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──あなたから聞いた話は、ざっと、こんな感じだ。
井桁は鬱血しそうな程に強く右手首を握りながら、電話口に聴こえる特異な声に耳を澄ませていた。
『……あんたは色電話をやってたらしいじゃん。あれも、十八歳以下は利用禁止のところをANATAが斡旋してたんだとかどーとかって聞いたぜ』
「えっと、あなたが打ち明けてくれた話を噛み締めてる途中なんで、聞き逃しや空耳があったらごめんだけど……色電話? 私が?」
『そうだよ。てか、なんだよ噛み締めてるって。あんた、まさかファン?』
「ファン、っていうのかな……好きだったよ、とても。彼の作った曲が無ければ乗り越えられなかった夜は幾つもあるさ」
『へえー、あっ、そ。話した通りだけど、俺は血を受け継いでるらしいってだけで、私的な思い出話とかは一切ないからな』
「もちろん、分かってるよ。あの、お悔やみ申し上げます。随分と
『変な奴っ……あれえ? あんた、俺と会ったことあるよね』
「狼少年とは何度も」
『そうじゃなくて。あんた、姉いる?』
「……いるよ」
『いやっ、なんで渋ったの』
「深い意味はないよ。ただちょっと、渋い気持ちにさせられる出来事があったばっかで。なんで?」
『生きてる?』
「なにが?」
『その、姉』
「生きてるよ、たぶん。さっき見たし」
『あんた何歳? 俺と同い年だよね。十七?』
「まさか。成人してるよ……なんか、ダメだったかな」
『この世に生まれてこなかった姉のぶんまで生きることに疲れて、線路に飛び込み自殺しようとした女の子とは、別人?』
「私に、そんな憶えはないな」
しばらく、戸惑うような沈黙が続いた。井桁もまた同じように戸惑っていた。誰かの存在とビザールの正体を──つまりは誰かと私を混同しているってこと、か。じゃあ──
「あなたは知らないの? ビザールの中の人が映ってる、動画のこと」
『動画? 知らん。仮想現実ではリトルプレイヤと狼少年としてしか会ったことないんだ』
「知らないんだ。そうか。じゃあ、いままで遠慮がちに接してた時間は無駄だったな」
『ビザールの中の人、って、未来じゃないの』
「ビザールは私。名前も未来じゃない。あなたが思い浮かべている子と私は……よく分かんないけど、別人だね」
『でも、私のことはビザールって呼んでって、面と向かって言ってきただろ。声とか、そっくりなんだけど』
「言われても……電話越しの声と生身の声じゃあ多少変わるけどね」
『じゃあ、あんた誰よ』
「私は……ノゾミといいます。希望が実ると書いて、望実です。まあ、絶望が実るとも書けるけどね、ははっ」
『冗談言ってるつもりなの。あんま可笑しくないよ』
「キビシーなあ……取り越し苦労っていうか、人違いでガッカリさせちゃったかもしれないけど、朗報になるのかな、私はたぶん、あなたが言ってる子のこと憶えてるよ。その子は、色電話をしてて、お姉ちゃんがいるはずだったんだ?」
言いながら井桁は──望実は仮想現実のそれとデータを同期させているPCディスプレイに表示されたボイスメモアイコンにカーソルを合わせてダブルクリックする。
此処で話したことは秘密にする──そんな約束をお互いに交わしたうえでのやり取りは、しかし、どうせ漏洩させないんだからいいやと手前勝手に結論づけたビザール側によってボイスメモに記録されていた。
創作物の種になればいいなと、現金にも考えていたのだ。望実のへんてこりんなものさしによって、浅いだの薄いだの判断された記録は殆ど流れ作業のように破棄されていたが、興味深い内容の会話は未だに記録してある。
なればこそ〝酷い虐めに苦しんでいる〟との打ち明け話をしに訪れたユーザーを逆探知することに成功したのだ。……そして、手前勝手にでもなんでも、現実に望実がユーザーとのやり取りを漏洩させたことは一度もない。
今もまた、沈黙を守り続ける電話相手そっちのけで一連の話に該当するユーザーとの会話記録を見つけた後──律儀なのかけなげなのかイカれてるのか、一応、ビザールの頃に交わした約束を守ろうと、PCの音量はミュートにしたままで字幕をオンにする。
<色電話って、知ってます? 内緒にしてほしいんですけど、私、それをやってるんです。あの、十八歳未満で……>
──スマートフォンのミュートの表示の是非を確認する。……ただ、電話相手が黙っているだけのようだ。不意に視線を交差させたマコトが、口をへの字にして肩をすくめた。
<私には、お姉ちゃんがいるはずだったんですって。そういうの聞かされると参っちゃって>
<君は、お母さんに怒ってるの? 大丈夫だよ。ここは仮想現実で、現実では消化できないあれやこれやを吐き出すために使ってもいいんだ>
これは、ビザールの台詞だ。ああ、嫌だなあ……望実は自分でも意識していない内に下唇を噛む。
<私、いい子ぶってるように聞こえるかもしれないですけど、本当はお母さんの言う通りに生きたいんです。お姉ちゃんのぶんまで、いい子に……でも、それをするにはあまりにも……ビザールさんって、何を信じてますか>
<え?>
過去を追憶している現在の望実も少し狼狽えた。こんなことを訊かれて、自分はなんと答えたのだろう。パッと思い浮かんでしまうものは過去でも同じな気がするけれど、さすがに、こんな境遇のユーザー相手に口に出してしまうほど自分の頭がイカれていないことを今は願いたい気持ちだ。
迷ったように紡ぎ出される三点リーダーのお尻を掴むように、ユーザーは言った。
<アンナタって、知ってますか。あれに私、しっくりきそうで。〝生まれてこないほうがよかった〟って信じ続けていれば、押しつけられる役割を逃れられそうなんですよ。色電話もそういうつもりで始めて……きっと、ナグサミビトに癒して貰いに来るユーザーも、うんざりしてるんだと思うんです。生きるのなんて、そんなにいいことじゃないでしょ?>
この子は生きたいんだな、と思う。人には生きていられない時はあっても、生きたくない時はないんだ。──望実はかつての友達の、心を捻り潰すような言葉を思い返した。
──優しくて、甘ったれで……それだけで生きていけるほど世の中やさしくはないよ。
<でも、こんなことを話している時にも、私、お母さんに悪いなあって思ってるんですよね>
望実はなんでも、分かっているだけだ。こうすべきとかああすべきとか、社会が提示する規範を分かっているだけで、どうしても逸脱する。そんな性質が素質になったあの時期は、生の祝福に微かでも触れられていた。
<君は、悪い子じゃないよ>
そうだよなあ……──望実は堪えるように右の目頭を親指の腹で押さえた──私だったら、優しくて甘ったれな言葉を掛けるだろう。先行きなんて考えずに、ただ目の前の何かを捉えようと必死になって、我に返った時には他の何かが手遅れになっているのだ。
<君は、君の好きな自分になれるように生きればいいんだ。そのために人は生まれてきたんだよ、きっと……誰かの〝なって〟のために、自分の〝なりたい〟を我慢しちゃいけないはずだ>
……だってそんなの、命が虚し過ぎる。
──会話記録の再生が終わった。
望実はしばし呆然として、重苦しい夜が制圧する部屋の中に小さな声を響かせる。
「私が言葉を掛けた女の子は、生きるのやめようとしたんだ……」
返事はない。そういえば、ずっとそうだ。
不審がってスマートフォンの液晶画面に片耳を当てると、世界のどこかしらにいる少年の呟きが聴こえた。
『いけない、血だ。でも、向こうから侵略して来たのが悪いんだよな』
初め、望実は自分の原因不明な片耳の流血のことを言っているのだと……しかし、後に続いた言葉を聴くに、どうもそうではないようだ。
とりあえず問うてみようと口を開きかけたところで──マコトが、ひょいと文字通りにスマートフォンを取り上げ、血溜まりのような色合いの通話終了マークをタップした。
「あっ、なにすんの」
「しっ。……小さな訪問客がお越しのようだよ」
既に夜も深いはずだ──スマートフォンの液晶画面に表示された01:33の時刻にギョッとしたところで、コンコン、というよりもむしろ、かすかす、と、子猫が爪で引っかくようなノックの音がした。
鍵は掛けていないのにいちいちノックしたりして、行儀のいい子だよなあ、そういう教育がされているのかしら、と……なんとなく、皺くちゃのマスクの紐を両耳に掛けた後で、望実は静かにドアノブを下げる。
「どちら様、ですか……?」
「はあっ、おばけ?」
「違うよ。ごめんね、真っ暗で……廊下の電気、あの、こわくない?」
どんな言葉にでも簡単に影響されそうな、小さくて脆い生き物を目の前にして、望実は最早不気味な程しどろもどろになってしまう。子どもは、おっかない。規範なんてどこ吹く風のくせ、自分の心を守るついたてがない。
望実は狼狽えつつも、まっすぐな眼差しを向けてくる姪っ子に誠実なつもりの視線を返した。
「いまね、ママに嘘ついたの。トイレ行くって。なのにコンコンしちゃった」
「今からでもトイレに行けば、噓ついたことにはならないよ」
「しゃっぴいから、いい」
なにしに来たの、と問う間もなく、なにもかもが規格外に小さい身体で部屋に入ってくる。
「ねえ、君のママが起きちゃうよ。探しに来たら、私はまだしも君……利口な言い訳も思いつかないだろうにさ」
「ねむねむだったからへーきだよ」
聞き慣れない足音が自分の部屋にあることにドキドキしつつ、弱弱しい照明を点ける。姪っ子は、ふんふんと、小さな鼻を呼吸に鳴らして辺りを見回している。
「お片付けしないからバイ菌いっぱいって言ってたよ?」
「そんなことないよ、ミニマリストだもん」
「それなーに? だから閉じこめられてるの?」
不意打ちめいたすなおな疑問に、望実は目を細めた。なんて答えるのが一番、この子の記憶に残らなくて済むのだろう。
「無理やり閉じこめるような人はここにはいないよ。安全だから、好きで閉じこもってるの」
「なんで? 外、たのしいよ? 泥だんごづくりすると、ばっちいでしょって叱られるけど、お花を輪っかにすればいいんだよ? 知ってた?」
姑息な打算を突き倒して無邪気に乗っかかってくるような返事に、望実は力無く笑ってしまう。
「そうだね。ああ、うん、知らなかったな、ほんと」
──瑠璃もそうなったらどうしようって、
……すぐ後で、ぽろぽろと泣けてきた。
──悪いなあ、と思う。この頭がおかしいせいで、こんな幼い命に自己憐憫交じりの心配が邪魔っ気な
回転椅子の上で惨めにも塞ぎ込んで目元を拭う大人に、姪っ子は一生懸命に寄り添ってくれる。どっちが子どもだか大人だか、分かったもんじゃない。
「痛いの? 痛いのね?」
「痛くないよ、ちっとも。……幸せで、幸せで泣いてるんだよ」
もしかしたら──自分にもこんなに小さな時代があったなら、この子にもいつか、自分のようになる時が来てしまうのかもしれない。そう考えたら堪らなかった。
自分が走馬灯に登場しないような幸多き人生を送ってほしい。それでも、吸収力が半端じゃない脳みそに僅かでも自分が残ってしまうのなら、せめて、姑息な嘘で飾り立ててしまおうと思った。
涙で色濃さを増したようなまつ毛を震わせつつ、告げる。
「瑠璃ちゃんは、この夜のことをすぐに忘れるのかもしれないし、ずっと後で忘れるのかもしれないけど、もしも、ちょっとでも憶えておけちゃうなら、なんか泣いてる女の人が〝幸せだ〟って言ってたことだけを憶えててね。幸せで、生きるんだってさ」
うん、うん、どうしたの……頭を撫でたりしてくる姪っ子にさすがに気恥ずかしくなって、なんでもなさそうに顔を上げた、ら、まっすぐな眼差しを突きつけられた。
「生きるのね?」
「うん」
「ねー、お荷物はどこにあるの? ママが言ってたよ、お荷物があるから入るのだめって」
「あー……それはね、さっき、サンタクロースに受け渡しちゃった。この部屋はクリスマスプレゼントの一時預かり所だからね。誰の目にも触れないように、仕舞っておかなきゃいけないの」
「ほんとに? すご!」
きゃいきゃいとはしゃいでみせる姪っ子……これくらいのことでへこたれていたら、これまでに通過した辛酸の日々に申し訳が立たない。
「じゃーナグサミビトってなに?」
「……なに?」
「あのねー、ママとおじいちゃんとおばあちゃんが話してたよ」
「それは、」
「わるもの?」
つと──姉に静寂を乱される前まで綴っていた、殆ど走り書きのような小説のプロットに──付属のマウスをわしゃわしゃとパッドに擦り、PCディスプレイを覚醒させた後で意識を向ける。
「ああ……どうなんだろうね、悪者かな。まだ分かんないや」
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