かほり、高く
此糸桜樺
飛梅伝説
「行ってくるよ」
主人の低い声が、白梅の幹にそっと降りかかる。
しばしの後、主人は家に背を向け、歩き出した。もう一生、ここには帰ってこれないのだろう……。
砂利を踏みつける音は、泣き声そのものだった。
◇
梅は泣いた。桜は泣いた。松は泣いた。風は泣いた。主人のいなくなった屋敷で、彼らは泣いていた。
風はざあっと砂利を蹴散らした。
おい、てめぇら、そんな辛気臭い顔してんじゃねえ。主人のためにも、春を忘れちゃあ駄目なんだよ。
しんと静まり返った居間に、ふわりと風が吹く。主人が大事にしていた大量の書物たちは、もう既に知人に譲り渡された。閑散とした部屋に、寂しげな空気がわだかまる。その空気を一掃するかのように、風は縦横無尽に駆け回った。
主人がいた頃は、漢籍は机上に出しっぱなしで、巻物は床に散乱したままなのが常だった。その度に使用人が仕舞い直していたものだが、その光景ももう二度と見ることはないのだろう。棚から出す者も、散らかす者も、読む者も、いなくなってしまったから。
庭の真ん中で木がさめざめと鳴る。
ねえ、私のこの白い花だけが、ご主人様の身の潔白を証明できるの。ねえ、みんなもそう思うでしょう。ねえ、私も大宰府へ連れていって。
木々は知っていた。なにもかも知っていた。自分たちにだけ見せる、自分たちだけの主人の姿を。
梅だけの秘密。それは、木影で昼寝をし、漢籍を読み、難しい顔をして空を仰ぐ姿だった。
桜だけの秘密。それは、友と語らい、縁側で茶を飲み、巻物をくるくると巻く姿だった。
松だけの秘密。それは、上等な墨を見定め、机に向かい、何やら書き付けている姿だった。
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あるじなしとて 春な忘れそ
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春風が吹いたら、香りをその風に託して大宰府まで送り届けておくれ、梅の花よ。
風は、はたと気がついた。
ああ、そうか。そうだ、そうなのだ。これは、俺の、風としての使命なのだ。春の香りを乗せ、梅の香りを届ける。この庭を駆け巡る――風としての使命。主人に仕えるものとしての忠信。どこまでもどこまでも、高く、気高く、香り高く。必ずしや、あなたのもとへ送り届けることを誓おう。さあ、やってやろうじゃないか。これが私の最後の勤めである!
風はぐるりと庭を吹きまわる。ぐるりぐるり。その勢いは増していく。ぐるりぐるり。ああ、松よ、桜よ、白梅よ! 準備はいいか!
──ざああっっ
庭から消えた。木々が消えた。
巻きあがった土と、散乱した砂だけを残して。
そこにあるのは、
ぽろりとこぼれ落ちた梅の花が一つ。
桜は涙を枯らし、そのまま朽ちた。
松は途中で力尽き、そのままそこに根付いた。
ああ、梅よ! お前だけでも
ああ、梅よ! 俺たちの思いも乗せて!
ああ、梅よ! 飛べ!
――それは、わずか一晩の間の出来事であった。
◇
主人は、優しく白梅の幹を撫でた。その手に応えるように、頭上で可憐に花が咲く。
主人と同じ潔白な色で。
高貴で優しいその佇まいは、大宰府の青空を少しだけ明るくした。
かほり、高く 此糸桜樺 @Kabazakura
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