えてくれたのはアンだ」
「そうですね。俺も」
ヨアキムは背後を振り返った。窓の中の娘は、彼の視線にぱっと笑顔を見せて手を振っている。
「ではもう行きます」
手を振り返して青年は言った。
「アンと、この地の守りを頼みます」
「任せておけ」
家の中と外から二人は、馬で駆け去るヨアキムの背中を見送った。彼はもう振り返ろうとはしなかった。
「アン」
外に出てきたアンの手をレイルダーは握った。
「寒いから出るなって行ったのに」
「私はそんなに弱くはないですよ」
「知ってるけど……」
「帰っちゃったなぁ、ヨアキム」
「……」
「本当はね、結構寂しかったです。彼は私の大切な」
「大切な?」
「友だちだから」
「ならいい」
レイルダーは小さな妻の肩を抱いた。
「マリオン」
「ん?」
「大好きです!」
「俺の方が好きだ。けど、本当に家に帰らなくていいのか?」
「はい。私はここで産みたい。私の家はここだから。この子が初めて見る景色は、マリオンが作ったこの景色がいいの」
「アンはすごいな」
「すごいのです! マリオンがそばにいるから。ああ! 私、春が待ちきれないわ!」
アンは豊かに実った麦の海を見渡しながら、同じ色の髪を持つ傍の人に寄り添った。
【完結】こっち向いて!少尉さん - My girl, you are my sweetest! - 文野さと(街みさお) @satofumino
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