第33話32 ずっと私を見ていて! 少尉さん
内戦は、逃亡しようとしたラジムの
唐突な独立宣言と共に怒涛のように押し寄せたラジム側は、当初の攻勢は凄まじかったものの、
以前、ラジム領だった川沿いの地方は、かつての過酷な支配者を忘れてはいなかった。彼らはラジムへの憎しみに燃え、アムストロム統一王国側の民として、軍と共に頑強に抵抗したのだ。
結果、ラジムはついには川向こうの自領まで撤退せざるを得なかった。
西北の国に支援を要請する
ラジム領は領民の代表が収める自治領となった。
アンは前に勤めていた前線後方の病院で働き、父の看護を続けている。
戻ってすぐにローリエとソフィが、どっさり薬や医療用品、布類などを持って、首都から応援に駆けつけてくれた。三人は再会と無事を喜び、現在は一緒に働いている。
一年以上も続いた長く苦しい季節が終わろうとしていた。
レイルダーは忙しく前線での戦後処理をしていて、アンとまとまって会える時間はなかなか取れないが、少しでも時間が取れると病院に来てくれる。
ただし、二人ともまだ、任務や仕事の中であるということを忘れてはいないから、会ってもほんの数分少し言葉を交わす程度だった。
それでも、アンは幸せだ。
いつも眠たげな彼の瞳の中に、自分への愛を探すことができるから。
そして──。
その日、アンの元に訪れたのはレイルダーではなかった。
「久しぶりだな。アンシェリー」
ヨアキムは真新しい軍服を着ている。近衛ではなく一般兵士のものだ。
「ヨアキム……」
「笑えよ。お前に偉そうなことを言っておいて、結局俺は間に合わなかった。ここまで来るのに時間がかかりすぎた」
少年は持ち前のひねくれた態度で、看護師姿のアンを見下ろした。
「そりゃそうよ。ただの学生から急に前線で戦える兵士になれるわけがないわ。それもあなたのような立場の人が。でもよく許してもらえたわね」
「そこは俺の弁舌で親父を説得した。政治家になるには兵士の経験も必要だって
熱弁してさ。でも、まぁこのざまだ。情けないよ。聞けば、お前は敵地にまで入り込んだそうじゃないか」
「それはまぁ、なんというか……成り行きで」
アンはちょっと言葉を濁した。その件についてはあまり語りたくはなかったのだ。
「すごいな。俺は何の役にも立ってない」
「そんなことないわよ。これからやることはいっぱいある。病院の手伝いでもいいし、前線基地の後始末でもいい。書類仕事もすごいのよ。あなたならきっと助けになる」
「……なんかお前、輝いてるなぁ。で、あいつ……レイルダー少尉とはどうなった?」
「言わないわ」
アンはぷいと横を向いた。その頬がやや赤らんでいる。
「言ってくれよ。それで俺を再起不能になるまで叩きのめしてくれ、アン」
「お望み通りにしてやる小僧。俺のアンの名を呼ぶな」
ぬっと現れたのは、金髪
髪を切る間がないので、以前より少し伸びたようだ。ぱっと喜色を浮かべたアンは、たった二歩でレイルダーに駆け寄った。
「マリオン! 今日は来られないかと思ってました!」
「来るさ。俺のアンに虫がつきそうな気配があるならすぐに」
「マリオン? あんたのことですか?」
ヨアキムが口を曲げてつぶやく。
「ああそうだ。だが、お前は呼ぶなよ、小僧。ふん……でも、ここまで来たことは褒めてやる。あと、意外にもアンに手を出さなかったことも」
「褒められたって嬉しかないです。たった今、再び玉砕したんだから」
「玉砕って、そんな大袈裟な……褒めたじゃないの」
アンが困ったように肩を落とす。
「ふん、
「は! 少尉殿! 私は何をすればいいでありますか?」
ヨアキムはレイルダーの言葉にぴしりと敬礼をした。
「まずは院内を全部見てまわれ。それから、お前の隊は午後から前線基地に行くことになっている。そこで塹壕の埋め戻しや、遺族に送る遺品の整理に精を出せ」
「はい! では、少尉殿、私は隊に戻ります! じゃあな、アン。まだ好きだぞ!」
ヨアキムは再び敬礼すると、かつんと
だが、その背中はもう、少年のものではない。
「あの野郎……どさくさに紛れて」
その瞬間のレイルダーこそ、やんちゃな少年のようだとアンは思う。そして後ろのテントの陰で笑い転げているソフィとローリエに、こっそり目配せを送った。
「あいつの隊の奴に言って、くたくたになるまで働かせてやる」
「それこそ職権濫用ですよ。マリオン」
「そうかな」
「そうですよ。そんなに心配なら」
アンは白いエプロンをふわりと広げてくるりと回転する。
「これからは、私から目を離さないようにしてください!」
明日は首都に帰るという日の朝、フリューゲルは娘を側に呼んだ。
「アン、本当にありがとう。お前のおかげで私たちは、襲いかかる濁流から祖国を守ることができた。古い名家が一つ潰れ、ラジム領はなくなってしまったが」
父は三日前から病院内で師団の撤退指揮をとっている。
戦いの後始末は、まだまだかかるだろうが、それは後任に任す予定だ。
「お前は、レイルダー……あのマリオンまで救ってくれた。最近のあれときたら、人が変わったように真っ直ぐにものを見よる。私はずっとそうして欲しかったのだ」
「お父さま、私のできたことはほんの少しよ。それも私だけではできなかった。でもマリオ……少尉さんや、他の人たちが助けてくれたから、私は自分のしたことに少しは自信が持てます」
「お前は私とカーマインの誇りだよ。亡くなった君のお母様もきっとそう思っている」
フリューゲルは娘の小さな手を取った。
その手はもう柔らかいだけの子どもの手ではない。人を助けることのできる立派な職業婦人の手だった。
「えへへ……カーマインお母さま、元気かしら?」
「最近の手紙では回復しつつあるようだ。退院の見通しもたったらしい。実は電報が来て、こちらに来たいというのを慌てて止めたのだよ。あの人はやることが見つかると気力が出るんだ。昔から」
「でも、ここじゃ、もうやることはないから……」
母の元の所属は補給部隊なのである。
「それが多分、あると思ったんじゃないかな?」
「まぁ! それはなんですか? お父さま」
「さぁ……とりあえず、お母さまのことは置いておいて、今は出立準備をしてきなさい。明日は早いのだから」
「わかりました」
「あ、それからな、アン」
フリューゲルは行きかけた娘を呼び止める。
「はい?」
「荷物用のトランクは、一番大きなのを用意するんだぞ」
「え? どうして? 荷物なんかろくにありませんし、身軽な方がいいのではありませんか?」
「まぁ、念のためにね。さ、外で奴が待っているんだろう? 早く行きなさい」
そう言ってフリューゲルは、首をかしげている娘を送り出した。
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