おかえり

真花

おかえり

 左肩に桜をひとひら乗せた秋桜子あさこの青い顔に、言葉が凝って吐き出せず、頷くだけしか出来ない。秋桜子は頷き返し、玄関からダイニングまで葬列のように進む。開け放した窓から柔らかい光と微かに甘い匂いが等分に流れ込んで照らす中に、僕達は向き合って座る。秋桜子は視線に錨を付けられたように下を向いたまま動かない。テーブルの上に置かれた両手だけが震えている。どうしたの? 大丈夫? 泡のように浮かぶ言葉が声になるには遥かに遠いところで堰き止められる。まるで秋桜子が持って来た沈没に全身ごと巻き込まれて喘いでいるみたいだ。二人を中心にして部屋が次第に沈んで行く。深く掘り過ぎたアリジゴクは自らも外に出られなくなって穴がそのまま墓穴となる。このままでは僕達も同じ穴に埋まってしまう。……それもいいか。二人で同じ穴に埋まるなら、別れ別れにいつかなるよりずっといい。

 秋桜子が呼吸をしている。それに合わせて花びらも上下する。僕も息をしている。歪み行く部屋の中でそれだけを数えている。秋桜子の呼吸が少しずつ早くなる。僕は息を詰めて待つ。秋桜子が視線を持ち上げる。海が割れるように僕の目に通る。

「大事な話があるの」

 僕は干物のように頷く。

「私、死ぬみたい」

 言葉が分解されて意味に再構築されるのにひと呼吸、その意味を理解するのにもうひと呼吸要した。死ぬ? 何を言っているんだ。今だってこうやって僕の前に座っているじゃないか。でも顔は初めての青さを、あの世の色を混ぜたような色をしている。それはきっと体調の悪さではなく、事実の悪さによっている。……秋桜子の唇から偽りが零れたことはない。秋桜子の姿が影に飲み込まれそうになっている。言葉の通り、なのか。僕は低いけれども力の込もった、だけど正体は何かに懇願する声を放つ。

「信じたくない」

 秋桜子は視線を下げない。瞳は黒く輝いていて、その奥にあるものの色を映さない。

「私だって。……余命三ヶ月。お医者様にそう言われたわ」

 僕は首を振る。濁流に抗う木の葉のように。

「そんな医者は信用ならない。セカンドオピニオンをするべきだ」

「したわ。同じ結論だった」

 もっと首を振る。いずれ朽ちる花びらのように。

「まだ一緒に暮らすことすら出来ていない」

「修一を放っては行けなかった。ばくさんのこともとても話せない。修一が独立したら、きっと一緒に生活しようと思ってた。本当だよ」

 秋桜子は両手を握る。

「分かってる」

 秋桜子の手を握ろうか、……今は違う。

「死んだらあの人と同じお墓に入るってのが、どうしても嫌で、最期の意地で、自分用のお墓を買ったの。それだったら麦さんもお参りに来れるでしょ?」

「確かに、気兼ねせずに会いに行ける」

 秋桜子の手は震えたまま、少しだけ笑う。

「よかった。安心して骨になれる」

「大事にする」

 僕は秋桜子の手を両手で握る。優しさよりももう少し強く、逃さないように掴む。

「僕は、骨になんかになって欲しくない」

 秋桜子の黒い瞳がみるみる溢れて、大粒の涙が次々と流れる。

「私、死にたくない」

「当たり前だ」

 秋桜子は花を払うように首を振る。

「でも麦さんといる残りの時間を泣いて過ごすなんて嫌」

「じゃあ、今日だけは泣こう」

 秋桜子は聞き分けのいい子供みたいに頷く。

「泣く」

「そうしよう」

「くっついて泣いていい?」

「もちろん」

 僕達はベッドに移って、抱き合って、秋桜子は泣いた。涙がいったん枯れたとき、秋桜子の左肩にはまだ桜の花びらが付いていた。僕はそれを取って、秋桜子にひらひらと見せる。

「しぶとい花びら。秋桜子もきっとそうなるよ。……こいつは記念に取っておこう」

「私とどっちが先に枯れるかな」

「そりゃ、花びらだよ。秋桜子は枯れない」

 秋桜子は僕の胸に頬を擦り寄せて、さっきよりも力の抜けた笑みになる。何度も飛ばした紙飛行機のような。

「私は枯れずに死ぬんだね」

 その声に決意の匂いがして、もし枯れ始めたら秋桜子はここには来なくなるのだろうな、それもまた最期の意地だ、受け入れよう。秋桜子を両腕でしっかりと抱き締める。その力で絞られたみたいに、また秋桜子は泣き出した。僕の胸に涙の全てを溶かし込むように泣いて、僕は子供を寝かし付けるみたいにトントンと秋桜子の背中を叩いた。寝て欲しいとも、泣き止んで欲しいとも思っていなかった。ただ、少しでも安心して泣けたらいいな、といった気持ちが胸の中央にあった。陽光が柔らかくなってオレンジ色になるまで、泣いたり、戻ったりを繰り返した。窓を閉めた。部屋の中に閉じ込められた春が、じわじわと僕達二人に咀嚼されてゆく。秋桜子は眠った。泣き疲れたのだろう。冷蔵庫から麦茶を出して飲む。さっきの花びらを小さなケースの中に納める。透明の奴だからいつでも見られる。ダイニングの中央右に置く。自分の体が元あった位置に横になり、目を瞑る。後三ヶ月でこの生活が終わる。秋桜子が存在しなくなる。それなのに涙が全然出ない。もしかしたら、死んだときにも同じように無感動なのかも知れない。それとも大きすぎる衝撃で心が麻痺しているのだろうか。もしくは、秋桜子を泣かせるためには自分は泣いてはいけないといつの間にか決めていたのかも知れない。

 目覚めた秋桜子を強く抱いてももう涙は出なかった。

「今日の分は全部出たみたい」

 秋桜子は涙の跡を手で撫でる。僕はもう一度彼女を抱き締める。

「お腹が空いた。秋桜子は?」

「空いた。でも作る気力はないかも」

「食べに行こう。秋桜子の好きなものを食べよう。……これからずっと、そうしよう」

 秋桜子は花のように微笑みながら、そよ風のように首を振る。

「麦さんが食べたいものを半分、食べよう」

「そっか。……今日は?」

「私」

 僕の胸の奥が溶けて、少し力が抜けた。脱力の分が笑みになる。

「何を食べようか」

「焼き肉に行こうよ」

 秋桜子は悲壮感以外はこれまでと何も変わりがなく、肉もたくさん食べた。食事の間には病気の話はせずに、いつもと変わらない話題、お互いの仕事、趣味、観た映画、などを喋った。駅でもあっさりと別れた。まるで何も変わっていない今日を泳ぐように、桜の香りがかすみのように胸を占拠する中、部屋に戻る。玄関から見た部屋はわずかに位相がずれていて、踏み込んだ足のついたところから波紋を広げるように正されてゆく。トイレも居間も寝室も、部屋の全部を踏み慣らして最後に、ダイニングに戻って来た。小さなケースを手に取れば、その中には桜の花びらが納めてあって、目の高さに掲げてからケースを握る。太陽は沈んだけど、僕達は沈んではいない。夜はまだ始まっていない。


 秋桜子は次第に弱っていった。

「麦さん」

 ちゃんと話したい、とダイニングで向き合った。秋桜子に余命宣告のときの青さはなく、魂を風で洗ったような清らかさをその頬に瞳に携えていた。唇が動き出す前に、秋桜子が何を言おうとしているかが分かった。

「うん」

 僕は頷きを言葉にした。そんなことを言って欲しくなかった。そんな事実は来て欲しくなかった。僕の両手に力が入る。奥歯を噛み締める。でも視線は真っ直ぐに秋桜子を射続ける。秋桜子も澄んだ瞳で僕を捉え続ける。その視線が一瞬下りる、また元の場所に還ったとき、瞳には決意の色が灯っていた。

「今日が会える最後の日」

 僕はその言葉を受け止めたくなくて弾いたら、シャボン玉のように言葉が二人の間に浮いた。ふよふよと浮かぶシャボン玉は少しずつ僕の方に流れて行き、胸の前ではじけた。言葉が僕に浸透する。

「どうしても?」

「もう、いつ入院してもおかしくない。急に予定がなくなったら悲しいでしょ? だから、ちゃんと最後を決めたい」

 僕の鼻から粘っこい息が漏れる。遠からず来るこのときに備えなかった訳じゃない。だけど、見ないようにしていた面もある。それは臆病だったからじゃなく、あの日秋桜子の病気を受け入れた以上は、秋桜子のやりたい形に従おうと決めていたからだ。

「分かった。最後の日だね」

 言ったら、胸がぎゅうと搾られた。込み上げて来る涙を呼吸で押さえつける。その僕を秋桜子は見ている。何も言わずに、少しだけ微笑んでいる。

「麦さん」

 この声がもう聞けなくなる。

 途端に涙が抑え切れなくなって、秋桜子に視線を合わせたまま、ぼたぼたと流す。

「嫌だよ」

 秋桜子は何かを言おうとして、それを引っ込めて、首を軽く振る。

「ごめんね」

「秋桜子は悪くない。何にも悪くない。なのに、病気が命を奪う。死ぬべき人なんて山のようにいるのに、生きるべき人を殺すなんて、世界の仕組みは間違ってる」

「でも、死ぬの」

 その声が、す、と胸に差し込まれる。今、そんなことを嘆いてももう仕方がないでしょう? 

「最後の日まで、笑って過ごそう」

「そうだよ」

 僕は左腕で一気に涙を拭う。胸はまだ震えているけど、笑って見せる。秋桜子は優しく頷く。その微笑みには恐れとか迷いは一切なく、透明な感情に今ここに二人でいる喜びだけを載せたようで、僕の胸の中を占拠していたものを溶かした。僕は息を大きく吸って、ゆっくり吐いて、改めて秋桜子の顔を姿を捉える。

「もう、泣かない」

 最後の日だけど、いつもと同じように過ごした。夕食は僕の好物の生姜焼きを作ってくれた。この味も最後。この温もりも最後。この笑顔も最後。

 駅まで送った。

「きっとお墓に来てね」

「行くよ、絶対」

「じゃあ、ありがとう」

「僕こそ、ありがとう」

 秋桜子は何度も振り返りながら、いずれ見えなくなった。僕は一日隠していた涙が一挙に押し寄せて、立っていられなくなり、辿り着いた壁に寄りかかりながら泣いた。


 一ヶ月後、知らない番号から電話がかかって来た。相手が誰か確信を持って、だから緊張して出る。

水島麦太みずしまばくたさんですか?』

「そうです」

『僕、村瀬修一むらせしゅういちと言います。村瀬秋桜子の息子です。母の遺言に従って、リストにあった方に母の死を報せさせて頂いています』

 やはりそうだった。

『葬儀は家族葬ですのでご出席はご遠慮頂いています。そうなんですけど、遺言に、葬儀の日程と四十九日の日取りを水島さんには伝えるようにあったので、お伝えします』

 僕は二つの日付けを書き記す。

「ありがとうございます」

『失礼ですが、水島さんは母とどういったご関係だったんですか?』

「古い友人ですよ。若い頃、職場が一緒で、意気投合したんです」

『……そうですか』

「心からお悔やみ申し上げます」

『ありがとうございます。では』

 秋桜子の声は二度と聞けない。だけど、四十九日を過ぎればいつでも、墓に会いに行くことが出来る。それが秋桜子の望みなのだろうか。二人の望みは一緒に暮らすことだった。

 空がいつもよりも広い。秋桜子がいない分だけ広い。何かで埋めなくてはならない。


 夜なのに蝉が鳴いている。蝉の声の間に確かな静寂があり、その静けさは汗をかいている。霊園はとっくに閉園していて、侵入した僕以外の誰もいない。懐中電灯を照らしながら霊園の中を蟻のように歩く。足音が規則正しく響く。今日が四十九日の次の日であることは何度も確認した。だから必ず秋桜子は墓の中にいる。区画をあみだくじのように進み、目的の場所に至る。「村瀬家の墓」は豪華ではないけど一人用にしては大きな墓石だった。線香の匂いはしなくて、水滴を嗅ぐような香りが流れている。

「秋桜子」

 この下に秋桜子は入っている。手を合わせる。秋桜子の笑っている顔が浮かぶ。胸の奥がグッと押される。秋桜子はお参りに来て欲しいと言った。だけど、僕には秋桜子の望みがそれだけだとは思えない。墓場に来てからずっと鼓動が跳ねている。自分の考えが正しいと思えば思う程に跳ねる。

「もうすぐ、会える」

 納骨棺の蓋を、音を立てないように開ける。懐中電灯を照らし、中を覗くと、白い骨壷が一つだけ置かれている。あれが秋桜子だ。体を折って、骨壷を引き上げる。「ちょっとだけだから、我慢して」と脇に置く。息を殺して蓋を戻す。秋桜子を両手で包み、胸に抱く。

「やっと会えた」

 胸の中の隙間に秋桜子の気配が満ちるまでじっとそうして、でもずっとこのままでいる訳にもいかない。

 秋桜子を風呂敷に包んだ後に小さなバッグに詰める。その状態でリュックサックの中に入れる。お墓の様子に問題がないかを確かめて、帰路に就く。

 しばらく歩いてからタクシーに乗った。息も切れてないし、罪を犯した興奮もない。僕は必要なことをやった。運転手には何も訊かれず、部屋から二キロ程度離れたところで降りた。そこから歩き、頬を汗が流れる、どこにも寄らずに部屋に戻った。

 部屋は透明な静けさに満ちていた。寝室まで儀式のように落ち着いた動きで進み、リュックサックをそっと床に置く。中から小さなバッグを取り出し、その中から風呂敷に包まれた骨壷を出す。テーブルの上に置く。風呂敷の包みを解くと、魂そのもののような白い骨壷が姿を現す。風呂敷を引き抜き、テーブルの中央に据える。

「おかえり、秋桜子」

 僕の言葉に、秋桜子が微笑んだ。僕は立ったまま。涙が一雫流れた。

「そうだ」

 僕はダイニングに向かい、花びらの入ったケースを取る。

 それを秋桜子の隣に置いた。


(了)

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おかえり 真花 @kawapsyc

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