かほり、高く

此糸桜樺

飛梅伝説

 あるじが家をたつとき、最後に残した言葉は和歌だった。いつも小難しいことばかり言っている彼にしては珍しいこともあるもんだ、と風は思った。


「行ってくるよ」


 主人の低い声が、白梅の幹にそっと降りかかる。

 しばしの後、主人は家に背を向け、歩き出した。もう一生、ここには帰ってこれないのだろう……。


 砂利を踏みつける音は、泣き声そのものだった。





 梅は泣いた。桜は泣いた。松は泣いた。風は泣いた。主人のいなくなった屋敷で、彼らは泣いていた。


 風はざあっと砂利を蹴散らした。

 おい、てめぇら、そんな辛気臭い顔してんじゃねえ。主人のためにも、春を忘れちゃあ駄目なんだよ。

 しんと静まり返った居間に、ふわりと風が吹く。主人が大事にしていた大量の書物たちは、もう既に知人に譲り渡された。閑散とした部屋に、寂しげな空気がわだかまる。その空気を一掃するかのように、風は縦横無尽に駆け回った。

 主人がいた頃は、漢籍は机上に出しっぱなしで、巻物は床に散乱したままなのが常だった。その度に使用人が仕舞い直していたものだが、その光景ももう二度と見ることはないのだろう。棚から出す者も、散らかす者も、読む者も、いなくなってしまったから。


 庭の真ん中で木がさめざめと鳴る。

 ねえ、私のこの白い花だけが、ご主人様の身の潔白を証明できるの。ねえ、みんなもそう思うでしょう。ねえ、私も大宰府へ連れていって。

 木々は知っていた。なにもかも知っていた。自分たちにだけ見せる、自分たちだけの主人の姿を。

 梅だけの秘密。それは、木影で昼寝をし、漢籍を読み、難しい顔をして空を仰ぐ姿だった。

 桜だけの秘密。それは、友と語らい、縁側で茶を飲み、巻物をくるくると巻く姿だった。

 松だけの秘密。それは、上等な墨を見定め、机に向かい、何やら書き付けている姿だった。







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東風こち吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

あるじなしとて 春な忘れそ

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春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けておくれ、梅の花よ。あるじである私がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。







 風は、はたと気がついた。

 ああ、そうか。そうだ、そうなのだ。これは、俺の、風としての使命なのだ。春の香りを乗せ、梅の香りを届ける。この庭を駆け巡る――風としての使命。主人に仕えるものとしての忠信。どこまでもどこまでも、高く、気高く、香り高く。必ずしや、あなたのもとへ送り届けることを誓おう。さあ、やってやろうじゃないか。これが私の最後の勤めである!

 風はぐるりと庭を吹きまわる。ぐるりぐるり。その勢いは増していく。ぐるりぐるり。ああ、松よ、桜よ、白梅よ! 準備はいいか!


──ざああっっ





 庭から消えた。木々が消えた。

 巻きあがった土と、散乱した砂だけを残して。

 そこにあるのは、

 ぽろりとこぼれ落ちた梅の花が一つ。



 桜は涙を枯らし、そのまま朽ちた。

 松は途中で力尽き、そのままそこに根付いた。



 ああ、梅よ! お前だけでもあるじのもとへ!

 ああ、梅よ! 俺たちの思いも乗せて!

 ああ、梅よ! 飛べ! 飛梅とびうめよ!





――それは、わずか一晩の間の出来事であった。





 主人は、優しく白梅の幹を撫でた。その手に応えるように、頭上で可憐に花が咲く。

 主人と同じ潔白な色で。


 高貴で優しいその佇まいは、大宰府の青空を少しだけ明るくした。





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かほり、高く 此糸桜樺 @Kabazakura

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