episode 1

 三雷は柵を握って波を耐え忍ぶことしか出来なかった。そして落ち着いた水面が見えた時、そこに在ってくれと願った銀二の影はなかった。

「銀二!」身を乗り出し、がむしゃらに叫ぶ。黒い海の中でその声は反響することさえなかった。

 喉がそろそろ痛くなってきて、もう何もできる事が無い。三雷は地面に崩れ落ちた。

「なんなんだよこのっ」

 ――気付けば、セラと船長が後ろで亡霊のように立っていた。

「何があったん?銀二に」セラがおもむろに、確かめるように訊いてくる。

「波に攫われて見失った。捜す手段を、なにか」

 声を絞り出すと、船長が歯を軋ませたのが分かった。

「大声を聞いてすぐに船を動かしたが、あいつの姿はどこにも……。申し訳ない、まだ見つかるはずだから」

「すぐ見つけましょう!」セラと口が揃った。

 船長は汗の浮いた顔を背け、階段へと先導する。

 なぜだか今日の海は異様に冷えていた。手早く引き上げないと冗談抜きで命が危ない。少なくともまだ、銀二の体力なら溺れてはいないはずだ。

 窓を一瞥すると、いつの間にか水面は波の気配すら消していた。まるで蒸発を待つ水溜まりのように。

 息も荒いまま階段を駆け上がると、一気に視界が薄暗くなる。そこでは既に船長がモニターの前で腕を組んでいた。

「もし」セラが珍しく高い声を出す。「もし見つからなくても、戻ってくるから」

「何言ってんだ」三雷は溜め息を返した。

 セラは少し心配が変な方向にいく癖がある。俺じゃなく銀二の身を案じて欲しいものだと、ポケットからはみ出たペットボトルを握りしめた。

 身を乗り出して海を凝視しても、兄の姿は見えない。

 そのまま刻々と時間だけが過ぎ、波立つ様子も見えないまま冷や汗が増えていった。焦りが募り、地平線まで同じ色が続いていることにさえ憤りを覚えた。

「本当にこっちに流されてるんですか」耐えかねたセラが不安げに問いかける。

「波を見るに、そうに違いないんだが。別の方角に行くと見失うのが怖い」船長の声も低く震えていた。

 息を吸う音がやたら耳にさわる。きっと二人も自分と同じように、心底ではもう遅いんじゃないかと思っているんだろう。

「あいつはなんで泳いで来ないの?本当にまずいって」

 セラがそう言っているのを聞いて、いやな予感がした。銀二が間違いなく気絶しているということなのだから。

「まさかこんな事になるかよ、くそっ。ああ、一を、起こしてくるか」三雷は誰にともなく呟いた。

 そのとき、後ろで威勢のいい音がして誰かが階段を上ってきた。

「あ、一!」またセラと口が揃う。

「噂をすれば――俺が差す」一は寝ぼけた様子で、しかし素早く隣まで歩いてきた。

「む、兄弟の危機を察知した。俺になにかできる事はあるか」

 どうやって察知したのかは今聞くことではない。

「銀二を探して欲しい、海の中だ」

「は!?かなりヤバいな!」長いまつ毛に覆われた一の目が丸くなる。「……でも、どうやって探せばいいんだ?」

「それを今、考えてて――」

「そんな暇ないだろ」一はきっぱりと言ってくる。

 三雷は海面と一の瞳を交互に見た。一は大きく息を吸い、次に海に向かって叫んだ。

「今から行くぞ!どこだ銀二!」

 耳を塞ぎたくなる大声と共に、一は窓に向かって走る。まさか飛び込むつもりか。

「ちょっと一、冷静に――」抑え込もうとした、その時。

「お前もついてくるんだよ!」一は突然進路を変え、三雷の腹を抱きかかえてまた窓へ突っ込んだ。

「おい!やめろって!」

 もがいたが一は減速しない。セラがぽかんと口を開けたのが最後に見えて、三雷は外へ放り出された。

 一が腕を伸ばして華麗に着水する傍らで、三雷は腹から海面に叩きつけられて呻いた。その後すぐ塩水が鼻に入ってきて、喉が潰れるほど咳込んだ。

「鼻うがいしてる場合じゃないぞ」一は上着を脱いで波の方向へ泳いでいく。その背中に覚えた怒りで一瞬、銀二のことさえ頭から無くなった。

「あとで、あとで覚えてろよ!絶対にだ!」三雷は苛立ちのままに顔を水中へと突っ込んだ。


 捜索は日が昇るまで続いた。結局なにも見つかることは無く、二人は船に上がるなりシャワーを浴び、泥酔したように寝込んだ。

「絶対風邪引いてるよこれ」震える肩に被さったタオルを握りしめる。寝返りを打って一のほうを見ると、半泣きになりながら鼻をすすっていた。

「銀二ぃ……どうなっちまうんだよ」

 あれだけ叫んで探して見つからなかったのだ、流石の一も悔しいだろう。兄にこそそう思ったが、三雷自身にそこまでの悔恨は無かった。

 自分でそれに気付いて頭をひねった時、一がちょうど口を開く。

「三雷、ごめんて。俺だいぶおかしかったな。でも、俺に言わせればあそこでうだうだしてんのは一番ダメだぞ。旅じゃないけど、こういうのは道連れじゃないと後悔する」

「確かに巻き込まれてなんというか、心残りは減ったかもしれないけど……。問題はそこじゃないよな?な?」

 一は何も言わず更に顔を逸らした。

 三雷はひとり溜め息を漏らしてから、それなりの強さで唇を噛んだ。

 四人じゃなくなるのはいつぶりだろうか、そんな温いことを考えているうちに永遠に四人じゃなくなってしまうのではなかろうか。不安で息が荒くなり続ける。

 暫く寝れなそうだ。そう思った時、寝室のドアが開く音がした。

「具合はどうだ」素っ気ない様子で船長が入ってくる。

 彼は少しそわそわした様子で椅子に腰掛け、床の模様に向けるその視線を段々と上げた。

「お前達の次男がまだ生きていることに賭けて、進路を変える。最寄りの島に上陸することにした。他のみんなも承諾してくれそうだ」

「おお、ありがたい」一が僅かに起き上がる。

「こんな俺達の都合で、しかも絶対生きてるとは限らないのに……ありがとうございます」三雷も大きく息を吐いた。

 すると船長は意外そうに喉を鳴らした。

「いつもお前達が言ってるんじゃないか、何事よりも信念だってな」

 三雷は微笑み、大きく頷いた。そうだ。

「強さよりも優しさ、優しさよりも信念。最近はあんま言ってないけど、俺らのモットーなんでね」


 一行が向かうことになったのは、名前を聞いても分からないような島国だった。狭い場所なら人探しはすぐに終わるはずだ、もたもたしている暇はない。

「……本当に海は広いな」海岸が見えてくると、一がしきりに呟いていた。しばらく海をふらついた経験から分かったことだが、失くした物が戻ってくることは本当にない。というより、端から期待して取り戻そうなどと思う事もできなかった。でも今回ばかりは違うのだ。

 気合いを入れて捜索したものの、残念なことにその島では言葉が通じず、手分けしても何も収穫はなかった。三人は日が沈んだ頃に疲れ果てて船に戻った。

「次はどこを捜しますか」船長にどうだったかと訊かれるなり、一はそう答えた。せめて言葉の通じる場所に行きたいと三雷は言ったが、可能性がある所は全て回ると二人に一蹴された。

 その日の夜、銀二のスマホに電話をかけてみた。しかしすぐ、寝室で着信音が鳴っている事に気付いた。

 音信不通。生死不明。こんな事があっていいものか。

 途方に暮れていると、空席となった銀二の机に一枚の紙が置いてあることに気付いた。

 手に取ろうとした時、ちょうど一が部屋に入ってくる。

「なんだそれ」

「なんだろうな。まだ読んでないけど」

 そこには自分の字と見間違うような鋭い字が書かれていた。

 しかしそもそも、文字が見たこともないような形をしている。

「なんだ、何語だ?これ。でも、どっかでみたことあるな……」

「アレだ、腕時計の裏に書いてあったやつだ」

 言われてみれば、そうだ。どうしてこんなことをメモしているのか分からないが、銀二にとってどれほどアレが大切かくらいはわかる。

「これで無くなっちまったな、父さんの形見も」一が惜しそうに言った。「今頃日本じゃ俺達の家があった所も更地だろう。くそがよ」

 一にしては珍しい暴言だ。

「なにか気に障ることがあったか」

 一は小さく頷いた。

「次に銀二を捜しに行く場所だが、正直行かなくてもいいんじゃないかと思う。なにせあのアラジア共和国だ」

 出てきたのは、世界で最も新しい国の名前だ。

「どうにか通らずに行きたいもんだが、流石に無理か?」

「流石にな」一は顎を撫でてそういった。

 セラは二人の話を興味なさげに聞いていたが、やがてやれやれと首を振った。

「アンタら、何の話か分からないけど……グダグダしてて楽しい?」

「知らないのか?アラジアにまつわる数々の黒い噂、そん中でも酷い話だ」

 三雷はセラに言って聞かせた。帝国を実質的に支配している団体が、薬物を使った犯罪に手を染めているというものだ。

「犯罪の詳細はどうでもいいが、そういう国にはセラも行きたかないだろ」

 怪談でもするように手首をぶらつかせて言ったものの、セラから返ってきたのは鼻先から出た笑いだった。

「どこ情報なの。相変わらずしょうもないことにビクビクして、水槽のエビかっての。さっさと行くよ」

 三雷は渋い顔で一と顔を合わせた。


 翌日の夜、いつの間にか机に突っ伏して寝落ちしていた三雷は、船長の野太い声で強制的に起こされた。

「アラジアが見えてきたぞ。用意はできてるのか」

 飛び起きて、足が角にぶつかるのも構わず階段を駆け上がった。

 そのまま甲板へ出る。目の先に広がる陸地を見て、三雷は身を乗り出した。

「シンガポールに行ったときを思い出すな。金かけて作られたものが一番目につくんだ」

 日が完全に沈んだ後にも関わらず、目を覆いたくなる光が建物の隙間に充満している。海面に反射した蛍光色で港が見辛いことこの上ない。

 陸に上がった先では、首を限界まで傾けても天辺が見えないようなビルが目の前にそびえている。痛んだうなじを撫でながら海岸を後にし、船長が案内するビルへ一行で向かった。

「あそこの最上階近くまでいけばアポを取れた彼が見つけてくれるはずだ。早めに終わらせるぞ」

 「はあい。こんな所に長くいたらそのうち目が焦げちゃうね」セラは軽い調子で進んでいった。

 室内の広大なロビーには、率直に言ってしまえば場にそぐわないような身なりの人が大勢いた。

「彼らも同じような境遇だ。難民まがいの、しかしまだ経済的に余裕がある人達だろう。そういうのに手続きを施しているようだ」

 少し立ち寄るような気分では入れない国にいるようだ。さっさと調査して戻ろう。

 足を速めた矢先、前を歩いていたセラが中肉中背の男に肩を叩かれた。

「なに!」セラが足踏みしながら止まる。早く前に行かせろといわんばかりの態度に男は尻込みするかと思ったが、どうやら思いのほか重大な話らしい。

 男は船長にも視線を向けると、どうにか聞こえる程度の小声で絞ったような声を出した。

「おたくら、ここに来る人間が時折り謎の失踪をしているのを知っているか」

「なんですかアナタ」

 セラは怪訝と心配の混ざった表情で見つめ返した。

 男はもう一度辺りを見回すと、ぎこちなく後ずさりながらぶつぶつと続けた。

「とにかく、おたくらは危ない。よほど大きな用じゃないなら帰ることを勧める」

 ずいぶん親切みたいだが、生憎信じる理由が少ない。三雷は頭を掻いて、男を押し戻そうとする。

 セラはそれを止めて、天井と男を見比べた。

「ずいぶん親切みたいですけど、生憎帰れはしないもので。すみませんね」言い切ると、三雷の手を引いて歩き出した。

「いちおう頭の片隅にはおいとかないとだけど。ああいう人は逆に危なそう」セラは半笑いのまま、階段へ向かった。

「セラ、もう離していいぞ……。それよりあの男、少し違和感があったと思うんだが」

「えぇ?どういうこと?」

「演技してる感じ、だろ?三雷」

 口を開きかけたところに、一が割って入ってきた。

「セラはマジでそういうの鈍いよな、用心深くて助かったと思えよ」

「ちょ、具体的にどのへんが演技なの、調子乗んな」セラが食ってかかる。血気があるのは、ここではいいことではない。

 三雷がなだめているうちに、階段の窓から見える景色は遠くなっていった。

「このあたりか」何階にいるのか分からなくなってきた頃、船長が足を止めた。

 目を細めると、ガラスの向こうに、こちらへ近づいてくる小さな人影があった。

 目の前まで来ると、その女性はまず船長と軽く握手してから周囲を見回した。

「お初にお目にかかります。案内をさせて頂く、脩という者です」

「よろしく」

 一が呟くように言う。

「名前は伺いました。灰河さん、今回はどういったご用件で」

「人探しです。俺達とそっくりなんで、いる場所に行けばすぐに見つかるはずだ」

 そう言うと、少し間があったものの脩は微笑んだ。

「なるほどです。では、適した役所をご案内致しましょう。ですが今日はもう遅いですし、宿を」

 低身長ながら頼もしい女性だ。セラを一瞥してから、三雷は真っ先に脩の後ろをついていった。

「どんくらい払ったんですか、船長」こっそりと訊いてみると、後ろの船長から返ってきた金額に三雷は溜め息をついた。

 神社でもそうないような階段を、今度は下り始める。先程の男を見たロビーまで戻るのに、時間は案外かからなかった。

 しかし。

「あいつ、暇としか思えなかったのにもう見当たらねえな」一が囁いてくる。あの男だけではない、停滞していたはずの客人たちが、全く見たことのない面々に入れ替わっていた。どこかに連行されたように。

 そんな違和感について脩は知る由もないだろう、すぐにドアの向こうにあるネオンサインを指差した。

「あちらの建物です」

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