第2話:南さん
今年の春に新卒で入社したばかりの僕は、連日その上司からのひどいパワハラに悩まされていた。新入社員なので、どんな業務をこなすにしても手探り状態になってしまって、うまくいかないことの方が多いのが当たり前のはずだ。それでも、その上司は、僕のやることなすこと全てに対して色々と難癖をつけて、とにかくこき下ろしてくるのだ。
日々、メンタルを削られる毎日で、正直に言ってきつかった。
「仕事、面白くないでしょ?」
その日、昼休みも終わりに近づいた頃、自分のデスクでうつむいてぼんやりとしていた僕の耳元に、唐突に声をかけられた。顔を上げて声の主の方を見ると、同じ課の先輩社員の南さんだった。けど、この人とは、職場で開かれた新人歓迎会で、二言三言話をしたことがあるだけだったので、僕はとっさに何と答えてよいかわからずに、ぽかんとしていた。
すると南さんは、
「あんた、今日もお昼食べてないよね。大丈夫?」
と、言ってきた。
僕がうつろな表情で、「いえ、なんか食欲なくって……」と返事を返すと、南さんは、
「もう、仕方ないなぁ……」
と、つぶやきながら、自分のデスクに戻っていった。
しばらくして南さんが僕のところに戻ってきて、
「はい、これあげる」
と言って、僕に何かを放ってよこした。
とっさに腕を伸ばして、それをつかみ取る。黄色い箱。カロリーメイトだった。
この会社に就職して、初めて他人から受けた優しさのような気がした。胸の奥がきゅっと締まるような感触。涙が出てきそうな予感がして、思わず目頭を押さえる。
「なに? 泣いてんの?」
そう言うと南さんは、ちょっと眉を寄せるような表情になった。
「まぁ、あれだ。頑張れ」
そう言って自分のデスクに戻っていく南さんに、僕は頭を下げながら「ありがとうございます」と、蚊の鳴くような声を絞り出していた。
それから時々、南さんは用事もないのに僕のデスクへ来て、ちょっとした雑談のようなことをしていくことがあった。南さんと話している時は、僕はとても落ち着いた心持ちになれた。どんな業務でもそつなくこなすクールな感じの女性で、正直苦手だなとそれまでは思っていたのだが、こんな感じで後輩を思いやることのできる一面もある人なのだ。
そして、僕の南さんに対する気持ちが、いつしか女性としての憧れの対象へと変わっていくのに、それほど時間はかからなかった。
そんなある日、僕は職場の自動販売機の前でコーヒーを買おうとして財布をじゃらじゃらさせていると、すぐ近くにあった給湯室で、誰かがひそひそ話をしているのが聞こえてきた。 立ち聞きするつもりはなかったのだが、ひそひそ話の会話の合間に「南さんが……」という言葉が混じっていることに気づいて、僕は思わずそちらの方へ耳を傾けていた。
「本当にそれって南さんと上島課長だったの?」
「人混みの中だったけど、確かにあの二人だったわ。腕組んで歩いてたのよ」
「あんまりイメージできないけどな。南さんって、何考えてるのかよくわからないとこあるから……」
「でも、上島課長って妻子持ちでしょ?」
そこまで立ち聞きしていて、心臓がばくばくと鋼を打ちだした僕は、慌てて自分のデスクまで戻ってきてしまった。
上島課長とは、いつも僕にパワハラを仕掛けてくるあの嫌な上司のことだ。南さんが、よりによってあの上司と不倫しているだなんて、そんなこと信じたくはなかった。きっとさっきひそひそ話をしていた連中のどちらかが、別の誰かと見間違えたに違いない。
けれども、一度そういう疑念を持ってしまうと、そのことがすっかり頭から離れなくなってしまった。別に南さんが会社の外で誰と何をしていようが、それに対して文句を言う権利は一切ないのだが、疑念を解消したいという気持ちに抗うことが、僕にはできなくなっていた。
「南さんって、独身ですよね? お付き合いしてる人とかっていたりするんですか?」
いつものように雑談している時に、僕は精一杯軽い調子で、そう尋ねてみた。
すると南さんは、何と答えてよいのか考えているような間が少し開いた後で、「いないよ」とだけ言葉を吐き出してきた。
そういう話題は止めて欲しそうな雰囲気になってしまったので、それ以上突っ込んで尋ねることはできなかった。僕は曖昧な笑いを顔面に貼り付けたまま、その話題はそれで終わった。
それからしばらく経って、僕は、職場での南さんの様子に何かおかしな気配を感じるようになっていた。時々、南さんのデスクに目を向けると、ノートPCの画面をぼんやり見つめながら口元で何か独り言のようなことを呟いていたりするのだった。かと思うと、例の上司の方を恨めしそうに睨み付けている姿も何度か目撃してしまった。
そのうち、僕のデスクへ来て雑談していくこともなくなってしまい、南さんとの接点もそれでなくなってしまった。
やがて、南さんは職場を欠勤しがちになって、出勤しても業務でミスを連発するようになってしまい、しばらくしてもう職場からは完全に姿を消してしまった。
翌月の始めに、全社員に向けて発信される社内報メールで、南さんがこの会社を退職したことを知った。
南さんが退職して二ヶ月ほど経った頃、僕は仕事帰りに街中を歩いている時に、偶然南さんの姿を見つけたことがあった。一人で歩いているようだったので、僕はためらわずに声をかけてみた。
「久しぶりだね。あんた、ちゃんと仕事やってんの?」
そう言ってくる南さんは、会社を退職する直前に見ていたような病んだ感じは全くしなくて、すっかり元気を取り戻しているように見えた。
「南さん、どうして会社辞めちゃったんですか?」
僕がそう聞くと、
「なんでだろうね。よくわかんないんだけど、なんかあたしさ、自分を見失ってしまってたみたいなんだよね」
「上島課長のことで、なんかあったんですか?」
思い切ってそう尋ねると、南さんはまた眉を寄せるような表情になって、
「違う違う、そんな訳ないじゃん」
とだけ、答えた。
そして、
「違うよ……」
と、言ったきり、うつむいて何も言わなくなってしまった。
お互い黙り込む気まずい時間がしばらく流れた。
すると南さんは頭をわしわしと掻きながら、
「あーもう、隠しててもしょうがないかー」
と僕の目を見ながら言った。
そして、何かふっきれたような表情になって、訥々と会社を辞めるに至った経緯について、僕に話し始めた。
去年の秋から、例の上司と不倫関係に陥っていたが、南さんが妊娠・堕胎したことをきっかけに、その関係も終わり、メンタル不調に陥った南さんは会社を辞めざるを得なくなってしまった。
文章にすると一行で終わってしまうくらいのことだったが、南さんはどれほど苦しんだことだろう。そのことを思うと、あの上司に対する憎しみが行き場をなくして破裂しそうになるのだった。
「一応言っとくけど、こんな話、誰にも教えたりしないでよ。まぁ、君はあの職場で誰とも親しくしているようにはみえなかったから、大丈夫だと思って話したんだけど」
「もちろん、誰にも言ったりしませんよ。だけど……」
僕はさっきから疑問に思っていたことを口にした。
「南さん、平気なんですか? なんでそんな元気そうにしてられるんですか? 退職する前の南さんの様子、なんかおかしかったし、あの頃に比べると今はずっと調子よさそうに見えるんですけど」
「そう、それなのよ。あたしが元気になった理由、知りたい?」
そう言いながら、南さんは鞄からチラシのようなものを取り出して僕に差し出した。
そのチラシには「宗教法人ヨアケの会」という文字が大きく書かれていた。
「どん底状態だったあたしを救ってくれたのが、これ。宗教っていうから、なんか怪しいと思われるかもしれないけど、全然そんなことないし、君も一度、話を聞きにこない? 君、いっつも一人で悩んでるみたいだもん。きっと役に立てると思うよ」
僕は苦笑いを浮かべながら、首を横に振った。
「いや、ほんとにおいでよ?」
南さんは不本意な表情を浮かべていた。まるで僕が首を縦に振るのが当然だと言わんばかりだ。その顔を見ていると、僕はうつむいて黙り込むしかなくなる。
しばらくそうしていると、しびれを切らしたのか南さんが、
「じゃあ、後で気が変わるかもしれないし、とりあえずお互いのLINEだけ交換しておかない?」
と、言ってきた。
僕は小さくうなずいて、スマホを取り出す。
心の奥底にうごめく怒りの感情が、行き場を求めてさまよっていた。
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