第二部 後 『夢』
8.
東京都文京区の古刹にある霊園に、義娘は眠っていると祖父は教えてくれた。
父親からの時間指定は”夜”というひどく曖昧なものだったので、日没の時間を逆算して、ソラは日が傾き始めた最寄り駅から電車に飛び乗った。肩にかけた鞄を抱えるようにして三十分ほど電車に揺られ、乗り換えで降りた東京駅は相変わらず信じられない量の人と物が行き来していた。都心の大学に入学したこともあり、人ごみにはだいぶ耐性がついてきたと自覚していたが、それでも油断すると前を歩く人のキャリーケースに足を引っ掛けたり、出口を確認しようと急に立ち止まり後ろの人とぶつかったりするので、そのたびにソラは身を縮めて申し訳なさそうに謝るのだった。
昨年のゴールデンウィークにも降って湧いた山口旅行のために東京駅にいたとソラは東海道新幹線の案内板を見上げ、懐かしさに目を細めた。魔力を制御できなかった友人のために夢中になって製作した二本の杖。一本を彼女に渡したとき、彼女はとても安心した表情を浮かべたのを覚えている。
二、三日に一度、ソラが自室で眠りに就く前後に自分の手元にある杖が優しい光を湛え、ほんのりと熱を持つことがある。一本の木、ひとつの鉱石から作られた二本の杖はどちらかが魔法を使うと呼応する。定期的に魔力を放出しなければならない彼女が、その言いつけを律儀に守っていることを証明する光。ソラはそれを目撃するたびに、どこか遠くで、しかし確実に生きている彼女の息遣いを感じ、なぜだか心に小さな痛みが走るのだった。
霊園の最寄り駅の改札を抜けるとそこは既に夕闇に包まれていた。東京駅での乗り換えに迷い、何本も電車を逃してしまい到着が遅くなってしまった。建物自体が巨大な生き物のように蠢いていると錯覚するほど都心の駅は複雑で田舎者に厳しい。ソラは早足で霊園までの道を辿った。
交番と小学校の間の細い道を入っていくと、大きな楠木が見えてきた。霊園は楠木を中心に広がっていて、漆喰の城壁のような壁の向こうに背の高い墓石が幾つか見えている。黄昏時の墓地。怪談にはうってつけだと思いながら、ソラは霊園に足を踏み入れた。
墓参りに訪れるには遅い時間で、墓石の間に人影はない。祖父からは霊園の住所しか教えてもらっていないため、ここからは自力で探すしかない。母親は望月家の墓に納骨されているとのことだった。
辺りはしんと静まり返っていた。時折、聞こえる音といえば耳元を羽虫が横切るくらいのもので、そのたびにソラはぎくりと身体を震わせた。目を閉じ、魔力の気配を探るが、なにも掴むことはできない。まだ、来ていないのだろうか。
石畳の上を歩きながら、大小様々な墓石の碑銘を確認していくが望月の名は見つからない。幸い大きな霊園ではないので、歩き回っていれば墓石か父親のどちらかは見つけられるだろうと思っていた。濃紺の空に薄い雲がかかっている。真っ白な月がその向こうに浮かんでいた。暇をもて余すようにぼんやりと空を眺める。そういえば、どんな顔をして父に会えばいいんだろう。
急に掌にじっとりと汗が滲んだ。
ソラに、両親の記憶はない。父親が友人と撮影したような何枚かの写真、祖父の話、そして日記の中の記憶。それはどれもソラの内部に仕舞われていたわけではなく、与えられたものでしかない。血の繋がりがあるという意味での親ではあるのかもしれないが、ソラにとっては別の人生を歩んでいる大勢のうちのひとりに過ぎず、仮に目の前で父親然とした態度を取られたときに、自分は息子として受け入れられるのだろうかと今さらながら疑問に思う。
日記の中の記憶は陰惨で壮絶だった。父の体験を全身で感じた直後こそ無限にも思える悲しみに圧し潰されそうになったものだが、いま振り返るとそれは自分の両親が直面した悲劇であると頭では分かっているのに、心がついてこない。遠い国の戦争の話を聞いているような、喉元まで迫り来るような現実感が欠けていた。
ぱきっと枝を踏み折る音がした。ソラは一瞬で現実に引き戻された。唐突に月の光が影に遮られる。
目の前に、記憶の中で見た男が立っていた。
「……なにから話せばいいのやら」
つい最近、同じ口上を聞いたような気がする。目の前の眼鏡をかけた痩身の男は困ったようにぼさぼさの髪を掻いた。
「”あれ”を見たから来たんだろう?」
”あれ”が指すものを慎重に考えながらソラは頷いた。
「ほら」
男がソラの脇の墓を指さした。しんとした夜の中、さらに静謐な雰囲気を纏いその石碑は月の光を受け淡く輝いていた。ソラはその墓に刻まれた望月家という文字にいま気がついた。ソラは母と父に同時に再会していたのだ。言葉を失うソラを見て、男はそのまま視線を墓の下に向けた。
「十八年ぶりに家族が揃ったな」
ぽつりと呟いたその言葉が、湿り気を帯びた掠れ声が、ソラの胸に深々と突き刺さった。ああ、全ては現実だったんだ。
「父さん」
霊園を照らす月が滲んだ。父はまた頭を掻いて、困った顔で笑った。
「ソラ」
細くて白い、しかし大きな手がソラの頭を撫でた。ゆっくりと目を閉じると、頬を暖かいものが滑り落ちていった。
「どれだけ待っても来ないから、もう諦めようかと思っていたよ」
霊園に近い大通りに軒を構える蕎麦屋の座敷で、ソラは十八年ぶりに再会した父親と蕎麦を啜っていた。再会とはいうものの前回の記憶は全く無いので、はじめて生きて動く父親を目の前に感じていた。父はソラを祖父に預けてから、月命日には欠かさず墓参りをしていたという。そうしていつしか帰りがけに蕎麦を食べるというルールが出来上がり、店の主人とは十年来の付き合いだと教えてくれた。
「この店のメニューは全部食べた。一番美味しいのはやっぱり普通のざる蕎麦だ」
割り箸を汁に浸しながら乾いた笑い声をあげるあっけらかんとした父に、心の置き場が定まらないソラはもぞもぞと居心地が悪そうに身体をよじらせた。それに父が蕎麦を啜るたび、頭上に浮かんだ魔法痕がふわふわと揺れるのも視界に入って落ち着かない。ソラの視線に気がついた父が割り箸で頭の上を指して言う。
「やっぱ見えるんだな。……魔法使いになったんだな」
しみじみと感慨に耽るような父の言葉。目を細めてソラを見つめている。
「これは、周辺の魔力と害意を探知するレーダーみたいな魔法なんだ」
箸をぐるぐると回して見せる。おどけた様子の父を見てソラはなぜだか段々と腹が立ってきていた。事情があったから仕方のないことと割りきってしまえば簡単だが、自分のこれまでの人生を、この激動の一年を、この人はなにも知らない。祖父が常に寄り添っていてくれたとはいえ、自分がどんな思いで過ごしてきたのか、言葉では言い表せないくらいの孤独な夜をどうやって乗り越えてきたのか、その全てをこの男は知らないのだ。
しかし、次の父の言葉を聞いて、ソラの怒りは一瞬にして消え去ってしまった。
「身体に異常はないのか」
夜の底の、深い海底の、そのさらに下から掬い上げたような重苦しい質問。魔法使いになった息子を見つめる父の黒々とした瞳の奥に宿る絶望的な光。ソラは唐突に理解した。軽妙な振る舞いは父の自衛の手段だと。地獄のような苦しみの中で、それでも道化を演じていないと容易く闇に呑みこまれてしまうのだ。
「全然、大丈夫だよ」
ソラは努めて明るい声で返した。張り詰めていた父の表情にみるみる安堵の色が広がっていく。
「それだけが心配だったんだ」
心から安心しきった声で父はそう呟いた。その時、耳障りな不協和音が頭上で響いた。天井付近のテレビの向こうでリポーターが険しい表情を浮かべている。
『速報です。新宿アルタ前の広場で爆発事故です。詳細は不明ですが、死傷者は最低でも十名ほどと見られています。近年、多発する魔法関連かどうかは不明で、魔法痕”白”の確認を急いでいますーー』
魔法痕”白”。いや、あの魔法痕は母、リクのものだ。
「……あの、魔法痕”白”の杖は、お母さんの結晶が使われているの?」
おそるおそる訊いた声は微かに震えを伴っていた。日記に封じられた記憶のその先。母の魔法痕。口を開かなくてもわかってしまうほど、父の感情は鮮明に揺れ動いた。思案するように首をぐるりと巡らすと、父は真っ直ぐにソラの目を見据えた。そしてゆっくりと頷いた。
「そうだ。……その話をここでするには明るすぎる。場所を変えよう」
そう言うと父は立ち上がった。その目には怒りとも悲しみとも取れる不思議な色が光っていた。
少し歩こう、と言って父は蕎麦屋の前の通りを西に向かって歩きだした。薄雲も消え空はすっきりと晴れ渡っているのに、夜風は少し湿っている。
「"魔法痕は個人に固有である"ということは知ってるか?」
「知ってる」
ソラは頷いた。その事実は魔法使いにとってもそうじゃない人にとっても当たり前の常識として浸透しているはずだ。
「それじゃあ、”魔力は海を越えない”は?」
ソラは首を傾げ、自分より少しだけ背の高い父を見つめた。街灯に照らされ影になっている父の顔はなにを考えているのかわからない。ソラは首を横に振った。
「元々は戦闘機のパイロットとの交信に魔法を利用しようとしたらしいんだが、陸と海の境を越えると魔法は力を失うらしい」
「はじめて聞いた」
「ああ。一般人は知らない事実だ。だが、魔法研究者や航空、海運会社の人間にとっては周知の事実さ」
魔法研究者。猫又タマキのしなやかな黒猫の姿が浮かんだ。
「そしてもうひとつ。これはほとんどの人間、魔法使いも含めて知らない事実がある」
含みを持たせる言い方に、ソラは黙って先を促した。
「”魔力は全て繋がっている”」
父は悲しそうな表情を浮かべた。日記の記憶の中で最後に父が告げた言葉を思い出す。本当は話したくないんだ、とぽつりと声を落とした。
「魔力に目覚めてしまったということは、遥か悠久の昔から続くその連鎖に巻き込まれてしまったということだ。……魔力は”罰”なんだ。イヴが口にした禁断の果実は知恵の実だけではない。強欲な彼らはもうひとつの実も食べてしまったんだ」
父の言葉の意味がソラにはさっぱりわからなかった。過去を覗いた限りでは詩的な表現をする人にはおよそ見えないのに、この期に及んで回りくどい言い方をして真実から遠ざかろうとしている。父は大きく息を吸い込み、決心したように口を開いた。
「魔力はこの世界で増えることも減ることもなく常に一定なんだ。魔力が消費あるいは他のエネルギーに変わった時、同じ分だけ魔力は生まれる。常に変わらず、理のようにそこに存在し続ける。基本的に魔力の消費と生産は個人の中で完結するが、魔力を持つ者が死ぬか、あるいは”器が産まれなかった時”、溢れる魔力は他者に流れる」
不明瞭だった父の話がだんだんと輪郭を伴ってきた。つまり、魔法使いが明かりを灯したり、物体を浮かせたり、瞬間移動した場合に消費された魔力の分だけ新しい魔力が生成される。いつか梅野も話していた『魔法を使うとお腹が減る』というのは、食物から接種したエネルギーが魔力に変換されていたことを示していたのだ。ここまでは分かる。しかし……。
”魔力を持つ者が死んだ時”、”器が産まれなかった時”。ふたつの事象がソラの眼前に立ち塞がっていた。
「かつては、”千”の魔力を”千”の人間が”一”ずつ持っていた。安定した魔力の分布は器にも安定をもたらし、どこかで魔法使いが亡くなったならまた新しい魔法使いが誕生する。そうやって魔力は巡っていたんだ。しかし、戦争の時代を経て、器の数が不足しはじめる。数の変わらない”千”の魔力に対し器の数は足らず、拮抗していた天秤は徐々に大きく揺れるようになった。そして、度重なる魔法規制や魔力を制限する薬の登場だ。いよいよ器が激減し、魔力は大きな偏りを見せる。生来の器のサイズに合わない魔力の生成量、あるいはその逆。魔力による様々な障害。そしてその障害に対する医療行為の禁止。……リクは、お母さんはその大きな波の狭間に翻弄されたんだ」
話のスケールが想像を越え、ソラの中では困惑と疑念が渦巻いていた。容れ物を失った人魂のような魔力が宙をさ迷い、器の小さい、あるいは本来は器ではないはずの人間に飛び込んでいくイメージが脳裡に浮かぶ。
年を経るごとに魔力が強くなるという話は何度も聞いたことがあった。それに、魔力の制御に苦しむ友人はこの一年でふたりも出会った。小さな事実の積み重ねが話の真実味に説得力を持たせているが、自身の経験を振り払うようにソラは首を横に振った。
「そんな……ことが」
「信じられないのも無理はない。人類が発見したエネルギー保存則を魔力は完全に無視している。だが、少なくともそれを前提に動いている人間はいる。私はリクのような魔力に蝕まれる人を救うため、この二十年を過ごしてきた」
不意に父の瞳に柔らかな光が宿った。ソラの頭にぽんと手を置く。
「お前くらいの子をたくさん見てきた。田舎の慣習で魔法使いであることを言い出せず苦しんでいた男の子。溢れ出る魔力を制御できず自傷する女の子。魔力の器に選ばれてしまった彼らを見つけ、治療し、そして杖を渡す。とある杖職人に作成を依頼して、な」
ソラの脳裏に作業場で延々と杖を磨く祖父の姿がはっきりと浮かんだ。一体、誰から依頼されていたのか。その謎がひとつ解けたような気がした。
「魔法使いの絶対数を増やさない限り、魔力に苦しめられる子どもは増え続ける。だから、おれはほんの少しずつでもいいから、魔法使いを増やしていくんだ」
「……じゃあ、投薬を止めさせないと。そんなこと間違ってるって」
「それはできない」
興奮を帯びた声で話すソラを遮って父は首を振った。
「どうして」
「政府はこの世に存在する魔力の総量が変わらないことを知っている上で、投薬をしているからだよ」
「日記を見たからここに来たんだろう」
ソラは迷路に迷い込んだような困惑した顔で頷いた。鞄から念のため持ってきた日記を引っ張りだすと、父はそれを見て驚いた顔をした。
「持ってきてたのか。それは、元々私とお母さんの秘密の交換日記だったんだ。日記とは言うけど、自分の記憶を閉じ込めて相手に渡すもので、特定の魔力に反応するように出来ている。だから、他の人が見たり触れたりしてもただの白紙のノートにしか見えないんだ。そうだ、魔力を込めて触ると何度でも再生されるから気をつけろ」
在りし日の思い出が脳裏に蘇るのか、父は穏やかな表情を浮かべたが、すぐに神妙な面持ちに戻り語った。
「猫又教授から例の取引を持ちかけられたあとすぐに、リクの結晶を内蔵した杖は開発されほんの僅かの間だけ流通した。魔法痕が上書きされてしまうという特性は伏せられたまま」
「伏せられていた? じいちゃんは不良品だって言ってた」
「世間ではそう認識されている。その特性を把握していた上で流通させたということが知れたら大変なことになるからな」
「どういうこと?」
疑問が疑問を呼び、ソラの頭は再び混乱していた。魔法痕”白”は失敗を前提に作られたということなのだろうか。
「私とは、考え方が逆なんだ」
父はそこでいったん言葉を切ると、意を決したようにソラに向き直った。
「私が残した記憶の中で、意図的に隠した部分がある」
ソラは頷いた。猫又教授との会話の途中で不可思議な暗転があった。映像が切り替わった瞬間の気味の悪さをソラは思い出す。
「あの時気がついたんだ。そしてその後の出来事で仮説は確信へと変わった。リク、そして私が手にかけた男の魔力は、絶命したその瞬間に消えて無くなった。その部分はソラ、お前に直接会ってから話そうと思っていたんだ。お前がもし邪な考えを持っていたら、この真実は世界を滅亡へと容易に導くことになる」
世界の滅亡。そんなものは漫画やゲームの世界で大魔王が宣う類のものだと思っていた。しかし、いま目の前で沈痛な表情で話す父親はどこまでも”現実”の話をしている。
魔法は生来的に暴力の面を持っている。ソラはこの一年それをこの身で実感してきた。そして自分も例外ではないことに戦慄を覚えながらも理解した。
杖に罪はない。確かにそうだが、裏を返せば罪は常に魔法使いと共にあるのだ。
「魔力は暴力的で、制御できないものであるという認識を世間に植え付ける。頼みの綱の官製の杖も失敗し、残された手段は投薬だと示す。魔法をコントロールするのではなく、魔法使いを誕生させない。そうすることで行き着く先は魔力の異常な収束だ。そして最後に」
父は再び言葉を切った。それを言うのも憚られるような厳しい顔をしていた。
「人類を滅ぼせるほどの魔力を持った魔法使いがこの世に誕生する」
魔法使いという”器”を増やすことで魔力の平均化、個人の負担を和らげようとする父。”器”を減らすことで魔力を集中させ、破滅的な力を手に入れようとする組織。”魔力の総量は変わらない”というひとつの事実に対し、こうも考えが真逆になってしまうものなのだろうか。
おそらく、高度経済成長期の魔法研究の中で政府機関が発見したのだろうと父は言った。しかし魔法痕がユニークであることとは違い、この事実が公になれば魔法使い同士の魔力の奪い合いがはじまるのは目に見えている。しかし、権力は常に強大な武力を欲している。だからこのような歪なやり方で魔力をかき集めようとしているのだと推測できる。”器”の準備も万端だろう。というより一般市民から魔法使いを消し去れば、自然と魔力は組織の息のかかった魔法使いに収束する……。
それから父はまるで機嫌を損ねたかのように黙り込んでしまった。ソラが疑問を口にしても首を振るだけで、答えようとはしなかった。
沈黙が星空の下に広がっていた。蕎麦屋を出てずいぶん歩いたが、父はいったいどこへ向かっているんだろう。
「寄りたい場所があるんだ」
やっと口を開いた父が、道の向こうに見える黒々とした森のような場所を指さした。
「月命日だからね」
母が眠る場所とは違う霊園。ふたりは静かに足を踏み入れた。
「不問になったのは法的な罪だけで、道徳的な罪が赦されることはない。一生背負うべき十字架だ」
父は悲しそうにぽつりと呟いた。星明かりは鬱蒼と繁る木々に遮られ、辺りは闇に包まれている。遺族とばったり出くわさない時間を選んでいるんだとソラは思った。父に頼まれ、桶に水を入れてその墓の前まで運んだ。
父は墓前にひざまづき、目を閉じると、丁寧に手を合わせて祈っていた。
綺麗に手入れが行き届いている墓で、脇に供えられている仏花もまだ瑞々しい様子で空を仰いでいた。ソラは柄杓で水を掬い、父の邪魔にならないように、ひっそりと立つ墓標のほうに目を向けた。
そこには五人の名前が刻まれていて、手前の新しいほうに同じ日付で眠るふたりの名前が刻まれていた。
「……?」
とくん、と心臓が跳ねた。ソラはばっと顔を上げ、墓石に刻まれた碑銘に目を凝らした。気味の悪い感覚が肌に纏わりつく。これは偶然の一致だろうか。そんなに珍しい苗字ではないはずだ。しかし、ざわざわと体内で魔力が蠢いているのがわかる。
そこには”和泉”の文字が刻まれていた。
9.
ソラが父親に再開する数時間前、和泉トオルはゆっくりとベッドから身体を起こした。
嫌な夢を見た。
壊れたビデオテープのように繰り返し繰り返し再生される夢。しかしそれは夢ではなく、過去に起きた事実であることを和泉は知っていた。
病室の中からふわふわと移動するピンク色の肉の塊。それはゆっくりと移動し、血塗れで瀕死の母に吸収されるように溶け込んでいく。まるで指揮棒のように杖を振るいながら、大粒の汗を流す祖父。知識のない自分にもわかる明らかな禁忌。命を操作する神にも等しい行為が目の前で展開されていた。
あの日、母は二度死んだ。一度目は車に撥ね飛ばされ、二度目はゆっくりと肉体が崩壊していった。
病室の中の女は既に事切れていた。先刻まで部屋を満たしていた魔力を放つ粉のような物体は綺麗に消えて無くなっていた。女の魔力の一部が身体の中から感じられる。人の形を保てなくなった母を置き、屋上へと走った。
立ち尽くす男の向こうで、首のない祖父の身体が崩れ落ちる瞬間を目撃した。不思議な天気だったことと祖父の死体から放たれた魔力の一部がまた身体の中に入り込んだのを覚えている。
母を失いおかしくなった父は自分を置いて蒸発してしまった。頼れる親戚もなく天涯孤独の身となったが、祖父の残した紫檀の杖が生きる進路を示してくれた。身体や心が成長しても、記憶はいつまでも汚泥のように底にこびりついたままだった。いい加減、前に進まなければならない。復讐心の向かうままに、あの日の出来事を調べ直した。
あの日、病院の目の前で起きた事故で母と祖父は死んだことになっていた。当時の新聞、雑誌を当たっても祖父が殺されたということはどこにも書かれていなかった。それでも調べ続けていくと、ようやく祖父の犯した罪に辿り着くことができた。それは魔法局が管理する魔法犯罪における重大事故のひとつだった。魔法学部に入学し、学術論文の文献として探さなければ永遠に出会えなかったであろう事実は、残酷な現実であったが、知ったことを後悔はしていない。祖父は殺されても当然だと思った。あの日、被害者だったのは母と病室の女だけで加害者はスポーツカーを運転していた男と祖父だった。
復讐心は偽物だった。あるいは本当はもっと前から理解していたのかもしれない。ただ、生きる糧を得るために復讐というわかりやすいシンボルを掲げていただけなのかもしれない。祖父が手をかけた病室の女には、夫と産まれたばかりの赤子がいたらしいが、それは文献からも抹消されてしまっていたので行方は全くわからない。孫の自分がする意味はないのかもしれないが、謝罪をすることすらできない。
生きる意味を見失ってしまった。
差出人不明の魔法痕”白”を持つ杖と一通の手紙が送られてきたのは、そんな時だった。
そこには魔法がもたらす真実が記されていた。自分の”器”がそれに耐えうる選ばれたものであること。そして、復讐すべきは”魔力”そのものであること。あの病院での悲劇を経験してなければ、受け入れられる内容ではなかったかもしれない。しかし、理解は簡単だった。身を以て経験した魔力は収束するという事実。自分が経験したような悲劇を二度と起こさないためには、魔力の螺旋から人類を解放しなければならない。
和泉は薄暗い寝室で、三年かけて調べあげた魔法使いのリストに目を通した。彼らを魔力から解放してあげるたびに自分が強くなるのを感じていた。魔法使いは思っていた以上に至るところに隠れている。医者、弁護士、政治家、アスリート……。
魔法痕”白”を使うと足がつかない。和泉自身は標的以外に被害が及ぶことを極力避けていたが、名も知らぬ同胞達は標的さえ屠ることができるなら白昼の街中でも躊躇いはないようだった。彼らがテロにも似た事件を起こすことで話題が逸れ、おかげで動きやすかった。東京近郊だけではなく、名古屋や浜松などの地方都市にも足を運んだ。杖を振り、思いきり魔力を解き放つことは絶頂にも似た快感だった。これを我慢しているのは可哀想だと思うくらいの解放感。思い出しても鳥肌が立つほどの歓喜と愉悦の波が全身を覆い尽くしていた。
西宮の件は、失敗だった。あそこまで短絡的に動く馬鹿だとは思わなかった。証拠隠滅のために祖父の杖を失ってしまったし、魔法使いはひとりも減っていない。奴の頭部に放った魔法は記憶を混濁させるものだったが、魔法局の連中は勘づくだろうか。
……時間がないかもしれない。捕まってしまえば何もかも終わりだ。追手を全て返り討ちにするにはもっと魔力がいる。
リストの最下部、多量の魔力を保持していると推測されるため後回しにしていた名前が目に入った。
望月ゼン。
一年ほど前に調査の過程で彼の邸を訪問したことがある。外観は住宅街に突如現れた森のような風体で、本当に人が住んでいるのか疑わしいほどだった。低い柵が周囲を囲み、一見どこからでも入れそうな敷地だったが、魔力を探ると結界が張られていることに気がついた。瞬間移動と侵入者を防ぐ強固な結界。
当時は諦めたものの、今夜はなんとしても接触する必要がある。同胞がテロを画策しているという情報も耳にした。
望月ソラには悪いが、これも巡り合わせだ。彼も魔法使いであることだし、場合によってはふたりとも解放しなければならない。
10.
「こんな時間まで悪かったね。帰りは家まで飛ばすよ」
墓の前で呆然と立ち尽くすソラに、父は優しく声をかけた。ソラは振り返り、父を見つめた。先刻まで涼しかったはずの墓所を抜ける風が、妙に生暖かく感じられる。
「瞬間移動は制限魔法じゃないの?」
ソラは半分上の空で思ってもいない疑問を口にした。父は不思議そうな顔をしたあと頬を緩めて笑った。
「無免許運転みたいなもんだな。……どうした?」
「あの日、父さんが屋上で会った男の子の名前はわかる? ヒカルさんの息子の」
急な話題の転換に、父が怪訝な顔をして首を捻った。
「いや、わからない。心当たりがあるのか?」
「うん。たぶん……」
和泉トオル。魔術倶楽部の三代目部長。聞いた限りでは留年を経験しているようで年齢は一致する。加えて魔法使いであることも父の記憶の中で見た男の子と同一人物である可能性は高い。
「そうか。私は恨まれているかもな。会わす顔がないよ」
父はぽつりと呟いた。どういう事情であれいっぺんに母と祖父を失った男の子。憎悪の矛先は父に向けられていてもおかしくない。暗雲が立ち込めるようにソラの心は不安に覆われていく。
「家に帰るよ」
「わかった。私は新宿に向かう。どうやら新宿の爆発事故は魔法痕”白”によるものらしい」
父がスマートフォンを操作してソラに画面を見せた。赤い太文字で速報が流れていた。『現場からは魔法痕”白”が発見された模様』。ソラは頷いた。
父はまるで眠りに就くかのようにゆっくりと目を閉じた。その顔はひどく疲れているようにも見える。瞬間移動の目的地としてかつて自分が暮らしていた家を頭に思い描いているようだ。ふと、不思議な顔をして父が目を開けた。
「あれ? 結界がない。直接、作業場まで飛ばせるな……」
「結界?」
「ああ。ソラは知らないのか。杖職人って存在自体がそれなりに貴重だから、随分前に私が一応セキュリティのために結界を張ったんだ」
結界。そんなものがあるなんて知らなかった。しかし、いま思えば祖父の元を訪ねる人は全員があの古びた門扉を通っていた。もちろんいきなり他人の家に姿を現すのは失礼極まりないのだろうが、そもそも出来ないということだったのか。
「でも、いまは結界が解除されているの?」
ざわざわと身体中の血液が蠢くような悪寒がする。父は眉を上げ、頷いた。
「楔となる石を置いとくだけのシンプルなものだったからなあ。……ソラ、最近なんか古そうな石ころを蹴っ飛ばしたりした?」
「そんなことしてない……あっ」
ソラとホノカが襲撃を受けた日。ソラが敷地の中を仕事場に向かって走っていたとき、大きな石に躓いて勢いのまま蹴り上げていたのを思い出した。
「『魔力を持った石は人を惹きつける』。親父に言われたことがあったっけ。きっとソラも魔力に惹かれたんだな。まあでも大丈夫だ。今度修復しにいくから」
呑気な父とは裏腹にソラは焦っていた。
「とにかくいったん戻るよ」
ソラが早口で父に告げた。悪い予感は確信に変わりつつあった。
父が杖を振る。瞬間、世界の全てが引っくり返った。
膝から崩れ落ちそうになるのをなんとか堪え、立ち上がる。ソラは辺りをきょろきょろと見回した。ここはどこだろう。
足元の土は掘り返されたばかりのように柔らかい。確かに自宅に似た森の中のようだが、雰囲気に違和感がある。父は二十年近く帰っていないようだし、思い浮かべる場所を間違えたのかもしれない。だとしたら急いで戻らないと。ソラは頭上を覆う葉の間から漏れる小さな星明かりを頼りに歩きだした。
前方に開けた場所が見える。唐突に自分がどこにいるのかがわかった。そんなことあるわけがない。どうして、よりによって、今日なんだ。
生々しい土の臭いに混じり何かが焦げたような臭いが風に紛れて運ばれてくる。転がるように木々の間を抜けると、そこは隕石でも落ちたかのように地面が大きく抉れていた。周囲の木々は薙ぎ倒され、ぽっかりと空間が広がっている。間違いない。そこは、いつも背中を丸めて杖を磨く祖父の作業場があった場所だ。
「……」
ソラは呆然と立ち尽くしていた。脳が考えることを放棄し、目の前の光景が理解できない。段差になっている地面の縁に引っ掛かるようにして灰色の薄汚れた布が落ちていた。無理矢理引きちぎられたようにぼろぼろのその布が、祖父の着ていたツナギの一部だと認識するのにそう時間はかからなかった。
「ああ……」
肺が空気を拒否し、うまく呼吸ができない。膝に土の感触があった。いつの間にか脚は身体を支えきれなくなったらしい。視界が霞む。ソラはがっくりと頭を落とし、そのままぴくりとも動かなくなった。
「望月ソラか?」
どのくらいの時間そうしていただろうか。永遠にも、一瞬にも思えたそれは自分の名前を呼ぶ声で急に現実に溶けて消えていった。
「片桐さん……」
魔法局の片桐がソラを見下ろしていた。月明かりで影になっていて表情は読み取れない。
「君は無事だったか。酷いもんだ。なにもかも破壊されていて……」
「なにもかも……」
ソラはゆるゆると立ち上がった。周囲を見回すと片桐の他にも魔法局の人間らしき人影が忙しなく動き回っていた。木々の隙間からはサイレンのような赤色灯も見える。
「片桐さんはどうしてここに?」
片桐はその質問に答えようかどうか迷っている様子だった。がしがしと頭を掻いたあと、ようやく口を開いた。
「和泉トオルを追ってきた」
和泉トオル。その名前を聞いたとき、全身を不気味なうねりが走り抜けた。予感は的中していた。
「魔法の残痕から判明したんだが、池袋で君たちが襲われた事件で和泉が西宮に放ったのは忘却の呪文だった。咄嗟の判断にしてもおかしいということで、接触を試みたのだが自宅にはおらず、足跡を辿ってみたら奴はここを訪ねていた」
片桐が杖で地面を指し示した。ソラの中で凶悪な牙を持つ怪物がゆっくりと頭をもたげはじめている。
「ここで何があったのかはわからない。だが、我々が着いたときには既にこうなっていた」
「ありがとうございます」
ソラは鞄から杖を取り出した。激しく鼓動する魔力が杖に集まっていく。杖がまるで歓びに打ち震えるかのようにそれに呼応した。
「おい、何をしている。馬鹿なことを考えるな。お前の祖父さんは」
ソラはくるりと杖を振った。瞬間、片桐の言葉は轟音の向こうに掻き消えてしまった。細切れのフィルムのような世界でソラは目を閉じた。向かう先は決まっている。和泉トオルの元へとソラは飛んだ。
夜の静寂を破るようなぱしっという音が辺りに響いた。ソラはなにもない草原の上に立っていた。はじめての瞬間移動だったが、昔から使い慣れたもののように感じる。瞬間移動は同じ距離を徒歩で移動するのと同等のエネルギーを消費するというが、ソラの奥底から湧き上がる無尽蔵の魔力はそれを軽々と凌駕していた。
そこはだだっ広い草原が広がっている空き地のような場所だった。不安になるほど透き通った夜空に、町の灯りは遠くの景色に溶け込み、満月に近い月が高い空にぽっかりと浮かんでいた。ソラは意識を集中させた。魔力の揺らぐ気配がする。数メートル先で影が動いた。
「よくここがわかったね」
落ち着き払った声。声のしたほうを見ると和泉が夜空を背に静かな笑みを浮かべていた。
「僕は他人より魔力の気配に敏感なんです」
右手に握る杖に意識を集中させた。和泉も右手に杖を持っていた。夜空に映える白い杖がくっきりとその輪郭を誇示している。
「ここは病院の跡地なんだ。とある事件があって、病院は潰れてしまった。まっさらにして土地を売りに出したもののいわく付きってもんで買い手がつかない」
円を描くように歩きながら、唄うように和泉は言う。芝居がかった調子がソラの神経をちくちくと逆撫でする。
「僕はこの病院で産まれた。そして母と祖父はここで死んだ」
「だったらどうした」
和泉が眉を上げた。荒々しい口調とは裏腹にソラの頭はひどく冷静だった。目は和泉との距離を測っていた。あと数歩ほど距離が縮まれば魔法の射程内に入る。
「魔力を持って産まれるというのはとても幸運なことだ。魔法はなんでもできる。空を飛ぶことだって、海底を散歩することだって、不治の病を治すことだってできる。でも、悲しいかな。人は魔法を武力としてしか扱わない。魔法使いの歴史は殺戮の歴史だ。人類は常に貴重な魔力の奪い合いを繰り広げてきた。魔法使いとして生きると決めた時点で我々はその血塗られた螺旋の上を歩き続けなければならない」
和泉が指揮棒のように杖を振る。ソラの脳内でカウントダウンの鐘が響いた。
「言っている意味がわからない」
3。
和泉が白い杖をぴっと天に向けた。今度は教壇に立つ教師のような口振りだった。
「魔力は有限なんだよ。選ばれし者はもっと少なくていい。魔法は愚衆のためにこそあり、愚衆を導く者こそ魔法使いだ。魔力もわからぬ”持たざる者”に用はない。魔力があっても正しい使い方もわからない連中は大人しく魔力を差し出すべきだ。特に魔力を貯めてろくに使わない電池のような老害はな」
「それはじいちゃんのことを言ってるのか!」
2。
挑発に乗ったフリをする。和泉が激昂するソラを見てせせら笑った。
「人は図星を突かれると激昂する。望月くん、君はいつか言っていたね。『祖父は魔法使いではない』、『自分も魔法使いではない』と。……どうして嘘を吐いたんだい。どうして隠した? そんなに魔法使いになるのが嫌だったのか?」
「……知らなかっただけだ」
1。
一歩、距離が縮まった。
「それはまた大層な言い分だな。君には失望したよ。君のような矮小な存在は魔法使いに相応しくない。私がもっと有意義に魔力を使って」
0!
激しい閃光が迸る。網膜が焼かれるほどの光が草原を昼間のように照らした。ソラは和泉の持つ杖めがけて魔法を放った。杖を吹き飛ばすだけでいい。そうすれば魔法は使えないはず。ソラの脳裏には父の記憶が蘇っていた。病院の屋上で杖を振るった父と自分が重なり、殺意を遠ざけた。幼い頃の和泉がぽっかりと穴の空いたような黒い目でこちらを見上げていた。
和泉が手に持っていた白い杖がみしみしと音を立てて折れた。破片が空を切り、和泉の頬を裂いたのを見た。瞬間、燃えるような痛みが右腕を襲った。ソラの杖の先から溢れでる稲妻のような光は、なんの前触れもなく消え去った。
「奇術の基本は視線誘導。人間の甘さは織り込み済だ。夜空のスクリーンに白い杖はよく映えるだろう?」
ソラは和泉が左手に握る先程まで持っていなかったはずの黒い杖を見、そして自分の右腕を見た。手首の付け根の左側面から肘まで真っ直ぐにヒビのような血の轍が走っている。爆発するような痛みが腕から全身へ駆け巡っていた。心臓が弾け飛びそうなほど激しく脈を打っている。
「この杖は君のお祖父さんがいた場所で拾ったんだが、もしかして君が作ったのかい。扱いやすくていい杖だ。……若き杖職人よ。もう少し成長した君の姿を見たかったものだが」
和泉が言葉を切り、宙を見上げた。そこには魔法痕がふたつ重なりあうように浮かんでいた。ひとつは和泉自身のもので、西宮の頭部にもあった幾何学模様。もうひとつはソラの魔法痕だった。
「へえ。君の魔法痕はこれか。円の中に五芒星が三つ浮かんでいるね。格好良いじゃないか。五ツ星には物足りないが、さしずめ”三ツ星の杖職人”と言ったところか」
腕の痛みに歯を食い縛るソラを見下ろし、和泉は満足そうに微笑んだ。
どうする。どうすればいい。考えろ。滴る血がソラの足元の草の葉を赤く染めていた。痛みを堪えるのに精一杯で頭の回転が鈍くなっている。純然たる死への恐怖がむくむくと膨らみ、その思考をさらに妨げていた。
杖はもうない。アケビのために作った杖。右腕の先は直視できないほど血に塗れていた。鞄、鞄の中身は財布とスマートフォンと父の日記。日記を父は受け取らなかった。だからソラはそれを再び鞄に仕舞った。
「うぐっ」
蛙が潰れるような音がした。それが自分の口から発せられたものだとは気がつかなかった。腹に鈍い痛みが走り、蹴りあげられたことを知る。口内に血と胃液と蕎麦の臭いが混ざった。
「これは”救い”だ。君を輪廻転生の苦しみから解放しよう」
黒い杖がソラの眼前に迫った。ソラは咄嗟に鞄を和泉に投げつけた。留め具の外れた鞄の中からばらばらと中身が飛び散る。和泉は汚いものでも見るような蔑んだ目つきでソラを見下ろした。
「往生際が悪いな」
ソラは草原に放り出された日記を見つめていた。吹き抜ける風がぱらぱらとページを捲っていく。瘧のように震える左手を日記に向かって必死に伸ばした。和泉は訝しげな表情でそれを見ていたが杖を振ると、日記はたちまち宙を舞い和泉の手の中に収まった。
「今時、紙のノートなんて時代錯誤もいいところだ」
言いかけて、和泉の動きが止まった。ソラを捉えていたはずの視線が宙を泳いだ。まるで見えない糸に縛られたように全ての動作が停止している。あの日、幼い和泉の魔力の中にほんの少しだけ混ざった母の魔力が日記に込められた記憶に反応した。彼はいま二十年前の父の記憶を見ている。
ソラの頭の中では閃光のような光がばちばちと明滅していた。だらりと垂れ下がった右腕を庇うように立ち、杖の先を和泉に向けていた。
数刻前、過去の世界に飛び、現実で呆然と立ち尽くしている和泉からソラは杖を奪うと、魔法で縄を生成し縛り上げた。日記に和泉が触れるかどうかは賭けだったが、彼の中に母の魔力が残っているということは確信に近い思いを抱いていた。目を閉じ、彼の行方を追ったときに光ったそれは母のものだった。ソラは漸く理解していた。自分が魔力を察知できるのは両親や祖父などの肉親だけだ。ホノカが話していたことを思い出す。彼女に治療を施したのは父だったのではないだろうか。そうであれば、ホノカの杖の気配がわかったのにも合点がいく。
芋虫のように地を這いずる和泉をソラは黙って見下ろしていた。目を閉じても祖父の魔力はどこにも感じられない。怒りを越えた先にある無限の悲しみがソラの全身を覆い尽くしていた。こんな奴の中に母の魔力が宿っているという事実も許しがたい。
杖を大きく振り上げた。サクラ、紫水晶、30cm。誰のためでもなく、魔力に囚われた全ての人を救いたいと思った杖。その杖の先端が静かに殺意の波動を放とうとしている。
和泉を挟んだ向こう側でぱしっという音がしたかと思うと、視界の端に赤い布がはためいた。ソラがそちらに視線を向けると、細いシルエットの人物が風景から滲み出るように現れた。その正体にソラは声を出すのも忘れてしまうくらい驚いていた。
月光に輝く深紅のワンピースを身に纏った戸村アケビが、相変わらずの鋭い視線でこちらを見つめていた。
「久しぶりだな」
「……アケビ?」
予想外の闖入者にソラの頭は混乱した。混沌とした状況の中でソラの心臓だけが高鳴りはじめていた。ワンピースと同じ色をしたヒールの踵が地面に突き刺さっている。細身のワンピースと相俟って彼女のすらっとしたスタイルをよりいっそう際立たせていた。
「ちょっと前に、私の杖が光った。眩しくて見てられないくらいだった。これはお前になにかあったかもしれないと、稽古中だったんだが抜けてきた」
「どうしてここがわかったの?」
「さあ。……私はただ、ソラの元へ行きたいと杖を振っただけだ。なんか、魔力に引っ張られたような感じだった。……変な糸でも繋がってるのかな」
アケビが冗談めかして笑った。あの頃と変わらない少し意地悪そうな笑み。ソラも笑った。繋がり。思いがけず橋の下でアケビの魔力が暴発した日が脳裡に浮かんだ。アケビが不意に真面目な顔に戻り言う。
「私は女優になった」
唐突にも思える宣言。自分を見てくれと言わんばかりに彼女は大きく両手を広げた。ワンピースの胸元から見える火傷の痕はいまも変わらず残っていた。しかしそれは目の前で堂々と立つ彼女のほんのささいなアクセントにしかなっていない。
「お前は殺人犯になるのか? 杖職人になるんじゃなかったのか?」
足元に視線を向けると、縄で縛られ横向きに転がっている和泉の頬を涙が伝った。夜露に濡れる葉の先から水滴が零れ落ちるように、それはすぐに溶けて見えなくなった。
「君が、あの時の……」
ぼそぼそと呟く和泉の声はソラの耳には届かない。運命の悪戯というにはあまりにも悲しい邂逅だった。ソラは和泉に向けていた杖をゆっくりと下ろした。掌の上で杖を転がす。それはとっても軽く、滑らかだった。
「この杖は、僕が作ったんだ。誰でもすぐに使えるようにって。……人を傷つけるために作った訳じゃない」
アケビは頷いた。その目は柔らかな優しさを湛えていた。
「アイス、奢ってやるよ」
魔法局に事の顛末を連絡すると、間もなくして片桐が息を切らして現れた。そしてその後ろには少し窶れてはいたが祖父が険しい顔をして立っていた。
「え? じいちゃん?」
生きてたのか。後に続く言葉は嗚咽となってソラの口から溢れでた。アケビの暖かい掌がソラの震える背中をそっと擦った。
「魔力が……無くなってたから、死んじゃったのかと」
祖父が気まずそうな顔でぽりぽりと頬を掻いた。
「自身の肉体の再生に魔力を全て使い果たしちまったんだ。本当に死ぬかと思った」
「魔法使いだってこと、ずっと隠してたんだな!」
「いや、それは、父親が魔法と関わらせたくないって言うから」
「じゃあ、杖も作らせるなよ!」
ソラの顔が苦痛に歪んだ。軽口を叩けるほど気持ちは落ち着いていたものの、右腕が悲惨な状態になっていることを改めて思い出す。その時、背後でぱしっという音がして今度は父が現れた。
「新宿のほうは魔特捜に任せてきたよ……おい、どうしたその腕」
父はソラの右腕を見て、慌てて駆け寄ってきた。
「こりゃ酷い。魔法でやられたな。いま治すから少し我慢しろよ」
父は懐からさっと杖を取り出すと、ソラの右腕に真っ直ぐ杖を向けた。その様子にこれまで黙ってやり取りを見ていた片桐が制止に入った。
「魔法による他者への医療行為は禁止されています」
「この治療法は、使用者の負担は魔力のみで患者にも副作用はほとんど見られない。自己治癒の範疇で範囲と比率を調整するだけだ」
ソラの右腕が淡い光で包まれた。潮が引くようにすうっと痛みが和らいだ。
「いいえ。その場合であっても、禁止事項には抵触します」
「それなら間違っているのは法律だ」
食い下がる片桐に父はぴしゃりと反論すると、ソラに向き直って小さくウインクをした。気色ばむ片桐の肩に祖父がそっと手を置き、諭すように首を振った。そこで漸く片桐も引き下がった。
「これでよし。まだ、細胞間の結合は弱いから一週間くらいはギプスで固定しておいたほうがいい」
父は立ち上がった。そして地面に横たわる和泉に目を向けた。その顔は深い悲しみに満ちていた。
「ちょっと彼と話してもいいかな。できればふたりきりで」
片桐が口を開きかけたが、思い直したように頷いた。それに便乗するようにアケビが手を上げた。
「私もソラを借りてもいいですか」
アケビは祖父に向かって言った。何故かはわからないが祖父に許可を求めているらしい。祖父は全てを理解したかのような顔でにやりと笑って頷いた。
草原を抜ける風が心地よい。少し離れた場所でアケビが照れ臭そうにソラに言った。
「これ、今度ここの市民ホールで上演するチケットなんだけどさ、やるよ」
「ありがとう」
ソラはアケビの手にしたチケットにとても驚いていた。お礼を言い、傷痕の無くなった右腕を擦りながらチケットを受け取る。なんだか物凄く恥ずかしくなり視線を逸らすと、祖父と片桐の向こうで父が和泉になにか語りかけている様子が目に入った。お互いが奇妙な因縁に囚われてしまった二十年を清算しようとしているのだろうか。穏やかに決着がついてくれればいいとソラは思った。
「どちらにしろそろそろ会いに行こうと思ってたんだ。この舞台があったからさ。私、主演なんだぜ」
「すごいじゃん!」
ソラはもう一度チケットに目を落とした。来週の日曜日、昼からの上演だった。スポットライトに照らされ喝采を浴びるアケビの姿が瞬時にイメージできた。
「絶対行くよ」
「ありがとう。ところでこれ、ノルマがあってもう少しもらってくれると嬉しいんだけど……」
「うーん……そしたらあと二枚もらえるかな」
「めっちゃ助かる」
「じゃあ、稽古戻るわ。もう終わっちゃってるかもしれないけど。それじゃあ」
ぱしっという音と共にアケビの姿は見えなくなった。別れの言葉も言えなかった。最後は不自然に急いでいたような気がする。アケビがいたところに目をやると、そこには向日葵の魔法痕が残っていた。
11.
市民文化ホールはお世辞にも大盛況という雰囲気ではなかった。後から知ったことだが、アケビの所属する劇団は結成から二年ほどの新団体で、小さなホールでの小さな演劇を全国各地で行っているということだった。
閑散とする劇場の前から五列目に座ると、舞台は思っていたより大きく迫り来るように見える。重たい緞帳はその厳かな雰囲気に拍車をかけていた。
「ソラくんの友達に女優さんがいたなんて」
隣に座る久住ホノカが囁いた。
「まだ始まってないからそんな小さな声じゃなくても大丈夫だよ」
そう応じたのはホノカの向こう側に座る石田カイトだった。ホノカは横目でカイトを睨んだあとくすぐったそうに笑った。ホノカとカイトの関係性はこの短い間に少し変化を見せたらしい。自分は蚊帳の外だったのかと思うと少し悲しくもあったが、幸せそうなふたりを見るとこちらまで嬉しくなってしまう。ふたりの夫婦漫才のような掛け合いをリラックスして聞いていると、前列の端っこの席に女性がひとりで座っているのが視界に入った。
年齢は同じくらいで、くるくると巻いたボリュームのある髪が肩甲骨の辺りで広がっていた。彼女は一瞬こちらを向いたが、すぐに前方に顔を背けてしまった。見覚えのある彼女の顔にソラは驚きを隠せなかった。しかし、アケビの竹を割ったような性格を考えると過去に蟠りは残したくないのも頷ける。谷川ミホ。どうやら彼女も招待されていたらしい。
劇場の半分ほどが埋まったところで開演前の注意事項がアナウンスされ、ブザーが鳴り響いた。ソラは居住まいを正し、舞台に向かって敬意を払うように背筋を伸ばした。
照明が落ち、緞帳が音もなくするすると上がっていく。それに合わせるように期待も高まっていく。
アケビは夢を叶えた。そしていまはまた新しい夢を胸に抱いているんだろう。高校を中退し、不退転の覚悟で追いかけた夢は見事にその花を咲かせている。それに比べて自分は未だなにも成し遂げていない。それどころか魔力を巡る争いにこれからも巻き込まれていくのもしれない。それでも。
『私は女優になった』
あの日の言葉は真っ直ぐな自信に満ちていた。いつか彼女の横に並ぶとき、自分も胸を張って宣言したい。
夢は叶えるもの。立派な杖職人への道のりはまだまだ遠い。
舞台はまだはじまったばかりだ。
三ツ星の杖職人 えま @yu4113
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