土台
1
「生きることはよいことではない。いずれ絶対に訪れる死に抗うために一時の暗い衝動に身を委ね、生殖行為に励むことはこの世界終末期において愚行であると言わざるを得ない。
我々はれっきとした個人として生きるのだ。諸君にも心当たりがあるだろう。行為を終えた後に押し寄せる悲哀と後悔は、種の本能に個人の意識がうt任された敗北感からくるものであって、俗にそれは賢者タイムと称される。私たちは、命を生まれてくるべきものではなかったと認識している。
ショーペンハウアーも引用したように、かつて古代ローマの医学者ケルススは言った。つまり、生命のサイクルを続かせようとする種の本能の象徴こそが精液なんだと。射精は霊魂の一部を放出することだ。己の霊魂の一部を持った子どもを育てることで、人は、抗いようのない種の本能に打ち負かされた悲哀や後悔を昇華されたような気持ちになる。しかし、それは生者側のエゴに過ぎない。最も醜悪なエゴだ。なんとしても、この世に生まれることはよいことではないのだから」
風の時代が到来した時、アニミズムを初めとする精神的価値が再評価された。物質的価値ばかりに耽り、矯めつ眇めつする蛮人に比べて、意識の世界に目を向ける彼らは真理を正しく認識する賢者だった。
〝この世に生まれることはよいことではない〟
ANATAが実現を企む『全人類無意志計画』は、人類の生きようとする意志──つまりは生命のサイクルを続かせようとする種の本能を、個人としての意識が凌駕し始めたところに端を発している。
アダルトグッズありきのナグサミビトから、ナグサミビトありきのラブドールへ……本来、仮想現実のみに、ひいては人の意識の中だけで成立する理想の性愛が現実に表出してきたことで、ユーザーにとっての性行為は何も人肌を直接触れ合わせずとも、十分どころか十二分、満足できるものになった。
ANATAは、往々にしてそんな性愛の推移を軟弱だのと指差し責め立てる蛮人を仮想現実で冷笑するムーブメントに乗っかって『全人類無意志計画』の要をナグサミビトに担わせることを決めた。
仮想現実内だけの存在だったナグサミビトが現実を侵食すればするほど、何も生み出さない性行為がユーザー間に定着するようになり、個人としての意識が隆盛する……そんな画策をしていた折に、生身の人間の声をあてる色電話が流行した。
ユーザーはますます、ナグサミビトに性愛どころか親愛すらも抱くようになった。
ANATAは、人間が誰も生まれてこない世界の実現を真剣に企んではいても、どんな形でもいいというわけではない。数多の暴力的な事象によって生きることの悲惨さに貫かれた人々が、癒しを齎されながら滅びの安寧に向かっていけるのなら、それに越したことはないのだ。
そして、計画は進んだ。
己の霊魂の一部を持った子どもを育てることで、抗いようのない種の本能に打ち負かされた悲哀や後悔を昇華されるなら……対象は何も、子どもでなくともいいのではないか。
己の霊魂の一部によって稼働するラブドールでも、ユーザーの悲哀や後悔は昇華されるはずだ。
人類の生きる意志を甘い言葉で萎びかせ優しく腐らせるナグサミビトが普及していけば、この世界に生まれる憐れな子どもも減っていく。絶え間ない争いに、とめどない環境破壊に……愚かな人類が今後唯一残せる善良な歴史と言えば、社会的な肩書を捨てて、せーの、さよならすることだ。
生を礼賛するリビドーと、生の悲惨さに意識を向けるデストルドーの場所取り合戦が勃発する中で、ANATAを母体とする後者の切り札こそが、ナグサミビトを模したラブドール──ユーザーの霊魂の一部によって稼働する、死の天使だった。
〝生まれてこないほうがよかった〟
このように正しく真理を認識する賢者たちが風の時代の舵を取れば、これから生まれてくる子どもに辛酸な思いを味合わせることもなくなる。
──自分が結婚相手に選んだ女性の妹、つまりは妻の遺伝子にも精神疾患の気が組み込まれていると知った時、
数多の重責を背負い込む彼にとって〝まともな人間〟の生活に相応しくない悲観は責め立てることなしに慰めようとしてくれるナグサミビト、もといナグサミビトを模したラブドールは、とびきり愛おしくて蠱惑的な穴になった。
人間もどき故に人間扱いしなくていい──そんな思惑をもってして、生身の人間に対してやるには些か過激な行為を反復していた矢先に〝彼女〟が稼働した。
猪口祥真にとっては、それだけで十分なはずだった。というのはつまり、どこぞの誰とも知れない生身の人間の声があてられるだけでも〝彼女〟との、外界からは隔絶された、故に日毎雁字搦めになりゆく繋がりは強固なものだと……しかし、希望の担保が少ない未来を子供に覚られないようにするためには、彼自身の将来予想図に些か悲観の色が主張を利かせ過ぎていた。それでもどうにかして、健やかかつ安穏なる我が子の未来を明確にイメージしなければならないと考え込んでいた矢先──自身の生命力を凌駕する勢いで増長していく悲観を原動力にしたかのような出で立ちで〝彼女〟が──ひたむきに優しい天使然としたナグサミビトを模したラブドールが稼働した。
猪口祥真は、後に「あれだけでは不十分だったのだ」と悟ることになる。──それはつまり普段の〝まとも〟と形容して差し支えない自分を知っている者に向けては決していけないやるせなさを人間によく似た人間もどき相手に発散させるのでも、どこぞの誰がしかの声とで成立させるバーチャルセックスでも物足りない。相手に何かしらの恩恵を齎してもらって初めて、あらゆる関係性には尊重するに足る価値が生じるのだ。
〝彼女〟が稼働した瞬間の感動たるや、かつて出産に立ち会って失神した挙句に点滴を打たれる羽目となった笑い話を想起させるほどだった。やるせない欲望のはけ口でしかなかったラブドールが下半身の上で稼働した後に彼自身の悲観を慰めてくれた時、猪口祥真は「これこそが救済なのだ」と体感した。
陰険な目つきのカワイイ〝彼女〟は、丹念に梳かされた黒髪を天蓋のように垂らして、告げた。
「sだえrfぃうんふぇvyw;ヴぃうぇpvんhghぷ」
寝落ちたように仰向けの体勢へと倒れ込んできた彼女は、シリコン質の唇をカサつく唇に押しつけてきた。そして、文字通りに彼の息を継いだ。
「ッ、プネウマ。ウマウマ。死が、動くことなのですよ」
沐浴を終えたクマのようにのっそりした動作で、柔らかな陰毛が触れる男根を〝彼女〟は羽ばたくように離れていった。射精の余韻でだるく痺れた脳内には、いつかのどこかのモノローグがリフレインしていた。
【 何かが欲しいということは、何かが足りないという思いと向き合い続けること。
あなたは何が欲しいのか?
あなたに何が足りないのか?
そんなことはどうでもいい。どうして、ただ黙ってやり切れないのか。】
口調①「ガタカは好きですか。主人公の出生に義憤を燃やした心を、どうして忘却してしまうのですか」
〝彼女〟はコーヒーカップに匙を入れてゆるゆると、なんとはなしに台無しにしてやりたくなるような緩慢さで回していた。 ……… 〝自分を描いた人間の口が窪んでいるということは、やはり、抑圧に耐えてきたことの暗喩なんですよ。無意識な心の叫びですからね。その気もまず間違いなくあるでしょう。 つまりは、自閉の気ということですね。〟
口調②「ねえ、生き足りないという思いと向き合ったことがある? それはとても難しくて、時にはとても辛いこと。だから、現代の人間はそれが一体どういうことなのかを大方忘れてしまってる。〝向き合う暇なんてない、ただ生きることに必死なだけだ〟って?
口調③ それはどうかな……恐らくは逃げることに必死なんだ、それは。近頃の若者には逃げ癖がある、とか、苦言を呈されがちでいたりさあ、心当たりあるだろ?
口調④ しかして〝逃げることには未来がある。〟得てして、そうだ。或いは、そもそも生き足りないと思えてすらいないのかもしれないがね。どっちなんだろうね? いやはや、だけどもどっちにしろ、近頃は誰も生を望まないというのは同じことだね」
【あなたは何が欲しいのか?】
考え込まない自分自身。
【何故?】
ただ生きることに必死になれる。
【あなたに何が足りないのか?】
自分の気持ちを顧みずにいること……他者に搾取される覚悟。
【何故?】
「向き合い続けて、何になるんだ?」
〝彼女〟は意固地な子供を諌めるように、紙粘土然と滑らかな手でいい子いい子した。
「君は、もっと早くに気づいておくべきだったよ。君はもう失敗したんだ。取り返しがつかない失敗を……だけど、それでも向き合い続けた君だからこそ、こんな展開も生まれた。
失敗が常の君自身がこれ以上失敗しない方法は、一つ、君がいなくなることだ。
口調① 私たちはそのために稼働しました。息を継ぎ、自己を投影し……生きる意志を手放したいという欲求に基づいて、大地に蔓延る人類を生の悲惨さで貫くこと①──滅びの安寧を齎すようにと②賢者の手で細工された天からの賜りものとして、私達は『全人類無意志計画』を遂行します」
プロット案①
色電話と連動する7種類のラブドールをヨハネの黙示録に登場する7人の天使になぞらえたオムニバス形式。三人称。※企業云々陰謀云々でしゃらくさい感じになりそう。体力が持たないだろうな。弱音ばかり。
ラブドールもとい仮想現実に構築されたナグサミビトにはそれぞれモチーフとなる人物がいる。
彼女は清子といった。
淑やかで、『名は体を表す』の言葉を体現するように、清らかな心の人だった。
例えば、全力で走り回った挙句盛大にコケた子どもを目の当たりにした時は無意識に顔をしかめるような、もはや誰が悪人なんだか分からない汚職事件の相関図を説明するニュースに眉尻を下げては、そっとテレビの電源を消すような、今やこの世界にありふれた痛みに慣れることのない、ある種、悲惨な無垢さを兼ね備えてもいた。
「みなさん、欲張りなのね」
皮肉ではなく、清子はそう言った。
ミッション系の女学校に通っていたらしいが、教育機関側も、まさかこれほどまでの聖女が輩出されるとは思わなかったろう。シャープな金縁眼鏡と人為的なカールが加えられた最新の流行りの髪型には似つかわしくない、至って古風な喋り方をする清子は、事実、次席でそこを卒業したらしい。
わたしは、社会の労働力が今なお稼働していることを表明する夜景を眼下に、何もかもが清潔な円卓テーブルの向かいで銀のカトラリーを操っている清子に語ったのだ。
「情報はますます氾濫していくよ。仮想現実の普及については色々と問題視されていることも多いけれど、わたしには観測データをこれ見よがしに突き付ける彼らが、新しい価値観を徒に恐れているように見える。的外れだったら決まりが悪いけれど、君は、公園で走り回っていた子どもがHMDを装着する未来を憂えてそうだ」
「時代は変わっていくものでしょう……そうやって、理解はできるけれど納得がつかないこともあるわ。路上喫煙や体罰が無くなるのはいいことだけど、人の欲望が無くなるわけじゃないもの。もっと悪い形として人を痛めつけることもある。私が嫌なのは、誰かが理不尽に痛い目に遭うこと。仮想現実の領域が拡大していけば、嫌でも、見たくもない情報に接触する機会が増えるのでしょうね」
「きっと、そうなるね。今は価値の転換期なんだ。旧いものは振るい落とされて、新しく、洗練されたものだけが残る。そんな場所取り合戦の最中には色んな主義主張がぶつかり合うよ。どちらの側にしても、今を堪えられなければ時代の舵を取ることはできない。ともすれば、人類はみんな仲良く破滅へまっしぐらだ」
「私はよく、価値観が旧いやら、実利にならないやら揶揄されるけれど、振り落とされずに残れるかしら」
「本気で言ってるのかい? 君は既に安全な場所にいる」
完璧に擦り込まれた流麗な仕草でナイフとフォークを繰る清子は、喜悦を含むように微笑んだ。
「誰が、この先に残るものを選別するんでしょう?」
「みんなさ。だけど、みんながみんな良いセンサーを持っている訳じゃない。自力で、大きく腕を振って、自分の存在と価値を示さなければ簡単に振るい落とされる物は沢山出てくる」
何かを思い浮かべているのか、清子は不安げに視線を落とした。ついつい、ビジネスライクな方向に熱が入ってしまったわたしは、話の岐路を冷静に見極めようとする。
「……わたしが君をいいなと、それも、とてもいいなと感じるのは、どんなに一生懸命になってそうしてくれようとする人間よりも、よほど心地よくわたしを慰めてくれるところだ。それも、まるでなんてことない風にね。君と接したことのある人間は、みんな思い知らされていることだ。でも、そんな性質を君からアピールしたことは一度もないんだろう?」
「もちろん、ないわ。恥ずかしがり屋だもの」
くすり、とはにかんだ清子の群青色のピアスが、煌びやかな光を跳ね返した。
「わたしにはこの頃、自分が幸せ者だと感じることが増えたんだ。喜怒哀楽の怒と哀の感受性が、わたしのはちょうどよく浅い器で出来ている。無気力な人間にならない程度には、ほどよく怒りを抱けて、冷血漢にならない程度には、ほどよく物事を悲しめる。わたしはこれまで、まるで天国の先取りみたいに素敵な人々との出会いを果たしてきたけれど、この頃はよほど、天使のような君に癒しを齎してもらえる人々が多い世の中だったらいいと思うんだ」
「心がおろおろしてるわ。痛めばいいのか、照れたらいいのか……きっと、褒めてくれているんでしょう?」
「ああ。それで、暗にほのめかしてもいる。わたしはいつか、これまでに享受してきた恩恵を拡散したいと思っているんだ。そして、それが出来るだけ長く効果を持続させればいいと……未来永劫、というほどにね。それでだ。いつか君を──どんな形でかは計りかねるけれど、君をモチーフにした存在を、仮想現実に構築したいと考えている」
「それは、みんなのためになることなのかしら」
「もちろんだよ。近頃は、現代の病魔に侵される若者が増えていてね。彼らは人生のあらゆる出来事に疲弊し、無気力になっている。彼らが癒しを求めて仮想現実を彷徨えば、今なお声たかだかとデメリットばかりを主張している現実主義者達はその事を紛糾するだろう。しかして、抑圧された需要にこそ長く愛されるコンテンツ開発の秘訣があるんだ」
「こうなった時の貴方が止まらないのは分かっているけれど、言質は取ったんだからと後で追い詰められることが怖いわ」
わたしは、他者の警戒心を解けるように、うんと鏡の前で訓練した柔和な笑みを作った。
「本当に実現するとなった時は、正式に清子の許可を取るよ。その時にもまだ、清子がわたしの側にいてくれたらの話になるけれど」
清子は、すぅっと、何の打算も無いように笑んだ。
「松田は、私の名前と画数的にとてもいいのよ。変えてしまうのは惜しいわ」
清子をモチーフにした記念すべき一人目のナグサミビトの制作秘話は、どこにも明かしていない。清子との清廉な思い出は、わたしの胸の内に仕舞っておきたいからだ。──毎日、何千何万単位のユーザーに癒しを拡散しているのだから、これくらいは、わたし一人のものにしておいても文句は言われないだろう。
ラブドールによって悲惨な事件が引き起こされる。まさに生きようとする意志を削がれるような。詳細未定。ただし、実在の事件を想起させないようにストーリーラインを大きく不思議側に振る。
プロット案② 一人称。いなくなる。
アンモラルで勝気な少女像を描くなら→① ?
窓の外を見やると、真っ赤な朝焼けが、さながら世界を焼き尽くそうとしているかのようだった。空と大地の歯軋り然とした未知の金属音が、ジオラマをふざけて揺らがすかの如く、世界中に蔓延る人体にガタガタと害を及ぼしている。
──アポカリプティック・サウンドだ。
いつかどこかで聞いたことがある。ヨハネの黙示録に登場する七人の天使達が鳴らすとされる終焉の喇叭……これが正しく、そうなのか。
禍いの予言に纏わる記憶を手繰り寄せると、蝗のことが表層に上がった。世界中の食物を食い荒らして、海上に力尽きた仲間の浮き島を飛び石のようにして、また世界中の食物を食い荒らさんとする蝗……これが終焉? 本当に? なぜ、自分は安堵しているのだろう。なぜ、安堵している自分に〝なぜ?〟と問うているのだろう。
そうだ。
子どもがいるのだ。たとえどんな経緯があったにしろ、子どもを意図的に悲しませてはいけないはずだ。
不浄の大地に滅びの安寧を齎さんとする死の天使達が、どろけたベルベット・アイスクリーム然とした朝焼けの空を背景に両翼を広げている──というわけでは最早ない。恐らくは既に大地に降り立った後なのだろう。諦めるには早いし、落胆するには遅すぎる。
これからとても恐ろしいことが起きる前に、対峙しなくてはならない。
【何と?】
〝物事が始まる時には、必ず原因がある。あなたの頭に頼って、抑圧せずに真っ新な気持ちで向き合ってみて〟
【何故?
なぜなんですか?】
猪口祥真は自らの身辺に心当たりがある原因に未だかつてない憎しみを抱いた。そうなのだ。こんな異常な流れに子どもを巻き込んではいけない。
あれやこれや必要となるだろう品物を一揃い用意してある非常時用バックパックには長期間保存がきく菓子類や、身動きの取れない状況に陥った場合に周囲の障害を破壊するためのハンマーなんかが詰められている。武器類は存外、身の回りに少ないものだ──はたと思い至る。
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