「ああ、それは危ない物が仕舞ってあるからいじっちゃだめだよ」

 ──はたと、意識をPCディスプレイから現実に向け直すと、姪っ子が保護犬の影さながらに部屋の隅っこでうずくまっているバックパックをいじっていた。……あわてんぼうのサンタクロースの忘れ物とでも思ったのだろうか。

「だって、こたえないから」

「あれ。なにか聞いてた?」

 姪っ子は素足でとたとたと近寄ってきて、PCディスプレイに表示されたWordの文章をそれらよりも更に細々とした爪で、こちこち、叩いた。

「むずかしい字は、瑠璃、読めないの。なんて読むの?」

「ああ……瑠璃ちゃんの未来は祝福で溢れている、って書かれてあるよ」

 なめしたようなまなじりで憐憫を表明してみせるマコトに、恐らくは捨て犬のような険しさでガンを飛ばしてやる。

「瑠璃ちゃんのお父さんは、ショウくんって呼ばれてたね──ああ、私はこうやって意味を繋げる作業が好きなんだ。外の世界ではいつも蚊帳の外で、ありとあらゆることが意味不明なんだもんさ。ここには自分しかないし、たとえつっけんどんな時があっても、最後には全部が味方になってくれる。……そんな力を私だけでも信じてやらなきゃ、この物語が虚し過ぎる」

 か弱そうな蕾が禍々しい花を開かせた瞬間を目撃したように、姪っ子はまだ純粋な疑問のみを漲らせた瞳を、瞳孔が目立つ望実の瞳に向けた。

 そこに映る自分のみすぼらしい姿を認めた途端──もうこれ以上はこうしていられないな、と、恐怖心を律することができた。……ああ耳が痛い、ほんとうに──それでも、痛みのはけ口を姪っ子に向けてはいけないのだ。

 望実が大人になって、なおも子どもに自己投影の眼差しを向けてしまうのは、かつて負った傷の痛みを未だに憶えているからか、はたまた、みっともないだけの甘ったれか……どちらにせよ「子どもに絶望を語るのはなんとしても罪なことだ」との思考にいっそ偏執狂なまでに憑りつかれているのは事実であって、それの原因はともすると、これまでに縋ってきた物語の影響なのかもしれず……──言葉は祝福にもなるし、ある時には呪いにもなるんだ──望実は「頭がおかしい」だとか「気味が悪い」だとか、ありがちな言葉で罵られないぶん余計にいたたまれない気持ちになって、ぎこちない手つきでも、小さな生き物のふわふわ頭を誤魔化すように撫で擦った。

「たくさん話し相手になってくれて嬉しかったよ。でもあんまり、ここに顔を出さないでね。ママにも言いつけられてるんだろうし、瑠璃ちゃんはもっと他の楽しいことを山ほど知ってるんだろうから、そっちしなね」

「うん……あのね、パパとけんかしたんだと思ったの」

「誰が?」

「えっと……のぞみちゃん? が。パパの話のとき、ママここ見て怒るよ」

「そっか。悪いことしたね」

 お荷物だと本心で思ってるんだろうな──大事な曲を幾つも贈ってくれたポップスターが知らせてくれたように、人間関係なんて代替可能な代物だ。幼少の頃の思い出をいつまでも抱えている望実と違って、まともな成長の道のりを行った姉にしたら、こんな、素敵な人々との出会いで変革したのだろう価値基準に逸脱した妹など邪魔っけな障害に過ぎないんだ。

「やっぱり、けんかなの?」

 姪っ子が不安そうに口にする。あんまりに可哀想で、生きていられなくなりそうだ。

「どうかな。諍い合ってるって意味ではそうかも。私の頭が原因だから、仲直りしてくるね」

 そろそろ、お互いに言葉を噛み砕くことをしないせいで噛み合わない会話にうんざりしてきた頃だ。姪っ子は緊急離脱装置さながらに便利な眠気を発動させた眼で、退室の願いを訴えた。……こんな子どもを引き留めるほど、化け物は人に飢えてない。

「おやすみ。元気でね」

「うん、おやすみなさいませ。ひとりで戻るからだいじょうぶ」

 去り際に、妙ちきりんな言葉遣いでおやすみの挨拶を済ませた姪っ子は、大好きなんだろうママの許へ、すたこらと駆けていった。

「仲直りって、どうするの」

 ベッドの下から怪談話の幽霊もかくやの様相で這い出てきたマコトが、怪訝そうに訊いてくる。どうやら、ただの子ども騙しだと思っているらしい。若干、気に障る。

 自分ほど対等に子どもと接することを試みている人間は数少ないとの自負があるのだ。泣いた理由を虚飾したくせ調子いいが、あれは姪っ子のためになることなので問題ない、と、独りでに結論づけている。

 言いたいのは、例えば責任の追及を逃れるために子ども騙しの噓をついたりはしないつもりだ。それでも結局、大人として曲げるべきところを真っ直ぐにしたまま向き合うせいで、大人の庇護に慣れている子どもからは大抵、気味悪がられるし、そうでなくとも姉を筆頭とするような周囲の大人に遠ざけられる。……踏んだり蹴ったりだ。

 もしも神様がいるのなら、自分はもっと上手いことできる人間のために作られた試作品なんだろう……かつての友達に「暗い」と評されたようなことを、私は未だに考え続けている。

「仲直りは、仲直りだよ。私が現実と絶交してきたせいで、世界は異常な流れに呑まれてるんだ」

「それと猪口夫妻のセックスレスがどう意味を繋げるの」

「それは……」

 口ごもっていたところで、再びの着信が来た。マコトが一瞬、出鱈目に塗り潰したような恐ろしい目つきをして、ベッドの下にのろのろと引っ込んでいく。

『おい、なんで切った』

「ごめん、不慮の……そういうの。かけ直そうにも番号知らないし……一方的に教えたんだっけ」

『なあ、悪いとは思うけど、もう話しちまった以上はしょうがないとも思ってる。望実は変な奴なんだろ。荒唐無稽なことだって信じるよな?』

「血とか言って、なにかあった?」

『人みたいなのを殺したんだ。たぶん、殺しにかかって来たからさ』

「君は無事なの?」

『今のところはな。例えば世界中がゾンビまみれになったら、望実は一つの所でじっとしてるか?』

「うーん、創作物だったら序盤で脱落するのが定石だけど、きっと、そうするしかないかな」

『だろうな。どうやら別人らしいって今は分かってるけど、電車のホームでビザールを引き留めた時にさ、似た者同士だけど反対だって思ったんだ。俺がやりそうなことの反対を、あんたはやる。原材料は同じでも加工法が違うんだな。ってことで、俺は俺をつけ狙う連中がいる今も外をほっつき歩いてるよ。通行人なんかがいつも以上に普通に見える……地球上の人口が七十億を越してる事実が嫌んなるくらいさ。…………なあ、今度はそっちが黙りきりだけど、聞いてる?』

「うん。ちょっと考え事してて。たまにするんだ、タイムスリップ。ねえ、あなたを追っかけまわしてるのってさ……そのやつ、本当に殺し切っちゃった? ゾンビの例え話をした辺り、微妙じゃないの?」

『やっぱそういうの分かるんだ。こんな有り様を見たお仲間がビビるんじゃないかってさ、人みたいな死体みたいなのは動けないように放置してる。今はカモフラージュできるものを取りに行ってるんだ。……どうしたらいいかな、この次は』

 次。

 私は途端に、閉口してしまう。いや、そう。そうだ。次を考えないと。異常な流れを断ち切るためには〝次〟の展開をどうしたら

 ──どうにかしようとしなくても、どうにかなっていくことなんだよ。

 ……かつての友達に突き立てられた言葉が急激に引力を帯びる。あれは、どんなタイミングで言われたんだっけ。見事に記憶の蓋がされているけれどもどうせ、いちいち感じやすい私への苛立ちをとうとう募らせた友達が──あんなに度量が広い子そういないと思うのに、そんな彼女でさえも苦言を呈さずにはいられなくなるほどパニックの発作を見せよったタイミングで、だろう。


 いつも不安そうな面持ちをしている彼女は、きっと僕の誕生日も素直に祝えないんだ

 

 なにかの物語で綴った文章が意識に割り込んでくる。マコちゃんは私が物語を綴ることを〝まとも〟だと思っていなかったな。だからこそ、あんな言葉を注意書きみたいに突き立てたんだ。正しいな。正しくて眩しくて、目が細まる。瞼の裏にちらちらと明滅するシグナルに呼応するように手のひらの毛細血管が収縮する──そんなイメージが浮かぶと同時に痙攣が始まる。……冷汗はまだだ。だけど、よくよく思い知っている。悪いこととは一瞬で始まるくせ、長引いて終わる。

 ──なんで、パニックを起こすの? 

 私は、なんと答えただろう。あれもこれも防衛本能の顕れなんだと、孤独で虚しい肯定の副反応なんだと現在も過去も考えているようだけれど、果たして、それを誰かに伝えたことがあったかな。

 冷や汗が流れる。動悸がする。〝過呼吸の時は、息を吐くことに集中するんですよ。たとえそうだと意識できなくても息を吸い過ぎてますよ。〟だけど、私はこれがどうにもヘタクソで、息を吸ってるんだか吐いてるんだかこれどっちなんだってその内に分からなくなる。目処を付けるために「ハアー ハアー」と音声にしている。うるさいよねって手近なクッションを口元に押し付け続けていると──まるで引力にやられたように、今度のこれも同じような展開を辿ってしまうのだ。

『黙ってるだけじゃ分からないよ』

 傷まみれの過去に蓋をしている瘡蓋を引き離すかのような痛みに堪えつつも、私は目を瞑って〝自分の頭に頼って、抑圧せずに真っ新な気持ちで〟 こんな現状を迎えさせるに至らしめた〝原因〟を……かつての出来事を必死な気持ちで回想する。


 ──マコちゃんと出逢ったのは、中学二年生の頃。親しみのない教室で対面した時は、お互いにビビッときた、わけでもなんでもない。

 私の方では〝みんなの目を引いてるし、なおかつ衒いが無さそうだし、吞気に生きていられそうで羨ましいなあ〟で、マコちゃんは私のことを、後から聞いたところによると〝絶対に苦手なタイプだ〟と感じたらしい。

 そんな具合の出逢いで、どんな風に仲良くなって……例えば、お互いの家をなんてことない用事で行き来したり、マコちゃんとこの飼い猫の通院に付き添うようになったのか……このことについては、マコちゃん以外に友達がない私には見当もつかない。

 自分だけが自分と価値観を共有できる。齟齬は嫌だから他者とは関わらない。──そんな性質を、たぶん何かの手違いで生まれながらに織り込まれ済みの私からして、マコちゃんが友達でいることは不思議だった。

 ──いっそ、些細な物事の考え方も、趣味から何まで価値観が違うのによく一緒にいられるよね?

 そんな風に尋ねたら「こんなに仲良くなるとは思わなかったよね」と、あんまりまともには取り合ってもらえなかった。

〝人は独りでは生きていけない〟

 そんな言葉にずっと反感を抱いていた、私だけが味方の私が、徐々に手のひらを返されていくようだった。

 そんな折だ。世界が未曾有の混乱に吞み込まれた。

 その頃にはもう通信制高校でのレポート提出の形式に慣れ切って、外に行く用事も無いからと平気で引きこもっていたくせ、殆ど神経症のような程度でコロナ感染症対策に励んでいた私は、あんまり未知のウイルスの猛威を気にした風でもないマコちゃんに誘われて、外に出た。

 緊急事態宣言が明けて間もない晴天の日、考えようによっては最も罹患の危険性がある時期だ。

 カラオケに行って、気兼ねなくマイナーな楽曲を歌ったり、片や、ジブリの楽曲を代わり番こに歌ったりした。

 書物に囲まれていると気分が悪くなる……と言いつつも、結局は付き合ってくれるマコちゃんの心根の良さにつけ込んで、本屋にも行った。

「一番、好きな本ってなんなの?」

 書棚に並べられた文庫本を無為に出しかけたり押し込めたりしつつ、マコちゃんは訊いた。

「究極の問いだね……読書の原体験は『星の王子さま』かな。あれで物語の力を信じるようになったんだ。サハラ砂漠に不時着したパイロットが星々を旅してる王子さまに出会うんだけどさ、作者のサン=テグジュペリもパイロットで、砂漠に不時着したことがあるんだよ。終盤の締めくくりがまたよくてさ、君たちも王子さまに会った時は、よろしく伝えといて、って、そんなの最高じゃない。王子さまはいるんだって信じていれば、王子さまはいることになるんだよ」

「後ろ、人通るよ」

 マコちゃんは栓無きことみたいに、視野の狭い私の背中を押した。

「マコは文字ほんと無理だから。漫画でギリよ」

「漫画もいいよね。見に行こうか、あっちにあるよ」

「いいよ。小説見たいんでしょ」

「うん、でもなんか最近は……ぐったりしちゃうことが増えたんだ。なんていうか、みんな本当に現実に打ちのめされて、物語に縋る以外になくなって書いたのかしら、って、うたぐっちゃうことが増えた。巧くて、整ってて、矛盾が無くて……非難されない程度の労りと、みっともないカタルシス。それだけみたいでさ」

「はーん? でも、本屋さんに並んでるってことは凄いことじゃん」

「うん、そうかもしれないね」

「それで、自分で書いてるんだ。マコには無理だよ。なんか受賞したらさ、賞金で海外旅行とか行こうよ。ニュージーランド行きたいって言ってたじゃん」

「そうだね。じゃあ、もっと頑張らなきゃだね」

「おー、頑張れ、頑張れ」

 そんな思い出の外出の直後に、マコちゃんはコロナに罹った。焦った私を揶揄うように、電話越しのマコちゃんは言った。

『マコから誘ったことなんだから、のんちゃんが申し訳なく思うことないじゃん』

「いや、そうなんだろうけど、実際に罹っちゃった以上はさ。なんも思わないわけにいかないよ」

『まあいいけど。それで治り早くなるわけじゃないから。もー最悪だよ。ほんと、ムカつくなあ』

 そのことで自責の念に駆られた挙句にイカれた頭の具合をなお悪くするほど、私は私の判断力に思い上がっていない。ただ、外に出ることがそれまで以上に億劫になって、閉じ籠もったのは事実だ。

 三桁いくかどうかの閲覧数しか付かない小説を投稿サイトにアップしては、その都度その都度のユーザーに正体がバレているかもしれない惧れを抱きつつビザールとしての役目を果たし……そんな、大多数の人間にはエディットされる日々が続いていた。

 マコちゃんは後遺症で鼻が利かなくなって、あんまり集中できなくなっていた──鼻炎だし、勉強サボりた過ぎて錯覚してるのかもしれないけどね──……自然体に前向きな感じで振る舞うマコちゃんは、ある日、私を電話で呼び出した。

「もしも、諍い合った後に友達でいられなくなっても、味方でいてくれる?」

『どう違うの?』

「……分かんない」

『一緒でしょ。ところでさ、今ちょうど家の近くにいて。話したいことあるし、出てきてくれない?』

 話の件は、ビザールの事だった。

「噓が無い関係だと思ってた」

『耳をすませば』で、雫ちゃんと親友だった女の子の名前はなんだっけな──そんなことを、迫り来る絶交の予感を振り払おうとするように考えつつ、私は、どんな態度でいるべきなのかを計りかねていた。

 あんまり心当たりがない風だと苛立たせてしまうかもしれないし、とは言え真逆の態度を取れば開き直っているように見えるかも──対人関係における因果の方程式は分かっている方だと思うけれど、しかし、分かっているだけだ。

 私は、きっと傍から見たら気の毒なくらいに狼狽えていて、しかし、実際に正しく気の毒だったのはマコちゃんの方なのだ。

「なんかさ、まだやってるじゃん相談室みたいなこと。あんな目に遭ったのに」

「うん」

「マコだって色々心配しててさ、ビザールに会ったって人のレポとかたまに見たりしてるんだよ。知らなかったでしょ」

「でも、口外禁止だよ」

「まだ、そんなこと言ってるの。ただの口約束じゃん。っそういうとこのせいで軽く見られてるのとか、なんで分からないの」

「マコちゃん、怒ってるの。……怒ってるね」

「怒ってるよ。友達だと思ってたから」

 そんな辛いことを言い放った後で朗々と読み上げられたのは、薄ぼんやりと記憶にある……確か、ボイスメモからもすぐに消去した類のユーザーとの会話内容だった。

 名前も顔も知らない、関係性も何も無いユーザーは殆ど当時の自分に起きたことと同じような出来事をさもさも苦しげに語っていた。彼の場合、コロナに罹った方の友人は大事な試験を控えていたのに自分が誘いを拒まなかったせいで叶わなくなったんだとかどーとかで、事態は些か深刻そうだったけれど。

 だけども、仲の修復や償いや何やかやは当人同士でどうにかすることだ。たぶん、その時は〝ビザールとして為すべきはユーザーの心を慰めてやることだ〟とか、考えたんだろうし、きっと、いまの私でもそうしてしまう。

 マコちゃんが怒っていたのは──かつて私が伝えた「君は悪くない」の言葉で……いいや、そんな直截的な言葉は、どうせ掛けていない。


「そんなに思い詰めないでほしい。完全に以前の状態に元通りという訳にはいかないだろうし、二人の関係性を子細には知らないんで簡単に励ますことはできないけれど、ずーっと強大なままの障害は、きっと、そんなにはないはずだよ」


 ……こんなところだろうか。まったく、これがお笑い草だと感じられる精神状態にまで数年経っても回復しないでいる自分の弱さが、いっそ笑えるくらいだ。

 後々になって〝あんなことを言われたからだ〟と、思い当たられることがないようにとばかり威力を抑えて──まるで曖昧な雲のように遠くて捉えどころがなくて、それでいて有無を言わせない──有無を言ったってしょうがないと諦観混じりの平静を齎すための言葉は、しかし〝のんちゃん〟を知っているマコちゃんにとっては、さながら積乱雲に放り込まれたみたいに深刻な威力を持っていた。

「マコの前では、あんなに、悪い悪い言ってたじゃん」

「それは、本当に思ってるよ」

「じゃあ、この人に言ったことは嘘?」

 ここで「そうだよ」と、過去の自分の気持ちを顧みないことができる人間ならば、こんな顛末を辿ってはいない。

 私の足は、がくがくと震えていた。小学校の運動会でスタートラインに立った時みたいだ──私には、どんな形式にしろ争い事が性に合わないのか、もしくは過ちを責められることが恐ろしいのかどうかが計れない、ので、どちらでもありそうだということにしている──醜態を目撃した面々に揶揄われるかと思ったけれど、結局、誰にも指摘されなかったのは、非戦の心があまりにも惨めに映ったからか。

 運動会の時はバレないのが吉だったけれど、マコちゃんに詰められた時は否だったかもしれない。

 私の足、震えているよ──正直に伝えれば、心根の良いマコちゃんは、きっと、手加減してくれたはずだ。

 だけども、私はそれをしなかった。「──どうにかしようとしなくても、どうにかなっていくことなんだよ」……この言葉を突き立てられたのはこの時だったかな? 行き場の無い焦燥に外界からの情報が狭窄し過ぎたせいで記憶はあんまり定かじゃないけれど、こちらの方の言葉は──なんせ、逡巡という自閉に現実逃避への言い訳を探し求め得ようとした私の口を割らせるほどの威力を持っていたのだ──今でも耳元で響く程度には克明に記憶している。

「黙ってるだけじゃ分からないよ」

「私、傷つけちゃったかな」

「こんなことで傷つかないよ。ただ、怒ってるの。この言葉が噓じゃないなら、マコに言ったことは噓じゃん。なにか、言うことあるよね」

「…………マコちゃんは、噓ついたことないの? 違うよ、逆ギレじゃなくて……その人に伝えたことは噓じゃないし、マコちゃんに悪い気持ちも本心だけど、でも、」

「ないよ。マコはいつも正直だもん。そっちは、違うの。好かれようとしてマコといるの?」

「そうかも、しれないよ。だって……」

 この辺で、私は謝らなかったことを生涯ない程に悔やみだした。

 謝ったら、マコちゃんに悪い本心が嘘にされてしまう、なによりも後遺症の実害が出ている時点で私の謝罪なんぞ身勝手なものにしかならない、だから謝らない……とかでは、なかった。

 私が「ごめんね」を言えずにいたのは、怒りのせいだ。

 私は、いっちょ前に怒っていた。私は、そんな状況になってようやく、この身の上に受けたあらゆる理不尽な事柄に怒りだした。

 普通じゃないから。

 正常じゃないから。

 理解できないから。

 そんな、理由にもならない理由で人を傷つける連中のことを、生きていられなくなりそうなくらいに思い出した。マコちゃんが誰よりも──私よりも怒ってくれたことを、カッとなって忘れた私は〝意地でも謝ってやるもんか〟とか思っていた。

 ──私が私の気持ちにすなおでいることを、どうして、そんなにも憎むんだろう。

 それでいて──幼い頃に関わった大人達に散々矯正を試みられた挙句に天邪鬼が発揮されるだけの帰結となった「もうしません」も、言えずにいた。こっちは〝またしてやるよ〟とかの意地じゃなくて……どうせまたする、そう思った。

 私の〝なりたい〟は誰かの〝なって〟だ。

 だけど、それは私が私である限り叶わない。

 ──……かわいそうだね。

 私が私であるせいで受けた暴力に対しての一言は、精いっぱいの強がりだ──他の誰にもしてもらえないからと私自身でした肯定も、今度はマコちゃんの否定があるせいで、本当の嘘になりそうだった。

 マコちゃんは、私の言葉を待ってくれていた。

 いっそ、無視して歩き去る人間だったらば、ここまでの痛みは感じなかったのに──そんなことを本気で考えた私は、話にならないくらいに弱い人間なんだろう。

 私は私に自信を失くしたままで、精査する気力も無く呟いた。

「友達で、いられないよね。でも、味方でいてよ」

「どう違うのって」

 ──肯定だけ、してよ。

 ……パッと思い浮かんだ言葉は、けれど、吞み込まれた。マコちゃんは私の沈黙を躊躇ではなく、ただのまごつきに捉えたらしい。

「一緒なんでしょ」

 ──そうやって、私たちは絶交した。


 思うに、現実は曲げるところだ。その場その人の求める型に、痛みながら、苦しみながら、自分を合わせるところだ。自分はいつも正直だと豪語してのける人間は、わざわざ自分を曲げる必要が無いくらいに、そもそもの形が馴染めるように出来ている。

 私は──もっと上手いことできる人間のために作られた試作品……そんな風に思い知らされながらも〝なりたい〟を目指し続けてきた。それでも、現状はこうなんだ。笑っちゃうくらいだな、いや、誰も笑えはしない。

 だって、現実に私の存在は荷物になっている。たとえ、身内を匿うための措置なんだとしても……ここの安全は誰かの不安で成り立っている。そのことを思い知らされてしまった以上は、もう、こうしてはいられないのだ。

 物語を綴ることは〝まとも〟じゃない。そんなのは、ああ本当に、嫌になるほど正しい言葉だ。

 取り落としたスマートフォンを拾うよりも前に、デスクに突っ伏すような体勢になって身体を震わせる。涙が滲むし、ちょうど人体の高熱ぐらいに熱く湿ったクッションに一定のリズムで呻き声を吸わせているし……この苦しさ無情さと言い、伝染病に罹った見込みない奴の生き埋めみたいだ。全然、健康体のくせに。

 ああ、正しい光が必要なのに……マコトがマウスを握る私の手に掌をのせて、何を企んでいるのやら『nonma』との、テキトーが西洋風のおめかしをしたようなタイトルが打ち込まれたファイルを開いた。

 中身はこれまでに私が作成してきたWordの数々だ。日の目を見ることがなかった物語の数々、と、あえて言い換えることもできる。先ほど作成した『ラブドール・エンジェル』のタイトルが目に留まった途端、私はキーボードに添えられた爪の長い指先にグっと視線を落とした。冷たいブルーライトが薄ぼんやりと手元を照らしている様を見つめつつ、ふと思い当たる。

 ともすると、私がいままで言葉にしてきて正しかったことは何一つとして無いのかもしれない。


<君は、悪い子じゃないよ>


 私は何をしてきたんだろう。

 何をしている間に、いったい幾つの何が手遅れになってしまったんだろう?


「君は、もっと早くに気づいておくべきだったよ。君はもう失敗したんだ。取り返しがつかない失敗を……だけど、それでも向き合い続けた君だからこそ、こんな展開も生まれた。


 こわい、こわい、おそろしい、と思う。【誰が?】私だ。もちろん、私だ。私が語り手なのだから、すべての言葉は私のものだ。

17

 私にしか私は救えない。そして、私はきっと私にしか殺されてくれないだろう。【救うってなに】なんなのだ。君が誰だ。

「誰って、マコトだよ。一回落ち着こう? それで、丁寧に読み直そう。ずっと、そうやってきたでしょ。野垂れ死にかどうかまでは読めないけど、これからまた色んな齟齬に打ちのめされても平気でいられるほど、君は強くない。ずっと連れ添ってたら分かるもんさ。ね?」

「でも、これ以上はこうして」

「いられるって……ちゃんと、思い出して。信じるって言ったばかりなんだから、早々に物語を降りちゃ駄目だよ」

「思い出すって、なにを」

 ──井桁さんの物語は、なんか少し光ってるみたいで。

 ……意味が分からない。だけど、知っている。心に近いところに在る言葉は、絶対に秩序からは遠ざかっている。

 そしてそれは「ごめんね」とか「あなたのことがだいすき」とか、単純かつ、故に複雑な事象が絡み合う現実で説得力を持つには脈絡が無さ過ぎるようで──登場人物やら、相関関係やら、世界観やら──そういったしゃらくさい設定を複雑に絡めた後でようやく、信じられそうな気になれる代物なのだ。

 よくよく考えれば、おかしな話だ。それその言葉自体を真実だと信じているが故に、その言葉が信じられるように噓を飾る……物語を綴るとは、畢竟、そういうことだ。

 人が死ぬ物語や、人を愛する物語や、人に許される物語に共感する……それは、人が誰しも死ぬことや愛する心や許してほしい気持ちが、元々〝真実〟として人の中に在るからこそだ。

 だから、表現は狡い。そして、表現者が驕るようになったらおしまいで、小説が狡くならないのは語り手が真摯に向き合うためだ。

「惨めで、まともではなくて、現状を見渡してみれば正しくもないんだろう。……だけど、君がいなくなることでしか迎えられない結末なんて噓だよ。それこそ、本当の噓だ」

 マコトは、私に優しい言葉を掛けてくれる……そうなのだ。

 どれだけ現状が正しくなくても、どんなに心許なくても、本来の希望にそぐわなくても、私の手元には光がある。それを〝噓だから〟と、異常な流れ諸共断ち切ることができる人間ならば、そもそもこんな顛末を辿ってはいない……

「君は、たとえ薄暗い部屋に閉じ籠もっていたんだとしても思索には胡坐あぐらをかかなかった。傍目には停滞しているようでも移動は絶えず続けていたんだ。とは言え、今は無理だよね。パニックの発作に思索が通用しないことは分かり切ってるし」

 ……とは言え。そう。とは言えだ。

 私の動悸は律したはずの恐怖心を煽っているし、パニックの発作の心的要因とも呼べそうな、目の前の光を捉えるために幾つもの何がしかを手遅れにしてきたことへの心残りも現状悪化に加担しているし……私の頭が周囲の思う程度にイカれていれば、いっそ、私にとっては僥倖だったのだ。私は、私のしている行為が文字通りに現実逃避だと認識できて、時々は咎めてしまうくらいには〝まとも〟に侵されていた。

 何度も何度も現実に打ちのめされた時、逃げ延びた先は物語だった。〝孤独だ〟〝死のうか〟と感じた数多の夜における未来の今、生きていられているのは物語のおかげだ。だけど、現実に身を置こうとする私がそれを嗤う。言葉が、血の色に染まる。

 カチコチ、カチコチ…………秩序が必要だ。なのに、右耳の具合がずっと悪い。ぶっ叩かれたせいだ。そして、ぶっ叩かれたのは私のせいだ。

 1と7って、似ているんだよな。壁掛け時計がずっと秒針の音を鳴らしている。カチコチ、カチコチ……動悸とタイミングが被っていくような感じがする。このままだと身体が時限爆弾になるぞと察した私は、探し当てようと決める。

【何を?】

 鋭利な物。動脈? 導線を断ち切れる、ナイフとかいった物。

 マコトはバックパックの傍に座標を変えている。回転椅子の淵に踵を掛けながら両手を胸の前に寄せている私の代わりに、非常時用のサバイバルナイフを探り当ててもらう。

   カチコチ、カチコチ、カチコチ……

 ひとまずは動悸を止めるために、皮膚に透けた青い導線の上へ刃を当てよう。こんなのは左右のどっちを切ろうが確実に停止するイージーゲームだ。

 カチコチ、カチコチ……「君は今、閉じた状態にある。それはさながらサナギみたいに。この身体を外へと運ぶ足は無いんだ。現状を嘆くための声帯も不完全だし視界は水中のように不遼であって、まともに制御が利くのは自意識ばっかで膨らんだ脳みそと、その賢明な両手だけだ」

 触覚が空気中に霧散していく手で革製のカバーを外すと、真っ新な刃にみすぼらしい姿が映り込む……マコトに唱えられた瞬間、あ、嵌められたな、と思う。

 私は空のスプレー缶の噴出音めいた声しか出せなくなっているし、立ち上がれもしない。PCデスク前の回転椅子に腰掛けながら、キーボードに添えられた五指で打鍵することしかできない。

 同調だ。

 これは最早、一種の催眠のようなものなのだ……今更ながらに思い至る。私のこの力にますます拍車がかかったのはカウンセラーによる精神療法のためで、あの時、一人ごちていた〝他人の精神に介入する仕事で自分の精神やられたりしないんだろうか〟の疑問に対する解答が思いもよらぬタイミングで寄こされた感じだ。

 結局は私も人の子なのだと、嬉しいやら悲しいやら、とにかくマコトの思惑通りに仕立て上げられている状況に思い至らされる。

〝深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ〟……ニーチェの言葉は正確だ。かつて、患者のより深層に心の不具合の原因を究明しようとするカウンセラーから他人の精神に介入するコツを会得した時のように、この頃は散々リトルプレイヤとして活動してきた私の精神もまた他人に介入され得る淵に在ったわけだ。

 マコトはバックパックの上にどっかと腰を下ろして、サバイバルナイフを片手にクルクルと回して言う。

「君の文章の課題点はリーダビリティをもっと向上させることにある。気持ちの先行は読ませる力に繋がるけど、あくまでも商業作品として成り立たせるには読みやすくもないと駄目なのでね。あと〝──〟が多いね。ダッシュね。──活用したらいいんじゃない? 文章のテンポが良ければ読者をのめり込ませられるけど、一人称視点で展開させていくとなるとそのぶん独りよがりにもなっちゃうって指摘されたの憶えてる?」

 大人の男の人の声色になったり、マコトらしいソプラノアルトの声音になったりして気持ち悪い。左目がすがめられた表情を嘲るように鼻を鳴らした後で「返事を待たせてる」と、マコトは空いている方の手に〝──〟を持った。

 マコトとの同調を完了された私は片手に〝──〟を、片手に抜き身のサバイバルナイフを持っている。そして、革製のカバーを緩慢な動作で当て直した時、ふと、くだらないことを思った。

 ──サバイブするための道具なのにな。

 次いで、おばけのそれだと聞き紛うたとしても致し方無いような笑い声が、重苦しくて息苦しくもある夜が制圧している部屋に微かな切れ目を、ふ、ふふ、と入れて、混沌を追いやらんとする秩序が換気されたかのように意識の端がぴちぴちと冴えた。

 動悸も徐々に鎮まる。余裕が無い時は特にTVショーを筆頭とするような笑顔の人達に見境なしで悪感情を抱きがちだけれど、なかなかどうして、ユーモアという奴は陽気な方面へと人の精神を流そうとするものだ……笑いとは、張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である。これは、イマヌエル・カントだっけ?

 なんにせ、私が強く握っているのは〝──〟の方なのだ──望実はまず〝──〟を活用して足元に落ちたまんまのスマートフォンを手の指の届く位置にスライドさせる。こんな用途で活用させる〝──〟ではないのだろうということは、当人もなんとなく理解しているが、それにしたって物事に丁度いい長さだ。さながら秩序の象徴というような……武器を放棄して手にした〝──〟を縋るような力を籠めて握りつつ、望実は下唇をしがんで、祈る。

 ──どれだけ足掻いても、結末は犬死ににしかならないのかもしれない。だけど、これは私が始めた物語だから、たとえ誰に望まれていなくとも信じなくてはいけないんだ。この先に祝福があることを……そして、それを今から迎えに行く。

 こうしてまた、現実に処理すべき出来事がおざなりになる。頑張って頑張って頑張った後にはとびきりの充足感がご褒美として待ち受けている訳でもない。言えなかった言葉を詰め込んだ物語がまた一つ完結した後で自らの現状を手ずから確認し直した時──私はきっと、絶望する。マコトの甘やかしだって、私の情緒と同じく不安定なものだ。

 だけど、物語を綴る時には、既に結末は決まっている。たとえ、語り手本人が思いついていないつもりでも、だ。物語の構造は6種類に分類できるとされているし、そうでなくとも今回の『ラブドール・エンジェル』で言えば〝反出生主義〟を根幹にした際のストーリー展開など、無数に分岐はあると雖も自明であることに揺るぎはない。

 それは何故か──望実は自問する──それは、私が私であるためだ。無数の分岐が消えることに喪失感を覚えつつも〝まともな人間〟からすれば〝異常だ〟と下されるような気持ちで物語に向き合うこと、それは、少なくとも私にとっては……

 一概には、なんとも言えないことだ。たとえ、何万字を費やしたとしても明確な言葉にできないこと……できてはいけないことは在る。

 そういった事象に再び世界は引き寄せられようとしている。

〝ミサイルとウイルスで、世界は滅びました。たくさんの人が死にました……〟そんな結末にこそ絶対の意味があって、誰にも知られることがない物語に思いを馳せることが無意味なんだとは思えない、と、今は本当に思う──だからこそ、望実は〝──〟を活用して〝次〟を促す電話を拾う。

 あなたが何処かで待っているのだ。

〝いると信じれば、いることになる……〟星の王子さまが夜空を見上げる時の動機になり得るように、一人きりの部屋で身動き取れない語り手〝私〟も、或いは何処へだって移動できる。しかし、そのためには古い契約に則って、内緒の信頼を預けてもらわなければならない。

 望実は忍耐強い電話口に向けて、ただの口約束を持ち掛けた。

「あなたのことは裏切らないから、私のことを信じてほしいんだ」

 つと、引き出しの中に仕舞ったまんまで在る手紙にしたためた文章の末尾──灰色に煤けた空白のことを思い出した。


〝なんで分からないのって、あの時に言われたけれど、本当は分かってるんだよ。こんなことを言うと、そんなんじゃ生きていけないよって、またうんざりさせちゃうかもだけど、             〟


 いずれは絶望すると分かっていても、私は続けようと思っている。あなたのために生きようとする今日この夜までの孤独がこんな現状を齎したのだとしても、まだ、未来に希望を実らせる方法はあると一人きりで信じているためだ。

 それは何故か──望実は自問し、光に向き直る。


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生きるのね 井桁沙凪 @syari_mojima0905

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