chapter 2

 路地に顔を出した銀二は、目の前に広がる光景に息を呑んだ。目の前で地面が壮絶に割れ、その上に石像の内臓だけが転がっている。銀二にはそれがどうしてか、大勢の焼死体よりショッキングな光景に見えた。

 肩を落としながら路地に視線を移すと、今度はあまりに普通の人間が見えて拍子抜けしてしまった。

 走って通り過ぎていった一人が見えなくなると、そこから銀二の前に姿を見せる者はいなかった。

 そこまで危険ではなさそうだ、おそらく見られても問題ない。躊躇いつつ、外に出ようと足を踏み出す。

 その瞬間、音もなく、万力のような強さで、背後から喉を掴まれた。

 感覚で分かる、逃げるべき相手だと。反射的に体重の全てを前にかけ、爪に首の皮膚を裂かれながらも抜け出した。

 振り向いちゃダメだ、逃げないと。本能でそう感じてすぐに地面を蹴る。

「あ?」

 逃走虚しく、すぐ腕を掴んでくる。振りほどこうと後ろ足を突き出すも躱され、バランスを崩した。

「誰だ貴様」低くも力強い声がする。銀二は観念して膝で立ち、振り向いた。

 そこにいた男は先程見た通行人とは大きく違っていた。パーマの髪が中央で白と黒に分かれており、筋骨隆々。なにかの制服を着ており、目元は思いのほか穏やか。それは銀二が何度も見た魔人の特徴と完璧に一致していた。

「死に損ないの顔だな」

 そうだ、ちょうど死に損ないなんだ。

「助けて、ください」銀二は震える声でいった。「殺さないでください。私はここに迷い込んできただけです。ここはどこですか」

「ハッ!こなれてる」魔人の男は口角を上げて腕を掴んできた。銀二が顔をしかめるのにも構わず、強引に立ち上がらせる。

「どうやらトーシロではないな。この辺りに二度と顔を出さないというのなら――」

「むりです」鼻血で詰まる喉から声を絞り出した。

「じゃあ野垂れ死ぬんだな、かわいそうに」

「えっ」

 なんと男はすぐに手を離し、肩をすくめて歩き出した。

「待っ――」

 呼び止めようとしたが、今度こそ殺されるかもしれないと口をつぐんだ。

 男の背中はみるみるうちに小さくなる。途方に暮れるとはまさにこの事かと辺りを見回してみるが、驚くほどに音もない。

 前を向き直ると、男の姿は消えていた。代わりに一面が青白く光り、ほぼ同時に後方で雷鳴が轟いた。

 飛び上がって振り向くと、雨が無いからか、建物がパチパチと燃え始めていた。顔についた血を拭い、銀二は走り出した。

「クッソ、結局アイツを追えってか」

 足が痛み、鼻血が胸元まで到達した頃、先程の男の背中が見えた。

 すると男は異様に早くこちらに気付いて振り返り、こんなことをいった。

「もっと速く走れ!」

 言葉の圧にぞっとして後ろを振り向くと、その瞬間に眼前のビルに落雷し爆発が起こった。

 背中に激痛が走り、銀二は前方に吹き飛ばされた。そのまま男の足元まで滑り、受け身を取った手の皮はほとんど剥がれた。

「ほらほら、言わんこっちゃない」男は肩を揺らして笑い、またも強引に銀二を立たせた。「さて、アンタみたいな人間がなんでここにいる?」

「ここは、どこですか」自分でも驚くほどに掠れた声だった。

「魔国、第六ストリートだ。思ったより乙な場所だろう?アジア人」

 そうか、魔国。魔人の国。一番来ちゃいけない場所な気がする。

「私は、漂流して、気付いたらここに。魔国に来たこともありません。だから助けが必要なんです」

 できる限り弱々しく言ってみると、効果があったらしく、男は驚いた顔をした。

「え、マジか、かわいそうだな!いつものホームレスだと思ってた」食い気味に銀二の肩を揺すってくる。「さっきの死体も見たろ、ここは危ない。とりあえずその傷治しに行くぞ!首絞めて悪いな!」

 殺人者とでも思っていたが、どうやら違うらしい。悪そうではない人だ。よかった。

 首を垂らしつつ上を見ると、何重にも連なっていた雲が徐々に晴れ、痺れるような日光が差し込んできた。辺りにも、まばらに人影が見え始める。

「君、歩けるか?」

 男の問いに、銀二は無理矢理な笑みを見せた。

「助けてくれるんですか?私は、生き残れるならどこにでも」

 それを聞いた男はおかしそうに笑った。

「いや、わかった。大層だが、あまり無理はするなよ」

 その言葉と同時に、銀二は猫のように首筋をつまみ上げられた。

「ほい」

 目を丸くした銀二に構うこともなく、男はもう片方の手で指を鳴らした。

 次の瞬間、木のような何かが足にぶつかり、視界が大きく揺れる。

 おずおずと視線を下げると、自分と目の前の男が、白い羽毛に跨っているのが見えた。その白い鷹のような鳥は、道路を占拠するほどに大きかった。

「詫びに空から運んでやろう」

「っ、何者ですか」率直な感想が出た。今まで見てきた魔法というのはせいぜい火起こしくらいのものだったから、この男はものが違う。殺されなくてよかったと思う。

 一方の男は鷹を撫でつつも、少し不機嫌そうに首を傾けた。

「話はまだだ」彼がそういうと、鷹も同調するように翼を大きく振った。するとそのまま歩き出して、今にも飛びますよと言わんばかりに背中を揺らし始めた。

「強く掴まっていろ。落とされても、拾うから大丈夫だ」

 男の言葉に急に不安になったが、その時には既に飛び立っていた。スピードが無くても飛べるらしく、案外怖くもなかった。満身創痍でアドレナリンが出ているだけかもしれないが。

 地平線が見える高さまで来ると、男はおもむろにこちらを振り向いてきた。

「君、名前はなんだ」

「銀二です。日本語で灰河銀二」

「ふぅん、日本人か。俺はジーヴィスというものだ。銀二、保険証券とか持ってるか?」

「あるわけないでしょう。無一文です」

 そう返すと、ジーヴィスは低い声で笑った。

「いろいろ事情がありそうだな。深くは聞かないが、帰るならまともな手続きをしたほうがいい」

 言われてみると、確かに現実的に生き残るならどこかに無償で保護してもらう必要がある。

「どうすべきでしょうか」

 漠然と訊いてみると、ジーヴィスは僅かな間をあけてこういった。

「保護できるかどうかは適切な相手にかけあってみよう。どうしたいかは自分で考えな」

「っ、ありがとうございます!」

「とはいえ今は考え込まずゆっくりしていろ。その傷で誤魔化しは効かない」

 そのとおりまだ全身が痛い。ほぼあんたのせいですけどねと言いたいのをこらえ、もう一度頭を下げた。



 てっきり病院にいくものだと思っていたが、連れてこられたのは都会の中心にそびえる、誰のものとも知れぬ城だった。魔国ではこれが普通なのだろうか。

 ジーヴィス曰く「誰でも魔法で治療できるから病院はほとんどない」らしい。

「じゃああなたが治してくれてもよかったんじゃ」

「いや、治すってか傷を肩代わりすることしかできないから、それを分散するために大人数でやるのが普通。さすがに俺でも今の銀二の状態になったらたまったもんじゃねえよ」

「なるほど、すいません」

 実際に城内に入ってみたが、いきなり三桁近い数の魔人のおばさんが集まってきたあたりから記憶がない。記憶を消されたか疑うくらいで、気付いた時には食べられそうな程柔らかいソファに座らされていた。

「うぅ」起き上がってみると、全身の傷も血も無かったことのようにすっかり消えていた。場所はよくある茶一色の応接室で、向かいにジーヴィスが座っているのみだった。

「気分はどうだ」ジーヴィスはテレビのリモコンを弄りながら訊いてくる。

「良すぎて少し眠いです。気になることが一つあるんですが、これはタダで大丈夫なんですよね」

「そんな言い方をするな。出世払いだぞ」

 期待していた答えでは、なかった。見られないよう、僅かに肩を落とす。

「しかし、そうすると僕はいつ帰れるのでしょうか?いや、家族に会えればそれでいいんですけど」

「さあ?君次第だ」ジーヴィスは肩をすくめた。

 そんな話をしているさなか、どこかではっきりとした銃声が鳴った。銀二は飛び上がり、隣でジーヴィスは身構えている。

 緊張の一瞬だった。

 しかし二発目が響いた時、それがテレビから出た音だとわかり、あんぐりと口を開け間抜けな顔をしてしまった。

「なんだあ、この野郎」ジーヴィスも舌を打った。

 どんな番組かひと目見てやろうと覗き込んでみると、どうやら昨日のニュースらしい。少なくともここではないにしろ、世界のどこかは物騒なものだ。

 続いては核実験で被害者が出たニュースだった。

「拳銃のあとはこれかよ。ていうかまたやってんのか、コレに何億ドルかけたってんだよ」ジーヴィスが大声で割り込んできた。銀二は頷き、画面を睨むのと交互に彼の呆れ顔を一瞥した。

 久しくニュースなど見ていなかったが、結局悲惨な映像を見せられるだけだ。忘れようと首を振り、リモコンに手を伸ばす。

 と、素早く伸びてきた手に阻止された。顔を上げると、ジーヴィスが眉を曲げてテレビを凝視していた。

「あれ、君か?」

 画面にはたしかに、銀二と瓜二つのある半裸の男が血まみれになって搬送される姿が映っていた。

 しばらく、銀二は息が出来なかった。それから体が熱くなって、視界までぼやけてくる。

 映像は一瞬で切り替わってしまったが、もはや間違えようがなかった。

「はじ、め?」その名前を声に出せたかもわからないほどに、胸を殴る鼓動がうるさかった。

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