夕陽色の君

奔埜しおり

夕陽色のインク

「あっつい」


 吐き捨てるように言えば、隣にいる結良ゆうらがケラケラと笑う。

 机に腰かけた彼女の姿は夕陽に照らされて、まるで絵のようだ。

 近いのにどこか遠い。


「言うと、更に暑くなるよー」

「わかってるし」


 むくれて言えば、また笑い声が返ってくる。

 ああっと濁点がつきそうな声を上げて椅子に座ったまま手足を勢いよく伸ばした。

 足が当たった前の椅子が音を立てて動いたけれど、そんなの知らない。


「終わらないんだけど」

「終わる、終わる」


 無責任な声が降ってくる。

 ため息を吐いて、僕はそのまま突っ伏した。


「そもそも別に、今やらなくてもいいんじゃないの、それ」

「……そうだけどさ」


 視線だけ上げれば、こちらを見下ろしているつり目と目が合った。

 柔らかな橙が輪郭を縁取っている。


 綺麗だなぁ、と素直に思う。

 顔が整っている、とか、スタイルがいい、とか、そういうことではなく。

 いや、顔も整っているし、スタイルも、たぶん、いいんだと思う。

 そういうのはちょっと、わからないけれど。


 すごく、夕陽が似合う。


 思わず手を伸ばせば、結良が首を傾げる。

 サラリと無造作に一つに束ねられた長い髪が流れた。


「結良ってさ」

「うん?」

「……なにを言いたいんだっけ」

「知らないよ」


 くすっと笑う、その姿も絵になる。

 言いたいことなんて別になにもなかった。

 なにも言うことはないのだけれど、ただ、声を聞きたくなった、それだけ。

 開いた窓から入った風が、ふわりと彼女の髪を揺らして、消えていく。

 涼しさを与えてくれない風になんの意味があるのだろう、なんて心の中で八つ当たりをした。


「夕陽、まぶしい」

「はやく終わらせないからだよ、もう。ほら、やりなよ」


 細い指が伸びてくる。

 その行く末を目で追えば、目の前の真っ白な原稿用紙が容赦なく視界に入った。


「うげ」


 終わるはずなんてない。

 そう思わず言ってしまいそうになる。

 現代文の先生は、事あるごとに作文の課題を出してくる。

 今日も出してきた。

 テーマは、最近綺麗だな、と感じたこと。

 今この瞬間ではあるけれど、そんなのそのまま書けるはずがない。

 だってそんなの、まるで、告白だ。

 僕のこの気持ちは、きっとそういうのではなくて。

 だったらなんなんだと問われれば、うまく言えないけれど。

 恋愛、だとしたら、それはだって、僕はあまりにも彼女に対して――。


「もう諦めて帰れば?」


 頭を抱えてしまった僕が、作文が書けなくて困っているようにきっと見えたのだろう。


「……そうしようかな」


 腰かけていた机から、結良が降りる。

 軽やかな動きに合わせて、髪の先が跳ねた。


「結良は、決めた?」

「なに書くか?」

「そう」

「決めてないけれど、まあ、提出は来週だし、それまでには書けると思う」

「すごいな」

「そんなことないよ。色々あるでしょ、綺麗だと感じることなんて」

「例えば?」

「うーん……」


 結良は探すように周りを見渡す。

 横顔になったとき、長いまつ毛の先に、光が見えた。

 あ、と彼女が漏らす声と同時に、その先が少し揺れる。


「夕陽、とか?」

「あー……僕もそれは思う」

「まあ、大体の人には綺麗に映るよね、たぶん」


 おもむろに、結良が窓の向こうにある夕陽に向かって手を伸ばす。


「どうしたの」

「んー、掴めるかなって」


 すっとつま先立ちになって、体も一緒に伸びた。

 まっすぐな背中に、髪がゆらゆらと揺れる。


「……掴めそう?」

「うーん、ちょっと足りないかも」

「そっか」


 結良はしばらくそのまま手を伸ばしていた。

 やがて諦めたのか、ぺたっとサンダルのかかとを床につけると、こちらを振り向く。

 眉尻を下げて、柔らかく微笑んでいる。

 それは、自分の行動に照れているようにも、呆れているようにも見えた。

 もしかしたら、どちらも、かもしれない。


「帰ろっか」

「うん」


 立ち上がり、支度を始める。

 先に支度を終えていた結良が、戸締りを終えたのと同時に、僕は鞄を肩にかけた。

 二人で学校を出る。


「あ、そうだ。私、シャー芯買わないと」

「文房具店、寄ってく?」

「うん、お願い」


 一緒に入った文房具店は、よく使うところ。

 こじんまりとしているけれど必要なものはそろっているし、ちょっと高い筆記具なんかも少しだけ置いてある。

 買える金額ではないので眺めるだけになるけれど、それでも十分だった。

 言ってしまえば、僕のお気に入り、だったりする。


 今日も、結良が必要なものを買っている間に、ふらふらと吸い寄せられるように該当のコーナーへ足が向かってしまう。

 ふっと、僕の視線はとあるものに惹きつけられた。


 それは、ちょうど先ほど教室の窓から見えていた夕陽をそのまま閉じ込めたかのような色の、インクだった。


 ほうっと息を吐いて見惚れてしまう。


 ああ、これだ、と思った。

 思わず手を伸ばしかけて、横に置いてある値札が目に入り、固まる。

 流石に高校生のお小遣いでは厳しい金額だった。

 代わりに、目に焼き付けるように眺める。


「お待たせー。わぁ……」


 声に振り向くと、目をキラキラと輝かせた結良がじっとそのインクを見ていた。


「僕、このインクについて書こうかな」


 ぽつりと言えば、結良は目を輝かせたままこちらを見てうなずいた。


「いいと思う。だって、綺麗だし」

「だね、綺麗」


 結良の色だ。

 そう、頭の中でつぶやく。

 ああ、そうだ、確かに結良の色だ。

 僕は絵を描くのは苦手だけれど、結良を描くことがもしもあれば、このインクを使うだろう。

 そう思うと、途端にこのインクが欲しくて欲しくてたまらなくなる。

 でもきっと、このインクを買うのにふさわしい人がいて、僕はその人ではないのだろう。

 バイトをしていたら買えたかもしれないけれど、僕の高校はバイト禁止だ。


 横を向けば、結良はまた、目を輝かせてインクを見つめている。

 インクを見れば、ガラスの容器に僕たちがうっすらと映っていた。


 ああ、なんてアンバランスなんだろう。


 結良は少し身をかがめてインクを見ているのに対して、僕は膝を曲げることなく見ることができている。

 顔だって特別整っているわけではないし、スタイルも、まあ、なんだろう、普通だ。


 このインクをあきらめざるを得ないのと同じように、僕はいつか結良の隣にはいられなくなるんだろう。

 なんとなくだけどそんな気がして、僕はキュッと胸を締め付けられるような心地がした。

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夕陽色の君 奔埜しおり @bookmarkhonno

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