波瑠乃は脇目もふらず、ひたすら全力で仄暗い公園の通路を駆け抜けた。

 もしまた噴水広場に辿り着いてしまったら、あの銅像に捕まり、首を引きちぎられ、ばりばりと音を立てて頭部を丸かじりにされてしまうのだろう。たとえ広場に舞い戻らずとも、背後から血まみれの手が掴みかかってくるのではないか。そんな風に考えてしまい、頭がどうにかなりそうだった。

 やがて前方に見えてきたのは鉄格子のついた扉だった。

――入口だ! 外に出られる!

波瑠乃は内心で叫びながら、スピードを落とさず足を動かし続けた。距離が近づくにつれて門扉がゆっくりと開き始めた。そこから漏れる外灯の明かりの中、浮かび上がるのは一つの影。一足先に脱出した淳史の姿をそこに思い描き、波瑠乃はほとんど飛びつくような格好でその人影にぶつかっていった。

 最初に感じたのは、弾力のある柔らかな感触、そのすぐ後に地面にしたたか身体をぶつけ波瑠乃は激しく転倒した。

「いたたたたぁ……まったく、なんなんだよいったい……」

 淳史のものとは違う野太い声。顔を上げると、しりもちをついた夜警のおじさんが薄くなった後頭部を押さえ、悲痛に呻いていた。

「おい君、危ないじゃないか。どういうつもりなんだね」

 おじさんはうつぶせに倒れ込んだ私を案じる素振りも見せず立ち上がると、腰に手を当てこれでもかとばかりに眉を吊り上げた。

「あ、あの……」

 質問に答える余裕はなかった。波瑠乃は痛む頭を押さえながら周囲を見渡し、ここが公園の外であることを確認する。

「出られた……のね……」

 数時間ぶりに見る景色がとても懐かしく感じられた。思わず目頭が熱くなる。そのままおいおいとむせび泣く波瑠乃を気味の悪いものでも見るような目で見下ろし、警備員のおじさんはあきれ果てた様子で嘆息した。

「さっきの兄ちゃんと同じで、あんたも肝試しか何かのために忍び込んだんだろう。ダメじゃないか、勝手に出入りしちゃ。まったく、いくら追い払ってもあんたらみたいな連中、絶対にいなくならないんだよねぇ。そんなに暇なのかい、えぇ? 見たところまだ子供じゃないか。学生なら学生らしく、ちゃんと勉強してりゃいいのにね」

 おじさんの愚痴めいた小言を小さくなってやり過ごしつつ、波瑠乃は園内で起きたことを説明しようとするのだが、思うように言葉が出てこない。

「あの……中で友達が……噴水広場の……銅像に……」

 自分でももどかしくなるくらいの調子で、途切れがちに単語を羅列する波瑠乃に対し、おじさんは更にうんざりした様子で眉間に皺を集め、鬼瓦のような顔をしかめた。

「銅像? あの気味の悪い像のことかね。全く、何が楽しくて見に来るんだ。あんな首無しの銅像をさ」

「首無し……?」

 徐々にほぐれかけていた緊張が再び波瑠乃を縛り付け、見る間に表情を歪ませていった。

「ああ、そうだよ。何年も前に、馬鹿な連中が悪戯して壊したきり直されないままなんだよ。この美術館もじきに閉館だから、かわいそうだけどこの先も修理なんてされないだろうねぇ。首無しの女神さんの銅像がある公園なんて聞いたことないよな。ああ気味が悪い」

 忌々しげに吐き捨てながら、おじさんはわざとらしい身振りで自らの肩を抱く。

「そんな……」

波瑠乃は声にならぬ呻きを漏らしながら自問する。銅像に首がない。それが本当なら、自分たちが見た銅像は? あの恐ろしい顔はいったい……?

 思わぬの方向からやってきた怖気が身体の芯にまで達し、波瑠乃は悪い病気にかかったみたいに震えだした。笑いたくなんてないのに、乾いた笑いが口の端からこぼれていく。

 白く塗りつぶされた頭の中を、不意にある会話の断片がよぎった。

 ――寂しかったんじゃあないかな。

 何故、銅像が曽根の首を引きちぎったのか、という質問に対し那々木はそう言った。首を失った銅像が五体満足な人間に嫉妬し、その首を引きちぎっているとでも言いたかったのだろうか。

 地べたに座り込んだままぼんやりと考えを巡らせていると、おじさんが「なんだ、もう一人いたのか」と忌々し気に声を荒げた。その視線の先には通用口の方からやって来たであろう那々木の姿がある。ぶつくさ文句を言い続けているおじさんを押しのけるようにして、波瑠乃は那々木の元へと駆け寄った。

「那々木さん、知ってたんですか? あの銅像の……首のこと……」」

 互いの生還を喜ぶ余裕などなかった。波瑠乃は那々木を呆然と見上げ、息も絶え絶えに問いかける。那々木は小さく息をつき、波瑠乃をまっすぐに見返して首肯した。

 彼は最初から全部知ってたのだ。もともと銅像に首がなかったことも、閉じ込められた人間にだけ首があるように見えていたことも。銅像に対し危害を加えようとすると首を引きちぎられて殺されることも。そしておそらく脱出方法に至るまで。何もかも事前に調査し、把握したうえでここへやって来ていた。

「どうして教えてくれなかったんですか? 脱出できなくて困ってる私たちを見て楽しんでいたんですか?」

 語気を強めて問い質す。すると那々木は心外だとでも言いたげに首を横に振った。

「どうして、なんて言いたいのは私の方だ。君の方こそ、どうして何も知らなかった? この公園にまつわる都市伝説を聞いたからやってきたんじゃないのか?」

「――そうですよ」

 そのはずである。断言できなかったのは、かすかに胸に引っかかっている違和感のせいだった。

「だったら事前に情報を仕入れていたはずだ。怪異の起源や脱出方法に至るまで、この公園にまつわる都市伝説では、きちんと語られているんだから――」

「ま、待って。意味が分かりません。謎かけのつもりですか? あなたは何を言ってるの?」

 波瑠乃は半ば叫ぶような口調で那々木の言葉を遮った。胸中に渦巻く違和感は増しているのに、輪郭すらつかめぬことがもどかしく、心が落ち着かなかい。そんな波瑠乃の心中になど頓着せず、那々木は軽く咳払いをして、どこか誇らしげに言い放った。

「そもそも都市伝説というものは、ある程度の救済措置が同時に語られるように構成されている。それは人から人へ伝播する噂話でありながら、ある種のリアリティを付与すると同時に、強い信憑性を与えるためでもある。例えるなら、『この話を聞いた夜に○○の夢を見る』というようなパターンの怪談があるだろう。あれは話を聞いた人間の元に、実際に怪異がやって来るという危機感をあおると同時に、対抗策を提示することで『来なかったのは自分がおまじないを実践したからだ』という安心感を与えるためでもある。逆に言えば『怪異と遭遇してもいないのに、噂を信じてしまう動機付け』を与えるためでもあるんだよ。まったくもって、よくできたシステムだろう?」

 ――どうしよう。この人の言うことがよくわからない。

 波瑠乃の困惑になど気づきもせず、那々木は意気揚々と先を続ける。

「つまりは解決方法とセットで語ることで、怪異と遭遇しなくてもその存在を信じさせることが出来るシステムを構築しているということさ。この公園の話にしても同様だった。『公園に入り、本来首がないはずの銅像に首があったら、その人物は二度と公園から出られない。ただし、複数人で二手に分かれて出口を目指せば出られる。もし、銅像に危害を加えようとしたら、その人物は銅像に首を引き抜かれてしまう』というのが、私が耳にした都市伝説だ。これは裏を返せば一人で侵入する分には問題がない。あるいは銅像の首がなくなったままならば問題がないということになるわけだ。君はそのことを聞いていなかったのか?」

「聞いてない。聞いてないわ。ただ、この公園に入ったら出られなくなることがあるって、それだけ……」

 そこまで言ってから、波瑠乃はようやくある事実に思い至った。那々木もまたこちらの事情を察知したかのように、意味深な表情を浮かべている。

「つまり君たちに都市伝説の詳細を伏せたままで、ここに誘導した人間がいるということだな。その人物は銅像についても脱出方法についても君たちに語らなかった。ただ一人を除いて……」

 那々木の視線がすっと脇に逸れた。その先には管理人小屋の傍らで縁石に腰かける淳史と、その隣で彼の背中を優しくさすっている里子の姿があった。淳史は膝を抱えて頭を伏せ、ここからでもわかるくらい、がたがたと小刻みに身体を震わせている。波瑠乃や那々木が脱出してきたことにも気が付いていないようだった。

 無事でいてくれたことを安堵する一方で、徐々にあらわになっていく違和感の正体が、波瑠乃を戦慄させていた。

 なぜ、波瑠乃や曽根が知らなかった脱出方法を、淳史だけが知っていたのか?

 淳史の身体に覆いかぶさるようにして里子が彼を抱きしめた。普段ならその姿に嫉妬めいた感情を抱くはずだが、今はそんな気持ちなど一ミリも湧いては来なかった。

 里子の視線がこちらを向く。その瞬間、里子は信じられない程冷徹で鋭い眼差しを見せた。淳史の頭を抱え込むようにして胸元に引き寄せながら、恍惚的な笑みを口元に刻む。

 都市伝説を語り、この場所へ来るよう提案したのは里子だった。淳史ひとりに脱出方法を事前に知らせたうえで、自らは外野から高みの見物を決め込んだのだ。

 いったい何のために……? 

 何が目的でそんなことを……?

 その答えに行き着いた時、風船の空気が抜けていくみたいに、波瑠乃の身体から力が抜けていった。そんな波瑠乃の様子を凝視していた里子はたった一言、何かを呟く。

 距離があるために声は聞こえない。だが口の動きだけで何を言いたいのかは理解できた。


『――残念』


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那々木悠志郎の怪異譚蒐集〈異聞〉 嗤う銅像 阿泉来堂 @azumiraidou

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