第2話

 ……。



「左京君、ちょっといい?」



 昼休みに入ってすぐ、左京が委員長の明里に呼び出されていた。不良のクセに、力仕事を手伝うとは如何なるモノだろう。



 そのカラクリは、実は授業をサボる対価としてクラスメートの助けとなる契約を元ヤンの担任としているのだ。

 どう考えても普通に授業に出た方が面倒も少なく楽なのだが、手伝ったならサボるというパブロフの犬的なメソッドが彼の中で確立されてしまっているのだった。



「あれれ?」



 突然、思考の先にあった男がクラスメートにアブダクションされてしまったのを見て、なんとも言えないモヤモヤとした感情が自分を支配していく。



 教壇の前でダンボールを任されて持ち上げ、それを笑顔で見上げた女子生徒を見ると、まるで精神のエラーを告げるかのように心臓が痛む。



「嫌な気持ちになりましたわ」



 アトラは、この痛みから開放される為に数学の教科書に記された問題を超高速で片っ端から暗算していった。目眩のするような低レベルな法則と計算式ばかりだが、それでも幾らかメモリを消費すれば痛みも和らぐと考えたからである。



「す、凄すぎない?」

「アトラちゃんって何者なの?」



 徐ろにペンを取り出して悔しそうな顔で答えを書き連ねる彼女を見て、左京が惚れたと公言するような女なのだから只者ではないと思っていたクラスメートが、それどころの話に収まらない存在なのだと気が付いた瞬間であった。



 その時だ。



「転校生の女ってどいつだ?」



 何やらガラの悪い生徒が、教室の扉から中を覗いて言い放つ。その高校生離れしたイカつい風貌を見て、生徒たちは黙ったまま無意識にアトラを見てしまった。



「なんですの? 騒がしいですわね」



 5人の連中を見て、あまり知能が足りていなさそうな顔をしていると考える。しかし、男らしさという意味では左京を上回っていたため、彼女はマジマジと彼らを眺めて腕を組んだ。



 似ているが、似ていない。何が違うのかは、アトラにも分からなかった。



「ご要件は?」

「ちょっと付き合え」



 瞬間、閃いた。



 左京が明里に連れて行かれたせいで自分にこんなエラーが発生したのだから、自分も彼らについて行って左京にエラーを発生させてやろうと。上位存在として、彼にお仕置きをしてやるべきなんじゃないかと。

 要するに、彼女は彼を嫉妬させて、また自分がご褒美を上げる立場になろうとしたのだ。



「……なんつーか、お前バカだろ。普通、大人しく着いてくるか?」



 校舎裏で立ち止まり、徐ろに呟くリーダーの藤丸。



「このわたくしをバカ呼ばわりする地球人がいるだなんて驚きですが、まぁいいです。あなたたち、恋愛のあるべき姿をご存知ですの?」

「あるべき姿って、急に何言ってんだ? お前、プッツンしてんのか?」



 彼らの正体は、過去に左京にブチのめされ、或いは好きな女が左京に惚れている事実を知り、或いはその自由さに憧れてしまった者たちである。



「言葉の通りですわ。左京様を見るに、どうやら恋愛には交配以外の目的があるようだという事は分かってきたのですが、肝心の目的に皆目検討も付かないのです。何か、知っていることはありますか?」

「……おい、本当にこいつが左京の女なのか?」



 あまりにも意味が分からなかったため、藤丸は今朝に二人を見て電話した幸田へ確認を取った。



「間違いない、弁当貰ってたし」

「ふーん。なんか、変な趣味だな。あいつ」

「あいつ、飯作れんのかよ」

「知らねぇの? 左京、親いねぇから一人暮らししてんだよ。中坊まで育ててくれた爺ちゃんの介護しながら」

「お前、なんでそんな事知ってんだ?」

「俺らの地元じゃ知らねぇ奴なんていねぇよ」



 なぜか、幸田は少し誇らしげであった。憧れが隠しきれていないのである。



「……はぁ、萎えたわ。つーかなんだよ、恋愛のあるべき姿って」



 本当は、彼女を人質に取って脅し左京をボッコボコにしてやろうと思っていたのだが、下手に気になる質問を投げかけられたせいで理性が働き、暴れ回るような気分も冷めてしまったらしい。



 不良はいつの時代だって、喧嘩だの友情だの硬派だの、夜露死苦だの愛羅武勇だの走死走愛だの、そんな言葉が三度の飯よりも大好きで、おまけに恋バナも大好きなのであった。



「ぶっちゃけ、セフレいればいいよな。付き合うと面倒いし」

「お前が面倒な女としか付き合えねぇだけだろ。大体、浮気すんのって結構ダリいよ」

「まぁ、囲われりゃ気分もいいけどさ。実際には、本命に隠れながらコソコソだろ。俺ら、高校生だから金ねぇし」

「俺らのを周りって、気の強い女ばっかだもんな。フツーの子はビビって近寄ってこねぇし」

「……つーか、お前らカノジョなんていねぇだろ。何イキってんだよ」



 藤丸の言葉に、ワイワイと盛り上がっていた取り巻きはすっかり萎えて気分を沈めてしまった。

 しかし、どうやら彼らの感覚では多くの女を虜にすることが理想であるるしい。左京とは、相反する答えである。



「んで、転校生。お前はどうなんだよ」

「分からないから聞いているんですわよね? あなたたち、本当にバカ丸出しですわ」

「なんだと?」

「なんですの? もしも手荒な真似をしたら、わたくし怒りますから。萎縮して泣き寝入りすると思ったら大間違いですわよ。全部ブチ撒けて死ぬほど後悔させてやりますわ」



 まーた気の強い女だ、と彼らは肩を落とした。不良たちは世間が思う以上にメンツを気にするため、エロ目的やショボい窃盗などのカッコ悪い犯罪はしないのである。



「最初からそんな気はねぇよ、お前を盾にして左京をタコ殴りにしようと思ってただけだ」

「それはカッコ悪いのではなくて?」

「いやね。俺ら、この前も5人がかりでボコられたんだよ。普通は5人相手なんて勝てねぇって。ズリぃよ、あんなん」

「それは、お気の毒ですわね」



 アトラは、この5人は憎めないタイプですわ、と感じた。妙に素直で可愛らしいのである。



「あいつのパンチって、シンプルに痛いんだよな。転校生ちゃん、分かる? 人を活かすとか、鍛えて強いとかじゃなくて、ただの暴力だからちゃんと痛くて怖いって感覚」

「不良やってる俺らがビビるって意味わかんねぇだろうけどさ。こう、ガキん時に親父にぶん殴られて、こっちが対抗する気にもなれない的な、形容するとそんな痛さなんだよ」

「ならば、仲良くすればいいではありませんか」

「出来るワケねぇだろ。喧嘩強くて女にモテて勉強も出来て、おまけにジジイ思いで尽くし屋って。イラつき過ぎてどうにかなりそうだっつーの」

「本当は羨ましいだけなんだけどね」



 幸田がボソっと呟いたのを聞いて、藤丸が彼の頭へボコッとゲンコツを落とした。もはや、アトラに愚痴を聞いてもらっている状況である。



「よぉ、お前ら何してんだ?」

「げっ、左京!」



 向こうから、両ポケットに手を突っ込んだまま堂々とやって来る左京。藤丸たちが立ち上がって臨戦態勢に移ったのを感じて、彼もまた表情を締めて身を半身に構えた。



「あら、左京様。明里様に着いていったのに、随分と早い登場ですわね」



 更に、空気が一変する。まるで、彼らのボスのようなセリフである。



「……え? なんでお前がキレてんの?」

「キレてませんわ? キレてませんとも。えぇ。けれど、どうしてそんなに落ち着いてるのですかね。わたくしがいなくなったら、普通は慌てふためくべきではありませんの? 大切にするとかほざいでましたわよね?」

「なに? ヤキモチ?」

「はい、まーた意味の分からない言葉使ってますわぁ。未開人特有の言葉遊び、楽ちいでちゅわねぇ。ん〜?」

「あらゆる語彙で地球人をバカにしてくるじゃん」



 因みに、ヤキモチとは焼くお餅の焦れったさと妬く気持ちをかけた嫉妬を表すシャレである。



「な、なんかよくわかんねぇけどモメてる! チャンスだ! 殺せぇッ!」

「うおおおおおおおおッ!」



 戸惑う左京に5人がかりで飛びかかったが、あっさりと返り討ちにあってひっくり返る藤丸たち。彼らの中ではいつも通りの出来事過ぎるため、特に語ることもないのである。



「ち、チクショウ。はぁ、はぁ。なんなんだよ。俺は何してるのか聞いただけじゃねぇか。み、見てた奴も、アトラが自分で着いてったっつーしよぉ」



 左京からすれば、あまりにも当然の理由である。そもそも、藤丸たちが一方的に敵視しているだけであって、左京には大した確執もないのだ。



「いいですもーん。わたくし、この方たちに恋愛を教えてもらいますから。ざまぁないですわ〜」

「えぇ、そりゃないだろ。かなり傷付くんだけど」

「おほほ、なぜですの?」

「なぜって、そりゃよぉ……」



 彼がバツの悪そうな表情を浮かべた瞬間。



「お? なぜですの? 左京ちゃん」

「なぜですの? なせですの? ねぇ、なぜなんですのぉ?」

「左京ちゃ〜ん! なぜなんですのぉ〜!?」



 ムクリと立ち上がってヘラヘラと煽り出した不良チームの面々にゲンコツを食らわして再びKOすると、左京は黙ってアトラの手を取りその場から離れた。



「ちょっと、強引過ぎますわ。この肉体のわたくしは、悔しいですが地球人と何ら変わらない非力な乙女ですのよ」

「なら、知らねぇ男にホイホイ着いていくなよ。頭わりぃな」

「カッチーンですわ〜っ! どうしてバカは自分の理解出来ない存在を下に見るんですの〜!? ムキ〜っ!」



 どうにも、このデータだか上位存在だかであるですわ口調のお嬢様は、地球人よりもプライドが高く好奇心が強いような気がしてならない。

 だからこそ、もしも恋愛より彼女にとって興味のあるモノが出てきてしまったらと思うと心配だ。アトラは、きっとなんの迷いもなくその方向へ歩いて行ってしまうだろう。



 そうなってしまったら、勝手に心配して気にして、本気で好きになってしまった自分がまるでバカみたいではないか。



 ――あれ、こいつってちゃんと地球人だよな?



「……お前だって、恋愛のこと知らねぇで何でもバカバカ言ってるじゃんか」

「んぐ……っ。わたくしは、そんなマクロ的な観点からモノを言ってるのではなくて!」

「心配するんだよ、そういうことされると」



 言うと、左京はチラリとアトラを見てポケットに手を突っ込み、踵を返してトボトボと歩き出した。彼女が言葉を返せないで立ち尽くしていると、隣に居ないことに気が付いた彼が振り返る。



「委員長に任されたのもよ。簡単な仕事だから、帰ってきたらお前と話したいと思ってたんだ。その、弁当の感想とか聞きたかったし」

「感想を聞いて、どうするつもりですの?」

「お前らの言うところのアプデだ」



 呟いて、再びトボトボと歩き出した。どこか庇護欲をソソる丸まった背中に、アトラは思わず言葉を投げる



「アップデートして、どうするおつもりなのですか? そもそも、地球人はデータをインストールしただけでグレードはあがらないですわ。一朝一夕で、あなたの料理が上手くなるとは思えませんが」

「なるんだよ」

「なりません。なら、根拠を教えなさいな」

「……ほら、愛情とかあんだよ。お前は本当に無機質な女だな」



 あまりにも非科学的な根拠だった。しかし、それを聞いたアトラには高笑いする気も起こらず、それどころか。



「……な、なんですの? この感覚は」



 正体不明の極めて僅かな痛み、或いは快感を覚えて体温が急激に上昇していくのが分かった。



 たった今、アトラの心を「キュン」と締め付けた感覚の名前を、彼女が知る由もない。そして、この痛みこそが正しく『トキメキ』であり、恋が始まってしまったサインでもあるのだ。



「ふ、ふーん。へぇ〜。そ、そうなんですわね〜。わ、わたくしには、サッパリ分かりませんわ〜……」

「なに吃ってんだよ、バカにしてんのか?」



 当然、バカになど出来るワケもなかった。もう、彼の顔を見ることも敵わないくらい、アトラは胸の高揚に気を取られて後をついていくしかなかった。



 × × ×



 一ヶ月後。クリスマス・イブ。



 何だかんだ言いつつも、クラスメートの仕事を手伝いながら生活する左京を見ながらヤキモチを焼きつつ、しかし自分は何かを手伝ってもらうほど困る事もなくて。



 それが、本来一番大切にされるべきなのに、まるで自分が一番蔑ろにされているような気がして。というか、年明けのテストの為に勉強までし始めて、帰りに寄り道もしなくなったし。



 寂しさから、「不良のクセにちゃんと点数取ろうとしてんじゃないですわ」と口まで出かかるも、困難に抗う姿を見てなぜ彼がクラスの人気者なのかを何となく分かり始めていたアトラであった。



「……発想の転換。いえ、コペルニクス的転回ですわ」

「はぁ?」

「左京は、バカですわよね? 勉強も苦手ですし」

「あ、あぁ。まぁな」



 分かっているが、他人に言われると少し悲しくなる言葉である。



「毎日こんなに頑張っているのに、目指せるのは精々校内上位程度ですよわよね?」

「50位以内に入らないとクビになるからな」



 この辺でも、元ヤンの担任が便宜を測ってくれているのである。実は、爺さんの具合が悪いときも付きっきりになって学校を休むため、担任的にはそれを考慮した策なのであった。



「話は変わりますが、左京は相手を自分より大切にすることが恋愛だとおっしゃりましたわよね」

「そうだな」

「あまりにも効率が悪いですわ。これだけ時間を注いでいるのですから、全国310万人の高校生の頂点に立てない方がおかしいですの」

「まぁ、実際に全国トップに立ったお前に言われると返す言葉もねぇけどよぉ」



 先日の全国統一模試で、アトラはオール100点を獲得していたのである。結果を待つまでもなくナンバーワンなワケだが、現代文の点数を改竄した裏話は語るまでもないだろう。



「ならば、あなたがわたくしに尽くすように、今度はわたくしが尽くす事を試して差し上げます。もしも納得の行く結果が得られなければ、わたくしはとっとと宇宙に帰って地球を征服しますわ」

「宇宙に帰ったら、転校しちまうのか?」

「転校って。まぁ、そんなところですわね」

「そうか、それは寂しいな」



 急に甘えだしますわね、とアトラは眉を八の字に潜めて困り顔を浮かべた。こいつ、地球のあり方が根底から変わってしまうという事実を理解しているのだろうか?という疑問が頭から離れない。



 もちろん、設定だと思っている左京は真剣に話を聞いているワケでもなく、「ここに来たときみたいに、ずっと転校を繰り返しているのだろう」と考える。



 そうすると、この妙ちくりんなキャラ付けも納得がいく。友達を作れるほど時間のない彼女が、少しでも自分の存在を誰かに覚えていてほしくて不思議な事を言い出すのだと。



 ……もちろん、そんなハズもなく。実際には本当に地球が征服されるかどうかの瀬戸際なのだが。



「家族に言ってよ、お前だけ残れたりしねぇの?」

「何をバカな事を。無理に決まっていますわ」

「まぁ、そりゃそうだよな。わりぃ」

「……勉強、始めますわよ」



 いそいそとペンを走らせて、しばしの沈黙。問題に集中出来ない左京は、徐ろにこんなことを口にした。



「お前の言う宇宙って、どんくらい遠い場所にあるんだ?」

「地球の定義では高度100キロメートルからが宇宙だとされておりますが、わたくしの居場所はそれよりも更に遠いですわね」

「……手が届く気がしねぇな」



 何故だろうか。アトラには、その言葉が物理的な距離を言い表しているように聞こえなかった。



「なぁ、アトラは自分じゃどうしようもねぇ事が起きたらどうする?」

「決まっております。そのどうしようもない事が起きないように手を打ちますわ。最悪の結末は、大抵は回避できますから」



 彼女なら、そう言うと分かり切っていた。だから、左京は深く息を吐くと彼女の顔を見てペンを置いたのだ。



「お前、最近かわいくなったよな」

「な、何を急に言っておりますの? 肉体が急激に変化するなんてありまえません」

「そうじゃなくて、雰囲気の話。笑ったり困ったりして、表情がよく変わる」

「あなたが困らせるからではありませんか」

「あと、俺の事を呼び捨てにするようになったしよ」

「それは……」



 それは、彼を呼び捨てにする周囲よりも、自分の方が距離を感じてしまっていたからこその無意識的な改革であった。



「何気に、髪もちょっと切ったろ」

「文字の記述がある以上、纏めにくい長さは非合理的ですの」



 嘘だ。



 アトラは、自分の見た目がどうすれば一番美しく見えるかを計算して、その比率で切り揃えている。そもそも、長い事に合理的な意味などないのだから、皮膚を守れる程度に無くしてしまえばいいハズなのだ。



「おまけに、今日は勉強まで付き合ってくれてる。尽くすっつったのは俺なのに、気がつきゃ俺がお前に助けられてるじゃん」

「うぅ……」



 いつものように、答えが浮かび上がらない。どれだけ合理的な経緯を求めようが、どの道にも「彼の為」という利己から程遠い岩壁のような障害が邪魔をする。



「なんでだ? お前の言う恋愛が正しいのなら、少なくとも高校生の男子は全員がお前と交配してもらうだけの下の存在になるだろ。それなのに、お前が見た目や雰囲気を変えるなんて筋が通ってない」

「い、意地悪ですわね。そんな事、決まっているではありませんか」

「なに?」



 そして、どうしてか思い浮かんだ言葉を言うのには勇気が必要だった。言語でしかコミュニケーションを取れない地球人を、あれほど見下していたというのに。声色に、震えに、吐息に、自らの感情が現れてしまう事が怖かったからだ。



 しかし、無機質にしようと思えば思うほど、まるで嘘を口にするような気がして。騙すことなど、簡単なのに。

 彼の傷つく姿や悲しむ姿を容易に想像出来てしまう自分が情けなくて、それよりも更に、誠意的に接していたいという欲が抑えきれない。



 だから、アトラはペンを放し膝の上に手を置くと、俯いて顔を赤くしながらモジモジと答えた。



「……かわいくなりたかったんですの、左京様のために」



 顔から火が出そうだ。モヤモヤとした、自分では言語化できなかった心のわだかまりを左京に丸裸にされてしまって、もう何も考えられない。



「なんだよ、さっきは自分で試すとか言っておきながら無意味にやってたんじゃねぇか」



 ……いや、もしかすると自分ではどうすることもできなかったから、抱えたまま終わらないように策をうったのだろう。アトラは、自らに生じたバグのようなモノの存在を確かめた。



 温かい。



「い、イジめないでください」

「でも、楽しいだろ。それ」



 それは、アトラが考えてもみなかった言葉だった。どれだけ予測をしてみても、自分の弱みを握った相手が更に裏にある気持ちを探るだなんてあり得ない事だ。



 そして、気がついてしまった。自分が楽しむ事と、自分を捨てられる事は両立する。今の自分の状況は、正しくその通りであると。



 マザーデータに反旗を翻してでも、この不平等で不合理な世界の中を、左京と共に過ごしたいのだと。



「俺も、お前の為に色々すんの楽しいんだよ。これって、不思議なことだと思わねぇか?」

「……わたくしにも、分かるように教えてください」

「恋愛ってさ、過程なんだよ。結婚したり、或いは別れたりする結果に向かう過程の名前。だから、その途中で相手の為を思った、すべての事を恋愛って呼んでいいんじゃねぇかな」



 故に、左京は彼女と初めて会ったとき、「ズレてる」と言った。交配を目的としたデータ生物と、過程の上に愛しあう事を考えている左京とでは、最初から見解が違って当然だったのだ。



 だから。



「なぁ、アトラ」

「はい」



 ゆっくりと、前を向いて。



「アトラの言う恋愛のあるべき姿ってなんだ?」



 彼女は、勇気を出すことができた。



「相手を、自分よりも大切にすることですわ」

「ふふ、奇遇だな。俺もそう思ってた」



 そして、左京はアトラにキスをした。ただ、彼が迫る直前まで、アトラは唇を重ねるだけの行為に一体どんな意味があるのかと延々考えていたが。



「んぅ……」



 触れたとき、そんな思考は宇宙の彼方へ飛んでいって、後には真っ白な幸せだけが彼女の中にあった。



 × × ×



「やぁ、グルース星人さん」

「こんにちは。あなたは?」

「外の宇宙からやってきた、まぁ仮にサキョーとでも呼んでよ」



 その言葉に、地球ではグリーゼ832cと呼ばれている惑星に住む有機生命体は首を傾げた。驚きや戸惑いはもちろん、ほんの僅かな反応すら見せない。



「流石に地球の何万倍も進んだ文明を持ってるだけあって、感情なんて持ってないんだね。調子はどう?」

「地球……? よくわからないけど、肉体は安定している。ところで、サキョーってなに? 固有名詞?」

「僕らに恋愛の文化を教えてくれた神様だよ。僕らは、無感情な有機生命体に恋愛を教えてあげるために宇宙を探索している、いわば恋愛星人ってところかな」



 こうして、小さな惑星を救ったちっぽけな一人の男子高校生の名前をデータ生物たちが語り続け、何兆年もかけてやがて宇宙全域にまで広がっていった。



 恋愛星人は、今日も宇宙を旅をする。数多の無感情な有機生命体が生きる星を征服するために。



 ……しかし、これだけ長い期間、恋愛を積み重ねて幾つものデータを蓄積してきたのに、地球に降り立った同胞の生涯を超える幸せをあげられていないらしい。



 だからこそ、彼は神様と呼ばれているのだろう。神を超えた彼らにとって、神の名を名乗る事は最大限の敬愛であるのだ。

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【短編】恋愛星人が攻めてきた 夏目くちびる @kuchiviru

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