第31話30 本当の名前ですか? 少尉さん

「は?」

 今度はアンが間抜けな声を出す番だった。

「今、なんて?」

「だから、カーマインは俺の姉なんだって」

「あのぅ……つまり、私の、お母さまが、少尉さんのお姉さま?」

「ああ。村を出る時、俺や兄は父親に、カーマインは母親についていったんだ。幼かった俺は悲しかったんだろうけど、よくわからなくてそのうち忘れてしまった。でも、会った瞬間、目の前にいるのが姉だと気がついた。向こうもそうだ」

 アンは母を初めて見た時のレイルダーの様子を思い出した。

 はっと見開かれた瞳、一瞬ゆるみかけて引き結ばれた唇、そして何もかも悟ったように諦め切った表情。

 あれは忘れていた肉親に会って驚いた顔だったのか。

「で、でも……なんで隠していたんですか? 名乗り合わないで」

「貴族の身内となったカーマインを見て、俺なんかと繋がりがあるとバレたらまずいだろうと考えたんだ。向こうは向こうで、名乗らない俺を見て、何かあるんだと感じたようだ。二人とも鋭すぎて結局名乗り合うタイミングを逸してしまった。二人で会うこともなかったし。だけどずっと気詰まりだった。おそらく向こうも」

「そんな……お母さまらしくない」

「そうかも。でも、アンのお父上も知ってると思うよ」

「ええ! お父さまも!? じゃあなんで、私に教えてくれなかったのでしょう?」

「あの人は思慮深い人だから、俺たちがお互いに黙っているのを見て、自分が口を出すことじゃないと思ったんじゃないかな?」

 アンはひどく悲しくなった。

 自分は二人に気を遣っている、自分なりによくやっていると思っていたが、この何年もの間、大人同士の気遣いに翻弄されてきたのはアンの方だったのだ。

「……多分、父と母はいい別れ方じゃなかったんだと思う。母は自分との生活より、傭兵を選んだ父を憎んでいたと、兄から聞いたことがある。でも俺たち兄弟には能力があって、秘色の能力を利用し利用され、結局カーマインも軍人になった。稼げるからな」

「……」

「それで今、立場は違えど二人ともフリューゲル閣下の元にいる。卑下するわけじゃないけど、複雑な気持ちがずっとしてた。俺の母は苦労を重ねて早くに亡くなったそうだから」

「……ぐすん」

「アン? どうした、なんで泣いてる? やっぱり俺が嫌いになったか」

 レイルダーは心配そうにアンをのぞき込む。

「ちっ、違います! ぐすん」

「なにが違うんだ? アンが泣くと、なんでかものすごく苦しいんだ。なんで泣く?」

「あんまり私が馬鹿だからです!」

「アンは馬鹿じゃないぞ」

「馬鹿です! 大馬鹿です! わぁん!」

 アンは恥ずかしげもなく、声をあげて泣いた。一度泣き出すと止まらなかった。止められなかった。

 今聞いたことがきっかけとなって、昨夜からの緊張や不安が一気に溢れ出したのだ。

「アン……アン、ごめん。困らせてごめん。危険に巻き込んでごめん。今までのことも全部。きっと俺はずっとアンを困らせていたんだな」

「いいえ……いいえ!」

 アンは泣きながらはっきりと首を振った。

 流した涙の分だけ、少しずつ心が軽くなっていく。永遠にこの胸の中で泣いていたいとさえ思った。

「違うんです。少尉さんは悪くない。全部私の思い込みだったんです!」

 しゃくり上げながら、それでもアンはレイルダーを見上げた。

「思い込みだって?」

 レイルダーはあやすように、両手に顔を埋めたままのアンの肩を抱いて、再び例のハンカチで涙を拭う。

「な? 理由を言ってみ?」

「だって私、ずっと……少尉さんは、お母さまのこと、愛してるって思ってて」

「だから、愛というか、身内の情はまぁ、ある」

「じゃなくて! 女の人として恋してるって思い込んでたんです! 私のばかぁ!」

「馬鹿じゃない。でも確かに恋はしてないな」

 レイルダーは大真面目に答えた。


 そりゃあそうですよね! 本当のお姉さんだったらね!


 二人のイメージは金と赤で、似ているところが少しもない。強いて共通点を上げるなら、派手で綺麗だというところか。

 だからアンも、まさか二人の血が繋がっているとは思いもしなかったのだ。

「アン。落ち着いて話を整理しようぜ。つまり、アンはこんな話を聞いても俺が嫌いじゃないんだな?」

「大好きですったら!」

「それで、俺がカーマインを愛してると思い込んでた」

「そうです!」

 ぐすぐすと鼻をすすり上げながら、アンはうなずいた。

「でもそうじゃなかった」

「……はい」

「で、アンは俺をどうしたいんだ?」

「え?」

「アンは、俺をどうしたい?」

 レイルダーは重ねて尋ねた。

 アンが見上げる、過ぎるほどに澄んだ翆の瞳は、静かに、真剣にアンを見つめている。

「どうって……どうもしたくないです。私が少尉さんに何かするだなんて……ただ、私はずっと少尉さんが好きで、大好きで、昔から側にいたくて」

「知ってたよ」

「でも、私がいくら好きでも、少尉さんは大人で、綺麗で、強くて、女の人にもてて人気者だから……私じゃ全然だめでしょう?」

「なんでだめなんだ」

「だって私は綺麗じゃないし、頭もよくない。少尉さんから見ると、とっても子どもで。だから少尉さんとは」

「マリオン」

「え?」

「俺の名はマリオンって言うんだ」

「え? で、でも。ヴァッツライヒ、ヴァッツって」

「正確にはマリオン・ヴァッツライヒ・レイルダー。マリオンは父の名前で、父と兄が死んでからその名前は使わなくなった」

「……」

「アンの名前もマリオンだろ?」

 それはそうだった。

 アンという呼び名が呼びやすくて、自分でもすっかりアンと思い込んでいるが、アンの正式な名前は、アンシェリー・マリオン・フリューゲルと言うのだ。

「マリオンは、秘色の民の中で、特別な意味を持つ名だ」

「特別な意味?」

「ああ。それは勇気を表す。初めて会った時、俺は同じ名を持つアンにすごく驚いた。俺はその名にふさわしくない人間だが、アンはいつも素直で前向きで、まさに俺にとってのマリオンだったから」

「私、勇気ありますか?」

「なけりゃ今、ここにいないだろ?」

「……」

「だからアン、君は俺の理想なんだよ」

「りそう、ですか……」

「そうだ。アンは俺を好きにしていい。嫌いになったら困るが。側にいていいなら、アンが嫌になるまで俺は側にいる。言ったろ? 俺はアンが好きなんだ」

 レイルダーの声は、つい先ほどまでとは打って変わって明るい。まるで人が変わってしまったかのようだ。

「大好きなんだよ」

「もう! そんなこと気軽に言っちゃあ私、都合よく誤解してしまいますよ? 少尉さんが、私を女の子として好きで、恋人になってくれるって……って、いえ冗で……」

 アンはぶんぶんと首を振ったが、その頬を大きな手が包み込んだ。

「喜んでなる。俺はアンの恋人だ。それでアンは俺の恋人だ。名前を呼ぶのが好きだった。いつも心の中で、俺のってつけてた。愛してるよ、俺のアン」


   *****



今更ですけど、少尉さんはアンの名前を呼ぶのが大好きです。

1話目からずっと呼び続けています。

気がついたりしてました?でも、数えたりしないように。多すぎますから。

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