第一章④


 リュカ・ヴェルマエル。金髪のエルフはそう名乗った。エメの従者としてタイソ司令部との交渉に同行し、帰路において召喚の儀式を決断したエメのため、森の出口にて待っていたところ、森の奥から眩い光が溢れたため急ぎ駆けつけたとのことだった。森奥にて話し込む二人を発見し、遠巻きに護衛をしていたところに、先程の騎兵が乱入してきたので、狙撃したのである。

「あの鎧のデザインはタイソの者でしょう。少数で、部隊の証明となる旗などを持っていなかったことから、偵察騎と思われます。もしかしたら本体へ知らせも行っているかもしれません、早くこの場を離れましょう」

 リュカの声は落ち着き払っていて、非難の色は毛ほども感じられなかった。森の外まで漏れる閃光が瞬いたのなら、当然、他にも気付いた者がいたことは考え付きそうなもので、ならば早く警告して欲しかったと思ったが、この従順なエルフの優男は、主の邪魔をするようなことはしたくなかったのである。どうやら頑固で思考の柔軟性に欠ける性格であるようだった。

「申し訳ございません、私も召喚の光が強烈だと認識していたはずなのですが、それどころではなく、考えが至りませんでした」

 エメにそのように頭を下げられては仕方がない。だが、ならば何故、最初から護衛として近くに居なかったのかを問うと、それは召喚儀が里長の一族にのみ伝わる秘儀であり、同族であっても見られるわけにはいかなかったと返されてしまい、エルフというのは角ばった考え方しかできないのだろうかと疑ってしまう。

「ところで、使者として他国の要人と交渉に行ったというのに、従者一人だけというのは随分と不用心な気がしますが、他に護衛などは付けなかったのですか?」

「往路は護衛の騎馬が同道したのですが、儀式を行うにあたって長娘様が返してしまったのですよ。集団で固まっているのは目立つから、という言い訳を使っていましたが、実際には反対するものが多く煩わしかったようです」

 苦笑してそう語るリュカに、エメは顔を赤くして反論している。二人の親し気な様子は余人の入り込む余地がないように見え、聖佳は居心地の悪さを感じて視線を逸らせた。

 ほどなくして三人は森を抜け、傍らに繋いであった馬車に乗り込み、急ぎその場を離れたのであった。リュカは御者台にて手綱を握り、聖佳とエメは向かい合って座ることとなる。

 馬車は使者を乗せるものとしては簡素なもので、木材が剝き出しで装飾などもほとんど無い。華美で派手な造りにしてしまうと目立ってしまい、野盗や風紀の乱れた軍部隊などに目を付けられてしまうということだが、なんとなく彼女たちの質朴な感性が壮麗さを好まなかったのではないかと思われた。

 人生で初めて乗った馬車の乗り心地は、決して快適とは言えないものであった。そもそも道が整備されておらず、木造りの車輪はダイレクトに衝撃を伝えてきて、サスペンションなどの吸収材もないのだから、聖佳が今まで経験してきた乗り物とは比べるべくもない。直角の背もたれに固い木製椅子でゴトゴトと揺られていると、たちまち身体が痛みを訴えてきてしまう。

 だが、それとは無関係に、聖佳は青白い顔で額に浮かぶ冷や汗を拭うしかできなかった。瞼に焼き付いたのは、長大な刃を構えて殺到してくる騎馬の姿。明確な殺気を込めて自分を睨む屈強な男の瞳に射すくめられ、身動きとれなくなった自分を回想し、今さらながら恐怖に全身が凍ったかのようだ。さらにその後、草地に倒れた男がギョロリとした目で虚空を見つめ、その顔に垂れ流れる真っ赤な血液が表情を染色する様子に、嫌悪にも似た衝撃が聖佳の心胆を寒からしめていたのだ。

 あの時、リュカの矢が騎馬の男を貫くことがなかったら――草地に倒れて虚空を見つめていたのは、自分だったかもしれないのだ。その想像は、つい先刻まで死の危険を他人事として過ごしてきた日本人高校生には、許容量を超える精神的負荷を与えるものである。

 そんな聖佳の様子に配慮してか、エメもまた、黙して視線を注ぐだけであった。もしかしたら何と声をかけていいのか迷っているのかもしれない。

 沈黙が支配する車内に、遠く騒音が響いてくる。地響きのような細かい揺れ、人馬の喧騒、それらに気付いて顔を上げた時、御者台のリュカが仕切戸を開けて報告を入れてくれた。

「どうやら近くで戦闘が行われているようです。迂回いたしましょうか?」

 エメが数瞬、考え込むかのように顎に手を当てて視線を泳がせたが、それはすぐに解消された。

「近くに丘があったはずですので、そちらに寄せましょう。会戦できるような場所は限られますし、そこは急勾配に面しているはずなので、こちらに危険はないはずです」

「かしこまりました」

 方針が決まるとすぐに仕切戸は閉じられた。聖佳は窓の外に目をやって、状況を確認しようとしたが、流れる景色は変わりないものであった。

 しばらくして右手側に丘が見えてくると、そちらに沿った道を走り、林を抜けて開けた場所へと出た。そこは展望台のように窪地を望める一角で、戦闘の気配もより近くに感じられるのである。

 エメが促して、聖佳は馬車を降りた。彼女は戦闘の様子を見せるためにここに来させたのだろう。言外にそのことを汲み取ったリュカの洞察力には舌を巻く思いだ。

 聖佳が切り立った崖の上から、盆地となっている先を見下ろすと、遠く刀槍の群れが陽光を跳ね返し、大勢の人々が砂塵を巻き散らして激突する様子が見て取れた。人々の喊声、馬の嘶き、地響きを起こす馬蹄の轟き。音が臨場感をもって聖佳を圧倒し、肌がピリピリと痺れるような感覚を知覚しながらも、呆然と目の前の光景に息を呑むだけで立ち尽くしてしまった。

「右がタイソ軍の先遣隊ですね。左の防衛部隊が現地の軍ですが、どうにも怖気づいてしまっているようで、まともな反撃もできずに蹴散らされています」

 少し下がった所で、リュカがそう解説してくれた。見れば確かに、右側の軍が統率された動きで防陣に侵入しているのに対し、左側は良いように浸食され、壊乱しているように見える。

「先遣隊?」

「はい。タイソの軍容は非常に大規模なもので、本隊であればこの何倍もの数になっているはずです。これは威力偵察による小競り合いのようなものでしょう」

「……これが、小競り合い、なのか」

 聖佳は唖然として、そう口に出すより他に無かった。素人が戦場を見て、その軍容を正確に把握することなどできないが、右側の軍は数千人規模の人がいるように見える。防御側は必死に抵抗しているようだが、遠く赤い血が飛散し、時に浮き上がるように見えるのは、首や手足であろうか。人体が乱れ飛ぶ様を想像し、胸の辺りを何かが昇ってくるような不快さに顔を青ざめさせつつ、それでも凄惨な戦地から目を離すことができない。

 ふと、聖佳は、攻撃側の軍中に翻る大旗に視線を吸い寄せられた。何かの意匠が記されているのかと注視すると、それが文字であることに、思い至ったのである。

 しかもそれは知っている字だ。漢字一字で、『楚』、と大書されているのである。

(楚……楚、って、あの、『楚』なのか!?)

 思い浮かべたのは中国、紀元前の戦国時代に中華を分けた七雄の一国、楚の国である。そして今、目の前で殺戮をほしいままにしているのは、タイソという国。つまり、大楚、ということか。

 聖佳は驚きの表情で振り返る。視線の先に美しいエルフの娘を認め、パクパクと口を開閉させて、声を絞り出すように確認した。

「タイソの皇帝……名前は確か、コウウ、て言ったよね?」

「は、はい。タイソの覇皇は、コウウと名乗っています」

「コウウ……やっぱり、項羽、なのか!?」

 思い当たる名前はただ一人。戦国七雄の一角である楚の国の終盤、天下を統一することになる秦から攻め寄せる侵略軍を一度は破った名将項燕を祖父に持ち、秦朝末期に反乱の軍を起こした項梁の甥として従軍した世紀の猛将。中華史、いや世界史上においても最強と呼ばれる凶王、秦を滅ぼし中華に18の王を封建し、自らは西楚の国を治めて覇者たらんとした男。それが項籍、字の羽を持って項羽と呼ばれる、人類史上に名高い人物である。

 聖佳は目の前が歪んだかのような衝撃を覚えた。思わずよろけて、膝から崩れ落ちそうになるのを、リュカが支えてくれる。それに小さくお礼を述べつつ、動悸が内から激しく打ち鳴らされる音に、鼓膜が甲高い音で悲鳴を発しているのを知覚して、全身に浮かぶ脂汗に身を震わせる。

 高校生ながらに歴史に興味を持ち、簡単な範囲だが自分で調べたりしていた聖佳にとって、項羽という名は知り過ぎているのだ。大漢帝国を開いた高祖劉邦のライバルとして、日本でも小説や漫画の題材として有名であり、歴史解説の動画などでも情報を調べることができる時代である。少し興味を持っただけで、項羽という圧倒的な存在に関しては、恐ろしい逸話が次々と入ってくるのであった。

 例えば秦に対する反乱軍として衝突した鉅鹿の戦い。反秦軍の大将であった宋義を殺し、自らが上将軍となって軍を率い、甑や釜、船などを打ち壊して不退転で臨んだ項羽は、鉅鹿を囲む20万の秦軍を撃破し、敵将王離を打ち取った。またその後、秦軍の総大将である章邯が、長い対峙に疲弊して降伏した際には、その配下の兵20万人を生き埋めとしている。

 さらには秦国滅亡後には、項羽の斉遠征の隙を突いた劉邦を首魁とした連合軍56万が西楚の首都である彭城を占拠した際には、僅か3万の兵を持って急襲し、潰走させ、勝利して見せたのだ。世界史的に見ても最大級の戦力差を覆した尋常ならざる強さは、後世になっても語り継がれ、中国だけでなく日本の高校生にすら畏怖を感じさせる存在となっているのである。

 ドッ、と聖佳の背中を冷汗が流れた。もしかしなくても、彼がこの世界に呼ばれたのは、あの楚軍と戦うためなのだ。必然的に項羽と対陣するということか。理屈ではない強さを誇り、ついぞ誰かの手によって打ち取られることのなかった、最強の凶王と。

 それは、想像するだけで怖気に襲われるほどの、圧倒的な恐怖であった。

「……彼らに気付かれる心配はないようです。早く森に帰りましょう」

 顔面蒼白の聖佳を見て、エメは何を思ったのか。失望か、憐憫か、それとも怒りなのか。感情を殺したように、抑えた声音からは、何も読み取ることはできない。

 ハッ、と返事をしたリュカに肩を担がれながら、聖佳は力の入らぬ脚を引きずって、馬車へと歩みを進ませていく。その背後に響く戦いの喊声は、もはや戦勝を前にした陽気な侵略者の鬨の声に変わっていた。



第一章、終

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SSSランクの最強転生英雄を倒すために異世界召喚されたけど、無能者だと追放されたので、辺境伯の庇護を受けて暮らします 宮ちゃん♪ @ruicosta10

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