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血濡れた銅像の腕、その指先から滴り落ちる血の雫が濁った水面に赤い花を咲かせている。その光景を呆然と見据えながら、波瑠乃は
「なんだよこれ。どうして曽根が……こんな……」
淳史が今にも泣き出しそうな声で呟いた。波瑠乃自身、今すぐ淳史の胸に飛び込んで思い切り泣きじゃくりたかったけれど、今の彼にそんな余裕は無さそうだった。
「どこかの誰かが君たちの友人を殺し、その血を銅像に塗りたくったのでなければ、この像が彼を殺害したということになるな。問題は何故彼が銅像に殺されたのかということだ」
那々木が自らに問うような口調で言った。
「そんなの決まってるじゃないですか。曽根がこの像の怨みを買うようなことしたからですよ」
何を今さら、とばかりに淳史が鼻息を荒くする。曽根が銅像に向かって煙草を投げつけたことは波瑠乃の記憶にも新しかった。おそらく淳史は、曽根の無礼な態度に対し怒った銅像が曽根の首を引きちぎったと思っているらしい。
それは突飛な想像であると言えたが、同時に自分たちが、そう思ってしまってもおかしくないような状況に置かれているという事実が、奇妙な説得力となって、淳史の説を後押ししてもいた。
「早く逃げないと……出口に向かいましょう!」
淳史は波瑠乃や那々木の返事を待たずに駆け出し、通用口に至る東側の通路へと向かった。ところが、細く暗い通路を抜けて辿り着いたのは曽根の亡骸が横たわる噴水広場。ついさっき、確かに見つけたはずの通用口、あるいはそこへと至る道はすっかり消え失せてしまっていた。
「どうして……? さっきは確かに通用口を見つけたのに」
「ふむ、やはりあの銅像が何かしらの影響力を持って我々に干渉してきている。そう考えざるを得ないようだな。そうでなければ、この状況の説明がつかない」
やけに冷静な那々木の口調が、はやる気持ちを逆なでする。そもそもどうしてこの人はこんなに冷静でいられるのだろう。曽根の死体を前にしても少しも動じる素振りすら見せず、さも当然のように傷口の状態を観察していた。よほどこういう状況に慣れているという事なのか。あるいはこの状況を楽しんですらいるのかもしれない。
波瑠乃はそんな漠然とした疑惑のようなものを感じ、この得体の知れないホラー作家に対する不信感を深めた。
「さっきの、銅像が消えてしまった現象だが――」
波瑠乃の心中をよそに、那々木は勝手に話を進めていく。
「銅像が視界から消えた直後、我々は通用口に辿り着いた。その直後に曽根くんの悲鳴がして彼が襲われた。これは言い換えるなら、彼を襲うために銅像が我々から目を離したという解釈ができるのではないだろうか」
「私たちを、見失ったってことですか?」
波瑠乃が問い返す。こくりと肯いた那々木へと、今度は淳史が身を乗り出した。
「そうか。そういうことか。この公園からの脱出方法が関係しているということですね」
「脱出方法ってどういうこと? そんな話、私は聞いてないよ」
「嘘だろ? 忘れたのか?」
淳史は怪訝そうに眉根を寄せ、不穏な面持ちを波瑠乃に向ける。
忘れたも何も、最初からそんな話は聞いていなかった。そんなものがあるならどうしてさっさと試さないのかと問い詰めたくなる気持ちをぐっと堪え、波瑠乃は詳細を求めた。
「もしこの公園に閉じ込められてしまったら、二手に分かれて行動すればいい。そうすればどちらか一方が出口に辿り着けるっていうのが、都市伝説で語られるこの公園からの脱出方法なんだ」
「ちょっと待ってよ。たったそれだけのことで外に出られるの?」
「私が訊いたのも同じ内容だ。二手に分かれそれぞれ別の方向へ進む。すると片方が出口へたどり着ける。同じことを繰り返すことで、無事に出口に辿り着けると」
「でも、そうやって二手に分かれ続けていたら、最後に一人残ってしまうことになるわ」
それは、と口ごもった淳史に代わって、那々木が先を引き継いだ。
「心配はない。そもそもこの都市伝説には、『深夜、複数人で公園に立ち入る』という条件がある。裏を返せば複数でいない限りこの効果は発動しない。一人になってしまえば、おのずと出口に辿り着けるというわけだ。私が調べた限り、一人で公園から出られなくなったという情報はなかった」
なるほど。一人でやって来た那々木も、波瑠乃らと鉢合わせたことで『複数人で公園に立ち入る』という条件をクリアしていたということか。
「だったら、銅像の機嫌を損ねたら首を引きちぎられて死ぬなんてことも語られているんですか?」
もう一歩踏み込んで訊ねると、那々木は軽く肩をすくめ、
「さすがにそこまでは語られていないさ。だが、現実として起きてしまった以上は目の前の事実を受け入れるしかない。このまま出口に辿り着けず、ぐるぐると園内を歩き回っていても埒が明かないし、あの銅像が本格的に、なりふり構わず我々を追い回し始めるかもしれない。そうなる前に、出来ることをやるべきだと私は思う」
「俺も那々木さんの意見に賛成だ。ぐずぐずしてる時間がもったいない。二手に分かれてそれぞれ出口を探してみよう」
淳史に強く提案されてしまうと、波瑠乃としても無下には出来ない。ここでただ喚いているだけではどうにもならないということも理解できる。だが波瑠乃にはどうしても引っかかる要因があるのだった。
「二手に分かれるとして、誰が一人になるの?」
おずおずと問いかけると、淳史はわずかにたじろいで言葉を詰まらせた。
ここにいる三人が二手に分かれる場合、必然的に一人で行動しなければならない者が出てくる。問題はその一人を誰にするかであった。
「――俺が一人で行くよ」
淳史は悩む素振りも見せずに立候補した。
「ちょっと待って。どうして淳史くんが?」
「誰かがやらなきゃならないだろ。まさか君を一人にするわけにもいかないし」
ああ、なんて紳士な発言だろう。こんな状況にもかかわらず自分を気遣ってくれる淳史の優しさに、波瑠乃は思わず飛び上がりそうになった。胸が高鳴り、頬が熱くなる。普段は少しだけ頼りない印象を受ける淳史だからこそ、こういう場面で見せる男らしさがたまらなく格好良かった。そして、だからこそ淳史を一人で行かせることに同意する気にもなれなかった。
「私だって淳史くんを一人になんてさせられないよ。だから、ここは那々木さんに一人で行ってもらうことにしない?」
「……なんだって?」
それまで黙り込んでいた那々木が怪訝そうに眉を寄せ、不満げに聞き返した。
「なぜ私が一人で行かなくてはならないんだ?」
「だって、那々木さんはホラー作家なんでしょう? 怪異譚蒐集家なんでしょう? だったら、ちょっとくらい危険な目に遭っても大丈夫ですよね」
「いや、その理屈には首を傾げざるを得ない。私だって危険な目に遭うのはごめんだ。それに彼は自ら名乗り出てくれているのだから、その意志を尊重するべきじゃあないのか」
理路整然とした口調で拒否の姿勢を示す那々木に対し、波瑠乃はぶるぶると頭を振って食い下がる。
「淳史くんは仕方なく一人でいいと言ってくれてるんです。でも私は心配でたまらない。彼にもしものことがあったら、那々木さんはどう責任を取るつもりなんですか?」
何故私が責任を? などと口中に呟き、那々木はぐっと言葉を失って黙り込んだ。
「ね、そうしようよ淳史くん。もし失敗して那々木さんの身に何かがあったら、その時はその時でまた別の手を考えればいいんだし」
「ちょっと待ちたまえ。それでは私が困るじゃあないか。こう見えても私は幼いころから病弱で運動だって苦手だったんだ。ここまで背が伸びたのはもうそれ自体が奇跡みたいなもので、危険な状況を切り抜けるだけのタフさなんて皆無なんだよ。万が一、あの銅像に襲われでもしたら、ひとたまりもないだろう。そうさ、それこそ囮にすらならないはずだ」
那々木は半ば必死の形相でまくしたてた。一人にされるのがよほど嫌なのか。怪異譚蒐集家もこれでは形無しである。
「波瑠乃ちゃん、那々木さんもこう言ってるし、やっぱり俺が一人で行くよ。君は那々木さんと二人で通用口に行ってくれ」
「待って、淳史くん……」
哄笑の甲斐なく、淳史はさっさと踵を返し、二人を置いて南側の通路へと駆け出した。思わず追いかけようとしたけれど、結局は淳史の決断を邪魔することが出来ず、波瑠乃は胸を引き裂かれるような気持ちで彼の背中を見送った。
「では、我々はこちらだな」
どこかホッとした様子の那々木に八つ当たりじみた怒りを覚えつつ、波瑠乃はしぶしぶ東側の通路を進み始めた。
木の遊具が設置された広場の中間辺りに差し掛かった時、ふと視線を感じて振り返ってみると、銅像はこちらを向き赤く濡れた手を掲げていた。何度見ても気味が悪い。本当にあの銅像が動き出して曽根を襲ったのだろうかと、今更になってそんな疑問が脳裏をよぎる。
一体何のために? どうして首を引きちぎる必要があったのか? 曽根の首はどこにいってしまったのか?
答えのない問いかけを自らに繰り返しつつ、波瑠乃は湧き上がる悪寒につい身震いした。
「那々木さんは、本当にあの銅像が曽根君を襲ったんだと思いますか?」
一人で考えることが苦痛に感じられ、波瑠乃は渋々、那々木に問いかけた。
「どうかな。状況を見る限りではそれが一番可能性が高いと思うが、君は納得できていないみたいだね」
「当たり前です。そんなの信じられるわけありません。仮に信じられたとしても、理由は何なんですか? あの銅像が曽根くんを殺して首を引きちぎる動機は?」
自分で言っていておかしくなるようなセリフである。那々木は少々、面食らったように目を見開いていたが、やがて軽く咳払いをして、
「――寂しかったんじゃあないかな」
「寂しいって、銅像がですか?」
彼の言葉の意味を計りかね、波瑠乃は訝し気に問い返した。しかし那々木はその質問に答えようとはせず、ふと思い立ったような視線を波瑠乃に向け、逆に問いかけてきた。
「君は、あの銅像を作った美術家、雨宮美智雄のことを知っているかい?」
「いえ、美術の分野には詳しくなくて。那々木さんは知ってるんですか?」
「もちろんだ。この界隈の人間で彼の名を知らない者はいないよ」
言ってから、那々木は何か思い出したように訂正する。
「この界隈というのはもちろん、私のように怪異譚に興味を示す人間という意味だ。私は美術史を専攻しているわけでもないし、さほど興味も持っていない。そんな私でも雨宮美智雄の名は知っている。というのも、彼が世に送り出した作品は、どれも常識では考えられない不可解な現象を引き起こすと言われ、一部の好事家たちの間でかなりの高値で取引されているらしい」
「不可解な現象って……本当なんですか、それ?」
「あくまで噂の域を出ない情報ではあるが、今我々が陥っているこの状況に鑑みる限り、ただの噂話だと切り捨てることは出来そうにないな」
その美術家と今夜の状況とがどのように関係しているのかわからず、波瑠乃は首を傾げた。すると那々木はどこか白々しい素振りで周囲を見渡し、ある方向を指差す。つられて振り返ると、深い闇の中に溶け込むようにして、白亜の建造物がおぼろげに見て取れた。
「この土地を所有している人物は雨宮の作品の蒐集家で、美術館には彼の作品がかなりの数、保管されているらしい。また生前の雨宮とも深い親交があったようで、噴水広場にある銅像も雨宮が手掛けた作品だということだ」
それを聞いた途端、波瑠乃は得体の知れない悪寒にその身を苛まれ、皮膚の裏側が痺れるような感覚に陥った。
「それじゃあ、この現象はその雨宮という人の呪いか何かなんですか?」
「ふむ、必ずしもそうとは言い切れないな。雨宮美智雄がどんな意図をもってこの銅像を制作したのかという点については確かめようがないからね。確かなのは、彼の作品には何か不可解な、ほとんど人知を超える異様なものが宿るという事だけだ。それが彼の意志によるものなのか、それとは別の何かが彼の作品に呼び寄せられた結果なのか。本人が他界してしまった今となっては誰にも判断が出来ない」
人知を超える『何か』が宿る雨宮美智雄の作品群。
作家がその命を削って作品を書き上げるように、画家が自らの魂を絵に塗り込めるように、生前の雨宮もまた、自らの作品に魂を注ぎ込んでいたのだろう。作品へと向けられるその膨大なエネルギーが、常識では考えられない何かを呼び寄せるきっかけになったということだろうか。
なんとも荒唐無稽で、現実的とは言い難い話である。普段、波瑠乃はこういう話を真に受けたりはしない。しかし那々木の話を聞いているうち、そういうこともあるのかもしれないという気になっていた。これまでの人生で『それらしい現象』に見舞われながらも、そうしたものの存在を強固に否定し続けてきた波瑠乃の価値観は、今夜の出来事を境に完膚なきまでに打ち砕かれてしまったのだから。
話もそこそこに東側の通路を抜けた二人は、やはり噴水広場に戻ってきてしまった。もはや驚くことも忘れ、生々しい血の匂いに顔をしかめた波瑠乃と那々木を再三に渡って銅像が迎える。外灯の明かりは頼りなく、そこここに闇が凝っていた。曽根の遺体を直視しないよう意識しながら進み、周囲を見渡してみるも淳史の姿は見当たらない。何度か名前を呼んでみても返事はなく、広場にはむせ返るほどの血の匂いと無為な静寂があるだけだった。
「どうやら、我々より先に彼の方が脱出できたようだな」
そう考えていいだろう。という空気が、二人の間に流れた。
「淳史くん、無事ってことですよね。よかった。私たちも二手に分かれて脱出しましょう」
銅像にも変化はなく、淳史が襲われた形跡も見られない。それらのことに安堵した波瑠乃は、もはや一人になることに抵抗を感じなかった。それは那々木も同じだったらしく、互いにうなずき合った後で、彼はもう一度東側。波瑠乃は南側の通路に立ち、タイミングを合わせるようにして、同時に広場から出ていった。
これで外に出られる。この奇妙な現象から逃れられる。南側の通路を進みながら、波瑠乃はそう確信していた。だが一方で、糸をひくような不快感にさらされてもいた。正体の分からない気味の悪さが影のように付きまとい、どこまでも追いかけてくるような感覚。この期に及んで、恐怖する弱い心が不安を誘っているのか、それとも本当に何かが、自分の後を……。
ふと、うなじの辺りに強い視線を感じて振り返る。手を振るような格好で波瑠乃を見下ろす銅像の顔が、闇の中に浮かんでいた。さっきまでと変わらぬ光景。脱出方法が理解できた今、もはやあの銅像を必要以上に恐怖することはなくなっていた。
「那々木さん、銅像は私の方を向いています。先に脱出できるのは那々木さんの方ですね」
もうすぐこのループを抜け出すことが出来る。生きて帰ることが出来ると高潮する気分も相まって、波瑠乃は東側通路を進んでいるであろう那々木に向かって叫んだ。ところが那々木からの返事はない。公園内はさほど広くないから、声が届かないということはないはずだが。
「那々木さん? 聞こえてますか?」
「――聞こえている」
だったら早く返事してよともどかしく感じる一方で、那々木の声の調子がどこかおかしいことに気が付く。
「どうかしたんですか?」
「本当に、あの銅像は君の方を向いているのか?」
深い闇の向こうから、確かめるような声がした。
「ええ、こっちを見てますよ。今も私のことを見下ろしています」
それがどうしたというのだろうか。塗りつぶしたような闇の向こうから、返答はなかった。答えの来ない時間がひどく長く感じられ、ふつふつと肌が粟立つような感覚に襲われる。何かがおかしい。どこか異常だ。そんな気持ちが瞬く間に膨れ上がっていた。
「それはおかしいな。私の方から見ると、銅像はこっちを向いている」
やがて放たされた那々木の言葉に、波瑠乃はぞっとした。全身の血管が収縮し、指先から急速に体温が失われていく。
――銅像は那々木の方を向いている?
「……うそ、だって、確かにこっちを向いて……」
意識とは無関係に首を横に振りながら、波瑠乃はぎこちない動作で銅像を見上げた。吸い込んだ息がひゅっと音を立てる。
そこで初めて気がついた。慈悲深い笑みを浮かべていた銅像の表情が一変し、赤く血走った眼を大きく見開いた異形の顔貌がまっすぐに波瑠乃を見据えている。微笑みとは程遠い、邪悪な表情だった。
「なに……」
ほとんど言葉にならない呻き声を漏らした波瑠乃の視線の先で、女神像の口の端に生じた亀裂がミチミチと湿った音を立てて開かれていった。耳まで裂けた口からけたたましい嬌声を響かせながら、銅像はぐにゃりと笑う。大きく開かれた口の中では、不揃いの黄ばんだ臼歯の並ぶ歯茎がむき出しにされ、歯と歯の隙間には曽根のものらしき髪の毛や皮膚の断片が大量に挟まっていた。唇のない異形の口先から粘つくどす黒い血が大量に流れ出し、かみ砕かれた無数の骨片がからからと音を立てて落下していく。
絹を裂くような悲鳴が耳朶を打った。それが自分の叫び声だと気が付くより先に、波瑠乃は踵を返し、無我夢中で駆け出した。
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