第3話:月

 上司の爆殺を決行しようと決めた日の当日、僕はいつもと変わらず平静を装って、朝から仕事に没頭していた。いつもと違うのは、デスクの足下に置いてある鞄の中に、例の爆弾が入っていることぐらいだった。先日の爆破テストで、その威力を確かめることができたあの爆弾と全く同じ物を再び作成して、鞄の奥深くに押し込めて持ってきてある。

 18時の終業時刻が過ぎてしばらくすると、窓側の雛壇席に座っている上司が帰り支度を始めているのが視界の隅に入ってきた。僕はデスクの下に置いた鞄の中に入っている爆弾を上からそっと撫でた。今日やる予定にしていた仕事は全て片付いている。それでも僕はパソコンのモニターを睨みながら、難しい顔をして仕事をしているフリを続けた。

 間もなく、上司の方から「お先です」と言う声が聞こえた。僕の真後ろを上司が通っていく。僕は仕事に集中しているフリを続けながら、上司がオフィスから出て行くのを視界の片隅で捉えていた。

 その後も僕はじっと目の前のモニターを睨み続けた。22時を回る頃になり、あたりを見回すと、僕以外は誰もオフィスに残っていない状態になっていた。僕は一応、オフィス前の廊下やトイレのあたりをしばらくうろうろして、本当に自分以外誰も残っていないことを確認した。そして自分のデスクに戻ると、鞄を持って上司のデスクの場所まで、そっと足を忍ばせていった。僕はそこで、鞄の中から爆弾と両面テープを取り出し、デスクの下にしゃがみ込んだ。爆弾の蓋を開いて電源スイッチを入れる。そして蓋を閉じ、デスク下奥の壁面の上部に貼り付けるような形で、両面テープを使ってしっかりと固定した。

 そこまでの作業を行うのに、時間にして1分もかからなかったと思う。僕はそそくさと自分のデスクに戻り、パソコンの電源を落とした。そのまま鞄を掴んで急いでオフィスから飛び出し、セキュリティロックを掛けてからエレベーターに乗った。


 次の日の朝、僕は始業時刻より30分早く出勤して、自席でスマホを触っているフリをしていた。上司が出勤してくるのは、だいたい始業時刻の10分ほど前だ。上司がいつも通り出勤してくるタイミングに合わせて、僕は席を立ち、オフィスの隅の方にある会議スペースの所へ行った。そこでスマホを耳に当ててどこかに電話をするフリをしながら、上司が出勤してくるのをじっと待った。

 間もなくして、上司がオフィスのドアを開けて入ってくる姿が見えた。僕はスマホを耳から離して、画面をタップして起爆用のアプリを立ち上げた。安全確認用のロックボタンを解除し、起爆ボタンの上に人差し指を少し離して置く。顔を上げると、上司が自分のデスクの前に立つ姿が視界に飛び込んできた。そこで僕はためらわず、起爆ボタンをタップした。

 次の瞬間、大きな爆発音がオフィス中に鳴り響くと思って身構えたのだが、目の前の世界では何も起こらなかった。上司は何事もなかったかのように自分のデスクに座ってパソコンに向かっている。スマホの起爆ボタンを何度かタップしてみたが、やはり何も起こらない。どうなってる? そう思いながら、起爆用アプリを一旦閉じたり、再度立ち上げたりしてみる。そうしている内に、アプリの画面右上のBluetoothのマークに×印がついていることに気づいた。

 おそらく何かの原因で、スマホと爆弾のリンクが切れてしまっているのだ。そう理解した僕は、諦めてスマホを胸のポケットにしまい、自席へと戻った。

 まずい、と僕は思った。このままでは、いつ上司が自分のデスクの下に仕掛けられた爆弾に気づくかわかったものではない。上司に気づかれて、仕掛けられているのが爆発物だということが明らかになったら、多分大騒ぎになってしまうだろう。

 僕はそれからずっと、上司のデスクの方にばかり注意が向いてしまい。とても仕事どころではなかった。だが、上司の方はというと、デスク下の爆弾に気づく気配は全くといってなかった。爆弾と言っても、あれはかなり小型で、デスク下の奥の方に目立たないように取り付けてきたので、デスク下にかがみこんでじっくりと探らない限りは見つかる可能性は低いのかもしれない。とはいうものの、気が気ではない時間が過ぎていく。

 夕方18時、終業を知らせるチャイムがオフィス中に鳴り響く。僕は今日も残業しているフリをしながら、オフィス内で最後の一人になるまで待ち続けなければならない。そして、あの爆弾を回収して、起爆装置を交換し、再度計画を進めなければならないのだ。

 さっきから上司には、一刻も早く退社して欲しいと願っているのだが、今日に限って、遅くまで残業するつもりなのか、帰宅するそぶりを見せない。僕は、歯ぎしりをしながら残業しているフリをし続けた。やがて他の社員達は次々と帰宅していき、オフィスには、僕と上司の二人だけが残っている状態になっていた。

 スマホの時計を覗き込む。22時を回ったところだった。

 その時、ようやく上司が席を立って、帰り支度を始めている気配を感じた。よかった、結局、爆弾が見つかることはなかったと安堵する。すると、上司がゆっくりと僕の背後まで歩いてきた。

「お前、まだ残ってるのか?」

 その声を聞いて、胃が痛くなった。座ったまま振り返ると、上着を羽織った上司が、鞄を肩に掛けながら、こちらを見下ろしている。

 本当なら、今頃はこの世から消し去られているはずの相手と、いまだにこうして向かい合って話をするはめになっている。その事実が、僕の苦悩をさらに深めていく。

「はい、ちょっとやらなきゃいけないことをため込んでしまっていて……」

「いい加減に要領のいいやり方を自分で考えて、てきぱき処理していけるようになれよ。そんなに難しいことも頼んでないんだからさ」

 ネチネチした目線で、僕の表情やパソコンの画面を覗き込んでくる。

「……すいません、僕ももう帰ります」

「いっそのこと泊まり込みでやったらどうだ? お前くらい使えないやつでも、会社に泊まり込みで仕事してたら、人並みに片付くだろう?」

 僕は卑屈な笑顔を浮かべながら、「いや、あの、その……」と、口の奥でぼそぼそと呟くことしかできなかった。

 上司の表情が、人を小馬鹿にしたような顔つきへと変わった。そのまま何も言わずに、僕に背を向けてオフィスからゆっくりと出て行った。

 僕は大きなため息をひとつつくと、すぐに立ち上がって上司のデスクへと足を向けた。椅子をどかして、デスクの下にしゃがみ込む。奥の壁面に貼り付けられた爆弾をゆっくりと外した。そして右手に爆弾を持ってデスクの下からそっと顔を出す。

「お前、なにやってるんだ?」

 目の前に、上司がいた。目線がぶつかる。訝しげな表情の中に、かすかに怒りを含んだ視線。僕の頭の中は、どう言い訳をしようかと高速回転を始める。しかし、何と言葉を出すのが正解なのか思いつかずに、その場で突っ立っているしかなかった。

「それ、何だよ?」

 上司は、僕が右手に持った爆弾を指さして言った。背筋が泡立つのを感じた。

「これは、爆弾です」

 一瞬、間があいた。一呼吸置いて、上司の顔がゆがんで「お前、頭大丈夫か?」と言ってきた。

 僕は狂っているんだと、その時初めて思った。

「えっと、上島課長のデスクの下に、爆弾がしかけられていることに気づいたので、それを撤去しようとしてたんですよ。もう、嫌だな、感謝してくださいよ」

 僕は薄ら笑いを浮かべながら、上司に向かってそう言った。

「今すぐ俺のデスクから離れろ」

 上司が厳しい顔をしながらそう言うので、僕は言われたとおりに、デスクから3歩ほど距離を置いた。

 上司は自分のデスクの前までゆっくりと足を進めると、そのまましゃがみ込んで、デスクの下を確認し始めた。僕はその姿を横目にしながら、隣の別のデスクにそっと爆弾を置く。そして、その横に置かれていたノートパソコンを右手に掴んだ。

 しゃがみ込んでデスクの下を覗き込んでいる上司の背後にそっと近づく。ノートパソコンをふりかぶり、勢いよく上司の後頭部めがけて振り下ろした。

 ガツンという衝撃音と、右手にしびれるような感覚。上司の顔がこちらを振り返ろうとしている。驚愕した表情。その顔をめがけて、僕はさらにノートパソコンの角の部分を振り下ろした。膝から崩れ落ちる上司。床にうつぶせに倒れ込む姿を視界に捉えながら、僕はさらに何度も上司の後頭部めがけてノートパソコンを振り下ろした。何度も何度も。途中から数を数えていることに気づいて、20回目で僕は振り下ろす手を止めた。

 ノートパソコンをその場に投げ捨て、床に尻をついて座り込む。どこからか激しい呼吸音が聞こえているような気がした。それが自分の呼吸の音だと気づくのに、しばらく時間がかかった。

 足下に、上司の体がうつぶせに転がっている。殺してしまったかもしれない。どうしよう? と、一瞬考えて、思わず苦笑いしてしまった。どうもこうもない。元々、殺すつもりだったのだ。

 僕は立ち上がり、傍らのデスクの上に置いておいた爆弾を手に取った。蓋を開け、起爆装置のモードを切り替えるスイッチを操作して、時限式に切り替える。そのスイッチの脇にあるボタンを操作して、起爆時間を今から10分後に設定し、最後に秒読み開始ボタンを押した。

 そのまま爆弾を上司の背中の上に置くと、自分のデスクに戻り、帰り支度を始めた。落ち着いてパソコンの電源を落とし、机の上をきれいに片付け、鞄を手に持つと、オフィスの出口に向かって歩き出す。そのままオフィスの天井の電気を全て消して出て行き、エレベーターに乗り込んだ。

 オフィスの入っているビルから出ると、僕は大きく息を吸い込んで、夜空を見上げた。気持ちはすっかり、一仕事を終えた時の解放感に満たされていた。

 その時、スーツの胸ポケットに入れていたスマホが振動を始めた。取り出して画面を確認すると、南さんからLINEの通話リクエストが届いていた。画面をタップしてスマホを耳に当てる。

「あ、ごめん、まだ起きてた?」

 南さんの声。耳元で聞くと、体のどこかがこそばゆくなる感じがする。

「いえ、まだ起きてましたよ」と、すっかりと落ち着いた心持ちの中で言った。

「この間の話、考えてくれた?」

「ええと、なんでしたっけ?」

「私たちの話を聞きに来て欲しいって、言ったじゃない?」

「ああ、あれですか」

 僕は夜空に目を向けたまま、答えた。

「話だけなら、聞いてもいいですよ」

「ほんとに? じゃあ、詳しい場所と時間を後でLINEしとくね。嬉しいな」

 声を弾ませて喜ぶ南さんに、僕は、「南さん」と呼びかけた。

「ん? 何?」

「今日、月が、綺麗ですよ」

 その言葉にかぶさるように、頭上から、ドゴンという大きな爆発音が聞こえてきた。地面がしばらく揺れているような感覚がした。

「あれ、ちょっと今よく聞こえなかったんだけど」

「でも、もう誰も、月なんて見てませんよね」

 僕は声のトーンを少し上げて、早口でそう言った。

「何言ってんの、あんた。大丈夫?」

「大丈夫ですよ。僕はもう、大丈夫」

 噛みしめるようにして、僕は言った。

「変なの。まぁいいや、あとでLINEするから見といてね。それじゃあ」

 南さんはそう言って、通話が切れた。

 僕はスマホを耳に当てたまま、月のない夜空をいつまでも見上げ続けていた。

 見上げながら、少しだけ涙を流した。

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誰も月を見ない さかもと @sakamoto_777

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