第34話最終話 いつまでも一緒です! 少尉さん

 アンは薄暗い院内から、戸外へと出た。

 初春の光は透明で、アンの飴色の瞳に明るく注ぎ込む。

 戦いで、荒れた地にはうっすらと草花の芽が生え始め、土は新しい衣装をまとい始めている。

 息を吹き返す土の匂いだ。風ももう、刺すほど冷たくはない。

 昨日お風呂に入れたので、伸びはじめた髪がふわふわ揺れている。久しぶりにはいたスカートは、看護師用の粗末なものだが、足が軽くてつま先が踊るように高く上がった。

「ダンスのお相手は俺でいいかい? アン」

 視線の先には大好きな姿が待っていた。早春の淡い荒野を背中に、その姿は輝くようだ。金髪が王冠のようにきらきらしている。

「少尉さ……マリオン!」

 呼び慣れていた名称を急に変えるのは難しい。だが、レイルダーは気にしないようにアンに手を差し出した。

 彼も、新しい軍服に着替えている。さすがに近衛の白い隊服ではないが、手足の長い美青年は、どんな服でもりゅうと着こなしてしまうのだ。

「ダンスより先に遠乗りに行こうと思うんだけど、ご一緒してくださいますか? お嬢さん」

「行きます!」

 レイルダーの芝居かかった誘いに、アンは即座に応じた。

 軍馬も軍用車両と一緒に撤退を始めている。だから借りられるのは七十二号、一頭だけだった。

 引かれてきた七十二号はアンに挨拶すると、二人を乗せて早春の川辺を機嫌よく駆け出した。

「もうすぐ七十二号もどこかに行ちゃうんですね」

「いや、こいつはアンに良く懐いているから、俺が軍に掛け合って払い下げようかと思ってる」

「本当ですか? マリオンは車の方が好きかと思っていました。運転お上手だし」

「車も悪くないけど、生き物はやっぱりいいよ。人間と違って、いつくしめば慈しむほど応えてくれる」

「あの……それ、私もそう思います。でも、そうなれば、七十二号じゃなくて、ちゃんとした名前をつけなくちゃですね。何かいいですか?」

「アンが好きな名前をつけてくれたらいいよ」

「……どんな名前がいいかなぁ。家の馬は甘栗号って言うんですけど、ヨアキムに笑われたから……む」

 大きな掌がアンの口元を覆っている。

「だめ。今アンが呼んでいいのは俺の名前だけ」

「……」

 アンは黙って後頭を広い胸に押しつけた。

 あれだけ、言葉や態度での表現が少なかった男が、こんなにも独占欲が強いとは。

「近衛の隊舎で飼うんですか?」

 アンはそっと自分の手でレイルダーの手を外して言った。

「いや、俺は近衛を辞める」

「え!?」

 初耳だった。

「閣下の恩と気持ちに報いるために近衛隊に入ったが、もともと上品なのは柄ではないのさ。だから近衛へは退役願いを提出した」

「退役願いを!?」

 アンは驚いて言った。父はそんなこと一言も言わなかったのに。

「今すぐってわけじゃないし、軍を去るわけでもない。でも戦後処理の仕事が片付いたら、できるだけ早く近衛を離れる」

「やめて……どうされるんです?」

「そうだな。辺境警備でもするか。農夫も兼ねて」

「辺境? どこの?」

「どこでもいい。ここのように争いで土地が痛んだり、人手が足りないところに行って、体をはって働きたいのさ……で」

「私も一緒に行ってもいいですか?」

 アンはレイルダーに被せるように叫んだ。

「もう! だからさ!」

「は?」

「なんで俺の言いたいことを先に取っちゃうかな!? アンは!」

「え? いいんですか?」

 アンは鞍の上で、できる限り体をひねった。形のよい唇がへの字になっているのが見える。

「俺から頼むつもりだったのに」

「頼まれなくてもついて行きます! 私、もっと勉強して、試験に合格して正規の看護師になります! そしたらもっとお役に立てるもの」

「そんなに頑張らなくてもいいんだけど」

「いいえ! お願い、ついていきたいの! 私もう、離れたくないんです!」

 父は負傷後の療養のために、明日には首都に戻ることになっている。アンも一緒についていく予定だったが、それはレイルダーと一緒だったら、という前提だった。

「まさか、お父様と一緒に首都には戻らないんですか?」

 今のアンには彼と離れるなんて、とても考えられない。

「いや、一度は戻るよ。さすがにし残したこともあるし。でも、ちょっと休暇をとったんだ。少し遅れて戻るって。すぐに認められたよ」

「じゃあ私も! 今すぐお父さまに伝えてきます!」

「ちょっと待ちなって、アン。実はさ、閣下にはもう伝えてあるんだ。カーマインにも。そんで許してもらった」

「え? お母さまにも?」

「カーマインには一昨日電話をしたよ。色々話をして、今までのことで怒られたりした。で、大事な娘のために、速達で荷物を送るって言うんだ」

「あ」


 だから、大きめのトランクって……こう言うことだったのね。


 きっとゆっくり休暇を楽しめるように新しい服や、さまざまな道具を送ってくるつもりなのだろう。

「首都に帰ったらすぐ近衛を辞めるのですか?」

「いや、さすがにそんなにすぐには。実は一つ重要な儀式が残っているんだ」

「儀式?」

 あまり聞いたことはないが、近衛を辞める際の式典だろうか? とアンは推測した。しかし、それにしてはレイルダーの目元がやや赤い。

「それに、あともう一つ。俺はそろそろ姉……カーマインに向き合おうと思って」

「……それは確かに」

 二人は何年もの間、複雑な気持ちでお互いを見てきたのだろうから。

 しばらく二人は黙って七十二号に揺られた。町はもう見えない。

「……ああ、着いた。ここらだ」

 レイルダーはそう言って馬を停めると、アンを助け下ろした。

「ここら?」

「そう。アンに見せたかったところ」

 そこは早春の花咲き乱れる草原で、遠くに青く川と山脈が見える。七十二号は早速、柔らかなクローバーをもぐもぐとみ始めている。

「素敵! とっても綺麗なところですね。ここを私に見せに来てくれたのですか?」

「そうだよ。ここもかつては戦場だった。そしてこの大地の下に、俺の父や兄たちが眠ってる」

「……そう、そんな場所なのですね。綺麗なだけじゃないんだ……」

 かつての内戦から十年以上経って、土地はすっかり草花や灌木に埋め尽くされ、もはや禍々まがまがしい匂いはしない。

 自然はゆっくり時間をかけて、人間の醜さを覆い隠してしまうのだ。

 アンは指を組み合わせてこうべを垂れた。

「父さん、兄さん。帰ってきたぞ。見えているか?」

 レイルダーは大地に向かって言った。

「長いことふらふらしていたが、俺はもう大丈夫だ。今日はアンを見せにきた。俺の恋人で、もうすぐ妻になる人だ」

「……え?」

 祈りを捧げていたアンが思わず顔を上げる。何か特別な言葉を聞いた気がしたが……聞き間違いだろうか?

「少尉さん?」

「ん?」

「今何かおっしゃいました?」

「おっしゃったよ。アンがもうすぐ俺の妻になるって……その、もちろんアンが嫌じゃなければ」

 最後の一言を渋々付け足し、レイルダーは地面を見下ろす。

「順番が間違ってることくらい、知ってる。元々俺は結婚する気なんてなかったし」

 何を思ったか、彼は長い足を折りたたんで、その辺の草花を摘みだした。

「でもさ。大好きなものを永久に誰にも取られないで、自分だけのものにするには、なんというか……普通の段取りも必要だって思ったんだよ。その……儀式ってやつ?」

 それは普段の言葉少ない彼からは考えられない、もぐもぐした話しっぷりだった。

「もしかして……儀式って、まさか、結婚式のことだったんですか?」

 アンの目がまん丸に見開かれる。

「そう。カーマインは、すごく張り切って色々準備をしなくちゃとか言ってた。閣下はただ笑ってたけど許してくださった。だから!」

 突然レイルダーは顔を上げて、膝をついたままアンに花束を差し出す。それは小さくて地味な野の花たち。

 けれどアンにとっては世界一美しい花束だった。

「大好きなアンシェリー・マリオン、俺と結婚してください」

「……」

 可憐な花束ごしに、美しい瞳があった。

 初めて見た時から、大好きで、その視界に入りたくて、叶わないと思いながらも懸命に追いかけていた人。


 その人が今、私に、花を──


 アンは見た。

 大好きな明るい翡翠の瞳に自分が映り込んでいる。

 それは小さい頃からずっと夢見ていた光景。

「えっと……求婚って、これでいいのかな?」

「十分です。マリオン」

 アンは両手で花束を受け取り、慎ましい香りを放つそれに顔を埋めた。涙が見えないように。

「そら!」

 レイルダーがひょいとアンの腰を抱え上げる。薄青い空にアンの飴色の髪が映えた。

「マリオン! 重いですから」

「全然重くない。ほら!」

「わぁ!」

 レイルダーは腕を伸ばしたまま、軽やかにステップを踏んだ。アンのスカートが風をはらんで膨らむ。

「アンはこんな踊りの方が好きだろう? 目を回すなよ!」

「はい!」

 以前の夜会は楽しかったけれど、それは教えられたステップだった。でも今は違う。二人は自分達だけのリズムで寄り添っている。

「私の少尉さん、いつまでも一緒です!」

 そう言って、アンは唇を寄せた。

「大好き!」

「俺の方が好きに決まってる! 俺の甘いお菓子、俺のアンだ!」

 ぐっと抱きしめられ、二人は一つになった。


 春風が吹き抜ける。

 野の花が二人を祝福するように、笑いながらそよいでいた。



   終わり                    2023.1 文野さと

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