第二部 中 『幻惑』

5.

 ぷかぷかと浮かぶ光の断片。そっと耳を澄ますと光の向こうから声がする。虹色のテープの表面にはぼんやりとした風景が流れている。声を出そうとしたら代わりにごぼごぼと泡が生まれた。波間に漂うクラゲのように、記憶の狭間に流される。

 日記の形をしていたけれど中身はまるで海の中のようだった。自分と世界の境界がどんどん曖昧になっていく。


……。


 講義が終わりがたがたと席を立つ学生の間を、ひとりの男が教壇に向かって歩き出していた。

 講義室を出ようとする学生と肩がぶつかり舌打ちをされても彼は意に介さず、講義で使用した資料を片付けている教授まで一直線に向かう。ふと視線を上げた教授と目が合い、男は眼鏡の奥で微笑んだ。

「教授。きょうの講義はこれまで受講した魔法史の中でいちばん興味深いものでした」

「……あら、それはありがとう」

 素っ気ない返事の教授に、男は教壇の上に掌を乗せ、さらに捲し立てるように話しかける。

「やっぱり魔力には自己修復の機能が備わってますよね。魔法使いは傷の治りが早いと言われてましたが、実証サンプルが少なく、確認できた論文も論拠が不足しています。教授がおっしゃっていたジャンヌ・ダルク、アンネ・フランクを魔女とした場合の仮説は、大衆がそれを過度に恐れたことも鑑み、若年の魔女が最も魔力を保持している可能性を示唆しています。そして、彼女たちが一般の子女より頑強であったこと……。教授は魔力を肉体や精神の修復に利用、つまり可逆的な活用方法についてどう思われますか」

 教授は驚いた顔で男を見返した。

「あなたみたいに熱心に聴いてくれる生徒ははじめてだわ。でも……」

 教授はくるりと室内を見回し、誰も残っていないことを確認した。

「あなた、ここの学生じゃないでしょ」

「あれ、バレましたか」

 男は悪戯っぽい仕草で頭を掻いた。

「聴講くらいなら許してあげたけど、質問までしに来たら看過できないわ」

「どうしても教授とお話がしたくて」

「呆れた……どこの誰かくらいは教えてちょうだい」

「あ、はい。望月と言います。望月ヨウ。研修医です」

「あら、他大の学生でもないのね。随分若く見えるわ。……さっきの質問は、要は医療行為への魔力の活用よね。それは禁止でしょ」

 教授の返答にヨウの眼がきらりと輝いた。

「禁止かどうかじゃなく、できるかできないかです。傷の修復に他人の魔力を用いた場合は魔法使いのほうに修復分相応のダメージがあること、魔法痕が半永久的に残り、患者の精神に悪影響を及ぼす可能性があるのはわかっています。ただ、患者本人に魔力がある場合は、その魔力を増幅させて自己治癒力を高めれば、法にも抵触しないのですよね?」

「法の抜け道としては正しいんじゃない。でも、自己治癒力には限界がある。例えば、失った手足が生えてくることはない」

「そうですね。それなら……」

「ちょっと待って。あなたもしかして魔法使いなの?」

 ヨウの言葉を遮って教授は不審を露にする。ヨウは片方の口角を上げ笑うと、ジャケットの内ポケットをごそごそと探り小さなガラス瓶を取り出した。

「これがなんだかわかりますか」

 ブリキのキャップを親指と人差し指で摘まむようにして目の高さまで持ち上げる。透明なガラス瓶の半分ほどは半透明の薄水色の粉で満たされていた。

「なにこれ。綺麗ね」

 ヨウはキャップを開け、自らの掌にその粉をひとつまみ乗せた。それは蛍光灯の光に照らされ、宝石のようにきらきらと輝いた。

「”普通の人”には見えません。……これは魔力の結晶です」

「魔力の結晶……?」

 教授は意味がわからないといった様子で首を傾げた。

「今さら惚けたって無駄です。教授も魔女ですよね。というか、人間ではなくて」

 背後からごんごんと講義室の扉を乱暴に叩く音。ふたりが振り返ると、そこには帽子を目深に被った大男が立っていた。男は鋭い視線をヨウに向け、低い声で唸った。

「おい、なんだソイツは」

「ああ、ミサオくん」

 教授が猫が喉を鳴らすような甘ったるい声で囁いた。ヨウはふたりの間を漂う親密な空気に、一匹ではなく番か、とひとり納得し頷いた。

「この子はただのお客さんよ。研修医なんだって」

「研修医がなんのようだ。名前は」

 ミサオが帽子の下でぎょろりとヨウを見下ろした。

「望月ヨウです。はじめまして」

 ヨウは微塵も臆する様子もなく右手を差し出す。ミサオはそれを無視し、ヨウの顔をしげしげと眺めた。

「望月……聞いたことある名前だが、お前、もしかして親父は杖職人じゃねぇだろうな」

「ご存じなんですか?」

「えっ。ゼンちゃんの?」

 掌を口に当て驚いたのは教授のほうだった。

「そういえば、そうか。望月って確かそういう苗字だったわね」

「あいつの息子か。でっかくなったな」

「なんだか、照れますね」

 火照った顔を扇ぐようにヨウは手をぱたぱたと振った。

「研修医ってことは、親父の仕事は継がないのか」

 ミサオの質問に、ヨウはついと眉を上げ頷いた。

「継がないですね。僕は魔法が使える医者になります」


 教授は結晶の分析を約束し、次の講義があるとその場を後にした。残されたヨウとミサオはどちらともなく講義室を出た。ミサオはいくら旧友の子とはいえ、初対面の人間とふたりきりにされ気まずい空気を味わっていたが、ヨウは口笛を吹くほどリラックスしていた。

 踏みしめるたびに何層も重なった枯れ葉の厚みが靴底に伝わる。構内の広場をふたりは歩いていた。

「なんで人間社会なんかで暮らしてるんですか」

 予想外の直球の質問にミサオは思わず噎せ返りそうになる。

「あいつ、そんなことまで話したのか」

「いや、教授からはなにも聞いてないです。ただ、なんとなく雰囲気が人間じゃないかな、って。うーん、なんの生き物かな……猫?」

「お前に教える義理はないな」

「そうですか。まあ、なんでもいいですけど」

 飄々と歩くヨウを見て、掴みにくい男だとミサオは思った。頭の回転は早そうだが、思想に偏りが見える。先刻、講義室で漏れ聞こえてきた会話を盗み聞いていたが、彼の発想の危うさはどちらにも転び得るものだと感じられた。

「ミサオさんも魔法が使えますよね」

 ミサオは無言で頷いた。

「……どうして魔法使いは我慢を強いられているのでしょうか。翼があるなら飛べばいい。鰭があるなら泳げばいい。足が速いから陸上選手を目指し、頭が良いから大学教授を目指すんです。僕らは魔力があるのに、何故それを抑えつけなければならないんでしょう」

 ちょうど、ふたりの頭上を飛行機が通過していた。深まる秋の空気を震わす微かな振動と、棚引くひこうき雲。あれだって鳥の真似事でしかないとヨウは思う。

「我々は、魔力を持たないものより優れているわけではない、と俺は思う。人は飛べないから鳥に劣るのか。あるいは水中で呼吸ができないから魚類以下か。……おそらく神から与えられた役割みたいなものが生物にはあって、それぞれがその役割を全うしているだけで、比較すること自体がナンセンスなのかもしれん」

「僕は、わからないことを”神”なんて曖昧なもので誤魔化したくないです」

 ヨウが語気を強めた。ミサオを睨みつけるように見上げる双眸には妖しい光が宿っていた。それはまるで神に敵対する悪魔のようなほの暗い輝きにも見える。その勢いに圧されたのか、あるいは議論の終着が決して交わらないことを悟ったのか、ミサオはやや強引に話題を変えた。

「きょうは、タマキ……猫又教授に会いに来たのか」

「はい。親父に紹介してもらいました。講義を聞く目的もあったんですけど、これを見てもらおうとも思っていて」

 ヨウは先ほど教授に見せたガラスの小瓶を再び取り出して見せた。

「それは、なんだ。魔力の結晶とか言っていたが。小学生の自由研究か?」

 ヨウは首を振った。

「これは、とある魔女から析出した魔力そのものです」

「へえ。それはまた珍しい。魔力は強いて例えるなら気体に近いと聞いていたが、結晶化することもあるんだな」

「世界中を探しても同じ事例はありません。先ほど渡しそびれてしまったんですが、これを教授に渡しておいてもらえませんか」

 ヨウは小瓶と一緒に茶色い封筒を取り出した。ミサオは興味津々といった様子で、それらを受け取る。

「なんでもいいので発見があれば教えてください」

 ヨウは居住まいを正し、深々と頭を下げた。ミサオはヨウの背後に見え隠れする重たいなにかを感じ、黙って頷く他なかった。



 戸村記念病院。西東京市のほぼ中心に大きな躯体を構えるその病院は、五百十の病床数と最先端の医療機器を携え、地域一帯では最大の規模を誇っていた。その病院の本棟とは別に建てられた長期入院患者専用棟の六○一の個室に、望月リクは入院している。

 ヨウはポケットからマスクを取り出した。こんなもの気休めでしかないが、リクからの要望である以上、断ることはできない。ノックをしても返事がなかった。そろりと引き戸を開け、隙間から滑り込むように中に入る。

 カーテンが引かれた薄暗い部屋で、深海に漂うマリンスノウのような小さな魔力の結晶が中空に漂っている。病室には似つかわしくない幻想的な光景にヨウは思わず見惚れてしまう。例えそれが彼女の命の欠片であったとしても。

 一歩を踏み出す度に床を覆う霜のような結晶が舞い上がる。床、壁、備え付けのデスク、仕切りのカーテン、そしてベッドに横たわる彼女も、白く濁って見える。

 森の深奥に眠る姫のように、彼女はその眼を閉ざしていた。睫毛の先に積もる結晶がはらりと彼女の微かに朱みを帯びた頬に落ちる。ヨウは静かに丸椅子に腰掛けると、彼女の西洋人形のような端整な顔立ちを黙って見つめていた。

 指を擦り合わせるとさりさりと異物が挟まっているのがわかる。肉眼でも確認できるほどの大きさの魔力の結晶は、まるで小さい星のように鋭角の棘を持っていた。一見ファンタジックにも思えるそれも、彼女の体内から発生していることを知ると、彼女を傷つける凶悪な形に思えてならない。

「ソラは……?」

 いつの間にかリクが薄く瞼を開きこちらを見ていた。

「ごめん。起こしちゃったかな。ソラは親父に預かってもらってるよ」

「また、迷惑をかけて本当に申し訳ないわ」

 こほっと小さく咳をするリク。舞い上がる結晶。

「……きょうは魔法史の教授に結晶を渡してきたよ。彼女自身も魔女みたいで、分析してくれるってさ」

 ヨウは努めて明るい声で話す。自分はどちらかというと感情の起伏に乏しいと思っていた。五年前の母の葬式でも涙ひとつ流さず、森羅万象はあるべきところへ還ると理解し、正座をした足の痺れに気を取られてばかりいた。およそ生命というものは誕生と消滅を繰り返し、そこに例外は存在しない。死は全生命に与えられた唯一の平等なもので、すべからく尊重されるべきものである。我々は、その大いなる流れに身を任せればいい。悼む気持ちはあっても自分の心まで湿らす理由はない、と思っていた。

 しかし、ベッドに横たわり弱々しく咳をする伴侶を前に、ヨウは冷静ではいられなかった。生涯を捧げる誓いはますますヨウの中で大きく強くなっていき、自分が救わなければいけないという切迫した使命感のようなものも芽生えていた。


 最初に異変が起きたのは、生まれたてのソラを抱えて自宅へ戻った翌日の朝だった。

 カーテンの隙間から差し込む朝の陽射しはこれまでの人生で最も明るく輝いて見えた。高校卒業と同時に小さな出版社に勤めたリク。同級生だったヨウは地元では一番の国立大学医学部へと進学した。同じクラスだったことがきっかけで生まれた小さな青臭い恋愛感情。ヨウは大学進学を決めたとき、その関係に終止符を打つつもりでいたが、リクがそれを許さなかった。

『お医者さんになるのって、たった十年くらいでしょ。待つよ。だからその後の百年はずっと一緒にいてね』

 結局、ヨウのほうが待ちきれずに医学部卒業のタイミングで結婚し、ふたりの人生計画はとんとん拍子で前倒しされていったが、全てはあの日からはじまったのだ。思えば、遠くへ来たものだ。まだ三十にも達していない若輩者が言うのは烏滸がましいかもしれないが、それでもいまが幸せの絶頂だと心から信じられる。

 父親として、もちろん夫としても自分が家族を支えていくんだと決意を新たにし、ヨウは部屋を出た。

 別部屋で息子と寝ているリクの様子を見に行くと、ヨウはそこで信じられないものを目にした。彼女の髪の毛が真っ白に染まっていたのだ。にわかには信じられなかったが、出産の前後で担当医が話していたことを思い出す。産後のストレスは様々な不調をきたすことがある。これもその一種で、皮膚炎やフケのようなものなのだろうか。そっとリクの髪に触れるとさらさらとした砂粒のようなものが指にまとわりついた。瞬間、指先にほんの少しの違和感を覚える。

……魔力?

 ヨウは自身の指先に乗る微細な粒を見つめた。微かではあるが確実にそれは魔力を纏っていた。

 一粒なら取るに足らないものだが……。

 ヨウは彼女の横たわるベッドを見回し、思わず目を見開いた。その粒は彼女の髪だけではなく、彼女を中心として円状に波紋を描いていた。ベッドの縁から床に伸び、さらにはソラを寝かせているベビーベッドの足にまで小さな山を作っていた。どうして部屋に入った瞬間に気がつかなかったのか。

「リク」

 返事がない。緊張が一気に押し寄せる。心臓がどくどくと鳴っている。

「リク」

 瞼がぴくりと動いた。

「……おはよう」

 寝ぼけた眼を擦りながらリクが起き上がる。ヨウはほっと胸を撫で下ろした。背後でふぎゃあ、と泣き声があがる。

「あー、起こしちゃったね。ごめんね。……うん? なにこれ?」

 リクが辺りを見回すたびに煙のように微少の粒が舞い上がる。ヨウは杖を取りだし、それが入り込まないようにベビーベッドごと空間を薄い空気の幕で覆った。

「え、あなたの魔法?」

「違う。この白い結晶みたいなものはリクの身体から出ている」

「なに……それ……」

 リクの上半身が不意に揺れた。焦点の合わない眼がぐるりと宙を向き、そのままベッドに倒れこんでしまった。

「リク!」


 救急車は通報から五分ほどで到着した。

「脈拍、呼吸は正常の範囲内です。回復体位で寝かせていますが、意識は混濁しています。既往歴はありません」

 ヨウが事情を説明すると、救急隊員は一瞬意外な表情を浮かべたが、余計なことを考えている場合ではないとすぐに真剣な顔つきに戻った。ヨウは頷いて、彼らを寝室へと案内した。

 救急隊員は慣れた手つきで朦朧としているリクの意識の確認と脈拍を計測し、無線で何事か話している。そのてきぱきとした作業を傍目で見ていたヨウは違和感に気がついた。彼らにはこの結晶が見えていない?

 魔力は通常、目視することができない。ただ、魔法で生成した物質は魔力がなくても見たり触ったりできる。つまりこの結晶は魔力によって生成された物質ではないということらしい。考えられるとすれば、この粒のひとつひとつが魔力そのものであるということか。

「あの、戸村記念病院に搬送は可能でしょうか」

「搬送先の指定はできません」

 にべもない隊員の言葉にヨウは食い下がった。

「私が研修医として勤めている病院なんです。どうかお願いします」

 魔法のことは伏せ、ヨウは祈るように懇願した。もし、リクの異常事態が魔力によるものだとしたら、通常の病院では対応することができない。ヨウの余りにも必死な様子に、隊員は困惑しつつも頷いた。

「わかりました。最初にそこの病院の空きを当たりましょう」

 ヨウはほっと胸を撫で下ろした。あそこならなんとかなるかもしれない。ヨウが研修先として選択し、そしてリクの搬送先になった戸村記念病院の院長は、現代に生きる魔力を持った医者である。


「産後のホルモンバランスの変化、急激な環境変化によるストレスあたりでしょうか。血液検査も異常は見当たりませんし、少し休めばよくなると思いますよ」

 ベッドの上に巻き散らかされた結晶には目も暮れず、知った顔で初老の医師はそう告げた。彼は産婦人科の専門医でヨウとは面識がなかった。院長は不在で、手の空いていた彼が担当してくれているのだが、カルテも取らず、ろくに患者を診ていない。

 ヨウは自分がここの研修医であることを黙っていた。魔法が絡む案件では余計なことを口走るわけにはいかない。ただでさえ、医者と魔法使いは反目し合う存在なのだ。院長が魔法使いであることは例外中の例外で、院内でもそれを知る者はほとんどいない。なので、いずれは院長に直接診てもらうしかないと考えていた。

 ヨウが苦心している一方で当のリクは病院に着いたときにははっきりと意識を取り戻していた。いまはベッドの上で医師の話を聞き流すように、楽しそうにすら見える手つきで髪の毛を梳いていた。ぱらぱらと散る結晶をふっと吹いて巻き上げる。本人が苦痛を感じていないのならいいのだが、そんな楽観的な考えは真綿で首を絞められるように削られていった。


 日を追うごとに、析出される結晶の量はどんどん増えていった。慢性的な体調不良は回復の兆しを見せず、リクはベッドの上で過ごす時間が多くなった。

「まさか、パパの病院に入院してるなんてね」

「私もびっくりしちゃった」

 その日、ヨウの知らない女性がリクの病室を訪問していた。

「あ、ヨウくん」

 リクがベッドの上から手招きをする。明るい髪のショートカットの女性が慌てて立ち上がってぺこりと頭を下げた。

「私の高校の同級生のヒカル。お父さんがここの院長なんだって」

「吸収合併からの雇われですけどね」

 ヒカルは冗談ぽく頭を掻いた。ヨウも頭を下げた。院長には一人娘がいるという話は聞いていたが、リクと繋がりがあったとは知らなかった。彼女は結晶が見えてないようで病室の様子を不思議がる素振りはなく、厳格な父親に比べてヒカルは名前の通り明るさが全面に出ているような朗らかな女性だった。彼女の病院に似つかわしくないその明朗さにつられ久々に笑顔を見せ談笑するリクの姿を見ると、それがほんの短い時間であってもヨウの心に凪のような平穏が訪れた。

「リクも子ども産まれたんだよねー。おめでとう」

「ありがとう。ヒカルは高校卒業してすぐだっけ?」

「そうそう。もう五歳よ。男臭くてやんなっちゃう。もうすぐ旦那と一緒に私のこと迎えにくるけど、会う?」

「旦那ってもしかして、トウジくんのこと?」

「それ以外に誰がいるのよ」

「えー、懐かしー。結婚式以来じゃん。緊張しちゃうー」

 他愛のない世間話。のほほんとしたリクを横目で見ていたヨウも思わず苦笑する。

 ガラガラと引戸が引かれる音がした。目を向けると白衣を纏った如何にもといった振る舞いの老医者が立っていた。

「パパ!」

 ヒカルが両手を前に突きだして手を振った。パパと呼ばれた院長は一瞬驚いたように目を丸くしたが、ごほんと大きく咳払いをした。

「患者の前で、その呼び方は止めなさい」

 院長がゆっくりと自身の娘からリク、そしてヨウへと視線を移した。ぱちん、と音がしたかと思うほどの視線が空中でぶつかる。

「……リクがお世話になっています」

 ヨウが頭を下げた。院長はそれを目を細めて見ていた。


 回診を終え、リクの個室を出た院長にヨウは後ろから声をかけた。

「対症療法しか手段はないのでしょうか」

 リクがいま施されている治療はほとんど点滴のみと言っていい状態だった。魔力に関わらない適当な病名を付けられずに済んだのはこの病院に入院できたおかげだったが、それ以外にヨウが期待していたことは起こらなかった。院長は足を止めたが、振り返らずに答えた。

「原因がわからん」

 いつもなら聞き流せる院長の突き放すような一言に、ヨウの頭にかっと血が昇った。

「僕は、魔力が原因の病を治せる医者になりたいんです。……目の前に魔力で苦しんでいる者がいて、治せる力があるのなら手を差し伸べるべきだと僕は思います」

「院内で、魔法の話はしないという条件で君を受け入れたはずだが? それに君の話には多分に私情が挟まれ過ぎている」

「再生か回帰をベースに魔法を行使できると思います。患者の体力が保たないのであれば、転移でも構いません。魔法による治療は様々な副作用が報告されていますが、あれはどれも素人の事例でしょう。人体の構造を熟知している院長であれば、そこの障壁は越えられると思うのですが、過去の事例はありますか?」

 次々と溢れる言葉は口振りこそ冷静だが、中身はめちゃくちゃだった。少なくとも一介の研修医がその病院のトップに直談判する内容ではない。しかし、院長はゆっくりとこちらを振り向いた。その表情には侮蔑すら含まれているように見える。

「魔法による治療は例外なく禁止されている。私は施術に魔法を使用したことはない」

「いまはそんな建前を聞いているんじゃありません」

「望月。私はどうやら君を買い被っていたようだ」

 有無を言わさぬ物言いに、ヨウは返す言葉を失った。院長は白衣の裾を翻すと、ヨウに背を向けて歩きだした。

 去り行く院長の後ろ姿を目で追った。なんのために医者になったのか、自問自答がぐるぐると回っている。父親と仲違いし、家を飛び出したあの日。全てを見返すために死に物狂いで励んだ勉強の日々。しかしその根源にあったのは、父を訪ねる魔法使いや魔女の中に、魔力の扱いに苦慮している彼らがいたからだった。幼い頃から魔法使いの自覚があったヨウは彼らに何かしてあげられないものかと常日頃から腐心していた。

 やがて辿り着いた結論は、父に杖作りを任せ、自分は医者になること。父には未だに言えずじまいでいるが、掲げる信念は同じで、魔法使いを救いたいというところにある。

 魔力が原因と見られる症例は近年、増加傾向にあるが、治療法はまだ確立されていない。それは長年に渡る医学界と魔法界の確執によるものが大きいのだが、自分こそがそこに風穴を開ける存在だと信じていた。

 試練はそれを乗り越えられる者にしか与えられない。美談になどさせるものか。どんな手を使ってももう一度リクを幸せにする。


 病院からの帰り道はいつも憂鬱だった。頬を撫でる風も、暮れかけた秋の陽光も、全てが白々しく色褪せて見える。駅までのほんの五分の道程がとても遠い。躁鬱に近い気分の浮き沈みをヨウは自覚していた。いまなら精神科医も薬を幾つも処方してくれるだろう。

 リクが、ああやって元気な姿を見せているのも空元気に思えてならない。脳裏を過るのは自身の析出する結晶に埋まり、沈んでいく彼女の姿。踏み出す足は重い。父親に手を引かれ、向こうから歩いてきた男の子が不思議そうにこちらを見ていた。

 ここではないどこかへ行きたい。もう何もかもを忘れて、全て手放して楽になりたい。

 溶けた鉛のように重い思考は自然と視線を足元へ落とした。上を向いて歩こうとは良く言ったものだ。負の連鎖はこうして人を絶望に絡め取っていく。

足元の落ち葉の隙間で何かがきらりと光った。

 ヨウはそれを拾い上げようと身を屈めたが、胸ポケットにしまっていた杖がジャケットの襟に引っ掛かり、動きを止めた。

 魔力なんてものがなければ、リクはいまもソラの傍にいただろうか。

「おじちゃんが見つけてくれた!」

 甲高い声がした。先ほどの男の子が何事か叫びながら駆けてくる。父親が慌てたように後を追っていた。男の子は素早くしゃがみこみ、落ち葉に手を突っ込むと、透明なガラス玉を自慢げに掲げた。

「これ、僕の宝物なんだ」

「……綺麗なビー玉だね」

「うん!」

 小さな紅葉のような掌の上でそのビー玉はきらきらと輝いていた。ヨウは漸くといった様子で笑った。

「宝物なら、手放すなよ。あとまだおじちゃんなんて歳じゃない」

 そう言うと、くるりと踵を返しヨウは歩き出した。


「どうだ。少しは良くなったんか」

 父親、杖職人のゼンの仕事場で、ふたりは向かい合って座っていた。ヨウは黙って首を横に振る。ぱちぱちと爆ぜる焚き火にふたりの影が得体の知れない怪物のようにゆらゆらと揺れていた。

「手がかりなしだ。医者には最初から期待なんてしていないけど、点滴で多少ごまかしが効いてるのかなってくらい」

「そうか……。猫又は?」

「とりあえず、結晶のサンプルは渡してきた」

 普段は溌剌としたゼンも、さすがに元気がない。帰ってきてすぐに抱きかかえたソラがヨウの腕の中で目を閉じたままもぞもぞと動いた。

 もし、もしもひとつだけリクが病気に罹ったことで事態が好転したことを挙げるとするならば、ゼンとヨウの父子関係が少しだけ改善したことである。杖職人は継がないと宣言し、半ば追い出されるように家を飛び出したヨウはそれから帰るきっかけを完全に失っていた。それはリクが身籠ってからも変わらず、向こうが頭を下げるなら考えてやらなくもないという傲慢な態度すらヨウは示していた。

 しかし、ソラが産まれ、リクに早期寛解の目処が立たないと知ったヨウは、まず一番にゼンの元を訪れた。

 突然の珍客にゼンは最初、目の前で弱々しい姿を晒す息子が本物かどうかすら疑ったものの、その切羽詰まった様子に漸く居住まいを正した。妻が原因不明の病に襲われたこと。それはおそらく魔力が関係していること。入院している病院の医師ではおそらく手に負えないこと。自分がなんとか治療法を探すのでしばらくソラを預かっていてほしいこと。

 形振り構わぬ息子の願いをゼンは黙って聞いていた。

 これまでの軋轢も確執も全ては些事に過ぎないと今になって思う。頭を地面に擦りつける勢いで頭を下げる息子を父親は立たせ、短い言葉を投げかけた。

 折れるな。


 それが液体であろうが結晶であろうが関係なく、源泉を絶てば魔力の漏出は止まる。ヨウがそこに思い至るのも至極自然の流れだった。

「……なあ、魔力をゼロにすることってできないのかな」

「投薬には反対しとったじゃねぇか」

「そうじゃなくて、生成を止めたり、あるいは蓋をしたりするような」

「そもそも投薬はどうやって魔力の発生を止めているか知ってるのか?」

 ヨウは黙り込んでしまった。医療現場で頻発する要件であるのに、その薬がどうして魔力を抑制するのかの仕組みは講義でも触れられず、教科書にも載っていなかった。教えられたのは体重別の投与量くらいで、ヨウはその扱いに疑問を覚えたのをはっきりと記憶していた。

「人が"魔法使い"になるのにはきっかけがある」

「きっかけ?」

「ああ。魔力はいきなり人体から発生するのではない。最初は外部の魔力がそれを引き起こす」

 ゼンは左手にごつごつと角の張った杖を、右手にやすりを構えた。おそらく無意識で、そうしていると落ち着くのだろう。杖のほうに目を向けることなく腕の感覚だけで作業を再開したゼンをヨウは黙って見つめていた。

「例えて言うなら魔法使いの素養のある者が生まれつき持っているのは”油田”だ。それが誰の目にも触れられていないのならそれはただの濁った液体でしかない。そこにどこかから”火種”が飛んでくるんだ。いちど火がついた油田は轟々と燃え盛りエネルギーを発生させる。これが魔力の発生源だ。魔力の発生を止めると言うのは油田を空にするか、燃え広がった火を消し止めるかだが、前者は人が生命活動を止めない限りは湧き続けるし、後者はもっと難しい、だから」

「最初の火種を弾くのか。……その火種はどこから?」

 続く言葉をヨウが引き取った。ゼンは首を横に振った。

「わからん。火種とは言ってもそれが人魂のようにふわふわと浮遊しているわけではない。わかっているのは産まれたての赤ん坊を魔力の膜で覆うとその火種を寄せつけなくなり、その後その者は永遠に魔力に目覚めなくなるということだ」

 ヨウは顎に手を当て考え込むように目を細めた。

「投薬は、その魔力の膜を発生させるのか。でも、なんでそんな回りくどいやり方を取らなきゃならないんだ」

 薬に副作用はつきものだ。そんなこと医者じゃなくたって知っている。それを新生児に投与するというのだから、導入当初は医学界を巻き込んで大論争が起きたという話にも頷ける。

「さあ。お前が産まれたときが投薬がはじまった直後くらいだったと思う。魔法と科学が融合した代物という触れ込みで案内があったが……胡散臭くて」

 ゼンは当時の様子を思い浮かべるように夜の帳を見上げた。

「親父が賢明で助かったよ。それにしてもよくそれで認可が降りたな」

 製薬会社のロビー活動はそれなりに有名だが、そんな得体の知れないものが数十年に渡って運用され、あまつさえ受け入れられているのだから世間の言いなり体質は来るところまで来ているのだろう。ポジティブに捉えるのなら日本の医療に対する全幅の信頼とも言えるのだが。

 しかし、とヨウは考え直す。

 いまのリクの状態はさながら制御の利かなくなった発電所のようなものだ。生成されるエネルギーが違う形で違う場所から放出され続けている。貯蔵されている燃料が燃やし尽くされるか、あるいは建物自体が崩壊するか。いずれにしろ事態は切迫しているのは間違いなさそうで、それはヨウの心をざわざわと逆撫でしていた。

 俯き黙考するヨウに、ゼンは思いついたように声をかけた。

「可能性なら、ひとつだけある。杖に使う木材から魔力を抜く要領で、それを人体に転用すれば、一時的にでも魔力をゼロにすることは出来なくもない」

 その可能性はヨウの頭の片隅にもあった。その方法は結晶化した魔力に対してまで有効なのかは疑問だったが藁にも縋る思いでヨウは頷いた。

「保管庫を改良するのか?」

「いいや。敷地はあるから”離れ”でも建てようか。一週間もあればできるだろう」

 一週間。その期間は永遠のように長く聞こえたが一抹の安心感をヨウにもたらした。

「ありがとう」

 視線を感じ下を向くと、ソラが黒目がちの大きな瞳でこちらをじっと見上げていた。それに気づいたゼンがこれまで聞いたことのないような甘ったるい声を発した。

「あらら。起きちゃったのかい。お腹空いたかな。それともおしめ変えようか」

「きゃきゃ」

 破顔する赤子とその祖父の間で、ヨウも束の間の笑みを浮かべた。



6.

 猫又タマキはぱらぱらと掌の上に魔力の結晶を落とすと、嘆息した。その様子を見てぎょっとしたのは彼女が教鞭を執る大学の研究室で、眼前に座る望月ヨウだった。その狭い研究室は片側に天井まで届く書棚が設えられており、さらにその窮屈さを増していた。古今東西から集められた書籍、雑誌の類いは窓際のデスクからも溢れ、足元に積まれている。来客など想定外で、タマキは早々に片付けを放棄していた。

「なにかわかりましたか?」

 恐る恐るといった態で問いかけるヨウは、先週見たときより幾分元気を取り戻しているようだった。なにか懸念事項のひとつでも突破できたのかしらとタマキは思った。

「ほとんど進展はないに等しいわね……。私の魔力でも再現しようとしたけど難しくて。でもやってみたいことがあるの。それはミサオくんが来たら説明するわ」

 タマキは、ヨウから受け取った封筒の中身を思い出す。それは病院の診断書と、ヨウ自身が作成した備忘録だった。病院の診断書はタマキから見てもとんと見当違いだったが、備忘録のほうは魔力の結晶について言及されており、発生の経緯、日を追うごとに増加していく析出量などについて彼自身の分析も交え詳細に記されていた。

「そうですか……」

 ヨウは落胆した様子を隠すことなく、研究室の低い天井を見上げた。そのまま書棚に押し込まれた本に目を走らせる。魔法史はもちろん、魔法図鑑の最新版など、魔法を専門に扱った書物も紛れていた。

「魔法を使ったら、ダメですかね。転移でも巻き戻しでも」

「……私が患者だったら、私を治して代わりに病気を背負った貴方を治すでしょうね」

 そうだろうな、とヨウは思う。リクのためなら心臓だって差し出せる。ヨウは心からそう思うが、リクもヨウのためなら犠牲を躊躇うことはないだろう。その連鎖はある意味時間稼ぎにも近く、結末は地獄でしかない。

 そういえば、とヨウは父親から聞いた魔力を一時的にゼロにする方法について切り出した。

「なるほど。ユグドの木にそんな使い道が……」

 言いかけて、タマキはじっと黙り込んでしまった。蛍光灯を反射した翡翠色の瞳が、不思議な色彩を放っている。

「教授?」

 おそるおそる声をかけるが返事がない。ヨウは微妙な空気を紛らわすように、足元に積んであった青い表紙のファイルを手に取った。それは新聞記事や雑誌の切り抜きをまとめたものだった。

 ぱらぱらと捲っていくと概ね年代別になっていて、媒体は誰もが知る全国紙から地方新聞、聞いたことのないようなオカルト雑誌までありとあらゆるものが雑多に綴じられている。最も古いものはヨウがこの世に生を受けた1977年のもので、記事の端は黄ばんでいたが、ヨウはそれを興味深げに眺めた。


『怪奇ファイル~閃光と共に消えた一軒家~(前編)』

 K県K市。東京のベッドタウンとして栄えるこの街に、曰くつきのその場所はあった。閑静な住宅街の一角、区画整理で整然と並んだ一軒家に挟まれるようにその空き地はある。

 実際に取材班が訪れてみると住宅の基礎は残っているものの、剥き出しの地面は雑草が伸び放題で、そこに先月まで家族が暮らしていたとは到底思えない。今回は隣家に住む山田あや子さん(仮名)に話を聞くことができた。

「はい。ええ。そうなんです。あれは、先月の終わりごろ、夜中に女性の悲鳴が聞こえたんです」

 寝静まる住宅街に響き渡る女性の悲鳴。それは異常事態を告げるサイレンのようにも聞こえたという。居間で寝ていたあや子さんは飛び起きて慌てて窓の外の様子を伺った。隣の家の二階の窓から眩い光が漏れている。女性の悲鳴、くぐもった罵声。あや子さんはその場で恐怖の余り立ち尽くしてしまった。

「はい。隣の家は三人家族で、娘さんがひとりだったんです。小さい頃はウチの子ともよく遊んでいたのだけれど、小学校に上がってからはほとんど見かけなくなって」

 その後、ばちばちと電気が走るような音がした直後に辺りは真昼のように明るくなったという。

「それはもう明るくて。主人も朝と勘違いして起きてくるくらいでした。あれ、白夜って言うのかしら。北極で見られるやつ。でも……」

 淀みなく語るあや子さんが急に声の調子を落とす。何故なら、あや子さんはそこで気を失ってしまったらしいのだ。

「ええ。目が覚めたら本当に朝だったのです。小鳥の囀りや、小学生の笑い声なんか聞こえてきて。だから昨日のも夢なんじゃないかって」

 いつものようにゴミを捨てに外に出たあや子さんはそこで信じられないものを目撃することになる。(後編に続く)


 目元を隠された女性とどこにでもありそうな住宅街の風景の写真。最後には(後編に続く)とあるが、後編はどこにも見当たらなかった。

「興味あるの?」

 いつの間にかヨウの背後から記事を覗き込んでいたタマキが耳元で囁いた。探るようにぐるりと動いた大きな瞳に、ヨウは思わずびくりと身体を仰け反らせた。

「いや、教授こそこんなオカルトめいたものに興味がおありなんですね」

 ヨウはぱらぱらとファイルを捲って見せた。原色調ばかりの派手な記事が他にも何本か綴じられている。

「……私が集めているのはね。魔法関連の記事だけよ」

「魔法関連?」

 ヨウは訝しげな顔でもう一度、記事を漁った。

『大戦中の手榴弾か。住民避難後に爆破処理』

『大雨による水道管破裂。市内で複数箇所』

『都市ガスの安全性に疑問? 早くも進むガス管の劣化』

『家ごと失踪事件。父親は多額の借金を抱えていた』

 ヨウはぱらぱらとページを捲っていく。最新のものはソラが産まれる二週間前に発生した埼玉県でのガス爆発事故だった。

「どうしてこれらが魔法関連だと?」

 仔細に内容に目を走らせるが、魔法の文字はおろかそれを匂わす文章すらない。どこかで聞いた話だが、日本国内に埋没している水道管の全長は地球十周を優に超える長さらしい。それくらいのものであれば、毎日どこかでトラブルが起きてもおかしくないのではとヨウは思った。

「それらの記事には続報がないの。貴方が読んでいたオカルト記事も後編はいつまで経っても発刊されていないわ。他の記事もそう。揃いも揃ってその後には一切触れられていない」

「……それは興味深いですね」

 ヨウの相槌にタマキは勿体ぶるように頷いた。

「……あとは現場を見に行っているわ。それらの現場はどこも不自然なくらいに何もないの。工事の跡も何もかも。代わりにひとつだけ残っているのは魔法痕だけ」

「魔法痕か……」

 自然とその言葉が口を衝いて出た。政府、あるいは連盟か……。いずれにしろ魔法が関わっていることを隠したいという明確な意思が伝わってくる。杖の所持規制や投薬がはじまって二十余年。いったい人々は何を恐れていると言うんだろう。

「教授はどうしてこの記事を集めているのですか?」

「私が魔法史の研究者だから、という理由ではダメかしら? 小学校の学習指導要領からも外れ、魔法は歴史の闇に葬られようとしている。だから私みたいな酔狂な人間が集めていないと本当に失くなってしまう」

「そうですね」

 ヨウはタマキの言葉が全くの真実を語っているとは思えなかった。本当の意図は別にある。いや、それどころか、自分をここに呼んだのも、わざとらしくファイルを目につく場所に置いていたのも、計算ずくだとしたら。

「これは、全て背後に魔法が隠れているんですね。魔法痕は唯一無二、不変。エネルギー効率としては電力の方が優れる……」

 ぶつぶつと呪文のように呟きながら脳内に散らばる記憶をさらっていく。突然、ヨウは何かに気がついたかのように慌ててページを捲った。

「77年、1件。79年、2件。……90年、8件。これは……」

 ヨウはばっと顔を上げた。こちらを見下ろすタマキの顔は嬉しそうにも、悲しそうにも見えた。彼女は小さく息を吐いた。

「ヨウちゃん。貴方の考えを聞きたいわ」

「はい。……その前に、ひとつ思い出したことがあります。医学部で解剖実習の献体となられた方が生前魔法使いだったということがありました。でも、魔法使いとは言っても死体ですから、魔力は感じられませんでした。それが、当、然  だ    と」


 突然、引き伸ばされる映像。揺れる地面。回転する世界でテレビの電源が落ちるように、あたりは突然の闇に覆われた。意図的に仕組まれたブラックアウトが記憶に鍵をかける。場面が切り替わり、眩しい光が辺りに満ちる。


 ヨウは走っていた。一月ぶりに覚える心の底からの歓喜。自分はこの日のために生きてきたのだという確信。ヨウの考えはまだ仮説の域をでないが、教授と考えは一致していた。

 ”離れ”が完成したというゼンからの連絡を受け、ヨウは早速、リクの退院手続きのために病院に向かっていた。

 病院での治療は既に諦めていた。院長はあれ以来、病室にすら姿を見せず、リクのことをあくまで一般の患者と同じように扱った。その判断には失望の色を隠せないが、いまとなってはどうでもよかった。

 銀杏並木を抜けると病院の白い屋根が見えてくる。吐く息は白く、吸い込んだ空気はひやりと肺を満たす。病院前の大通りを横切る横断歩道を親子が手を上げて渡っていた。あれは未来の自分たちかも知れない。幸せな光景に思わず顔が綻ぶが、同時に溢れそうになった涙をこらえようと空を見上げたーー。

 けたたましいブレーキ音。続けて、重いものがぶつかる音。地面を伝う衝撃。もう一度ぶつかる音。一瞬の間を置いて、悲鳴。ヨウが駆け出すより早く、ガラス窓の向こうで一部始終を目撃していたのか、病院から医師がすっ飛んでくるのが見える。

 赤いスポーツカーが病院脇の太い銀杏の木に突っ込んでいた。既に車は原型を留めていなかったが、スポーツカーだと分かったのは車体の後部に丸いランプが連なっていたのと異様に低い車高からだった。前面は木にめり込むようにひしゃげていて、ヨウの位置から運転席は見えない。辺りにはゴムが溶けたような不快な臭いが漂っていた。

 ヨウは現場へと一足飛びに駆け出しながら、頭では冷静に状況を確認していた。アスファルトに刻まれたタイヤのブレーキ痕は横断歩道の手前から病院の駐車場を斜めに横切るようにずっと伸びており、相当なスピードで突っ込んだと見られる。病院はなだらかな丘の上に位置していて、一見それとわからない上り坂はアクセルをついつい踏み込んでしまうと救急隊の誰かが言っていたのを聞いたことがあるのを思い出した。

 エンジンが煙を上げている。病院の方からは消火器が白い粉を吹き出していた。

「ママぁ」

 怒号と喧騒の中で、悲痛を孕んだ母を呼ぶ声。ひやりとした感覚。声のしたほうを見ると男の子が呆然とした様子で立ち尽くしていた。あの姿には見覚えがある。いつかビー玉を宝物だと言っていた男の子だ。あの日は父親に手を引かれ、病院に向かっていた。

 立ち尽くす人を掻き分け、駐車場に向かうと潰れたトマトのようななにかがアスファルトに染み込んでいた。点々と連なる血痕の先に、”それ”はあった。

 四肢はあらぬ方向を向いている。アスファルトを転がったのか全身の擦過傷は元の肌を想像できないほど真っ赤な血に染まっていた。

 ひゅう、と呼吸のような音が耳に届いた。ヨウの背中を冷たい汗が滑り落ちる。目を凝らすと血溜まりの中で胸の辺りがゆっくりと膨らんだ。生きている?

 報せを聞いたのか、院長が駆け寄ってくるのが見えた。

「お祖父ちゃん!」

 男の子が叫ぶ。

「ママを治して!」

 ヨウは急に膝の力が抜ける感覚に襲われた。院長が生気を失った顔で、娘の無惨な姿を見下ろしている。

「ヒカル……」

 院長の娘の名前を呼ぶその声は、これまで聞いたことのないような絶望的な響きを孕んでいた。


「望月」

「はい」

「君は運転手のほうを診てくれ」

「はい」

 二言目の院長の声は信じられないくらい冷静だった。しんと静まり返った湖面に落ちる水滴のように、穏やかではっきりとした声だった。ヨウは踵を返し、スポーツカーの残骸のほうへと向かった。赤かった車体は真っ白な粉にすっぽりと包まれていた。

 ちょうど運転手が引っ張り出されるところで、こちらは巻き込まれたヒカリよりさらに酷い状態だった。

 研修医の自分になにができるのか。運転手のなにを診ろというのか。既に生命反応の確認をしていた医師が血塗れの手を上げ、ゆるゆると首を振った。

「即死ですね。……十時二十六分、死亡確認。身分のわかるものがどこかに落ちていませんか」

 野次馬のように集っていた病院関係者が役割を与えられたと意気込んで辺りをキョロキョロと見回す。

「君、研修医か? 突っ立ってないで消防と警察には連絡済みか確認してきてくれ」

「あ、はい」

 ヨウははっきりと力不足であることを痛感しながら、病院の入り口に向かって駆け出した。横目でヒカルが倒れていた場所を見ると、そこには非現実的な量の血液がアスファルトに染み込んで黒い模様を作っていた。既に院長もヒカルも男の子もいない。血痕はヨウの視線の先に続いていた。


 院内は騒然としていた。いくら大病院とはいえ、目の前で大事故が起きるなど前代未聞の出来事らしい。白衣を翻しばたばたと駆け回る医師。事故を直接目撃していない診察待ちの患者や看護師は当惑した表情を浮かべひそひそと何事か囁きあっている。

 受付に確認に向かう途中で、老齢の婦人が隣に座る夫に呟いた奇妙なワードが耳に入った。魔法かしら。

 ヨウはそれを聞き逃さなかった。振り返ると、病院のクリーム色の床にベリーソースのような血痕がぽたぽたと模様を作っていた。

 血痕を目で追っていくと、その跡は受付の左奥へ続いていたが、そこで急に受付を横切るようにヨウの立っている側を抜け、右側の連絡通路へ続いていた。

 左奥は緊急手術室がある。右の連絡通路の行き先は、長期入院患者専用の病棟だ。

 先ほどとは違う嫌な汗がじっとりと額に滲んだ。最悪の想像が水に溶かしたインクのように広がり、心を暗い色で満たした。ヨウは血痕を追いかけるように走り出した。

 エレベーターなど待っていられず、階段を一足飛びで駆け上がる。三階、四階、五階。心臓は激しく脈を打ち、太ももが悲鳴を上げた。運動不足というワードが頭に浮かんで、すぐに消えた。

「ママぁ」

 男の子の、声がした。その響きは先刻の張り裂けそうな叫びではなく、歓喜と驚きに満ちているように聞こえた。そして、それはヨウにとっては絶望の鐘のように胸に響いた。

 六○一の病室の前に、ヒカルが立っていた。つい五分前まで瀕死の重症を負っていた彼女が、自身の足で直立している。開け放たれた病室のほうを見ているが、茫然自失といった表情で何が起きているのか、自分が何故ここにいるのかもわかっていないようだった。服は半分くらい裂けていて真っ赤に染まり、ほとんど衣服の役割を果たしていなかったが、垣間見える白い皮膚は血で汚れてはいなかった。そして彼女の頭上には見たこともない魔法痕が浮かんでいた。薄紅色の唐草模様のような蔓が複雑に絡み合っている紋様。男の子が破れた裾を引っ張り母を呼ぶが、気がついていないようだった。

 ヨウは震える足を一歩踏み出した。

 病室の中を覗いてはいけない。真っ赤な血のような色の警告が、けたたましいサイレン音を鳴らしながら、ヨウの歩みを止めようとする。

 いや、気のせいだろう。病室ではいつものように、魔力の結晶が舞い上がりベッドの周りを漂っているのだ。リクはすやすやとまるで陽溜まりの中で安心しきったように寝息を立て、いつものように眠っているのだ。

 知らず、魔力がみなぎっていた。ジャケットの内ポケットから杖を取り出した。ごくりと唾を飲み込む。

 母子のほうにちらりと視線をやってから、ヨウは病室の中を覗き込んだ。

「リク……?」

 病室の奥のベッドでリクは目を閉じていた。入り口からでもリクの整った横顔が見える。通りのいい鼻筋が、長い睫毛の先が、閉じられた薄い唇が、見える。

 脳が状況の理解を拒んでいた。一歩、病室に足を踏み入れた。もう、魔力の結晶は舞い上がらない。あれだけ充満していた結晶はどこにもなく、病室には魔力の気配も、生命の息遣いも微塵も感じられなくなっていた。

「リク」

 実際に、声が出たのかはわからない。歪む視界の中央でリクは目を閉じたままぴくりとも動かなかった。リクの身体に掛けられた薄いシーツが奇妙な凹み方をしていた。そこにあるはずの胸の膨らみがない。手前側の腹の辺りが落ち窪んでいる。それに気がついたとき、まるで氷の手で心臓を鷲掴みにされたような戦慄がヨウの身体を駆け抜けた。

「ああ……」

 自分が発したとは気がつかないほどの情けない声が漏れた。震える手でシーツの端を摘まむ。意を決し、そっと捲るとそこにかつて見た絹のように滑らかなリクの肢体は半分ほどしか残されていなかった。

 シーツを掛け直すと、ヨウはそっとリクと口づけを交わした。まるで陶器としたような、そんな硬く冷たい唇だった。くるりと踵を返し、ヨウは一部始終を見ていた男の子に声をかけた。

「院長はどちらに?」

 尋ねながら、病室を出る。虚ろな瞳でヒカルがヨウを見つめていた。

「あっちにいった」

 男の子が指を指す方向に首を向けた。屋上へと続く階段。魔法の気配を探る。確かに院長はそちらに向かったらしい。

「ありがとう」

 ヨウは短くお礼を言うと、屋上へ向かう階段へ向かった。


 奇妙な天気だった。確かに照りつける太陽光にヨウは目を細めたが、頭上は灰色の雲が覆っていて、どこに太陽があるかわからない。視界の端に風に棚引く白衣の裾が目に入った。院長は屋上の欄干に凭れるようにして、空を見上げていた。

 魔力はヨウがこれまで生きてきた中で最も激しく昂っていた。マグマのような激烈な感情が、目の前の老獪な男を殺せと叫んでいる。

 ああ、もちろん殺すさ。その結末に変わりはない。

 ぎゅるぎゅると体内で唸る魔力を杖に集中させた。世界中のどんな刃物よりも鋭い殺意が、黒檀の杖の先端でそのときを待ち詫びている。

「……なにか言い遺すことはありますか」

 院長は振り返った。身体中の水分が抜けきってしまったかのように目は落ち窪み、皺のひとつひとつがより深く刻まれている。羅城門の老婆のような醜悪な面構えだと思った。

「時間がなかった。娘の命は三分と持たなかっただろう。そこに同じ年、背格好の彼女がいてくれたのは不幸中の幸いだった。私は躊躇なく魔法を使ったよ。娘の欠損部分を彼女の身体で補填した。君の言っていた通り、医学の知識と魔力の両方が備わっていないとできない芸当だった。……法律がなんだって言うんだ。目の前の大切な人を救うのに、なぜそんなもの守らなければならない。君だってそうだろう?」

 最悪の開き直りだった。院長は唇を歪めるように微笑を浮かべてすらいた。数刻前に遺言を訊こうとした自分が馬鹿だった。杖を振る。院長の右腕が見えない刃物で切断されたようにずるりと落ちた。くぐもった呻き声を上げ、院長はその場に膝をついた。粘性の黒々とした液体がどろどろ溢れだす。

「はあ、もうどちらにしろ私は終わりだからな。思う存分切り刻んで……」

 院長がさらに挑発するように口を開いたその瞬間だった。屋上の扉が乱暴に開かれ、男の子が飛び込んできた。

「お、お祖父ちゃん、ママ、ママが血を吐いて、足が」

 男の子の顔は血と涙でぐちゃぐちゃに汚れていた。正視に耐えない悲痛な表情を浮かべ、必死に助けを求めている。院長はそれを見て、全てを諦めたような空っぽの笑い声を上げた。

「拒否反応か。……失敗だったな。娘を救う唯一の手段だったが、徒労だったようだ。つまり君の奥さんも無駄死に」

 院長のその後の言葉は続かなかった。ヨウの杖から放たれた閃光で、発声器官より上は既に跡形もなく吹き飛んでいた。そこに代わりに浮かんでいるのは黒い魔法痕。格子模様のヨウの魔法痕は、院長の魂を永遠に閉じ込めるかのように禍々しい光を放っていた。

 首のない死体がスローモーションのように頽れる。血飛沫の中、死体から靄のようなものが立ち昇っているのが見えた。あるいは感じたと言ったほうが正しいのかもしれない。炎天下に揺らぐ陽炎のようなそれは、判然としないままこちらに向かってくるような錯覚さえ覚える。やがて、空気に溶け出すようにしてそれは見えなくなった。

 魔力がみなぎる。ヨウは視線を感じ振り返った。こちらを睨みつけるように立つ男の子と目が合った。それはヨウが目を逸らすまでのほんの数瞬にも満たない時間だったが、ヨウはその昏い目を一生忘れることはできないだろうと思った。


 リクのささやかな退院祝いでもしようとゼンは仕事場の作業机に花柄のテーブルクロスを敷いていた。近所の花屋で買った花束も準備していた。息子夫婦の新しい生活のスタートに相応しい日だと今朝は抜けるような青空を見上げたはずだが、いまは曇天でさらには雨すら降ってきそうな気配だった。

 作業場の横に魔法で設えられたベビーベッドの中で、ソラはすやすやと寝息を立てていた。二十年以上前のヨウの赤子時代を重ね、自然と微笑がこぼれる。丸くなったな、とゼンは自身を顧みて思った。

 予定より少し早く病院から帰ってきたヨウはひとりだった。隣に、入院生活で少し痩せたはずの妻の姿はなかった。ゼンが事情を聞く前にヨウは切羽詰まった様子で口を開いた。ゼンはヨウの顔を見て、何か想定外の事態が発生したことを悟った。視線を合わせ続けることができず、ごまかすように目を逸らした。

「時間がない。入院前に預けていたリクの杖はある?」

「あ、ああ。ちょっと待っとれ」

 頭の中には疑問符が浮かんでいた。ヨウの顔は見知った息子の顔ではなかった。一瞬、無表情に見えたが、その奥にとてつもない絶望が宿っている。悪い予感は確信に変わりつつあった。

「ありがとう」

 ヨウは杖を受け取ると、もうひとつお願いがあると頭を下げた。

「ソラをあの”離れ”で育ててほしい」

 ヨウの要望にゼンは首を傾げた。自分に似て、ヨウも必要だと思ったこと以外はなるべく省略して話す癖がある。似てほしくはない部分だった。リクは、とは訊けなかった。黙っていると、ヨウが独り言ちるように続けた。

「もうリクはいない。……研究室で思いついた仮説はどうやら正しかったようだ。もう悲劇を繰り返さないためにも、私は命を賭けてそれを証明しなければならない。……でも、ソラは魔力から解き放ってやりたい。魔法なんていいもんじゃないと教えてやってくれ」

 ヨウはゆっくりと森の中に立つ”離れ”に目を向けた。ユグドの木で作られた魔力を吸収し続ける家。あそこに住み続ける限りは魔力に苦しめられることはない。

「ああ、それでもいつか、いつかソラが自分の魔力に気がついたとき、そのときはこの日記を」

 ヨウが空を見上げた。悲しみに耐えきれなくなったように、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。ヨウの頬を伝うそれは、涙のようにも見えた。


「ヨウの魔法痕カッコいいね。お寺の大きい門みたい。私のなんか全然はっきりしないんだよ」

「そうなんだ。見てもいい?」

 リクが杖を振る。

「えいっ。……どお?」

「うーん。なんというか、リクらしいというか」

「なにそれ。もしかして馬鹿にしてる?」

 何度も見た怒った顔。誤魔化すように微笑む自分。

「そんなことないよ。……あ、見てここ。この太い線をなぞっていくと」

「どれ?」

「漢字の『白』みたいだ」

「ホントだ! よく見つけたね。……魔法痕”白”。かっこいいじゃん」


 こんこん、と控えめなノックの音がした。ぼろぼろの布を纏ったソファの上でヨウは音を立てずにそっと上半身を起こした。いつまでも浸っていたいような真っ白な夢を見ていたような気がする。スチール製のドアを叩く乾いたノックの音が再び響く。ドアの向こうで誰かが待っている。

 ヨウは居所を転々としながらこの一週間を過ごしていた。新聞やラジオを確認した限りでは、病院の事件についての報道はないようだった。ということは追ってくる者があるとしたら、警察ではないもっと性質の悪い組織であるとヨウは薄々感じていた。

 再開発のため住民が追い出された団地の一室で、ヨウはソファの向こう側に身体を隠し、背凭れから頭だけを出してドアを睨んだ。

 ポケットから杖を取り出しドアに向かって振ると、鍵のツマミが回転し、かちゃんとボルトが引っ込んだ。すうっとドアが音もなく開く。ここからではノックの主がわからないと立ち上がろうとしたとき、ちょうどソファの影になっているところから声がした。

「ヨウちゃん」

 一匹の黒い猫がこちらを見上げていた。


「やっぱり猫だったんですね」

 タマキはソファの上にひらりと飛び乗ると、自身の身体に異常がないかを確かめるように舌の先で器用に全身を検めていた。

「いろいろ気を遣ってはいたんだけど、見抜かれたのはあなたがはじめてだわ」

「どうしてここがわかったんですか」

「人間が人間を撒くことは簡単だけど、猫を撒くことは難しいのよ。見えてる景色が違うからね」

 事も無げにタマキは呟く。ヨウは肩を落とした。これほどまでに魔法痕を意識した一週間はなかった。見えない追手に居場所を悟られないように魔法は使わず、公共交通機関は最低限の使用にし、ほぼ飲まず食わずでこんなところまで来たのに。

 魔特捜や日本魔法使い連盟お抱えの魔法使いは、全国に魔法使い捜索の強固なネットワークを持っているという噂を聞いたことがある。ひとたび魔法を使えば、魔法痕で個人を探知され、瞬間移動で包囲されておしまいだ。魔法を使った犯罪は、それがどんなに小さなものであろうと指紋と同等の痕が残る。魔力探知の精度もどんどん上がっているらしいが、本当のところはわからない。手法や実績を公にせず、あえて"噂"としておくことで世間の反感をかわしつつ真実味を持たせるやり方にヨウは思わず舌を巻いてしまうのだった。

「それじゃあ、私を追っているのが猫だったなら、もう捕まってるんですね」

「そういうことかもね。でも、私が最初に見つけたのだから大丈夫」

 タマキはソファの上からフローリングの床に散乱したガラス片を見つめていた。ヨウがここをねぐらにしようと忍び込んだときから部屋の中は嵐が過ぎ去ったのではないかと思うほど荒れ果てていた。壁紙は剥がれ、床には物が散乱し、カーテンは破れて垂れ下がっていた。窓だけは塞ごうとカーテンだけは補修したが、それ以外はそのままでソファに倒れ込んだのが昨日の夜だった。

「それで、何の用ですか」

 次の瞬間にはタマキは大学で見た教授の姿になっていた。ヒールの踵でガラスの破片を砕き、床の上に立っている。濃紺のパンツスーツに眼鏡をかけ、肩にかかる髪をふわりとかきあげるとヨウをじっと見つめた。南国の果実のような香りがふわりと鼻腔をくすぐった。廃墟のようなこの部屋にはおよそ不釣り合いな存在だとヨウは思った。

「三日前に、連盟を名乗る男が研究室に来たの」

 日本魔法使い連盟。民間団体でありながら魔法関連の事例には国家権力並みの力を持つと言われる組織。その言葉にヨウの神経がぴくりと反応した。

「彼らは貴方を保護するために、貴方の居場所を探っていたわ。それに……」

 タマキがジャケットの内側からガラスの小瓶を取り出した。中にはリクの遺した結晶が雪のように輝いている。

「どうしてそれが」

 ヨウは驚きのあまり言葉を失っていた。その存在を連盟が把握していることも、結晶がまだこの世に存在していることもヨウにとっては想定外の事態だった。

「病室の結晶は消えてしまったのに……」

 ぶつぶつと呟くヨウをよそにタマキは話を続ける。

「あの日、私がお願いしたことを覚えているかしら。この結晶を使って”杖”を作ってみたいって」

 タマキが再びジャケットの内側に手を差し入れる。ヨウはその手の先を呆然と見つめていた。白い杖が姿を現す。それは淡い光を放っているようにすら見えるほど、純白の輝きを湛えていた。

「すごいのよ、これ」

 タマキが軽く杖を振る。廃墟の部屋がぎしぎしと軋んだかと思うと、床に散乱した物が旋風に巻き上げられるように浮遊し、部屋の隅にうず高く積み上がった。壁紙は新築のようにぴたりと歪みなく貼り付き、カーテンは買ってきたばかりのように靡いている。フローリングの床から塵が全て消えると、部屋の隅の山から次々と元の形に戻った物が飛んでくる。ガラスの食器、雑誌、くまのぬいぐるみ、CDケース……。

 部屋が住民が住んでいた頃の様子に戻っていく。ヨウの座るソファもかつての弾力と光沢を取り戻しているように感じた。

「結晶をほんの一粒混ぜただけなのに、魔力がすごく安定するの。自動で出力をコントロールしてくれるみたい」

 夢見る少女のようにふわふわとした口調でタマキは言った。ヨウはそれを黙って見ていたが、タマキの頭上に浮かぶ魔法痕を見て、頬を突然殴られるほどの衝撃に襲われた。

 白い円の中に浮かぶ、一見無秩序に見える線形の集まり。しかしその中で特に太い線を結ぶと浮かび上がる”白”という文字。

「それは……リクの……」

『魔法痕は人に宿る』

 いつか祖父が言っていた言葉が蘇る。魔法研究に関して読み漁った論文でも魔法痕は唯一無二で個人を特定できるとそう記されていた。しかしいま眼前に浮かぶ魔法痕はこれまでの発見や経験を否定する動かしがたい証拠だった。色も、大きさも、何もかもがリクのものと一致している。

 タマキがヨウの驚愕に震える様子を観察するように見つめていた。首を傾げ、優しい声色で囁く。

「この杖は、あなたのものよ」

 タマキが杖を差し出した。ヨウは杖に視線を落とした。この世に魂というものがあるのなら、この杖に宿るのはリクの魂のほんの一欠片かもしれない。震える指先でそっと杖を撫でる。意を決したように杖を掴むと、ヨウは頭を下げた。

「ありがとうございます」

 こんなことのためにーー。思考の躊躇いに、続く言葉が出てこない。突如として噴出した違和感にヨウは頭を下げたまま身を固くした。そうだ。タマキからしたら自分は病院の院長を殺害したあげく逃亡した殺人犯だ。そいつをわざわざ探し出して、杖を渡す? そんな危険を犯す理由はないはずだ……。

「どうしたの」

 タマキの声がする。その声は僅かだが震えていた。

「……質問してもいいですか」

 ヨウは顔を上げた。タマキの肩越しにドアに視線を向ける。タマキはひどく緩慢な動作でゆるゆると首を振ると、諦めたように小さく呟いた。

「大丈夫。ここには私しかいないわ。会話も聞かれていないはず」

 介入する第三者の存在を仄めかす発言に、ヨウは自分の杖を改めて握り直した。日本魔法使い連盟には非公式ではあるが警察組織にも似た部隊があると聞く。いずれにせよ追っ手は目と鼻の先まで迫っているらしい。爛れた指が自分の喉元に纏わりつくイメージを頭を振って振り払う。

「取引条件は何ですか」

 密閉された部屋に汚泥を流し込まれているような圧迫感と焦燥感がヨウを襲った。事態は限りなく悪い方向へ進んでいる。場合によってはこの女も味方ではないのかもしれない。巻き込んでしまったのは申し訳ないが、その時は腹を括るしかない。後ろ暗い決意が、ヨウを前へと進ませる。

「私も、何に代えても守りたい人がいるの」

 瞬間、ヨウの心に鈍い痛みが走った。タマキの怯えた瞳に醜悪な顔をした自分が映っていた。まだ塞がっていない傷口からどくどくと血が溢れ出す。この場を切り抜ける方法に”それ”が含まれてしまっていることをヨウは頭の片隅で冷静に理解していた。病院の屋上で見た光景がフラッシュバックする。

「卑劣にも程がある」

 ヨウは吐き捨てるように言った。タマキの最愛の存在に邪悪な牙が今にも食い込もうとしているのが容易に想像できる。

 人は、守るべきものがあると弱くなる。どんな危険を冒すことも、あらゆるものを犠牲にすることもそれを守るためなら厭わない。身体を張って、命を投げ出す。彼女はいまその淵に立たされている。自分もそうだ。いや、そうだった。ソラは祖父の庇護の下で安全を保証されている。そう考えると自分にとって命を賭してでも守るべき存在はもうこの世にいない。

「取引条件は何ですか」

 ヨウはもう一度訊いた。タマキは小さく頷き、教科書を読み上げるような抑揚のない声を発した。

「『貴方の”罪”を不問にします。その代わり、本件を口外しないこと、そして結晶を提供すること』」

「結晶?」

 意外な要求だった。罪の不問や犯罪行為を露見させることは大きな問題ではない。どちらにしろ明るい日の下で生きていくつもりはもう無いし、連盟を相手に断罪を迫ることもない。

「魔力の結晶化は世界でも類を見ない事例なの」

 タマキの声に焦りが見て取れる。ヨウは努めて冷静な声を出した。

「何に使うつもりですか。これと同じように杖でも作るのかな」

 ポケットにしまったリクの魔法痕を放つ杖に触れる。いまいち”敵”の真意が汲み取れない。タマキは明らかに苛ついた様子で足先をぱたぱたと鳴らしている。

「知らないわ。これ以上は知らない。あなたは要求を飲むか飲まないか、だけよ」

「”敵”は誰ですか。私に協力できることがあるなら」

「あなたに協力できることなんてない!」

 タマキは叫んだ。部屋を埋め尽くすほどの魔力の昂りにヨウは思わずたじろいだ。脅迫は明白な犯罪行為だが連盟はそれすらも揉み消せるというのだろうか。あるいは、これほどの魔力を持つタマキをここまで追い込むことができる存在を既に連盟は抱え込んでいるのだろうか。

 ふっと冷静な声色に戻ったタマキがじっと床を見つめながら口を開いた。

「ごめんなさい。……私は一昨日付けで教授職を辞したの。楽しかったけど、未練はない。同じ場所に留まり続けるといろいろ危険も増えるしね。……”猫が魔力を持っている”。これも立派な研究対象なの。なぜ私は、そしてミサオくんは有象無象の猫と違って魔力を持っているのか。この世にたったの二匹だけ、世界のどこを探してもそんな猫はいなかった。伝承や物語では人間の言葉を介す猫は頻繁に登場するから、かつては存在していたのかもしれないけどね。だから私は守らなければいけない。自分の存在理由をはっきりさせるまで、ミサオくんと私を、何に代えても守らなければいけない」

 最後は自分自身に言い聞かせているようだった。ヨウの中でなにかが変わったような気がした。こちらを潤んだ瞳で見つめるタマキに、ヨウは小さく頷いた。

「巻き込んでしまって申し訳ありません。要求は、受け入れます。私はこの杖だけあればいい。……教授を脅した組織は強大でも”悪”じゃないんですよね。強奪はせず、その結晶の持ち主に交渉の余地まで与えている。”正しい研究に使って欲しい”とだけ伝えてほしい」

「ありがとう」

 タマキの声は安堵に満ちていた。目尻を拭うとどこかさっぱりとした顔を上げた。

「私は魔法の研究を止めるつもりはないわ。どこかのんびりとした場所で、あの人と一緒に暮らしながら、研究するのが夢なの」

「根っからの研究肌ですね」

「そう生まれちゃったのだから仕方ないわ。あなたもこれから大変だろうけど頑張ってね。何かあったら助けになるから……」


 ひとり残された部屋で、ヨウは白い杖を振った。なにもない空間が突如歪み、そこに小さな光の球が浮かんだ。さらにその上には魔法痕が現れている。

 リクの魔法痕。

 得たものは少なく、失ったものは数えきれない。それでも歩みを止めるわけにはいかない。

 ヨウはドアを開けると暗い廊下に向かって一歩を踏み出した。


 ……。


 ぷかぷかと浮かぶ光の断片。その間を海月のようにゆっくりと浮上していく。強烈な思いはソラの心にしっかりと刻まれた。はじめて知った父と母の声、姿、記憶。胸が張り裂けそうなほどの悲劇に、ソラは大粒の涙を流していた。天上から優しく差し伸べられる手に引かれ、ソラは現実へと戻っていく。


「待てよ、ソラ」

 ぐいと手を引かれた。そちらに顔を向けると、暗闇の中で判然としないなにかが動いた。

「お前だけは特別だ。毎月二十二日の夜、月命日なんだが、リクの墓の前で待つ。……この世界の真実を教えてやるよ」

 ソラは口を開いた。声がでない。金魚のように口をぱくぱくと動かすだけだった。

「ひとりで来い。親父にも言うな。……じゃあ」


……。



 急な覚醒に、ソラはびくっと身体を震わせた。きょろきょろと辺りを見回す。いつも通りの作業場で、悲しそうな顔をする祖父がこちらを優しい目で見つめていた。どうやら現実の時間は一瞬にも満たなかったらしい。呆然と立ち尽くすソラに祖父は頭を下げた。

「どうだった?」

「じいちゃんは見てないの?」

「ああ。これはお前に残されたものだからな。それに見ようと思っても見られないはずだ」

 肩をすぼめて俯く祖父。はじめて見せる弱々しい姿に、彼もまた色々なものを背負ってきているのだと知る。ソラは頷いた。

「ソラ、お前には申し訳ないと思っている。お前が魔力を自覚したときにヨウからこれを見せてくれと頼まれたんだ」

 記憶を覗く前の怒りは既にどこかへ霧散していた。代わりに心を埋めるのは深海のように黒々とした悲しみ。しかし、その中心に”父が生きている”という事実が小さな光を放っていた。

「大丈夫。これを見せてくれてありがとう。……お母さんのお墓参りに行きたいんだけど、場所知ってる?」

「あ、ああ。実家のほうにあるはずだ。住所は確か……」

 母親の最期について隠していたことを責められると思っていたのか、動揺した様子の祖父が住所録を探しに保管庫に向かう。ソラは黙ってその背中を見つめた。

『……この世界の真実を教えてやるよ』

 父の声が脳内でこだまする。見上げると、半分の月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。母親の墓参り、この世界の真実。ソラはぎゅっと拳を握りしめた。



7.

 西宮がソラを襲撃した日から三週間。ゴールデンウィークを挟み、ソラはあの日から一度も大学には行かず、祖父の横で杖を磨いて一日を過ごしていた。

 足元のバケツから手酌で水を掬い、杖に塗り込むように湿らせる。するとぴかぴかに研磨したはずの表面にほんの少しだけケバ立ちが残っているのが指の腹に感じられる。半年前にはわからなかった感覚が、ようやく身についてきたと感じられる瞬間だった。

 しかし、それでも削りすぎてしまったり、全体が歪んでしまうことはまだまだ多く、水の入ったバケツの脇には失敗作が何本も転がっており、杖作りは一筋縄ではいかないと改めて知る。

 祖父は愚直にも思えるひたむきさで杖を磨いていた。あのごつごつした一見不器用そうにみえる掌から、宝石にも似た光沢を放つ杖が生まれるのだ。"経験"という地層のように積み重なった壁を越えるために、ソラは祖父以上に一心不乱に杖を磨くのだった。

 食事、睡眠、生きることに最低限の行為を除き、ソラは杖作りに没頭した。そうしていないと闇に飲み込まれてしまうと思った。少しでも油断をするとすぐに”父の記憶”が心の隙間に蛇のように侵入してくる。交通事故で死んだと聞かされた父親は生きていて、母親は写真や想像よりもずっと綺麗だった。

『ここにはお前の知りたいことも、知りたくないことも全て載っている』

 父の記憶を覗く前に聞いた祖父の言葉が脳内でこだまする。ソラの魔力がゼロだった理由。最後の父の台詞。母親のために建てられ、自分の魔力を枯渇させるという別の役目を与えられた離れの居室は、布団に入り夜が更けていくにつれ記憶の奔流で満たされていった。息ができない。窓が開かない。必死に叫ぶが、ここには自分しかいない。足を掴まれる。深海に引きずり込まれる。真っ暗な海底では父親が物憂げに佇んでいて、彼がナイフのように構えた杖の鋒はいつもソラに向けられていた。周りに転がっているのは、人間の一部。その中には見知った顔も、落ちていて……。

 飛び起きて、夢だと理解する。本当に叫んでしまっていたのかもしれない。喉がカラカラに乾いて痛い。布団もぐっしょりと湿っていて、シャツは汗を吸い込んで気持ちの悪い感触になっていた。そんな夜が何日も続いた。


 眠そうに目を擦りながら作業をするソラを心配したのか、祖父は作業場の横に小屋を建てるからそこで生活してはどうかと提案した。あるいは悲劇的にも思える離れでこれ以上、孫をひとりで過ごさせたくないという祖父の痛々しい配慮が透けて見える。ソラはゆっくりと首を振った。

「大丈夫」

 自分でもなにが大丈夫なのかわからなかったが、ソラは心配そうにこちらを見つめる祖父の瞳を真っ直ぐ見返して言った。悲劇の象徴のような離れで過ごす夜はこれまでよりずっとずっと寂しかった。枕を濡らす夜も無かったわけではない。それでも、ほんの少しだけ、あそこにいるだけで、両親に抱き締められているような気がするのだ。ソラにはそれだけで充分だった。

 そんな日々の中で、大学に来ないソラを心配してホノカから連絡があった。なんでも和泉がソラに会いたいと探し回っているらしい。あれから色々なことがどういう結末を迎えたのかを知りたいという思いと、たまには息抜きも必要だという祖父の言葉に押され、ソラは久々に大学に行こうと思い立った。


 大学までの道のりはひどく遠いものに思えた。既に数刻前の決意より家を出た後悔のほうが身体の主導権を握りかけている。なんとか最寄りの駅まで向かい、やっとのことで電車に乗り込む。普段のソラであれば吊革に手をかけ、車窓から流れる風景を眺めているところだったが、目の前の空いている座席に吸い込まれるように座り込んだ。

 心にのしかかる不安。それはやはり漠然としていて焦点が合わない。手持ち無沙汰の掌を広げる。左の掌の親指の付け根にあるタコが固く、白くなっている。ここに杖を引っ掛けて、やすりをかける。最初は血が染みるほどで、なにもしていなくてもズキズキと鈍い痛みを放っていたのだが、それもいつの間にか気にならなくなっていた。昔、祖父と手を繋いで歩いていた頃を思い出す。そこにはソラのものより立派なタコがあった。それはもはやタコと呼べるようなものではなく、小さな道具のひとつにも思えた。

『杖に罪はない』

 天上から神託のように響いた声にソラははっと顔を上げた。そして目を閉じ、ため息を吐いた。道具、というワードに記憶が反応したのだ。脳内の伝達回路が全て一方向に収束している。なんでもいいから気を紛らわそうとポケットからスマートフォンを取り出し、ソラは適当な動画アプリを立ち上げた。

 おすすめ動画の一覧の中で、一際目を惹くように設計された太いゴシップ体。下品な蛍光ピンクの文字は一瞬でソラの網膜に焼きついた。『魔法使いvs自衛隊』。

 流行りの動画配信者によって三日前に投稿されたもので、再生数は既に百万回を越えていた。この『vsシリーズ』は配信者が絶妙に拮抗しそうな二者をセレクトし架空の条件で競わせるというもので、過去には『鯱vs熊』のようなある意味王道のようなもの、『詐欺師vs政治家』など社会風刺のようなものまで幅広く製作していた。ソラも一時期は新しい投稿を楽しみにしていたこともあったが、それも今日までと思った。

 これまで通りの内容なら、面白おかしく両者を比較して、視聴者にコメントでの投票を催促しているのだろう。各々が主役だと勘違いした視聴者が持論を披露して自己顕示欲を満たし、その広告収入で配信者は潤う。ソラは沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。

ーーこいつら全員、魔法で吹き飛ばしてやろうか。

 びくっと身体が震えた。とんでもないことを考えていたと、現実感を伴ってずっしりと重みのある恐怖が押し寄せてくる。

 自分にはもうそれができる。

 鞄の底に忍ばせた杖が熱を持ったような気がした。


「痩せたね」

 改札口で待っていたホノカはソラの姿を見るなり、心配そうにそう言った。

「寝不足でさ」

 ソラは短く答えると、大学へ向かって歩きだした。

 ゆるやかなカーブになっている坂道をふたりで並んで歩く。すっきりとした初夏の風に学生の喧騒が騒がしい。ソラはぽつりと呟いた。

「杖、大丈夫?」

「うん。結局、使われてなかったみたい。……もう絶対離さないようにしないと。一緒に探してくれてありがとう」

 ホノカがソラの横顔をちらりと見て、頭を下げた。感謝の言葉にソラの胸がちくりと痛んだ。

「ごめん。僕の杖はすぐに折れちゃって、ひとりだったら危なかった」

「そんなことない。あんな……あんなことされたら、仕方ないよ」

 あの夜の恐怖を思い出したのか、途切れ途切れに言葉を絞り出すホノカに、ソラは口を噤んだ。

ホノカがひとりだったら。恐ろしい想像がむくむくと首をもたげる。

 悪意の塊のような攻撃を受け、杖は真っ二つに折れた。そして薄汚れたアスファルトの路上に投げ出されたホノカ。高層ビルの間から空を見上げるその目は白濁していて生気がない。

「あれは不良品だった。作った僕に全ての責任がある」

 大学の正門の脇でソラは立ち止まった。ホノカに向き合うと深々と頭を下げた。口にしてわかることがある。杖に罪はないのかもしれないが、製造者はその杖に責任を持たなければならない。ホノカは慌てた様子で、励ますようにソラの肩を叩いた。

「大丈夫。結局、みんな無事だったんだし。……そうだ!」

 ホノカがごそごそと鞄から杖を引っ張りだした。

「次の杖はソラくんに作ってもらうよ。今度は折れない丈夫なやつを」

 ソラはその杖にゆっくりと視線を向けた。彼女の持つ杖はつやつやとした光沢を湛え、朝の陽射しを受けてさらに輝いている。実際に比較しなくてもわかる。もし、僕が作った杖をこの杖の横に並べたら、その見栄えの悪さに落胆してしまうだろう。

「わかった」

 ソラは小さく頷いた。未熟な杖職人の心に何度も何度も消えかけた小さな炎が灯る。前向きな、それでも杖を作りたいと衝動がソラの中を駆け巡っていた。


 学内のカフェに向かうと、既に和泉が待っていた。長椅子に座り足を組み、片手でコーヒーカップを持ち上げながら、もう片方の手で文庫本を器用に捲っている。絵になるなあ、とソラはぼんやりと思った。

「こんにちは」

 ホノカが声をかけると、芝居がかった仕草で和泉がゆっくりとこちらを見上げた。その顔はソラほどではないが、少しやつれたように思える。

「やあ、久住さん。そして、望月くん」

 コピー紙の切れ端のような栞を読みかけの文庫本に挟むと、和泉はそれを脇に置いて立ち上がった。椅子を引き、ふたりに座るように促した。ここが学内の安いカフェではなくフランス料理店ではないかと錯覚させるほど、その振る舞いは気品に満ちていた。

 ふたりが着席するのを確認すると、和泉は思い詰めたような険しい表情で頭を下げた。

「まず、何より先に私は君たちふたりに謝罪をしなければならない。君たちには大変怖い思いをさせてしまったね。本当に申し訳ない」

 先程までの優雅な態度とは一転して、和泉はテーブルに頭をぶつけてしまうのではないかと思うほど身体を折り曲げる。驚きの余り固まってしまったソラの横でホノカが大袈裟に手をぶんぶんと振って言った。

「そんな……部長のせいじゃないです。あれは、私が杖を忘れたから……」

 最後のほうはもごもごと口をすぼめていたのでなにを言ったのかわからなかったが、ホノカはどうやら誰も悪くないと主張をしているようだった。和泉は言下に首を振った。

「いや、それは違う。明確な加害者は西宮だし、彼を止められなかった者として私にも責任は大いにある」

 いっそ詰ってくれと言わんばかりに和泉はきっぱりと言い切った。

「あの、西宮先輩はどうなったんですか」

「ああ、君はあれ以来、顔を出すのははじめてか。彼は学校を去った。……退学だ」

 和泉は少しだけ悔しそうな表情を浮かべた。ソラは”退学”という二文字にどきりとしたが、西宮のしでかしたことを考えると、殺人未遂で逮捕されなかっただけマシなのかもしれないとも思った。ホノカは既に知っていたのか、ぎゅっと拳を握り口を噤んでいる。決して彼を庇うわけではないが、という前置きをして、和泉は西宮についてぽつぽつと語り始めた。

「西宮は、私が”魔術倶楽部”の三代目部長に就任した年に入学してきたんだ。今でこそ軟派な男を気取ってはいるが、あの頃はまだ髪の毛も染めてない、大人しい感じのやつだった。……君たちと同じように私の稚拙な奇術を見破って、勧誘をしたら二つ返事で頷いたものだ」

 和泉がどこか遠くを見るような目で呟く。

「彼は自分の杖を持っていなかった。幼い頃から魔力検査で魔法使いの素養を認められてはいたようだが、家庭の事情で杖を持つことができなかったらしい。魔力の暴発などとは無縁だったのが幸いだ。そして、彼がはじめて魔法を使ったのは魔術倶楽部の部室だったんだ。……椅子を浮かしたと思ったら、それを壁に思いきり叩きつけて壊してしまってね。今でもその傷跡は残っているよ」

 故人を悼むような口調だった。聞いているとこっちまで憂鬱になってしまう。

「それから彼は魔法に没頭していった。これまで一般人として過ごしてきた時間を取り戻すように。同時に、どんどん明るく社交的になっていった。何度も魔法使いの未来について夜通し語り合った。彼の生い立ちになにか影を落とすような出来事があったのかは知らないが、彼は他人より攻撃的な優生思想を強く持っていた。魔法使いは遍くその力を社会に還元すべきだし、それによって尊敬と称賛を得るべきだと熱に浮かされたように話した。いま思えばそれが彼の本性だったんだろうな。魔法使いは一般人の上に立つべき存在で、大衆を導く指導者としての役割を果たすものだと」

「でも、自分の杖を持っていなかったんですね」

 思わず飛び出したソラの言葉には冷ややかな感情が含まれていた。和泉は沈痛な面持ちで頷いた。

「だから欲していたよ、自分の杖を。魔法使いとしての確固たる地位を築くために。……そして道を踏み外したんだ」

 魔力を宿して産まれた。そのシンプルで揺るぎない事実は、覆すことができない。努力や才能といった言葉とはまた別の次元で、そもそも戦う土俵が違う。持たざる者はどう足掻いても手にすることはできないのに、持つ者は産まれたときから、本人の意思に関わらず、それを保持している。

 特別。優越。羨望。嫉妬。

 自分は神に選ばれた存在だと勘違いするのも無理はない。西宮にとってそれを担保する最後のピースが自分の杖だったということだ。また、和泉は優生思想という言葉を口にした。人類史における争乱の引き金のほとんどはこの思想によるものだ。優れた一族、優れた人種。人間は常に優劣をつけないと生きていけない。劣った者を排除するのは正当だ。魔法使いはそうでないものよりも優れているのだーー。

 ソラも全く考えたことがないとは言えない。しかし、それが頭を過るたびに魔法使いには暗澹たる未来が待ち受けてるのではないか、といつも思うのだった。

 しかし、ひとつ疑問が浮かんだ。

 それならどうして西宮は自分たちに向かって魔法を放ったのだろうか。杖を盗んだのを隠蔽するにしてももっと他にやり方があったはずだ。少なくとも同じ魔法使いであるホノカに向けてあんな殺意を剥き出しにする必要はない。和泉にその疑問をぶつけると、彼は逡巡しながらも答えた。

「彼があの日持っていたのは魔術倶楽部で共有している三本の杖の内の一本だったんだが、そんな手垢に塗れたものは嫌だったんだろうな。選ばれた存在として、”自分の杖”を確立するためには前の持ち主を殺す必要があった」

 ホノカの身体がびくりと震えた。和泉は慌てたように言葉を繋いだ。

「まあ、これらは推測の域を出ないけどね。彼は決して頭の切れるやつではなかったから、もっと単純な理由だったかもしれないし。いまはまだ専門の病院で治療中だが、近い内に動機も聞くことができるだろう」

「そうですね」

 俯くホノカを横目で見ながら、ソラは頷いた。尚も暗くなった雰囲気を打破しようと和泉が努めて明るい声で言った。

「そういえばあの時、私の杖も折れてしまったんだ。次の杖は望月くんに作ってもらおうと思うんだけど、どうだろう」

 ソラは再び頷いた。

「いいですよ。部室にあった残りの杖も一緒にメンテナンスします」

 ソラの言葉に和泉の表情が曇った。嬉しい話のはずなのに、とソラは首を傾げた。ホノカが泣きそうな顔でこちらを見ている。

「望月くん。これは最後に話そうと思ったんだが、おととい大学から正式な通達があってね」

 和泉が言葉を切った。ひどく落ち込んだ表情で絞り出すように続けた。

「魔術倶楽部は廃部になったんだ」

「そんな……」

「大学としては当然の対応だ。表沙汰になっていないとはいえ、看過できるものではない。責任の所在を明確にするためにも、大学側は全会一致で廃部を決定したよ」

 和泉の言葉にはおそらく次善の手は尽くした後であろう諦念の響きが多分に含まれていた。大学としてはこれで幕引きを図りたいということで、それを受け入れざるを得なかったということらしい。握られた拳は細かく震えていた。溢れ出そうな感情の一切を隠し、和泉は穏やかに笑って言った。

「まだ入部して半年も経っていないが、本当に申し訳ない。でも君たちのキャンパスライフはこれからだ。また、新しいサークルや部活動を見つけて、活躍の幅を広げてくれたまえ。私は今年こそ卒業して、陰ながら応援しているよ……」


 沈没寸前の船に乗っているような気分で自宅に帰りついたソラは、鞄を離れに置くと、すぐに作業場でやすりを手に取った。

 塞ぎこんだ気分を変えようと切り株の上に腰掛け、最後の研磨仕上げのみを残した杖を磨きはじめる。祖父は珍しくどこかに出掛けているようで、辺りにはやすりと杖がぶつかる乾いた音だけが響いていた。

 サクラ、紫水晶、30cm。誰のものでもなく、祖父からの仕事の依頼でもない杖。木材も鉱石も癖がなく、誰にでも扱えるような杖。杖はオーダーメイドが当たり前。その認識は魔法使いの間では常識となっていたし、それは確かにそうなのかもしれない。

 魔法痕"白"の失敗を経て、その常識はますます強固なものとなった。

 祖父としても自身が杖職人である以上、積極的に杖の量産を進める立場ではない。でも、魔法使いが杖を持っていないというのは想像を越えて深刻な事態なのだ。

 変えたい。ソラは強くそう思った。

 別に、コンビニエンスストアで気軽に手に入るとか、スマートフォンのタップひとつで届けてくれるとか、そこまでの流通は求めていない。しかし、必要とする人が目の前に現れて、それから作るんじゃ遅すぎる。こじんまりとしていてもいいから店を構えて、そこに既製品の杖を並べられるような、そんな淡い夢をソラは思い描いていた。


「ふう」

 作業が一段落したソラは大きく息を吐いた。遠い未来に思いを馳せる前に、行かなければいけない所がある。

 母親の月命日に当たる二十二日が明日に迫っていた。

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