美澄 そら


 着飾っている女が、それぞれに手を伸ばす張見世。

 そこに一人の男が立ち止まり、値踏みするように女の顔をひとつずつ見遣る。

 男の鋭い眼が行燈に照らされて淡く黄金色に光る。爪は刃物のように尖り、突出した鼻と、大きな口は開けば牙が覗く。

 それから、見上げるほどの上背。風に揺れている銀色の毛並みの下には、筋骨が隆々としていて、重ねて着飾っている私よりも二周りも大きい。

 色褪せただんだら模様の羽織りを着た狼の獣人が、朱塗りの格子越しに私を見下ろしていた。


 日ノ本一の遊廓とは名ばかりで、この色街は人間の見世物小屋だ。

 来る客のほとんどは獣人や人外で、何が愉しいのか人間の女と夜を明かす。普通に抱く者もいれば、面白可笑しく観察して帰る者もいるらしい。

 人間を保護せよというおかみからの御達しがあるおかげで、乱暴狼藉は無いにしても、言葉よりも視線がうるさい。

 毛に被われていない無防備な肌。小さな目鼻口。この色街に居て、人間というだけで奇異な目に晒される。

 こんなところ、居るだけで気が狂う。一体何人の女が人外の者を厭い、畏れて、命を絶ったか。

 見世に出るときは、いつも明日は我が身だと思っている。

 しかし、そんな私の杞憂もどこへやら。

 一晩私を買った狼の獣人は何もしてこない。

 目線は常に窓の向こう。宵闇に何かを探しているように見える。

 ただ、言葉を発するなと言われているので、部屋の対角線上に音を立てないように座っていた。

 遠くの部屋が、やけに騒がしい。随分豪快に金を使う客がいるようだ。

 私が近寄り朱塗りの屠蘇器を差し出すと、獣人は黙って酌を受ける。

 酒が盃へと移るときの水音が部屋を満たす。

 静けさ。重石でも背負っているかのように、体中が重たい。

 嫌な客とまではいかないが、変な客に当たってしまったように思う。

 酒を注ぐだけなら、そこらの飲み屋の女でいいではないか。

 口を閉ざしていればいいなら、人形でもいいではないか。

 ここに落とす金は、私のような下っ端でもそれなりに高い。

 腑に落ちない。けれど、不満ばかり溜めている私の気持ちを汲んではくれない。

 空が白んでくると、獣人は微かな衣擦れの音だけ残して部屋を出て行った。


 何もされなかったのだともうすぐ年季上がりの姐様方に打ち明ければ、目を剥いて驚かれた。

 あんな薄汚れただんだら模様の羽織をこれみよがしにたなびかせて、田舎侍が女の遊び方も識らないってことかしらね。そう笑いながら、よかったじゃないかと私の手を取る。上に重ねられた手が、石のように冷たくて重たい。

 姐様の言葉が、今は何故だかするりと呑む込めなくて、私は適当に相槌を返した。



 驚くことに、狼の獣人はその夜も現れて、私を一晩買うことになった。

 まるで昨夜の繰り返し。

 黄金色の鋭い視線は窓の向こうの闇へと注ぎ、会話はない。

 また静かで、重くて――ふたりで居るのに、ひとりのような錯覚に陥る。

 なんてつまらないのかしら。

 そう思うのに嫌ではない。

 ただ、夜伽がなくて楽なんて、到底思えない。

 隣の部屋から、三味線の音と楽しげな手拍子が聴こえてくる。

 見世で姐様たちの口から溢れた、田舎侍という言葉が脳裡をかすめる。

 ひょっとして、女に興味無いのか。それとも私がそれなりに年齢を重ねているからか。二度も私を買っているのだから、それはないとは思うけれど……。

 いや、だとしたら、何故遊廓ここに。

 そんな行ったり来たりの思考を転がしながら、じっと獣人を見ていると、煙たいと言わんばかりに溜め息を吐かれた。

 なんだ、と地を這うような声がして、背筋がつっと凍える。

 いえ、と誤魔化すように微笑みながら、視線を逸らす。

 すると、四角い窓の向こう、深い宵闇のなかに白いものがちらついた。

 出窓から身を乗り出して、ふわり落ちてくる雪に手を伸ばすと、部屋の方へと力強く引き戻された。

 首筋に感じる柔らかな毛と、その奥にある硬くもしなやかな筋肉。あの大きな躰に抱き締められていると気付くと、小娘のように頬が熱くなってきた。

 腰に回された腕にぐっと強く力が入る。私の腰なんて容易く折られてしまいそう。

 彼は、お嬢さんが死ぬには早いと、その地を這うような低い声で、子供にでも言い聞かすように囁いた。

 お嬢さん、ですって。私が。

 可笑しくなって、頸を逸して、刃物のような牙を隠した口に接吻した。腰に回されていた、鋭い爪が伸びた大きな手を胸元へ誘う。

 他の男ならばそのまま触れてくるだろうに、彼はもう一度深く接吻すると、黄金色の瞳を潤ませてそっと体を離した。

 そしてまた、置き物のように互いに黙り続ける。

 窓の外では雪がしんしんと、私の羞恥や切なさといった心模様を映したように積もっていく。

 ――せめて、抱いてくれたらいいものを。

 昼間の姐様方の笑い声が、耳の奥に響いた。

 

 彼が帰り、すっかり陽は上った頃。

 汗を流しに湯屋に行けば、噂話で盛り上がっていた。

 湯船に浸かれば、いつの間にか囲まれ、かの獣人のお客人についてあれこれ訊かれる。

 一体何事か問い返せば、明け方に別の妓楼の近くにて辻斬りがあったのだと言う。

 だんだら模様の羽織を着た獣人を見かけたらしいけど、あんなの羽織ってるのなんて、あんたのとこに通ってたお客人だけじゃないかい。一人がそう言うと、待ってたと言わんばかりに、質問が矢継ぎ早に飛んでくる。

 どんな人なのか。何故人殺しをしたのか。

 さあとしらを切って返すものの、延々と繰り返される質問に嫌気が差して、躰が温まらない内に湯屋を出た。

 昨夜の雪が踏まれて、溶けて、土と混ざり濁る。

 識りたいのはこっちのほうよ。

 言葉を発するなと言われ、こちらから接吻しても指一本も触れてこない。

 好きで売女になった訳じゃない。それでも、あの空気で手を出されないなんて――。女としての矜持が傷付き、踏み荒らされたのだ。この土混じりの雪のように。

 馬鹿馬鹿しいけれど、識りたいと思ってしまった。

 あの狼の視線の先にあるものを。

 何故、手を出さないかのも。

 何故、私が落ちないように抱き寄せたのかも。

 獣人に興味を抱いたことなんてなかったのに。人と獣人が交わることなんてないと思っていたのに。

 置屋の戸を開けて、一歩踏み入れたところで腕を引かれた。



 街から少し外れた河原に連れてこられた私は、数人の男に囲まれて、雪の中に跪かされた。彼らは獣人ではなく私と同じ人間だ。仕立てのいい服に、刀を腰にぶら下げている。

 寒さと畏れで、口からかちかちと音がなる。

 雪に触れている剥き出しの足はもう感覚がない。

 先程湯屋で女達に訊かれたことを、そっくりそのまま男達に訊かれる。

 識らぬ存ぜぬを通していたけれど、寒さで意識が遠のき始めてから気持ちが揺らぐ。

 いっそ、嘘八百並べてしまおうか。

 そうすれば、この状況からは逃げ出せる。喧しくても我慢して湯に入り、躰を温められる。

 そう思うのに――なぜか、喉は軋み、涙だけが溢れ出る。

 私がいつまでも口を割らないことに痺れて、お役人は目の前の雪を鞭で叩いた。

 このまま打たれれば、万が一この場を凌げたとして、躰は傷付き売り物にならなくなるだろう。

 記憶も曖昧な幼子のときに売られてから、ずっとこの妓楼で生きてきた。躰が売れないなら、どうやって生きていけばいいのか。

 そんなもの、死ぬのと一緒だ。

 ぎゅっと目を瞑ると、聞き覚えのある低い声が待てと場を制止させた。


 それがし曽我部そかべ 矢車やぐるま。揚州の旗本、村雨様の御依頼の元、その女を調べておった。彼女は我が藩州の長、村雨様の御息女であらせられる。

 それ以上の仕打ちを致そうものならば、某がこの場にてたたっ斬る。


 顔を上げて、確認をする。間違いない。あの獣人だ。

 色褪せただんだら模様の羽織り。銀色の毛は昼間に見るともっと薄い色で、ちらと白い毛が混じる。黄金の瞳は、夜闇で見るより柔らかな蜂蜜の色だ。

 穏やかに見える表情と裏腹に、大きな手は腰の得物をぐっと掴んでいる。

 一度だけ、歌舞伎役者お客人がいたけれど、この獣人の方が絵になっていた。

 朗々と、こんな雪の中でも彼の声は遠く響く。

 私を囲っていた男達は、雪に足を取られながらも散り散りに去っていった。

 駆け寄ってきた獣人が、危ない目に合わせてしまい申し訳ないと謝る。心なしか、耳が少し下がっていた。

 貴女は幼い頃に匂引かどわかされ、ここに流れ着きました。ですが、正真正銘村雨様の娘です。某も師とともに手習いを手伝わせていただきました。見間違えようがない。

 今、揚州は政権争いが起こり不安定となっていて、それ故に貴女の噂を聞きつけて命を狙う者がおります。――貴女にはここを出てもらわねばなりません。

 ずっと、ずっと捜しておりました。

 先程、男共の前で朗々と語っていた人物と同じには思えないほど、彼は言い淀み、顔色を窺ってくる。

 時折鼻を鳴らし、瞳を潤ませて、はにかんだかと思えば、苦しそうに顔を歪める。

 ふたりで過ごした静かな夜。彼は何を思って居たのだろうか。


 昨夜の続き、してくれるなら構わないわよ。


 するりと彼の首に腕を回す。着物から覗く温かく柔らかな毛が凍えた躰に心地よい。

 あまり大人をからかわないでくださいよ、お嬢さん。彼はそう言いながら、私の背に手を回し――もう、どこにもいかないでくださいと、風に消えてしまいそうな声で囁いた。

 

 



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美澄 そら @sora_msm

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