一時間ほど車を走らせ、隣町の三杉町(みすぎちょう)のはずれに差し掛かったのは、午後十一時を回った所だった。広い国道は前にも後ろにも一台の車も走っておらず、時折思い出したみたいに外灯の明かりが現れる寂しい通りを、ヘッドライトが孤独に照らしていた。深い木々に囲まれた峠道を進み、やや傾斜のあるカーブをいくつか曲がると、前方右手に大きな駐車場が見えてきた。

 適当な位置に停車して車を降りる。エンジン音がなくなると同時に不穏な静寂がまとわりついてきた。季節はまもなく夏を迎え、気温だってさほど低くないはずなのに、ねばりつくような湿気を帯びた冷気が足元から這い上がってくる。周囲を囲む木々がゆらりとざわめき、何事か囁き合っているかのようだった。どことなく異界めいた気味の悪さを感じながら奥の石段を上っていくと、周囲の木々を強引に切り開いたかのような開けた空間に出た。闇夜に佇む白亜の建造物と、それを取り囲むようにして生い茂る無数の草花が、周囲の森とはまた違った風情で波瑠乃を待ち構えていた。

 通路を少し進んだ先には、明かりのついた監視小屋のようなものがある。

「ねえ、人がいるよ」

 声を潜めて訊ねると、里子は「ああ」と思い出したような声を上げる。

「ここ、本来は美術館なんだよね。公園はそれにくっついたおまけみたいなもの。なんとかっていうアーティストが作った作品ばかりを並べてる美術館なんだけど、あまり人が入らないみたいで、どんどん忘れられて行ったらしいのよね。美術館の方にはそれなりに高価な展示品があるから、泥棒に備えて警備員がいるみたい。こんな山の中じゃあ、襲われても警察が来るまでに簡単に逃げられちゃいそうだけど」

「てことは、無断で立ち入ろうとしている俺たちも不審者扱いされるってことだよな」

 たしかめるような口調で、曽根は飲み干したビールの空き缶を芝生の上に放る。やめろよ、と咎める淳史を無視して、くわえた煙草に火をつけ、うまそうに煙を吐き出す。

「曽根くんの言う通りだよ。中に入るのはやめた方がいいんじゃない?」

 波瑠乃は窺うような口調で、やんわりと申し出てみたが、里子は頑として首を横に振る。

「大丈夫よ。ほら、よく見て」

 里子に促されて監視小屋のガラス窓を見ると、年配の警備員は腕組みをして椅子に座り、うつらうつらと舟をこいでいた。時間も時間だし、居眠りの一つもしたくなるのだろう。

「あの様子だと、ちょっとやそっとじゃ起きないわ。今のうちに通り過ぎましょ」

 里子はそう言って身をかがめ、監視小屋のガラス窓の下を横切っていく。波瑠乃たちもそれに続き、一行は美術館の脇にある鉄柵で覆われた立派な造りの門へと行き着いた。重厚な見た目に反し、門には鍵がかかっておらず、軽く押しただけで格子扉は難なく開いた。

「よし、さっさと行こうぜ」

 意気揚々と、曽根が先陣を切って公園の中に入っていく。すぐ後に淳史が続こうとした時、里子がふらりとバランスを崩して正門の傍らに座り込んだ。

「ちょっと里子、大丈夫?」

「うー、気持ち悪い。ちょっと飲み過ぎたのかな。車で酔いが回ったのかも……」

 膝を抱えて丸くなった里子は、苦しそうに眉間に皺を寄せ、深い呼吸を繰り返している。

「大丈夫。少し休んでいれば落ち着くと思うから。みんなは先に行ってて」

「でも、こんなところに一人で残していくなんてできないよ」

 手を貸そうとする波瑠乃を遮るように、里子は首を横に振った。

「他に誰もいないんだから大丈夫だってば。それに、公園には三人以上で入らなきゃ意味がないの。せっかくここまで来たのに、試さないで帰るなんてもったいないじゃない」

 そう諭され、私は淳史と顔を見合わせる。本人がこう言う以上、無理に連れていくわけにもいかなかった。

「本当に大丈夫なのか?」

「心配いらないってば」

 淳史の気遣うような声に肯いた里子は、軽く手招きして波瑠乃を呼び寄せ、「頑張るのよ」と耳打ちした。一瞬、何のことかと首をひねりそうになったが、すぐに彼女の言わんとしていることを察し、波瑠乃はこわごわとうなずく。

「おおい波瑠乃ちゃん、早く行こうぜ」

「あ、うん……」

急かすような曽根の声に返事をして、花壇の縁に座り込んだ里子に手を振った波瑠乃は、淳史の後に続き公園の敷地内へと足を踏み入れた。


 男性二人の後に続き、波瑠乃は左右を背の高い生垣に挟まれた通路をこわごわ進んだ。途中、ゆるいカーブを抜けると通路に沿っていくつか花壇が設置されていたが、もう長いこと手入れがされておらず、しおれて変色した花がそのまま放置されていた。

 やがて広場に到着した三人を迎えたのは、円形の噴水とその中央に佇む一体の銅像だった。高さは台座を含めると三メートルほどで、見上げるほど大きい。一見すると何かの神話の女神と思しき半裸の女性が片方の腕を高く掲げるような体勢で佇んでいる。ごくごくありふれた銅像というのが波瑠乃が最初に抱いた印象だった。

 広場はテニスコートくらいの広さで、南西の方角と北東の方角、それぞれに外灯が設置されていた。噴水の左右にそれぞれ一つずつ木製のベンチがあり、片方は腐った板木が折れて破損している。周囲は背の低い塀で囲われており、三人がやって来た通路の他に三か所、通路へと道が続いており、ちょうど東西南北それぞれに広場への出入り口がある形だ。先の花壇と同様に、お世辞にも手入れが行き届いているとは言えないその広場を、波瑠乃たちは慎重な足取りで進んでいく。

噴水には水が張られており、底が見えないくらい濁っていた。小さい虫や枯れた雑草のようなものも浮いている。だがそれ以上に、波瑠乃は目の前の銅像に対して、例えようのない違和感――あるいは正体不明の不安な心地を抱かされた。見た目はごく普通の裸婦像のモニュメントだが、薄く笑みを浮かべたその顔を見ているうち、それが全く別の異質な存在に感じられるのだ。まるで銅像とは全く違う何かが、上手に姿を真似てそこに存在しているかのような感覚。波瑠乃の目にそう映っているだけで、本当の姿は裸婦像などではない、まったく別の『何か』なのではないかという突飛な考えが、訳も分からず頭を占めていた。

笑っているのか真顔なのかの判断がつかない、曖昧な表情をした銅像の薄く開いた目が、じっとこちらを見下ろしている。

「なんかこの像、嫌な感じだな」

「なんだよ淳史、ビビってんのか?」

 淳史の呟きに、曽根がすかさず茶々を入れる。

「そうじゃないけど、でもこの銅像って……」

 波瑠乃と同様の違和感を、淳史も感じたのだろうか。その先を言ってしまうと取り返しのつかないことになるとでも言いたげに、彼は口をつぐんでいる。その微妙な表情を読み取ったのか、曽根もまた真剣な表情で周囲に落ち着きのない視線を向けていた。

「で、どうなるんだ。まさか俺たち、もう閉じ込められちまってるのか?」

「さあな。確認してみよう」

 提案した淳史に続き、波瑠乃たちは踵を返し来た道を戻ることにした。噴水広場から正門へと至る通路へ足を踏み入れ、ゆるくカーブした通路の先、背の高い生垣が途切れたところでぱっと視界が開ける。

 次の瞬間、波瑠乃はあっと声を上げた。

 最初は何かの間違いだと思った。だが、目の前に広がっている光景は紛れもなく、噴水のある広場に違いなかった。たった今、自分たちが立ち去ったはずの場所である。最初は、同じような広場がもう一つあるのかと思った。しかし、門から広場までは一本道だった。来た道を引き返したのなら、別の広場に行きつくことなどありえない。

唯一、さっきと違うのは、自分たちが立っているのが広場の北側の通路だということ。南側の通路から出て、北側の通路から侵入したことになる。

「な、なんだよ。何驚いてんだよ二人とも」

 自身の動揺を隠そうとする曽根の声が闇夜にこだました。

「ちょっと進む方向を間違えただけだろ。びっくりするようなことじゃないって」

「でも、入口へは一本道だったはずだろ?」

 淳史の的確な指摘に、曽根の動揺は更に深まる。彼は引き攣った笑いを浮かべながら、

「細かいことはいいだろ。とにかくもう一回、入口に向かおうぜ。今度は間違えずにな」

 波瑠乃や淳史の返事も待たずに歩き出した曽根が広場を横切っていく。後に続き、再び南側の通路へ踏み入った波瑠乃がふと振り返ると、噴水広場の銅像が遠巻きにこちらを見つめていた。別れを惜しむかのように高く掲げられた手が、とても不気味に感じられた。

 そうするうちに背の高い生垣の角へ差し掛かり、最初にそこを曲がった曽根が「なんでだよ」と声を上げて立ち止まる。その肩越しには、三度目になる噴水広場の光景が広がっていた。

「私たち、ちゃんと門に向かったはずだよね。それなのになんで……」

 語尾を曖昧に濁し、波瑠乃は口をつぐんだ。噴水の中央では相変わらず、銅像が私たちを見下ろしている。穏やかな微笑みのその影に、私たちを嘲るようなものを垣間見た気がして、波瑠乃は息を呑んだ。

「まさか、本当に俺たち、ここから出られないのか?」

「そんなはずあるか! 里子の話なんてただの都市伝説だ。つまりは作り話じゃねえか」

 曽根は苛立ちをあらわにしながら、今度は噴水広場の東側、いくつか遊具のある広場の方に向かって歩き出した。後を追って広場を後にし、あちこち崩れてボロボロになった遊具や、ロケットのような形をした鋼鉄製の遊具、そして広々とした砂場などを横目に通り過ぎ、三人は細い小道のような通路を抜ける。芝や雑草の生い茂る緑地には大きな銀杏の木がそびえていた。水銀灯の光に照らされて、幾重にも折り重なった根の部分が、まるで人間の腕や足のように見え、波瑠乃は思わず目を背けた。

 この公園は何かがおかしい。具体的に何がとは説明できないが、そう思わずにいられない心境だった。波瑠乃は迫り来る危機の気配を痛烈に感じ、激しい動悸に顔をしかめた。

 小学生の頃、こっくりさんをした時の記憶がよみがえる。トイレの花子さんを呼び出そうとした友人たちの顔が頭に浮かぶ。いつもそうだ。誰かが悪戯に霊に関わろうとするのを止められず、かといって自分だけ逃げることもできず、結局はこういう目に遭ってしまう。やっぱり来るんじゃなかったと、頭の中のもう一人の自分が嘆く。

 今更言っても遅いことはわかっていた。それでも祈るような気持ちでレンガ敷きの通路を進んだ先には、やはりあの噴水広場が待ち受けていた。

「なんでだよ。出口に向かってたはずなのに、どうして戻って来ちまうんだよ」

「それが、この公園にまつわる都市伝説だからだろ」

 嘆くような口調の曽根に対し、淳史は諦めに似た声を返す。

「じゃあ俺たちずっとこのままか? 二度とここから出られないのかよ?」

 淳史は何も答えなかった。ただ、その現実を受け入れることは出来ないようで、口惜しそうに唇を噛みしめている。二人のやり取りを横目に、波瑠乃は半ば呆然として、変わらぬ微笑みを浮かべる銅像を見上げていた。

 ふと、門の前に残してきた里子の顔が頭に浮かぶ。彼女は無事だろうか。まだ公園内に来ていないのなら、どうかそのまま入ってこないでと祈らずにはいられなかった。

「――ねえ、あっち側の緑地からだったら出られるかもしれないよ」

 何の根拠もない提案だった。ただ、まだ足を踏み入れていない方向へ行ってみようという安易な提案。それでも、ここでただじっとしているよりはずっといい。曽根はすぐに同意したが、淳史は首を横に振って波瑠乃の提案を却下した。

「無駄だよ。俺たち閉じ込められたんだ。もう出られないんだよ」

「おい淳史、なに諦めてんだよ。やってみなけりゃわからないだろ。何かのはずみで、ぽんと出られるかもしれないじゃねえか」

 曽根がにわかに気色ばむ。淳史は気まずそうに眉根を寄せて噴水へと視線をやった。

「気づかないか? あの女神の像、さっきからずっと俺たちのことを見てる」

「それがどうしたんだよ。確かに気味の悪い銅像だけど、おかしなことなんて何もないだろ」

「――お前、気づかないのか?」

 淳史は驚いたように曽根を見やる。もちろん、波瑠乃にも何のことやらさっぱりである。

 二人の反応を見てしばし言葉を失っていた淳史は、やがて注意深く、諭すような口調で、

「よく考えてみろ。あの銅像はずっと俺たちを見てるんだぞ。俺たちが南側からこの噴水広場に入っても、北側から入っても同じようにな。今こうして西側から入っても、やっぱり同じように俺たちを見てる。これ、どう考えてもおかしいだろ?」

 そこまで言われてようやく、波瑠乃は事態の異様さに気付いて息を呑んだ。

 どうして気が付かなかったんだろう。淳史の言う通り、これは明らかに異常だ。自分たちが南側から入った時に銅像がこちらを見下ろしていたのなら、南を向いているということだ。ならば、北側から広場に侵入した時に自分たちを見下ろしているはずはない。波瑠乃らに背中を向けていなければならないのだ。同様に西側から侵入したなら、像は側面を見せているはずである。ところが今、この銅像は三人を真正面から見下ろしている。あたかも、最初からそうしていたかのように。

 常識ではおよそ説明のつかないこの事態に、淳史はいち早く気が付いた。そして、その事実のおかしさに彼はひとり恐怖を覚えていたのだ。

 波瑠乃は銅像が常に自分を見下ろしていたことをはっきりと覚えている。当然のことのように感じていたそれが、決定的におかしいという事実にようやく思い当たり、同時にこの身がすくみ上がるほどの悪寒に囚われた。

 ゆっくりと、吐きだす息が震えた。慎重な動作で銅像を見上げると、先程と変わらずにこちらを見下ろしている女神の像。その表情に浮かぶものが笑顔などではなく、冷徹な敵意に彩られた悪意の塊であることに、波瑠乃はようやく気がついた。


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