第32話31 お馬が見ています 少尉さん

 アンは、自分が川向こうの戦場で、とっくに死んでしまっているのだと思った。


 きっとあのラジムさんの鉄砲で撃たれちゃって、今天国へ向かう階段の上にいるんだわ……だって、まわり中すごくきらきら、ふわふわしてるもの。

 地獄じゃなくて、よかったぁ。

 神さま、ありがとう!


「わぁ! アン、しっかりしろ! 神様なんて言うな!」

「……へ?」

 目を開けると鼻がくっつく距離で、ものすごい美男が。

「……え? わぁあ! 少尉さん、すみません!」

 アンは慌てて体を離そうとした。少しは距離を取れたが、まだしっかり見つめられている。

「おいアン。君、もしかして体が弱いのか? すぐ真っ赤になるし、目を回しちまう……心配だ」

「いいえ! 私は丈夫です! ここ何十年、風邪一つ引きません!」

「何十年も生きてないだろ。でもほんとか? 目を回すのこれで二回目だぞ!」

「全部、少尉さんのせいです! だって、二回もすごいこと言うから! 私、びっくりしちゃって……」

 アンはわたわたと言い訳をした。まだ信じきれていないのだ。

「びっくりさせたのはすまんが、本当のことだから」

 レイルダーはやっと安心したのか、アンの体をそっと抱き直した。

「初めて会ったときから気になって、好きになって。自分がおかしいのかと思ったくらいで。それからずっとアンを見てた。アンを見てると、俺なんかでも人並みになれるかもって思えた。名を呼ぶのが好きだった」

 レイルダーは一瞬言い止めて微笑む。

「これからは、俺のアンって呼んでもいいんだな」

 それは、アンが初めて見る微笑み。

 二人きりの薄暗い厩舎の中で、自分だけに向けられる柔らかな翡翠の瞳。

 ──贅沢の極み。


 唇を重ねたのはアンの方からだった。

 実はまだ、夢かもしれないという、不安感がぬぐいきれないアンは、夢から覚めないうちに、普段なら絶対できないことをやってしまおうと思ったのだ。

 アンにとっては初めての口づけだったが、迷いはなかった。

 しかし。

 触れるだけの可愛らしい少女の口づけはすぐに、強く重ね直されてしまうこととなる。

 大きな掌が後頭を包み込み、背中に回った腕は切ないくらいに強い。

「アン……俺のアン」

 アンは自分の平衡感覚がおかしくなったかと思ったが、そうではなかった。

 二人が座り込んでいる干草の中にゆっくり体が沈んでいく。

「好き。好き。大好き! 愛してるよ」

 言葉ごとにキスが深くなる。角度を変え、場所を変え、アンの顔中に薄い唇が落とされていく。


 ぶるるん


 からかうような馬のいななきで、二人は我に返った。

「少尉さ……」

「マリオン」

「え?」

「マリオン。アンにはそう呼んで欲しい。アンだけの呼び名だ。俺には過ぎた名前だが、アンが呼んでくれるなら勇気が出せる」

「ま、マリオンさん」

「敬称略で」

「マリオン」

「そうだ」

「私の恋人?」

「俺の恋人でもある」

「不細工でもいいですか?」

「意味がわからない。アンは世界一可愛いし、綺麗だ」

「……ヨアキムにもそう言ってくださる?」

「ヨアキム? ああ、あの小僧か。アンの口がその名前を呼ぶのは不愉快だ。俺はずっと『少尉さん』に甘んじてきたのに」

「でも、なんて呼べばいいのか考えて、やっと決めた呼び方だったんですよ」

「そうかぁ。アンはずっと俺のこと考えてくれたんだな」

 レイルダーはごろんと干草の上に転がり、アンをその上に乗せた。

「俺にはずっと人の心がなかったんだよ。あまりにたくさん罪深いことしてきたから、心がすっかり固くなって何にも感じなくなってた。でも、アンに会って……同じ名前のちっさな女の子が笑ってくれたのを見てさ、心に種がまかれた」

「私が種をまいたの?」

 アンは今まで言葉少なだったレイルダーが、こんなにたくさんの言葉をくれるのが嬉しくて、思わず広い胸にしがみついた。その体を花束でも抱くようにレイルダーはそっと包み込む。

「そう。アンに会うたび種は、芽を出して育っていった」

「でもあんまり私を見てくれなかったですね。私いつも少尉さん……マリオンに見て欲しくて背中を追いかけてた」

「俺はアンに追いかけて欲しかった……追いかけられて嬉しかった。自分が必要と言われているような気がして。優しい言葉もアンから学んだようなものだ」

「そうなんですか? 嬉しいです! あの……マリオン、お願いが」

「なんだい? 言ってみな」

「そのぅ……とてもはしたないんですけど……もう一回キスしてもいいですか?」

 言ってしまってから、アンは自分がどんな姿だかようやく気がついた。

 男の子の格好だし、短くした髪はくしゃくしゃで、葉っぱや干草だらけ。肌もきっと汚れたままだ。

 しかし、レイルダーは顔をくしゃくしゃにして笑った。

「やっぱりアンは勇気の子だ! 俺が言いたくてたまらなかったことを、さらりと言ってのける!」

 そう言って、レイルダーはアンの顎を掬い上げ、ふっくらとした柔らかい花弁に、薄い自分のそれをあてがった。

 いつも眠そうで冷めた態度だった青年。

 言葉少なく、自分を見てくれなかった青年。

 美しくて格好良くて強くて、胸痛むほど憧れて、諦めようとして、それでも振り向いて欲しくて背中を追いかけた。

 その彼が──。

 自分に──。


 熱い。

 男の人って、こんなに熱いのね。

 こんなの熱すぎて、気持ちよすぎて、痺れちゃう……。

 キスってこんなものだったの?


 さっき抱きしめられた時よりももっと、思考が霞んでいく。

 最初はそっと触れるだけだったのに、どんどんぺったりと吸い付いて、アンの吐く息をさらってしまう。


 ああ、いい気持ち。

 これがキスなら、ずっとしていたい。


 長い夜を経て、今朝から恋人となった二人を馬たちが楽しげに眺めている。

「アン」

 ふと気がつくと、湖の浅瀬のような瞳がアンを間近に見下ろしていた。今なら長いまつ毛の数まで数えられそうだ。

 でも、少し瞳の色がけぶっている。いや、にじんでいるのか?

「アン、そんな顔をしてはダメだ」

「? あ……すみません私、不器量だから……」

「違うって、そんな可愛い顔を見たら……男はくたばってしまう」

「はぁ……」

「絶対に他でしたらだめだぞ」

「マリオン以外にキスする人はいないですよ」

「それならいいけど……さ、とりあえず隊舎に戻ろう。これ以上ここにると、馬たちの情操にも良くないし、お父上も心配するだろう」

「そう、でも……もう少しだけ、あとちょっとだけ抱っこしてもらえませんか? だってすごく気持ちが良くて……」

 その途端、アンのお腹が大きな音を立てた。

「ははは! アンの要求は素直だな!」

 真っ赤になったアンの頬にとん、と最後のキスをしてレイルダーは立ち上がり、アンを助け起こした。二人の体から藁くずがぱらぱらと散らばる。

「さぁ、朝飯を食いに行こう」

 レイルダーはアンの前髪に刺さった藁を抜きながら言った。


 藁まみれになっても、これほど格好いいってどういうこと?


 少し悔しい。そして恥ずかしい。

 気がついてしまった空腹は、アンの空っぽの胃袋を満たせ満たせと暴れている。

 けれどアンは平気だった。

 お腹は空いていても、心がたっぷりと甘いものを食べたから。

「手を繋いでもいいですか?」

 アンは厩舎の外の空の眩しさにまたたきをした。馬たちがまたねと言っている。

「どうしてアンは俺の言いたいことを先に言ってしまうかな?」

 レイルダーは手袋を外した大きな手を差し出した。

 その瞬間、アンはわかった。

 もう、彼がこっちを向いてくれるまで、背中を追いかけなくてもいい。

 これからは二人、隣に並んで歩いて行けるのだ。



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