無駄だとわかっていても、確かめずにはいられない。そんな焦りにも似た感情から、三人は広場の西側に位置する緑地方向から出口に向かうことにした。ダメで元々。そんな気持ちで緑地を進む足取りはひどく重かった。

 そしてその結果、三人が目にした東側の通路からの噴水広場の光景には、もはや溜息しか出て来なかった。もはや自分たちが奇怪なループに捕えられ、この公園から出られなくなったのは否定しようのない事実と受け取るしかなかった。

 そのことをわざわざ口にして確認しようともせず、波瑠乃が広場に足を踏み入れようとした矢先、曽根が何かに気付いて声を上げた。

「誰かいるぞ……」

 目を凝らして見ると、噴水の向こう側――ちょうど銅像を挟んで反対側に、一人の男の姿があった。咄嗟に警備員かと思って身構えたが、すぐに違うと思い直す。この場に似つかわしくない、整然とした佇まいの男がこちらの気配に気づき、目が合った。

「――こんばんは」

 どこか場違いにも聞こえる穏やかな声で、男は笑った。乾いた笑顔という表現がふさわしい、感情を欠落させたような表情だった。見た感じ三十代そこそこ、みようによっては二十代に見えなくもない容姿である。背が高くスマートな体形で、黒いスーツに白いシャツの対比がよく映える。やや緑がかった光沢のあるネクタイを神経質に正しながら、男は三人のいる方へと歩み寄ってきた。

「あの、こんなところで何をしてるんですか?」

 自分たちのことを棚に上げて、曽根が問いかけた。

「夜の散歩、というわけにはいかないかな」

 冗談めかした口調で肩をすくめた男は、対する三人がにこりともしないことに気づいて軽く咳払いをする。それから気を取り直したように小さく息をつき、内ポケットから何か取り出して、私たちの前にさっと差し出した。

「申し遅れたが、私はこういう者でね」

 差し出された黒地の名刺には、白い文字で『作家 那々木悠志郎』と記されていた。

「那々木……悠志郎……」

 読み上げたその名前に、波瑠乃は覚えがあった。

「もしかして、ホラー作家の?」

 名刺から視線を持ち上げて問いかけると、那々木はぱっと表情を明るくさせ、腕組みをして感慨深そうに何度も肯いた。

「おお、そうか。君は私の作品を読んだことがあるんだな?」

「ええ、一度だけ……」

 きらりと目を光らせた那々木悠志郎が、ずいと身を乗り出し、至近距離から波瑠乃の顔を覗き込む。

「ふむ、それは素晴らしい。いや、実に素晴らしいことだ。で、どうだった? ぜひ感想を聞かせてくれないか?」

「え……あ……えっと……」

 波瑠乃はつい言葉に詰まってしまう。本人を目の前にしていきなり感想を求められても、すぐには言葉が浮かばない。

「遠慮することはない。忌憚のない意見を聞かせてくれればいいんだ。これでも私はプロだからね。たとえ酷評されたとしてもそれはそれ。貴重な意見として受け止めるさ」

「はあ、あの……イマイチでしたね」

 そういうことなら、と安堵しつつ素直な意見を口にした瞬間、ぴし、と凍り付くような空気が辺りを包んだ。

「……なんだって?」

 那々木はその顔に引き攣ったような笑みを浮かべながら聞き返した。数瞬の間をおいて、波瑠乃は意を決し先を続ける。

「なんかこう、ちょっと大げさっていうか。リアリティが感じられないっていうか……」

「大げさ……リアリティが感じられない……?」

 言われたままを繰り返しながら、那々木はよろよろと後退し、噴水の縁に力なく座り込んだ。

「なんだ、今のは? 私の聴き間違いか? いま君は、私の作品が大げさだと言ったのかい? リアリティが……リアリティが感じられないと……?」

 何かの間違いではないのか。そう責め立てるような口調で、那々木は眉を吊り上げた。鬼気迫るその表情に思わずたじろいで、波瑠乃は淳史に視線で助けを求めたが、彼は困ったように頭を振るばかり。曽根に至っては、面倒な奴に出くわしたとでも言いたげに、取り出した煙草に火をつけ、忌々し気に煙を吐き出していた。

 どうやら、自分でどうにかするしかないらしい。あまりにも正直に言い過ぎたことを内心で反省し、波瑠乃は得体の知れないホラー作家のフォローを試みる。

「あ、いや、ていうかその……総合的には面白かったですよ。ほら、人間の強欲な一面が上手く描かれていたっていうか、田舎の村の因習みたいなものも気持ち悪かったし、ああいうの、なかなか書けるものじゃありませんよね。怪物の描写だって、すごくリアルで恐ろしかったですもん」

 さっきとは明らかに矛盾する意見を波瑠乃は必死に取り繕った。苦し紛れの言い逃れに激怒されるかと思ったが、意外にも那々木は表情をほころばせ、まんざらでもない様子で後頭部の辺りをかいた。

「――ほう、やはりそうか。怪異のリアルさでは、私の右に出る者はそうそういないはずだから、そう思ってもらえるのも当然だな。ふふん、そこまで褒められると素直に嬉しく感じるよ。しかし、こんな辺鄙な場所でファンに出くわすなんて想定していなかったから、何の用意もないのだが……」

 さっきまでの落胆はどこへやら、那々木はころりと態度を一変させ、にやにやと隠し切れない薄ら笑いを浮かべては、上着のポケットから一冊の文庫本を取り出した。

「実は数年前に出版していた作品が文庫化されて来週には店頭に並ぶ予定なんだ。今回、たまたま持ってきたものがあったから、君にはこれを特別に進呈しよう」

「え、あ、えっと……」

 いりません。と言える空気ではなかった。ここで受け取らなければ、それこそこの男の面目を潰してしまうかもしれない。

「どうした。さあ、受け取りたまえ。感動するのはそれからでも遅くはないさ」

「あ、ありがとうございます……」

 誰が見ても明らかなよそよそしさでもって、ぎこちない礼を述べた波瑠乃にまるで頓着する様子もなく、那々木は充足感に満ち足りた表情を浮かべた。ファンサービスを怠らない売れっ子作家の愉悦にでも浸っているのだろう。

「おや、どうしたんだ? もっと喜びを全身で表現してくれて構わないぞ。私はあまりサイン会など開かないから、直筆サイン入りの書籍はかなり貴重なんだ。どうしてもというのなら、SNSにアップして自慢してくれても構わない」

「ああ、はい……ええとその……うれしいなぁー、あはははは」

 もっと喜べ。と言いたげな那々木の視線をどうにかやり過ごし、波瑠乃は必死に作り笑いを浮かべた。

「と、ところで、那々木さんはどうしてこんな時間にこんな場所に? 取材でもしていたんですか?」

 強引な話題の変更に気を悪くした様子もなく、那々木は軽く肩をすくめて、肯定とも否定ともつかぬ曖昧な反応を見せた。

「取材といえば取材だが、正しく言うならライフワークだ。私の作品を読んでくれた君ならわかると思うが、作品にリアリティを持たせるために、私は各地の怪異譚を蒐集し、自ら体験することで創作の糧にしているんだよ」

 怪異譚を蒐集。聞き慣れないその言葉を頭の中で反芻し、波瑠乃は訝しむような視線を那々木へと向けた。ほとんど感情を感じさせない、彫像のような表情を見る限り、冗談を言っているようには思えなかった。

 白状すると、波瑠乃はこういう人間が苦手だった。怪奇現象や心霊現象自体が嫌いなのはもちろんだが、それを面白半分に体験しようとする人間はもっと嫌いなのだ。ましてや、それをネタに小説を書くなんて、まともな考えとは思えない。そんな風に集めたネタを小説にしたって、面白いものになるとは思えなかった。

 実際、読んでみた感想が『リアリティを感じられなかった』だったことが、それを証明している気がした。

 この作家、顔は整っているし背も高い。見た目にケチをつける箇所はなさそうに思える。だが、どこか油断ならない胡散臭さみたいなものが全身から漂っていた。こういう人間にはあまり関わりあいにならない方が身のためだと、波瑠乃は直感的に感じていた。

「それで、君たちは何をしていたのかな?」

「俺たちはその……」

 答えに窮して、曽根が困り果てた顔をする。

「那々木さんはこの公園にまつわる都市伝説、ご存じですか?」

 代わって淳史が問いかける。那々木はすぐに頷き、

「深夜にここを訪れると外に出られなくなるという内容のあれだね? もちろんだ」

 そう答えてから、那々木はやや驚いたようにはっとして、

「そうか。君たちは今まさにその状況にいるんだな? この公園に囚われてしまったんだ」

「実はそうなんです。どこをどう進んでもこの広場に戻ってきてしまって……」

 淳史は疲れ果てたような声でこれまでの経緯を説明した。笑い飛ばされるかと思ったがそうはならず、話を聞き終えた那々木は腕組みをして何事か考え込み始めた。荒唐無稽ともいえる淳史の発言を疑ってかかるばかりか、まともに取り合おうとしているらしい。

「ちょっと、確かめてみていいだろうか」

 そう言い残し、那々木は広場の北側の通路へと足を向けた。噴水前から去っていく那々木の背中が闇の向こうへと消え、数十秒ほど経った頃、どこからともなくアスファルトを踏む音が聞こえた。見ると、噴水広場の南側入口には那々木の姿があり、驚きと関心の入り混じったような複雑な表情がその顔に浮かんでいた。

「なるほど、これは面妖だな」

 那々木はどこか楽しそうに声を弾ませ、今度は東側の通路へと消えていく。ほどなくして西側の通路から現れた那々木はまたすぐに引き返し、再び東側通路から戻ってくる。そうやってひとしきり行き来を繰り返した後、那々木は意気揚々として言った。

「君たちの言っていることは嘘ではないらしい。出口を目指してどこをどう進んでも、結局はここに戻ってきてしまう。それに敷地内のどこにいても銅像が同じ方向を向いているというのも事実のようだ。この公園は出口のない閉じた空間と化しているらしい」

「都市伝説の通りに、ってことですよね」

 確認するように言いながら、波瑠乃は自らの発言によって、たとえようのない不安に苛まれた。何かすがれるものがあるならすがりたいとすら思った。

「事情を理解してもらえたのはいいけどよ。これからどうするんだよ」

 曽根が語気を強め、誰にともなく当たり散らすような口調で吐き捨て、くわえていた煙草を放る。吸い殻は放物線を描いて銅像の胸の辺りにバウンドし、濁った水面に落ちてじゅっと音を立てた。

 これには波瑠乃だけでなく淳史も眉をひそめた。だが曽根はどこ吹く風で更にもう一本煙草を抜き出し、火をつけて深々と吸い込んだ煙を盛大に吐き出してみせる。やはりこの男はモラルや常識などという概念は持ち合わせていないらしい。こんな状況に置かれても、彼のそういう所がひどく鼻について仕方がなかった。噴水の縁に腰かけ、煙草をスパスパやっている曽根をよそに、波瑠乃はある提案をする。

「もう一回、出口を探しに行きましょう。もしかしたら里子が私たちを探しに来ているかもしれないし」

「なんでもいいけど俺はここに残るぞ。歩き通しで疲れちまった。クソ、煙草もねえしよ」

 曽根は煙草のパッケージをぎゅっと握りつぶし、吸い殻と同じように噴水の中へと放り投げた。もはや注意する気にもなれず、曽根を一人残して、波瑠乃と淳史、そして那々木の三人は南側の通路から広場を後にした。

「里子、というのは君たちの友人かい?」

 草をすり潰したような青臭さを鼻先に感じながら、暗い通路を並んで歩いていると、不意に那々木が問いかけてきた。

「ええ、一緒に来たんですけど、具合が悪くて園内に入らず外で休んでいるんです。後で追いかけるって言っていたんですけど……」

 波瑠乃が答えた直後、淳史が何事か気が付いたように声を上げ、那々木に問いかける。

「そう言えば、那々木さんがここに入ってくるときは見かけなかったんですか?」

「私は正面入り口ではなく東側の通用口から入ったから、誰の姿も見かけなかったな」

 那々木によると、通用口には警備員の目が届かず、労せず公園内に侵入することができたらしい。

「だったら、その通用口から出られませんかね?」

 淳史がそう提案した。ちょうど、東側の通路を歩いていることもあって、三人はそのまま通用口を目指すことにする。木の遊具が置かれた広場を横切り、錆だらけの金属アーチをくぐって仄暗い通路に差し掛かった時、

「この先が通用口に繋がっているはずなんだが……」

 那々木は意味深長に言葉を濁した。

「……おかしいな」

 それから小さく呟く。那々木は波瑠乃と淳史の後方を見やり、それからぐるりと周囲を見渡した。

「どうかしたんですか?」

「銅像の姿が見えないんだ。ついさっきまでは確かに見えていたはずなのに」

 思いもよらぬ発言に驚いて波瑠乃は周囲を見渡した。後方に見えていたはずの銅像の姿はたしかになくなっている。体感的な記憶で言うなら、今現在、噴水広場は一行の背後にあるはずで、このまま進み、不可解なループによって噴水広場に到達した途端、前方に現れることになる。ところが前にも後ろにも、左右を見渡してみても、銅像の姿は見つからない。あるのは星一つない夜空だけで、遠くに見て取れたはずの銅像は、忽然と姿を消してしまったのである。

「どうなってるの。さっきまで確かにあったハズなのに」

「おい、あれ!」

 淳史がほとんど叫ぶようにして声を上げた。彼が指差す方向、通路の先にかすかに見えるのは通用口らしき鉄格子のついた扉だった。

「出口……? ここから出られるの?」

 誰にともなく問いかける一方で、波瑠乃の頭の中では一つの仮説めいた思考が繋がりを見せ始めていた。

 この公園に閉じ込められてからというもの、あの銅像は常に自分たちを見下ろし、どこへ行ってもその視線から逃れることが出来なかった。銅像に見つめられている限り公園から出ることが出来ないんじゃないか。そんな風に感じてもいた。

 そして今、理由はわからないが銅像が姿を消している。それと同時に出口を発見することが出来た。バカな考えかもしれないが、銅像の視線から免れたことで、出口を見つけることが出来たのではないかと、そう思えてならなかった。

「早く行こう。外に出られるわ」

 それを確かめるためにも、まずは公園の外に出なくては。

 二人を促して出口に向かおうとした時、背後の闇を切り裂くようなけたたましい悲鳴が聞こえた。思わず足を止め、何が起きたのかと身体を硬直させる。

「今の、曽根の声じゃないか?」

 淳史が震える声を絞り出す。広場に残った曽根の身に何かが起きた。そう想像させるのに十分なほど、鬼気迫る叫び声だった。

「確かめに行こう」

 いうが早くか、那々木が駆け出した。すぐそこに出現した外へと至る出口を名残惜しく感じながらも、波瑠乃と淳史も広場へと駆け戻っていった。

 噴水広場に戻った時、外灯の明かりに照らされたその光景を前にして、三人は一様に言葉を失った。広場の南側、入口の側に倒れている曽根の身体は全身が血まみれで、地面には生々しい血だまりが形成されている。血液の量もさることながら、力なく投げ出されたその身体を見て、波瑠乃は彼の死を否応なしに理解させられた。

首から上が、忽然と消え失せていたからだ。

「嘘でしょ……なんなの、あれ……」

 呻く声は虚しく闇に吸い込まれるだけだった。一足先に辿り着いた那々木が曽根の傍らに屈みこみ、遺体の様子を観察している。

「首が切断されて……いや、そうじゃない。何か強い力によって、力任せに引きちぎられたようだ」

 赤黒い肉と筋組織を露出させ、白い骨が歪に突き出した首の断面を注意深く観察しながら、那々木はそう結論付けた。傷口の状態で察しが付くのだろうか。たとえそうだとしても、波瑠乃はとても直視する気にはなれなかった。

 同じように曽根の遺体から目を背けた淳史がうわっと声を上げる。これ以上、驚きようがないはずにも拘わらず、波瑠乃はそこで目にした光景に叫び出したくなった。

 消えたと思っていた銅像が、噴水の中央に変わらず佇んでいた。相変わらずの微笑を浮かべた銅像はそれが当然であるかのように同じ姿勢で私たちを見下ろしている。だが、その姿にはついさっきまでとは決定的に異なる点が一つだけあった。そのことに気づいた瞬間、波瑠乃はいよいよ頭を抱えて叫び出してしまった。

 夜のとばりに奇声じみた悲鳴が響き、長く尾を引くようにこだまする。


 銅像の両腕からは、赤黒く生々しい鮮血が滴っていた。


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