第二部 前 『奇術倶楽部』

1.

「魔力欠乏症だね」

 男は部屋に入るなり何かに気がついたようにそう呟いた。丸眼鏡に白衣という一昔前の医者のような格好をして、男はきょろきょろと部屋の中を見回している。小学生の頃から使っている勉強机、人生で唯一表彰された中学生作文コンクールの賞状、巻数もばらばらで雑多に詰め込まれた漫画棚。家族以外の人間が足を踏み入れない前提で装飾された部屋を見られ、久住ホノカは顔から火が出るくらいの恥ずかしさを感じていた。

「魔力? 何ですって?」

 男を連れてきた母が、部屋の外で怪訝な表情を浮かべている。聞き慣れない言葉に警戒心を抱いているようだ。

「魔力欠乏症です。必要以上に魔力を生成し、放出してしまう病気です。症状としては慢性的な倦怠感、喉の乾き、そして指先などの末端の発熱です」

「いや、あの、うちの子は魔力なんて」

 男はくるりと振り返った。

「私を呼んだのは君だよね。ホノカさん」

 ベッドの上で上半身を起こし、母と男のやり取りを黙って見ていたホノカは頷いた。

「そして私を呼んだということは、自分の中の魔力に気がついている」

 ホノカは迷いつつも再び頷いた。

「だ、そうです。お母さん。ホノカさんは魔女ですよ」

「違うわ。そんな馬鹿な話あるわけない」

 母は信じられないという顔で首を横に振った。

「魔力を持たない人間には絶対にわからない症状です。これまでも医者にかかったことはあると思いますが、寝不足だの、貧血だの、生理不順だの、それっぽい言葉を並べていませんでしたか?」

「……貴方みたいな得体の知れない人の言うことなんて信じられません。ホノちゃんも勝手に変な人を呼ばないでちょうだい。医者だって言うから家に上げたのに……私の言うことを守っていればまた学校にも行けるんだから。さあ、もういいでしょう。帰っていただけますか」

 母が捲し立てるのを男は片方の眉を上げ聞いていたが、やがて呆れたように首を振った。

「君のお母さんていつもこうなの? 自分が正しいと信じて疑わないタイプ?」

「あ、はい……その傾向は、あるかと」

 ホノカはおどおどしながら答えた。母の顔がみるみる赤くなっていく。

「ホノカ!」

 母が叫んだと同時に男は白衣の内ポケットから杖を取り出すと、空中を切り裂くように振り下ろした。その瞬間、母の怒りでつり上がった両眼が虚ろになり、次に焦点が合ったときには気の抜けたような笑顔になっていた。

「あら、あらまあ。ごゆっくりして下さいな。私は下に戻りますからね」

 とんとん、と母が階段を下りていく音。男は後ろ手にドアを閉めた。

「さて、邪魔者もいなくなったことだし、話の続きをしようか」

「……いまのは魔法ですか?」

 ホノカの問いに、男は事も無げに頷く。

「そうだよ。不信と信頼を逆転させた。ついでに記憶操作」

「なんでもできるんですね」

「なんでもできる。魔法は便利で万能だ。空を飛ぶことも、お母さんの気持ちを変えることも、君の病気も治すことができる」

 男はホノカの左手を取り、手首に杖の先端を当てた。そこには手首と平行に幾筋もの白い線が走っている。

「自傷癖は良くない。魔力を身体に留められるようになれば精神も安定するよ。溜めすぎちゃうと爆発するけどね」

 さらっと恐ろしい台詞を吐きながら、男が杖の先で傷跡をなぞる。瞬きする間に数年かけて刻みつけたそれは綺麗さっぱり無くなっていた。ホノカはそれを目を丸くして見ていたが、やがて彼女の黒目がちの大きな瞳にみるみる涙が溜まっていく。

「……母も、友だちも、誰もわかってくれなかった。お医者さんにも原因がわからなかったから、楽してる、サボってるって」

 嗚咽と共に溢れだした涙は蓄積された彼女の苦悩を物語っていた。男は努めて優しい声で彼女に語りかける。

「もう大丈夫。あと一週間もしたら新しい杖が君の元に届く。それを持っていればこれ以上の魔力の漏出は防げるようになるよ」

「……ありがとうございます。あの、どんなお礼をしたらいいか」

「君からのお礼はいらない。お母さんからお気持ちだけ頂戴しておくよ」

 男が悪戯を思いついた子どものような顔で笑った。ホノカもつられて笑みが零れる。パジャマの袖で涙を拭った。

「私にも君くらいの息子がいてね。いまはどこでなにやってるのか知らないけれど、たぶん高校生なんじゃないかな」

「あ、それなら私と同じくらいですね。……一緒には住んでいないんですか」

 男はどこか遠くを見るような目で、首を振った。少し寂しそうな表情にも見える。

「どこかで会ったら友達になってあげて」

「わかりました」

 ホノカは頷いた。男がまたにっこりと笑った。円を描くように杖を振ると、男の姿は一瞬で消えてしまった。先ほどまで男がいた場所にはどこかで見たことのある魔法痕が残っていた。



2.

 『魔法図鑑 -第八刷-』には特別付録として禁忌の頁がある。使用に関しての制限ではなく、完全なる禁止。いついかなる状況においても使用が禁じられ、それを破ったものには恐ろしい罰が与えられるという。拷問、殺害、洗脳などの人体に著しく害を与えるものや、金品の複製、生体クローンの作成など経済に大規模な影響を与えるものがこれに該当する。また、意外なものとしては他者への医療行為が禁止されている。医療行為とは傷の転移や修復、原因物質の除去などおよそ病院で行われる治療の全てが該当する。自身の治療は第一級制限魔法であるが、他者の治療は固く禁じられている。

 これは欧米諸国でも同様で、医療現場では未だ麻酔やメスがその役割を果たしており、おかげで日本は高度経済成長期から変わらず医療大国の地位を保持し続けている。魔法を用いた医療行為が禁じられている理由のひとつは膨大な魔力を必要とし、使用者にも副作用が散見される点であるが、一般的には現行の医師の尊厳が損なわれるため、というのが通説である。

「なに読んでるの?」

「魔法図鑑」

 望月ソラは大学の講堂で時間を潰していた。話しかけてきた友人、石田カイトを見上げる。ソラは国内に三ヶ所しかない魔法学部のある大学のひとつに合格し、右も左もわからない大学生活をスタートさせていた。

 魔法図鑑を読む傍ら、ソラは数ヵ月前の慌ただしい日々を反芻していた。藤崎に大学進学を宣言した翌日からソラは受験勉強を開始した。高校の授業の蓄積だけでは当然足りず、昼夜を問わず参考書と過去問に追われソラはみるみる不安と焦燥を溜めていった。祖父にも受験が終わるまでは杖作りに関わらなくていいと告げられ、ソラは感謝を述べつつ、同時に寂しい思いも抱いていた。

 掌に馴染みかけていたやすりの感触を忘れ、すっぽりとシャーペンが収まったある日の夜。メモ帳を取り出そうと引き出しを開けたとき、中に転がっていた杖が光っているのに気がついた。溶かした銀を注いだ部分を中心に柔らかな光を放っている。受験勉強の妨げになると思い仕舞っていたものだが、ソラはそっと杖を取り出した。

 まるで杖の中に蛍でもいるように、その光は強くなったり弱くなったりしていた。ほんのりと暖かみを感じる杖をソラはぎゅっと握った。アケビはあの日の言いつけを守って魔法を使っている。

 アケビが高校を中退して以降、今日まで気がつくことはなかったが、おそらく今までも光っていたことはあったのだろう。次からは見逃さないようにとソラは机上のペン立てに杖を戻した。

 凝り固まっていた気持ちがお湯に溶け出すように解れていく。アケビがどこか遠くで女優になるために稽古を積んでいる姿が脳裏に浮かんだ。僕も頑張らなくてはと決意を新たにした。


「待ってたよ」

 ソラがぱたんと本を閉じた。

「サークル紹介行くっしょ」

「うん」

 ソラは頷く。カイトは入学式のときに隣に座った縁で、それからときどき一緒に行動することがあった。きょうは彼に誘われ、これから本館の特設ステージで開催されるイベントに参加することになっていた。

 新入生に向けたサークル紹介は、このイベントのために設営された舞台の上で各々のサークルが勧誘のアピールをするというものらしい。ソラはさっさと帰って杖作りに勤しみたかったが、折角の大学生活ということもあり、まずは流されるままに動いてみようと思っていた。

「ソラはなんで魔法学部入ったの?」

「じいちゃんが魔法の杖作っててさ。それを継ごうと思ってる」

 ソラは正直に答えた。少し前までは口に出すのも憚られるほどだったが、いまでは自分の名前くらい流暢に話すことができるようになった。カイトはそれを聞き、びっくりした表情を浮かべた。

「すげー。本当にそんな仕事あるんだ」

 ソラが魔法学部に入学して一番驚いたのは魔法の気配が全く感じられないことであった。学部名に魔法を冠しているだけあってそれなりに魔法に遭遇することを期待していたのだが、入学から一ヵ月経過したいまでも魔法はおろか杖すらも見かけたことがなかった。当然、カイトも入学した理由に魔法は関係なく、大学のネームバリュー欲しさに最も偏差値の低い魔法学部を選択しただけで、大半の学生は彼と同じ考えを持っていた。

「可愛い子がいるところがいいよなー」

「……あんまり活動してないところかな」

 大学生と言えばサークル。インターネットで大学生活を調べると、ほとんどは単位とサークルの話に終始する。勉強はともかくサークルは全く興味がない訳ではなかったが、積極的に参加したいとは思わない。きょうは十五団体の勧誘があるらしいが、興味を惹かれるようなものがなければ無所属で構わないとソラは考えていた。


 本館の地下へ向かう階段を降りていくと、大勢の人がたむろしていた。サークル勧誘のチラシを片手に大声で募集をかける上級生に、とりあえず話を聞いている新入生たち。普段は多目的ホールとして開放されている向こうのスペースに想像していたよりもチープなステージが設けられていた。

 整然と並べられていたはずのパイプ椅子は新入生のグループごとに幾つかの島に分かれていた。ふたりも他の学生に倣い、壁に立て掛けてあった椅子を二脚持ち出し、ホールの真ん中より少し後ろのほうに座った。

「もらってきた」

 カイトがいつの間にかイベントのチラシを手にしていた。あと五分もしないうちに、一番手の軽音楽サークルから始まるらしい。その後は、テニス、フットサル、ダンス、演劇などが順番に登場するスケジュールになっていた。

 演劇という文字を見て、ソラはまた戸村アケビのことを思い出していた。昨年の今ごろを最後に会うことも連絡を取ることもしていなかったが、あのとき彼女が夢見ていた女優をいまも目指しているのなら、どこかの劇団で舞台に立っていたりするのだろうかと想像する。懐かしさと一抹の寂しさが込み上げてきたところで、フロアの照明が落とされた。

 前方で雷のような音が轟いた。スポットライトに照らされた三人組のバンドが、観客に向かって手を上げていた。拍手を促し、ドラムを叩く。激しいエレキギターの電子音で演奏が始まったが、ソラは音楽にはとんと疎かったので、音量の壊れたテレビを見ているような感覚だった。カイトが何か話しているが、何も聞こえない。ソラは首を横に振った。

 軽音楽サークルが場を暖めた後、ステージの上では次々と各サークルが準備してきた勧誘の出し物を披露していった。これは後からカイトに聞いた話だが、サークルは所属人数によって大学から供与される補助金の額が変わるらしく、だから必死に新入生を掴まえようとしているとのことだった。

 ソラはひどく退屈な気持ちでステージを眺めていた。きらきらと輝く青春を無理やり押しつけられているような気分ですらある。隣のカイトが手を叩いてはしゃいでいる様子を冷めた目で見ていた。

「次が最後になります」

 大きな蝶ネクタイを結んだ司会が高らかに宣言した。ソラはもうとっくに興味を失い、ぼーっとステージに目を向けるだけだった。

「奇術倶楽部です。どうぞ!」

 再びフロアの照明が消え、一筋のスポットライトがステージ上を照らした。燕尾服にシルクハットを被った男が光の輪の中で深々と頭を下げた。

「……皆さんは”奇術”をご存知でしょうか。魔術ではありません。日本ではかつて"和妻"や"手品"と呼ばれていました」

 男がシルクハットを手に取りくるりと回した。ハットの内側をごそごそと探る仕草を見せ、中からハットの胴体部分より長いステッキを引っ張り出した。シルクハットを被り直し、ステッキを器用にくるくると回している。

「手先の技術だけで、観客を魅了する。”種も仕掛けもございません”が謳い文句の不思議な奇術。奇術師と呼ばれ、称賛を得ていたのはもう昔の話」

 男は残念そうに肩を落とした。男の被るハットの先がくにゃりと折れた。シルクハットはいつの間にか魔法使いが被るような先端の尖った帽子に変わっていた。

「魔法の台頭、それは奇術の衰退の始まりでした。いまでこそ魔法は科学に追いやられ、この魔法学部であっても使用者は皆無です。しかし奇術師はもっと少ない。だって『それ魔法でしょ』って言われてしまうから!」

 観客からどっと笑いが起こる。

「さて、魔法学部の新入生諸賢。我々はこれから諸賢に奇術をご覧にいれよう。これは奇術師から魔術師への挑戦だ。トリックを見破ることができたなら諸賢らの勝ち。誰一人看破できなかったのなら、我々の勝ちだ」

 横に座るカイトから白紙を手渡される。向こうから回ってきたらしく、どうやらここに奇術のタネを書けということらしい。ざわめく観客に、男は高らかに笑った。彼が指を鳴らすと、舞台袖から人が入れるくらいの黒塗りの箱が二つ運ばれてきた。

「古今東西、奇術と言えば瞬間移動」

 黒い布で全身を覆ったアシスタントが、ステージの両端に箱を置き、正面の扉を開いた。

「種も仕掛けもございません。さて、この前代未聞のトリックを、君たちは見破ることができるかな?」

 男はアシスタントのひとりを呼ぶと、顔にかかっていた黒い布を大袈裟に剥ぎ取った。スポットライトの下に顔を晒け出した女性が驚いた表情を浮かべながら、右側の箱に足をかけた。嫌がる演技をする女性を箱の中に押し込み、男が扉を閉めた。

 どこから持ってきたのかわからない大きな銀の鎖をじゃらじゃらと箱に巻いていく。先ほどまでざわついていた観客がだんだんと静かになっていった。男が観客のほうに向き直る。芝居がかった不敵な笑みは自信に満ち溢れていた。

「さあ、カウントダウンだ!」

 男が掌を掲げ、叫んだ。ライトが明滅し、ドラムロールが鳴り響く。

「5!」

 その瞬間だった。思わず振り返るほどの刺激がソラの背中を伝った。観客が夢中でステージを見守る中、ソラはホールの後ろ側を素早く見回した。気配の出所を探る。大学内ではじめて感じた紛れもない魔法の気配。

 手前の観客は正面に目を向け、ソラがステージを背にしていることに気がついてすらいない。徐々に視線を上げていくと、ホールの一番奥の壁にもたれかかるように立っている女性を見つけた。臙脂色の薄いカーディガンを肩に掛け、腕を組んでステージの方に顔を向けているが、明らかに奇術に見入っている様子ではない。その女性がゆっくりと首を傾げ、ひどく緩慢な仕草で額の髪を払った。隠れていた表情が露になる。視線は確実にソラを捉えていた。目が合った瞬間、彼女は意味ありげな微笑を浮かべたようにも見えた。ソラはその女性が魔法を放った本人、魔女であると確信したが、同時に慌てて目を逸らした。身体の奥の奥まで見透かされたような感覚に目を合わせ続けることができなかった。心臓はどくどくと早鐘を打ち、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。

 どっと周りで拍手が鳴り響いた。

「ありがとう!」

 男が鳴り止まない喝采の向こうで手を振っていた。どうやら瞬間移動は成功したらしい。ソラが目を凝らしてステージ上を探ると魔力の残滓のようなものが微かに漂っているのがわかった。あれだけ奇術を謳っていたのに、結局魔法だったじゃないかとソラは思った。

「全然分からん……」

 隣でカイトが頭を掻いている。真面目に考えている彼が可哀想になり、ソラはタネを教えてあげようと口を開きかけたとき、背後から声がした。

「それはルール違反よ」

 先刻までホールの一番後ろにいたはずの女性が、ソラの背後に立っていた。ソラはびっくりして思わず飛び退いた。

「そんなに怖がらなくてもいいわ。お名前は?」

「……望月ソラです」

 ソラが小さな声で答える。隣でカイトが名前を聞かれるのを待っているような素振りを見せたが、女性はそれを一瞥しただけでソラのほうに向き直った。

「私は山吹アリス。望月くん、このあと時間あるかしら」

「まあ……」

 カイトが信じられないという目つきでソラと山吹を交互に見ている。

「あ、あの、俺も暇です」

 カイトが言い終わらないうちに、山吹はソラの手を取りホールの外へ連れ出そうとする。

「ごめん、カイト」

 ソラは首だけをカイトに向けながら謝った。残念ながら目の前で意味深な魔法を見せつけられて、ここにカイトと残る選択肢はない。

「そんなあ……」

 カイトは泣きそうな顔でふたりを見送った。


 ホールの扉を閉めると喧騒はぱたりと途絶えた。

「こっち」

 得体の知れない上級生の後をソラは黙ってついていく。

「奇術倶楽部の部室は地下二階にあるの」

「山吹さんも奇術倶楽部の方なんですね」

 山吹は頷いた。地上へ上る階段まで辿り着くと、階段脇の何もない空間に立ちソラの手を握った。ひゅんと臍の辺りを引っ張られる感覚。阿知須の町で猫又タマキに飛ばされた以来の瞬間移動だ。ぱっと画面が切り替わる。まるでエレベーターの中のような空間で、目前には大きな扉が立ち塞がっていた。

「この向こうよ」

「直接飛ばないんですか?」

「この部屋は瞬間移動に対する相反魔法が施されてるの。だから四隅の楔には触らないでね」

「わかりました」

 瞬間移動や魔法そのものを制限する相反魔法は、魔法図鑑で読んだことがある。ソラは頷いた。山吹が扉を開ける。

 先刻までサークル紹介イベントを開催していたホールの半分くらいの広間に十人ほどの学生がそれぞれ寛いでいた。ポテトチップスと炭酸飲料を片手にお喋りに興じる男女。ソファに寝そべり漫画を読み耽る長髪の学生。しかし、山吹の存在に気がつくと全員がこちらに顔を向けた。

「望月ソラくん」

 山吹に前に出るよう促され、ソラは訳もわからないままぺこりと頭を下げた。

「あともうひとりは部長が連れてくるわ」

「今年はふたりなんすか?」

 一番手前でトランプを弄っていた短髪の男子学生が手を挙げた。

「いまのところはね……」

 山吹が困ったような顔で答える。ソラの背後でがしゃがしゃと音がした。

「遅れてすまない諸君」

 ぴっと格好つけるように指を振りながら部屋に入ってきたのは、先ほど舞台上に立っていたあの男だった。男の後ろには如何にも不安そうなロングヘアの女の子がひとり、男の影に隠れるように立っている。

「彼女が、えーと、久住ホノカちゃん」

 男はこつこつと靴で床を鳴らした。

「魔女だ」

 ぱちぱちと疎らな拍手が起きる。ホノカもほぼなにも知らされないまま連れてこられたのか、頭の上に大きな疑問符が浮かんでいる。怪訝な表情で男を見つめていた。

「おっとすまない。自己紹介がまだだったね。私が部長の和泉だ。尊敬をこめて部長でも、親しみをこめて和泉さんでも、好きなほうで呼んでくれたまえ」

 舞台上よりも芝居がかった口調と仕草で和泉は深々と頭を下げた。ソラは思わずホノカと顔を見合わせる。

「その様子だと、どうしてここにいるのかまだピンと来ていないようだね」

 和泉が右手を頭上に掲げ、指をぱちんと鳴らした。

「ここは奇術倶楽部ではない」

 ゆっくりと円を描くように歩き出す和泉。山吹が呆れたようにため息を漏らした。

「あれは世を忍ぶ仮の姿。あの場にいたほとんどの愚鈍な連中は私の振る舞いの全てが奇術に見えたことだろう。私がカウントダウンをはじめたとき、ステージではなく後ろを見ていたのは君たちふたりだけだった。……そう。魔力を感じ取ったのはふたりだけ。魔法学部が聞いて呆れる。しかし、安心してほしい。この部屋にいるのは全員が魔力を持っている選ばれた人間だ。……ようこそ若人よ」

 和泉はそこで言葉を切った。黙って演説を聞いていたふたりの前に仰々しく右手を差し出す。

「我が”魔術倶楽部”へ」


「普段は何をしているんですか」

 和泉、山吹、ソラ、ホノカの四人は円テーブルを囲むように座り、和泉からサークル紹介の続きを聞いていた。

「ここでお喋りしたり、漫画を読んだり、時々フットサルをしたり、そろそろバーベキューを企画したり……」

 和泉の、先ほど気炎を吐いた口から出てきたとは思えない俗物的な回答にソラは思わず笑ってしまった。

「魔法は使わないんですか」

 ホノカが手を挙げて質問する。

「人数分の杖がない。使いたければ先達が残したものがあそこに三本だけある」

 和泉が部屋の一番奥を指差した。

「アリス、取って来てくれるかい」

「はいはい」

 山吹が立ち上がる。ホノカに続けてソラも疑問を口にした。

「皆さんは杖を持っていないんですか。魔法使いは杖を持つのが義務だと聞いたことがあります。あとは他人の杖を使ってはいけないとも……」

 和泉がソラの言葉を遮り、感心したように頷いた。

「君、新入生にしては詳しいじゃないか。確かに魔力を自覚しているものは杖を持たなければならない。しかし、自動車の制限速度然り、往々にして現実とルールの乖離は発生している。誰もが杖を持てる訳ではない。金銭的理由、思想、信条、その他あらゆる理由で杖を持てない魔法使いはたくさんいる」

 和泉がため息を吐く。ちょうど戻ってきた山吹から一本の杖を受け取った。その杖は焦げ茶色で全体が油で包まれているような艶があった。どこかで見たことがあるような気がするが名前が思い出せない。

「魔力は器の許容量を越えて溜めすぎると暴発してしまう。だから時々でも魔法を使わないと大変なことになるのだが、知っているか?」

 ソラとホノカはそれぞれの過去を思い出し頷いた。

「政府もそんなこと当然知っている。しかし、そもそも日本に若い魔法使いは存在しないことになっている。制度上、少なくとも平成以降はゼロなんだ。ゼロだからそこには補償もフォローも必要ない。実際はこんなにも魔力を持つものが存在しているというのに」

「こんなにって言っても魔法学部ですらこれしかいないけどね。魔力抑制の投薬を選択できる病院に、魔力を持って産まれた奇跡」

 山吹の自嘲気味な言葉に和泉が被せるように口を開いた。

「我々が魔力を暴発させて死んでもそれは適当な事故で片付けられてしまう。年間のガス爆発事故のうちの何件かは確実に魔力の暴発なんだ。でも、それは悲しくて不幸な事故で、魔力とは関係がない。政府は一般人から魔力を根絶しようとしている」

「一般人から?」

「そうだ。一般人に魔法使いがいると色々都合が悪いのだ。規制に次ぐ規制は個人に武力を持たせないようにしているためだ。国家を脅かすことができるレベルの軍隊や兵器は、ともすれば魔法で全て賄える。テロリスト同然の扱いをされていることに我々は気がつかなければならない。日本には本当に銃は存在していないのか? 答えはノーだ。国家権力は常にそれを所持している」

 和泉の瞳に妖しい色が灯る。まるで独裁政権へ反旗を翻す革命家のような演説だったが、彼の論理は飛躍しすぎているきらいがある。ソラの直感は不穏な空気を確かに感じていた。この男と関わるべきではないと本能が告げている。なによりソラは魔法の気配がわかるだけで、魔法使いではない。

「……私は魔力を放出しやすい体質みたいで、幼い頃からずっと病弱扱いされてきました」

 ホノカがぽつりと呟く。苦々しい何かを思い出すように天井を見上げた。

「両親は魔法をそもそも信じていない古い人たちで、なので投薬も魔力検査も頑なに拒否したんです。それで、何度医者にかかっても精神的な病気だろうと診断されて、すごく苦しかった時期もありました。でも去年の夏にはじめて魔法使いの方と出会って、自分の体質のことと、自分が魔女だということを知りました」

 ホノカがハンドバッグの中から杖を取り出した。赤みのあるすっきりと真っ直ぐに伸びた杖。今度はすぐにわかった。姫沙羅だ。姫沙羅は少し前に祖父が加工しているのを見ていたのでソラはよく覚えていた。

「いまでは、すっかり元気になりました。この杖が魔力の放出を抑えてくれているみたいで、なのでこれからは溜まった魔力を使ってみたい」

 ホノカが陶酔したような表情でうっとりと自分の杖を見つめた。和泉と山吹がにっこりと笑って頷いた。

「それなら、我が魔術倶楽部はぴったりだ。君に活躍の場を与えると約束しよう」

 和泉がホノカに手を差し伸べる。ホノカがそれに応えるように伸ばしかけた手を、ソラは横から掴んだ。

「あ、あの、僕らもう少し考えたいなって思ってます。他のサークルも見たいし。ね、ホノカ」

 ソラはホノカに不信感を抱かせないように、しかし半ば強引にホノカの手を引いた。初対面の女の子の手をいきなり掴むなんて自分でもとんでもなく無茶なことをしていると思った。ホノカは突然のソラの横槍に困惑した様子だったが、ソラの真剣な眼差しを見て、やがて小さく頷いた。

「え……あ、うん。そうします」

「……そうか。わかった。確かに君の言うことも一理ある。アリス、この子らを地上に返してあげてくれ」

 ソラはほっと胸を撫で下ろした。ホノカに手を振り払われていたら、自分だけこの空間から追い出されていたはずだ。言いたいことを飲み込んだような顔で和泉が手を振った。

「じゃあ、いったん帰りましょうか。あそこのゲートは私たちと一緒じゃないと使えないから、次来るときも上で待ち合わせしましょう」

 部屋の扉を開け、再びエレベーターのような狭い空間に閉じ込められる。

「ちょっと待ってね。向こうに人がいるか確認してるから……OK」

 次の瞬間には三人は元の階段の脇のスペースに立っていた。

「私は戻るけど、入部を決めたらここに連絡して。迎えに行くから」

 山吹からSNSのIDが書かれた紙を受けとると、ソラとホノカは頭を下げた。彼女が消えたのを確認すると、ソラはホノカを連れ歩き出した。

「ごめん、急にあんなことして」

 まだ心臓がどくどくと脈打っている。落ち着かない様子のソラを見てホノカは眉を寄せ怪訝な表情を浮かべていた。ホノカが杖を取り出した瞬間、和泉は不自然なほどの驚きと恍惚に満ちた目で杖を見ていた。そして杖と魔法の気配を察したのか一斉にこちらを見た他の部員。獲物を前に目の色が変わる集団をソラは目撃していた。

「あそこは、止めたほうがいいかもしれない」

 ソラは絞り出すようにホノカにそう告げた。ホノカが首を傾げる。

「どうして?」

「それは……」

 次の言葉が続かない。そもそも杖を強奪しようとしているなんて荒唐無稽な話を信じろというのが無理である。

「私は、入部すると思う。魔法使いの知り合いができるのは心強いし、そのためにこの大学に来たんだから」

 ホノカの表情は希望と期待に満ちていた。説得は無理だと悟ったソラは、諦めたように頷いた。

「それは、そうかもしれない……僕も入部しようかな」

「どっちなの?」

 ホノカが呆れたように笑うので、ソラも自分の直感を誤魔化すように笑った。


 杖職人として、自分が杖を作ってあげればいい。ソラは帰りの電車内でその考えを鮮明にしていた。魔術倶楽部、その中でも部長の和泉は特に現状の魔法使いの扱いに不満を持っていた。おそらく平穏な大学生活を送りたいのであれば、関わらないのが正解である。しかし、杖職人としての将来を見据えるのならば、あのような杖を持たない魔法使いたちを見過ごすわけにはいかない。既に知ってしまった現実はソラの使命感に小さな火を灯していた。

 部室にあった三本の杖も元々は誰かのものだったのだろう。杖の登録が義務である以上、問題行為であることは明白だが、自分が杖を作ればその問題は解消される。ホノカの杖もそうすれば標的にはならないはずだ。

 規則正しい電車の揺れ。窓から射し込む西日は橙色を帯びていた。目下、使命を果たすには解決しなければならない大きな問題がある。ソラはアケビの杖を作って以来、一本も杖を作ることができずにいることである。


「ただいまー」

 一年中変わらない祖父の背中に声をかける。いつもならばそのまま素通りして自室へ向かうのだが、きょうは祖父の正面に回った。

 憮然とした表情で祖父はソラを見上げた。ソラは不機嫌そうな祖父に臆することなく問いかける。

「杖のことで聞きたいんだけど、一本の杖を何人かで共有することはできる?」

 祖父は孫の質問の意図を見極めるように目を細めた。ややあって首を横に振る。

「できるかできないかで言えば、できる。ただ、魔力が杖の中で混ざるから、杖自体の耐久も下がるし、思い通りの魔法が使えなくなることがある。あとは単純に法律違反だ」

「そうなんだ……」

「あとは杖のほうだな。『杖が人を選ぶ』と昔教えたと思うが、基本的には杖は最初に魔力を通した者を主とする。他の奴が使っても異常が起きないのなら、その杖はよっぽどのアバズレか、人を喰らう詐欺師だろうな」

 祖父が片方の眉を上げた。ソラの様子に何かを察したらしい。

「大学にいるんだな?」

 祖父に隠し事はできないと悟り、ソラは頷いた。

「そいつらは何故自分の杖を持っていない?」

「……お金と思想と信条の問題らしい」

 祖父は頭を掻いた。呆れたという表情でソラを見た。

「それで、お前が杖を作ってやろうって魂胆か」

 ソラは少し迷ったが、再び頷いた。

「作れもしねぇ奴がなに言ってやがる。いいか、杖作りは慈善事業じゃねぇ。仕事なんだ。正式な依頼がありゃ別だが、そうじゃないなら杖を作る義理はない」

「そんな言い方って」

「バカ。お前は去年あの同級生の杖を作ったときから職人なんだよ。自分の腕を安売りするな。お前はそれで食っていくんだろう?」

 祖父の言葉に、ソラは毒気を抜かれたように勢いを削がれてしまった。

「……わかった」

 肩を落とし踵を返したソラに祖父が後ろから声をかける。

「分割でもいいからしっかりと対価は払わせろ。その上でお前の仕事として請け負え」

 それだけ言うと、祖父はくるりと後ろを向いてしまった。ソラはぱっと顔を上げると、祖父に向かって頭を下げた。厳しい言葉の中に隠れる優しい響きにソラの胸は熱くなった。

「ありがとうございます」


 サクラ、イチョウ、ブナは特に扱いやすい木だと言われている。鉱石のほうは宝石だと値が張るので、水晶で代用ができるかもしれない。アケビの杖にはもっと安価な銀を使用したが、あれは持ち主がずっと身につけていて魔力が馴染んでいたので例外だったと後から祖父に教えられた。

 必修の魔法史の講義中に、ソラは頭の中で杖の設計をぐるぐると考えていた。サークルの先輩たちにもホノカにもまだ自分の計画は明かしていない。まずはとにかく杖を一本完成させないと話にならないとソラは思っていた。

『曲がっている。やり直し』

 祖父の冷たく鋭い言葉が脳内にこだまのように響いている。ソラは大学受験が終わるとすぐに本格的に杖作りに取り掛かっていた。既に出来上がっている杖の簡単な修復は任されるようになり、それはある程度のクオリティで仕上げられるようになっていたが、素材の選定からとなると全くと言っていいほど形にならずにいた。

『楢に紫水晶はご法度だ。すぐ割れるぞ』

『削りすぎだ。これじゃあ石が露出しちまう』

『乾燥が甘い。魔力がまだ残っている。やり直し』

 技術が未熟なのは仕方がないと割り切れる。でも、上手くいかない原因は他にあるような気がする。

「はあ……」

 ソラは机に肘をつき憂鬱そうにため息を吐いた。

「じゃあ、つまらなさそうな望月さん」

 名前も知らない教授に指名され、ソラは慌てて立ち上がった。

「えっと……」

 正面のホワイトボードには国際情勢という文字が書かれている。が、冒頭からほとんど講義を聞いていなかったので、質問の見当もつかない。隣に座るホノカがこっそりとシャツの裾を引っ張る。見下ろすとノートの端に小さく文字が書かれていた。

「中国」

「……そうですね。いま最も魔法使いが多いと言われているのが中国です。ただ、中国はいまの国家首席が魔法肯定派なので強力に政策を押し進めていますが、五年後にはどうなっているかわからないという国でもあるので、魔法と科学の共存というテーマではモデルケースに成り得ません。中国では十年ほど前に人民解放軍の中に武装魔法を主とする”魔警団”を組織しました。しかし、それから三年も経たない内に魔警団は解散しています。一説には内部クーデターという見方もありましたが、政権交代による方針転換ということで専門家の間では結論づけられています」

「意外と不真面目なんだね」

 ホノカが小声で耳打ちした。魔術倶楽部に勧誘されてから一週間。一年生で必修科目が多く被っていることもあり、ソラとホノカはこうして一緒に講義を受けていた。

 ホノカはとても真面目だった。ノートには本人の性格を表すような縦横がはっきりとした文字が整然と並んでいたし、質問には手を挙げて答えるし、目を皿のようにして教授の一挙手一投足を追っていた。


「よくあんな真面目に聞いていられるね」

 魔法史の講義終わりに、ふたりは学内のカフェでコーヒーを啜っていた。

「ちゃんと聞いたら面白いよ」

 ホノカはコーヒーを片手にノートをぱらぱらと捲っていた。

「ほら、この90年代のアメリカで起きた『銃か杖か運動』とかさ。魔法使いが地位向上のために世界中でどれだけ頑張っているかって話。自分が魔女だとすごく身近に感じるよね」

「まあ、そうだよね」

 ソラが本当に学びたかったのはもっと実務的な魔法の扱い方や、具体的な魔法の活用方法である。戦争を知らない世代に戦争の本当の悲惨さを理解させるのが困難であるのと同様に、ソラはある意味では安全圏から魔法を学ぼうとしているので魔法史の講義はピンと来ないことのほうが多かった。

「きょう、行くでしょ?」

 ソラは頷いた。昨夜遅くに山吹から連絡があり、ふたりは魔術倶楽部の活動に参加するために、ここで迎えが来るのを待っているのである。

「お待たせ」

 ひらひらと手を振りながら現れたのは、部長の和泉だった。ソラの正面の空いていた椅子に脚を組んで座った。

「君も参加してくれると思っていたよ、望月くん」

 和泉が前髪を払いながら言った。ソラは申し訳なさそうに答える。

「あの、その件なんですけど、ひとつ言っておかなければならないことがありまして……」

「なんだい? なんでも聞くよ?」

 不思議そうな顔で首を傾げる和泉。ホノカもきょとんとした眼でこちらを見ている。

「騙すつもりはなかったんですが、僕、魔法使いではないんです」

「……」

 三人の間に沈黙が流れる。最初に口を開いたのはホノカだった。

「え? どういうこと?」

「どうもこうもないんだけど……ちょっと魔法の気配が分かるだけのただの一般人」

 ソラは頭を掻いた。騙すつもりはないどころか、半強制的に連れていかれただけなのでこちらに非はないはずだ。

「杖は?」

「杖は持ってるんだけど、これは……」

 ソラが言いかけたところで、ふたりのやり取りを黙って見ていた和泉が身を乗り出してソラに詰め寄った。

「何故、わかる?」

「え?」

「君は魔法使いではないのに、何故、魔法の気配がわかる?」

 和泉の眼はあの時のようにぎらぎらと輝いていた。鼻先がぶつかるくらいに顔を近づけてソラをまじまじと観察している。

「いや、あの、去年、同級生の魔力の暴発に巻き込まれて、それから……」

「その影響で?」

「たぶん……そうだと、思います……」

 和泉の剣幕に圧され、ソラは椅子の背にぴったりと身体を押しつけていた。和泉は自分の椅子にどっかりと座り直すと、ソラの飲みかけのコーヒーを一息に飲み干した。

「実に興味深い。だが、おかしい。魔法使いは先天的なものだ。後天的に魔力を発現した事例は世界中のどこを探してもないはず。……望月くん、君は投薬治療を受けているか? 魔力抑制に関して薬に全幅の信頼を置いているようだが、不良品の可能性も考えられる。あるいは、魔力検査はどうだった? 検査の不備、漏れ、魔力規制派が指揮を取っていれば隠蔽は容易だ。……いや、本人が自覚していないだけで、実は魔法使いでしたという可能性も残っているな。その線がもっとも有力か。望月くん、ここで試しに魔法を使ってみてくれないか?」

「えっと……はい」

 早口に捲し立てる和泉に、ソラは足元に置いていたリュックサックの中から杖を引っ張り出した。念のため持ち歩いていたアケビの杖の対となる一本だ。右手で握り、空のコーヒーカップに向けた。

「……」

 再びの沈黙。それを破ったのは今度はソラだった。

「どうやって使うんですか?」

「イメージを強く持つんだ。集中しろ」

 ソラはコーヒーカップを宙に浮かすイメージを思い浮かべた。ソラを覗き込むホノカと和泉のふたりが視界から消え、コーヒーカップの花柄の模様が滲んで見えた。年季の入った茶色い汚れ、取っ手の縁が欠けている……。

「ダメみたいですね……」

 ソラは眼をごしごしと擦った。驚くほどなにも起きない現実に、少しだけショックを受ける。

「ホノカははじめて魔法を使ったとき、どんな感じだった?」

「なんか、頭の中とか指先がぶわっと熱くなって、枕が浮いた」

 ホノカが両手をぱたぱたと広げてその時の様子を再現する。

「全く、魔力の欠片も感じられません。で、あの最初に僕が言いかけたことなんですけど……」

「なんだい?」

 和泉は落胆した様子を隠そうともしなかった。もう用は済んだと、露骨につまらなさそうな顔をしている。

「祖父が杖職人で、僕はそれを継ごうと思っているんです。だから幼い頃から魔法に触れる機会は多くて……」

「杖職人!?」

 和泉が物凄い勢いで立ち上がった。椅子が引っくり返り、カウンターでカップを磨いていた店員が何事かとこちらに顔を向けていた。

「ああ、失敬。……なんだ、そうならそうと最初に言ってくれよ。魔法に関わる仕事をしているなら大歓迎だ。いいじゃないか、杖職人。魔法使いを支える立派な仕事だ。僕の野望とも合致する」

 和泉は今度は顔一杯に笑みを浮かべてソラを見つめていた。ジェットコースターみたいに目まぐるしく感情が変わる人だとソラは思った。

「野望ってなんですか」

 ホノカが訊く。和泉は胸を張って指を立てた。

「魔法使いの地位向上。そのために魔法使いを増やしたいんだ」


「きょうの活動はなんですか?」

 カフェを出て、先を歩く和泉にホノカが後ろから声をかけた。

「君たちふたりの歓迎会さ。もう皆待っているよ」

 和泉が振り向いて両手を大きく広げた。その顔は自信に満ち溢れている。

「まだ入るなんて言ってないですけど」

「入るだろ?」

 ソラの最後の小さな抵抗は言下に切り捨てられ、ソラは渋々頷いた。ホノカが隣でくすくすと笑う。ただ、ソラとしては和泉とはじめて対面したときの抵抗感はかなり薄まっていた。彼は野望を追いかけることに周囲の目を憚らないだけで、素直さが全面に出ているだけなのかもしれない。魔法使いを増やしたいという思いはソラとも共通するところがあり、関係を断つには時期尚早だと思い直していた。

「魔法で移動しないんですか」

 大学の正門を出たところの、ゆるやかにカーブする坂道を歩きながらソラが聞いた。

「あの部屋を出たら、僕は”奇術師”だからね。魔法が使えることが知れたら廃業だ。それにもう着く」

 和泉が向かいのビルの一階を指で示した。横断歩道を渡り、迷うことなく地下への階段を下りていく。

「魔法使いという人種はじめじめしたところを好むらしい」

 突き当たりの扉を開けると、からんとベルの音が鳴った。入り口から見渡せるほどの広さのスペースにテーブルと椅子が適当に散らばっていた。奥の厨房では調理服に身を包んだオーナーらしき人物が慌ただしく動き回っている。

「諸君。主役の到着だ」

 魔術倶楽部の部室より幾分大きな拍手の音がふたりを包んだ。

「毎度思うんだが、連れてくるのは部長の仕事ではないのでは?」

 和泉がぶつぶつと文句を言いながら、一番奥の席に座り、大きく脚を広げた。

「毎年ありがとう先輩」

 和泉がカウンター越しに厨房のオーナーに声をかける。オーナーは和泉を睨みつけ、吐き捨てるように言った。

「もう少し早く連絡しろと言っているだろうが。それに先輩じゃないだろ。お前はさっさと卒業しろ」

「でも、準備してくれるじゃないか」

 後半の言葉を丸々聞き流し、飄々とした様子の和泉にオーナーは呆れた様子でため息を吐くと厨房の奥へ引っ込んでしまった。

 ソラとホノカは和泉の両隣に座った。しばらくして人数分のビールが運ばれてくる。

「さあさあ、きょうは華金。今宵は無礼講。呑んで食って暴れて、この店潰してやれ。乾杯!!」

 あちこちでジョッキがぶつかる音。およそ数分もしないうちにおかわりを要求する声が上がりはじめる。料理も次から次へと運ばれてくる。

「ぼーっとしてたら全部食べられちまうぞ」

 色黒で派手なアクセサリーをぶら下げた柄の悪そうな男がジョッキを持ってソラの隣に座った。肩を組まれソラはびくっと震えた。

「お触り禁止だ。西宮」

 西宮は和泉の言葉を無視し、ソラの肩を左右に揺らしはじめる。

「こうすると、酔いが回りやすくなるんだよ」

「まだ、呑んでませんから。ていうか、未成年です」

 ソラは自分のジョッキを指して答える。そのとき、和泉の向こう側でわっと歓声が上がった。

「久住ホノカ。新米魔女です。よろしくお願いしまーす」

 ホノカの上機嫌な嬌声。彼女の顔は真っ赤に染まり、片手には杖が握られていた。

「えいっ」

 ホノカが杖を振ると、先端からシャボン玉が吹き出した。それを見ていた先輩たちが手を叩いて喜んでいる。西宮はそれを横目で見てソラに向き直った。

「お前は、やらんの?」

 ソラはぶんぶんと首を横に振った。和泉が西宮を制するように手を伸ばした。

「彼は見習いなんだ。優しくしてやってくれ」

 まだ十分も経っていないのに……。ソラははじめて味わう大学生の空気にすっかり縮こまってしまっていた。


「だから、J.K.ローリングは魔女なんだよ。じゃなきゃあんなにリアルな物語書けないって。美輪明宏も魔法使いかな。でも、Mr.マリックは偽物だ」

 和泉の『誰が魔法使いか』という話題に、うんうんと頷くのは西宮と山吹、そしてホノカ。ソラはばっと手を挙げる。

「新興宗教の教祖様とか怪しくないですか」

「それは魔法使いじゃなくても怪しい。でもイイ線いってるね」

 脳に染みるアルコールがソラの思考をめちゃくちゃにしていた。気分が良く、身体の底から楽しい気持ちが膨れ上がってくる。大学生って思っていたより楽しいとソラは回らない頭で考えていた。

「部長。部長がこの魔術倶楽部をつくったんですか?」

「違う。先代がいる。私は三代目だ」

「いつまで三代目なの? 私、結局部長になれずに卒業しそうなんだけど」

「先に卒業しちまうぜ、先輩」

「はっはっは。時代はモラトリアムだよ」

 ぐるぐると変わる話題。次々と入れ替わる人。夜は波間に揺蕩う舟のようにゆっくりと流れていく。ふらふらと不安定に揺れるソラを見、会話の隙を縫って和泉がそっと声をかけた。

「大丈夫? ちょっと外に出て風に当たろうか」


 アルコールで火照った身体から夜風が熱を運んでいく。ソラはぶるりと身体を震わせた。

「すいません。着いてきてもらって」

「問題ない。後輩を介抱するのも部長の役目だ」

「ありがとうございます」

 薄雲のかかる夜空には疎らに星が輝いていた。いつか杖の素材を探しに行ったときに見た満天の星空には遠く及ばないが、それでも綺麗だとソラは思った。ふたりはガードレールに腰掛け、ヘッドライトを流して走る車を目で追っていた。やがてゆっくりと和泉が口を開いた。

「君も杖職人を目指してるんだね」

「はい」

「私の杖を作ってくれた職人さんが、一昨年の暮れに店を畳んでしまってね。メンテナンスや、買い替えを依頼できる新しいお店を探してるんだ」

「……祖父を紹介しましょうか?」

 和泉がこちらを見た。その目は星明かりを反射して穏やかな光を湛えていた。

「それもいいが……。私は縁を大切にするんだ。だから、もしそのときが来たら君にお願いしようと思う」

「……僕に頼むチャンスを狙っていましたね? 高いですよ?」

 和泉が苦笑した。ソラも一緒に笑った。

「それくらいジョークが飛ばせるのならもう心配いらないな」

 それからふたりは他愛のない会話を交わした。学生生活、単位、就職、魔法、将来について酔いが回っていたことも助けとなってソラは聞きたいことを次々に質問し、和泉はそれを面倒くさがる素振りも見せず、ひとつひとつ丁寧に答えていった。それはソラが大きなくしゃみをするまで続いた。

「さて、酔いはもう覚めたかな。みんなの所へ戻ろうか」


 店に戻ると、小さな台風でも過ぎ去ったかのように店内は人も物も雑然と散らかっていた。和泉はぱんぱんと両手を叩くと大きな声を出した。

「そろそろお開きにしよう。久住さんも望月くんも呑みすぎだ」

「おれたちが呑ませたんじゃねぇか」

 西宮がジョッキをどんと置いて笑った。和泉がさらに呼びかけると、部屋のあちこちで喋っていた魔術倶楽部のメンバーがぞろぞろとこちらに集まってきた。それぞれとはこの場で少しずつ話はしたものの、まだまだ顔と名前が一致しない。しかし誰もが魔法使いの未来を大なり小なり憂いていることは話している中で伝わってきていた。

「きょうは集まってくれてありがとう。……僕らはいま大っぴらに魔法を使うことができない。魔力を持っていることを公にすることさえ憚られる。その理由は知っての通り、魔法を用いたテロにより魔法への恐怖が増大しているからだ。このままだと中世の魔女狩りが再びはじまってしまう恐れすらあると私は思っている。未来を憂うことは簡単だ。でも、行動に移すことは難しい。我々は、正しい魔法の在り方をこれからも模索し続けるチームとして活動していきたい」

 和泉の部長然とした力強い言葉に、店の中はしんと静まり返っていた。ソラも心の中で拍手を送る。

「で、次の活動なんだが……」

 ごくりと唾を飲む音。ソラの隣で西宮がやれやれといった様子で首を振った。

「フットサルだ。詳細はアリスから連絡が行くと思う。それでは、解散!」

 ソラとホノカを除いて、どっと笑い声が巻き起こる。いまいち魔術倶楽部の実体を掴めないソラに、和泉が近づいてきて言った。

「魔力を持っていようがいまいが、我々は普通の学生なんだ。酒も呑むし、フットサルもするし、夏にはバーベキューだってする。こそこそ生きる必要も、魔法使いであることを隠す必要もない。悩みがあるなら相談したらいい。同じ魔力を持つもの同士のコミュニティとして気軽に参加してくれればいいと思っている。きょうは来てくれてありがとう」

「こちらこそありがとうございました」

 ソラは深々と頭を下げ、お礼を言った。このサークルが存在する理由にようやく合点がいく。魔法使いは生来的に孤独なのだ。彼らは誰にも打ち明けられない悩みを抱え、周囲との壁に阻まれ生きてきた。それを解消できる場がここにあるなら、本当の意味で心を明かすことができるのだろう。

 ホノカも頭を下げる。ふらついた身体をソラが支えた。

「吐きそう……」

 ホノカが先ほどまでとはうってかわって青い顔をして訴える。

「やばいじゃん、水くださーい」

 山吹が走って、カウンターに水の入ったグラスを取りに行く。少しずつ帰路に着くメンバーたち。こうしてソラとホノカは正式な魔術倶楽部のメンバーとなった。



3.

 枕元でけたたましい着信音が鳴り響いた。

「うう……」

 瞼が接着剤で固められたかのように重い。規則正しい電子音がまるで質量を持っているかのようにソラの脳を直接叩いている。手探りで音源のスマートフォンを見つけ、耳にあてた。

「はい……」

 自分から発せられたとは思えない嗄れた声。喉はからからで、痛いほどだった。

「あ、ソラくん。ごめん、こんな朝早くに」

 電話の向こうにいるのは女性だった。ソラに負けないくらいの辛そうな声を出している。

「朝早いの……?」

「え、八時半」

「うん……誰?」

 船酔いのような頭で昨晩の出来事を思い出そうとするが、飲み会の後の記憶がふっつりと途切れている。

「久住だよ」

「ああ。おはよう」

 ソラは必死で記憶を辿るが、全く思い出せそうになかった。ここでようやく両眼をこじ開け、自分が自室の布団の上にいることを知る。服は昨日のままだったので、ソラは自室に帰るなりそのまま寝てしまったらしい。シャツがべたっと肌に張り付いていた。どうやら寝ている間に相当な汗をかいていたようだった。

「あのさ……」

 もごもごと言い淀むホノカ。ソラは電話越しに首を傾げた。

「どうしたの?」

「あの……私の杖、知らない?」

「え?」

 ホノカの杖。確か宴会の席で上機嫌にシャボン玉を飛ばしていたところまでは目撃している。

 潜水艦が浮上するように意識が鮮明になっていく。同時にホノカがとんでもない失態を犯していることを理解する。

「杖、失くしたの?」

「……うん」

 泣きそうなホノカの声。魔法使いが杖を失くすというのは、下手をすれば罪に問われる恐れすらある重罪だ。彼女もそれを理解しているらしく、深刻な声音で続ける。

「あの居酒屋を出るときには持っていたと思うの。で、誰かに電車に乗せてもらって、そこで少しうとうとしちゃって、それで……朝起きたら無くなってた」

「うーん……それは」

 ソラも言葉に詰まった。酒の席での失敗は噂には聞いたことがあるが、実際に遭遇すると居心地の悪い現実感を持って襲いかかってくるようだ。

「魔術倶楽部の人たちには聞いてみた? お店は?」

「山吹さんには連絡した。まだ返事ないけど……。それでさ、望月くん。もしきょう時間あるなら一緒に探してくれない?」

 ソラは天井を見上げた。そういえば昨夜は祖父と会ったのだろうか。それすらも思い出せない自分に恐怖を覚える。お酒との付き合い方はもう少し気をつけなければならないと心に誓った。

「わかった。行くよ。その前にシャワーだけ浴びさせて」

 ソラは胸元のシャツを引っ張りながら答えた。


 待ち合わせ場所に指定された大学の正門の前で、ホノカは伏し目がちな顔で肩を落として佇んでいた。

「ごめん、待った?」

 ソラが駆け寄ると、ホノカの顔がぱっと明るくなった。しかし、すぐに神妙な表情に戻る。

「休みの日にわざわざごめんなさい」

「いいよ。僕ら調子に乗って飲みすぎちゃったもんね」

「もうお酒は飲みません……」

 ホノカが消え入りそうな声で言う。彼女を励まそうとソラはなるべく明るい声を意識した。

「とりあえず、昨日のお店に行ってみようか」

 ホノカがこくりと頷いた。彼女もシャワーを浴びたばかりなのか、しっとりとした黒髪が重そうに揺れていた。


「ホノカって寮に住んでるんだっけ」

「うん。学生寮。ここからだと山手線で五駅くらいかな」

「実家は遠いの?」

「すごく遠い。群馬なんだけどほとんど新潟くらいのところ」

「帰るのも大変そうだね」

「まあね。でも、進学で無理やり飛び出してきたからしばらく帰らないかも」

「そうなんだ……」

 途切れがちの会話をぽつぽつと繰り返しながら、ふたりは昨夜の店を訪ねた。半地下の扉には『CLOSE』の看板がぶら下がっていたが、ノックをすると中から返事がした。

「アリスちゃんから連絡あったよ」

 気さくな雰囲気の店主は休日だというのにふたりを快く迎え入れてくれた。

「これ、一応昨日のゴミ袋。まあ、間違えて捨てちゃうなんてことはないと思うけどね」

「ありがとうございます」

 聞くと店主は和泉の同級生で、卒業して間もなくここに店を構えたらしい。学生時代は魔術倶楽部に所属しており、彼も例に漏れず魔法使いであるそうだ。

テーブルの下や椅子の下にはそれらしきものは落ちていない。壁に備えつけられているソファの座面を引っくり返し、トイレも探したがやはり見つからない。ホノカが悲痛な面持ちでゴミ袋に手を突っ込む。半透明の袋の中には残飯や食材を包装していたビニールのようなものがたくさん詰め込まれていた。

「どうしよう……」

「ここに無かったら寮までの道のりを辿ってみよう」

 ホノカが無言で頷く。目を腫らし、いまにも涙が溢れてきそうだった。

 魔法使いにとって杖とは、魔法を使役するためだけの道具ではない。魔力の放出を調節したり、安定させる役割がある。ホノカが杖を手にした経緯を聞いているだけに、彼女の不安な気持ちは想像以上のものなのだろう。

「……ありがとうございました」

 杖は見つからず、ふたりは店を出た。五月晴れの空には似つかわしくない重苦しい空気が漂う。ソラは足元に目を配りながらホノカの帰路を辿る。高架をくぐり、駅の改札を通り抜ける。駅員にも忘れ物がないか尋ね、電車に乗り込んだ。

「あの杖はね、魔法使いのお医者さんにもらったの」

 緑色のシートに座り、電車に揺られながらホノカはぽつりと呟いた。

「SNSで知り合った変な人だったんだけど、私を一目みて魔力の病気だって教えてくれて」

 ホノカが実家に住んでいた頃の思い出を語る。SNSで知り合うなんて見かけによらず危ないことをするんだな、とソラは思った。

 幼少の頃から身の回りで不可解な現象が起きていたこと。両親からそれを誰にも言ってはいけないと約束させられていたこと。

「私は、たぶんソラくんが思っているよりずっと小さな町に住んでいたの。村って言ってもいいかもしれない。閉鎖的で、悪い噂はすぐ広まっちゃう。小学校四年生のときにパソコンの授業があって、それで検索してはじめて自分が魔女なんじゃないかって思った」

 幼いホノカはそれを両親ではなく、仲のいい同級生に話してしまったらしい。そして小学生は秘密など守れるはずもなく、それはあっという間に村中に知れ渡ることとなった。ホノカの両親は激昂し、彼女を隣町の小学校に転校させてしまった。

「ああ、私の居場所ってないんだなって。勉強してごはん食べて寝るだけ。このまま死んでいくんだと思った」

 ホノカは無意識に左手の手首を擦っていた。ソラはそれを黙って見ていた。

「そこで、あのお医者さんに会ったの。杖を贈ってくれて、母に魔法をかけてくれて、私が魔女だってことはじめて認めてくれた。私は杖がないと魔力がどんどん出ていっちゃうんだって。……もし魔法が使えなくなったら昔の引きこもりだった私に戻っちゃう」

 ホノカの声は震えていた。潤んだ瞳でソラに笑いかける。

「なんでこんな話しちゃうんだろうね。重くてごめんね。でも、ちょっと似てるんだよソラくん。雰囲気とか、話し方があのお医者さんに」

「……そのお医者さんとは連絡とってないの? また杖作ってもらうとか」

 ホノカは力無く首を振った。

「ううん。アカウントもいつの間にか消えてるし、名前もわからない」

「そっか」

 ソラはごつんと後頭部をガラスにぶつけた。電車に合わせて揺れる中吊りの、原色を多用した週刊紙の広告が目に入る。

「……杖は姫沙羅だったっけ。長さと中の鉱石はわかる?」

「……長さはこれくらい? 中の石はわかんない。実家に帰ったらわかるかも」

 ホノカが胸の前で両手を広げた。彼女が示す杖の長さをソラは目に焼きつけた。

「そっか。……もし、このまま見つからなかったら、僕が杖を作るよ」

 ホノカがぱっと顔を上げた。一瞬、頬が紅潮するほど明るい表情を浮かべたが、それはすぐに萎んで見えなくなった。ソラもホノカのほうに向き直る。

「それは悪いよ。……私、全然お金ないし」

「もちろん、ホノカの杖も探し続ける。見つかるまでの間、貸してあげるってことでどう?」

「うーん」

 ホノカは眉を寄せ困った表情を浮かべた。ちょうど電車がホームに到着し、ドアが開く。いつもだったらこの駅でソラは自宅方面への電車に乗り換えるのだが、きょうは杖探しのために学生寮までついていくつもりだった。しかし、思い直して立ち上がった。

「僕、降りるね。杖作っておくから。もし家の洗濯物の中とかに紛れてたら連絡ちょうだい」

「えっ。……うん。わかった」

 ホノカの表情に安堵の色が差す。閉まりかけたドアの向こうでホノカの口が『ありがとう』と動いた。ソラは手を振ってホノカを見送った。


 アケビ以来の杖が作れそうな、確信に満ちた思いがソラの全身を巡っていた。杖の設計が頭の中で展開されていく。素材、行程、完成イメージがひとつに繋がってはっきりと像を結んだ。いまなら、作れる。

 逸る気持ちを抑え、ソラは自宅への道を急いだ。

 姫沙羅は確か乾燥棚にあった。鉱石は魔力を制御しやすい比重が重めのガーネット。中古だけど傷の少ない綺麗なものが残っていたはず。軋む蝶番を乱暴に開け放し、ソラは転がるように森の中を抜けていった。自室のドアを開け、荷物を放り込むと、祖父のいる仕事場へ引き返す。

 肩で息をするソラを見て祖父は少し驚いたようだったが、黙ってソラの作業するスペースを空けてくれた。

「姫沙羅、ガーネット、28cm」

 ソラは呟いた。祖父は返事をしなかったが、否定もしないので選定は間違っていないようだとソラは判断した。

 ソラはまず鉱石を取りに向かった。杖に使われる鉱石は中古でも構わない。前の持ち主の魔力を完全に除去する必要はあるが、いちど杖に使用されているので、研磨のみで転用できるし、なにより魔力との馴染みやすさは新品よりも優れている。

 保管庫の壁一面には大きな棚が備えつけられている。そこには杖に使用できるあらゆる鉱石が整理され仕舞われていた。職人とはそういうものなのかもしれないが、祖父は無骨に見えて実際は几帳面でとてもきっちりとしている。半世紀に渡り付き合いのある顧客がいるのだから生半可な腕ではないとは思っていたが、こういうところで自分との差があるのかもしれないとソラは思った。ソラは両手に手袋を嵌め、鉛筆で殴り書きされたような古いラベルを目を凝らして読み取っていく。やがて、背伸びして届くくらいの引き出しを開け、丸く加工されたガーネットを取り出した。

 小指の先ほどの真紅の宝石。保管庫にぶら下がる裸電球の淡い光を紅く反射している。それなりの期間放置されていたようで表面は少し濁っているが、磨けば十分に輝きを取り戻せそうだとソラは思った。

 そのまま姫沙羅の木が保管されている乾燥棚へ向かう。こちらも鉱石と同様にラベルで分けられているので、すぐに見つけることができた。鉱石の大きさが決まると、杖の太さもある程度限られてくる。それに加えてホノカは魔力を放出する力が強いので、通常の杖より細めの、魔力を絞る方向のイメージをソラは思い浮かべていた。

 今回は四日間も杖を磨いている猶予はない。今日中には研磨の手前までの工程を終え、明日は終日やすりで磨く作業に費やしたい。ホノカの不安定な様子を目の当たりにしたソラは、一刻も早く彼女に杖を渡してあげたいと思っていた。

 姫沙羅の角材に鉛筆でアタリを付けていく。細身の杖の場合は通常より折れやすいため注意する。魔力が通れば耐久性も向上するのだが、それまでは丁重に扱う必要があった。

 鋸で慎重に大まかな形を作っていく。隣に視線を向けると、祖父はヤナギの木端をヤスリで磨いていた。

 祖父のひたむきに木を磨く姿を見て、ふと疑問が浮かんだ。祖父の元に注文が来る量に対して、祖父が作る杖のほうが明らかに多いのだ。新しい杖を作る場合、材料さえ揃っていれば、どんなに丁寧な工程を踏んでも一週間ほどで完成させることができる。おそらくソラの知らないルートでの注文があるのだろうが、公に魔法使いであると知られたくない政治家や上流階級でも相手にしているのだろうか。

「なに見てんだ。手が止まってるぞ」

 祖父に注意され、ソラは慌てて自分がこれから杖にしていく木端を手に取った。


 その日の夕飯は久々に出前を取った。ソラは杖の原型を切り出し、予定より早く研磨の工程に進んでいた。木目を消さないように、あるいは木に逆らわないように、少しずつ少しずつヤスリを当てていく。辺りはすっかり暗くなっていたが、祖父が電球を灯したことにもソラは気がつかなかった。

 祖父も、なるべくソラの邪魔をしたくなかったのかじっくりと隣で杖を磨いていたが、いよいよ空腹に耐えきれなくなり、目を細めて杖の歪みを確かめているソラに話しかけた。

「おい。出前でいいから何か頼んでくれないか」

「……」

「おい」

「えっ、あ、うん」

 ソラはそこに祖父がいることに驚いたような表情で、ぶんぶんと首を縦に振った。ポケットからスマートフォンを取り出すと、またびっくりした顔で呟く。

「もう九時じゃん。ごめん」

「いや、いい。夢中になるのは大切なことだ。それにいまは電話したらすぐ来てくれるんだろ?」

「いまはもう電話もしないよ」

 ソラは慣れた手つきで液晶をタップしていく。祖父は黙ってその様子を見ていた。

「トンカツ弁当でいい?」

 祖父が頷く。ソラはさらに何回か液晶に触れるとスマートフォンをしまった。

「魔法みたいだな」

「本当にそう思うよ」

 しっとりとした風が夜の匂いを運んでくる。口数の少ない祖父と素直になれない孫は、トンカツ弁当を待ちながらまた杖を磨きはじめた。


「香川は琴平山の樹齢五十年の姫沙羅。石は南砺市で取れた柘榴石。石のほうは前の持ち主がいたけれど、その分安定感に優れてる。28cmで少し短め」

 ソラは大学の食堂のテーブルの上に、杖をそっと置いた。

「ざくろ石?」

「……ガーネットのこと。日本語にしてみた」

 ホノカの問いにソラが恥ずかしそうに頭を掻いた。

「え? 格好つけたの?」

 横からヤジを飛ばしてきたのはカイトだった。月曜日の講義終わりにホノカと会うことにしたソラは、彼女がカイトを連れてきたことにひどく驚いていた。カイトも学生寮に住んでいるらしく、ホノカとは寮の歓迎会で知り合ったらしい。入寮して間もない頃、新入生だけで開催した二次会で酔っ払ったホノカは、そこでも魔法を披露したため、寮に住む新入生にはホノカが魔女であることが公然の秘密となっていた。

「ちょっと静かにして」

 ソラはカイトを睨んだ。カイトはおどけたように視線を逸らした。

「前の杖が見つかるまでだけど、使ってみて」

「うん。ありがとう」

 杖を手にしたホノカは安心したように微笑み、頷いた。先週の絶望にうちひしがれた彼女とは別人のように眼をきらきらと輝かせている。急拵えではあるが、作ってよかったとソラは思った。

「ねえ、ホノカはどんな魔法痕なの? この前は突然だったから見逃しちゃって」

 カイトがスマートフォンのレンズをホノカに向けた。ホノカが眉を寄せてソラを見た。

「魔法痕ってほいほい人に見せていいものなの?」

「うーん……その杖がちゃんと使えるかも確認したいし、日常であまり魔法を使わないなら、いいんじゃないかな」

 ソラもカメラを起動する。魔法痕は本当に万人によってばらばらで見ていて飽きない。また、本人の趣味嗜好とは別の部分で魔法痕の紋様は決定されるらしく、そのメカニズムはまだ解明されていない。

「よし、じゃあいくよ」

 ホノカがテーブルの端に畳まれていた布巾に向けて杖を振った。布巾はふわりと浮いてテーブルの端に着地すると、そこから表面を滑るようにテーブルの上を拭きはじめた。

「おお」

 ソラはその自律する布巾に目を奪われていたが、液晶の向こうでは梅の花のような鮮やかなピンク色の渦巻き模様が浮かんでいた。

「蚊取り線香みたい」

 カイトの冗談にホノカがむっと口を尖らせた。カイトを無視するように背を向ける。

「そういえば、魔法痕ってどのくらいで消えるの?」

 布巾がテーブルを拭き終え、元の位置に戻っていくのを横目に見ながらソラはホノカの疑問に答える。

「昔、知り合いの魔女に聞いたことがあるんだけど、いまの布巾を動かすみたいな魔力をあまり使わないものだったら一時間もしないで消えるんだって。でも、魔力で創り出されたものはそれが存在し続ける限り、魔法痕は残り続けるらしい」

「そうなんだ。じゃあ……」

 ホノカが杖を振ると、なにもない空間から小さなガラス玉のようなものが現れた。かつん、と音を立てて落ちたそれはテーブルの上をころころと転がっていく。ソラは目の前を横切る玉をつまみ上げた。

「こういうのはずっと残るんだ」

 ソラは頷いた。掌の上のガラス玉は蛍光灯の光を反射してきらきらと輝いていた。


「一昨日から作りはじめて、昨日は一日杖を磨いて、今朝最終の調整をしたかな」

「そんなにすぐ作れるものなんだ」

「いや、本当は持ち手の部分とかに装飾を入れたり、もっと光るくらいに磨いたりするんだけど、今回はお急ぎだったからね」

 三人はホノカの杖のお披露目のあと、電車で学生寮へと向かっていた。ふたりに誘われ、ソラは迷うことなく招待されることにした。実家から通うソラにとって学生寮は未知の領域で、ホノカの杖探しのときにも結局行けずじまいだったので内心密かにわくわくしていた。

「カイトはどこの出身なの」

「石川。だからホノカともなんだかウマが合うっていうか」

「石川と群馬じゃ全然違う」

 ホノカがくすくすと笑った。杖を持っているという事実は、ホノカの心に穏やかな安心感をもたらしているらしい。カイトと冗談を言い合うその様子にソラも安心して笑みがこぼれた。

 車内アナウンスが駅への到着を告げ、電車はゆっくりと減速していく。先頭車両がホームの端に差し掛かったとき、ソラは不意に感じた魔力の気配にぱっと顔を上げた。車窓の向こうに流れる景色に目を凝らす。スマートフォンに眼を落としホームに並ぶ人々。電車を指さしはしゃぐ子ども。ホームの向こうには電車の乗客に向けられた広告看板が乱立し、さらに向こうには雑多なビル群がひしめきあっている。気のせいと言われればそれまでの小さな気配。しかしいつも感じるものとは違う妙な感覚に、ソラはホノカのほうを見つめた。

 ホノカもソラの落ち着かない様子を察したのか、不思議そうな顔でこちらを覗きこんでいた。

「どうしたの?」

「……あのさ、ホノカいま魔法使おうとした?」

 ホノカは首を横に振った。ドアが開き、乗客がぞろぞろと降車する。ソラはホノカの手を取った。

「ホノカの杖があるかもしれない」

 ホノカは驚いてソラを見返した。ソラは頷いた。

 乗り込んでくる乗客の間を抜け、ふたりは電車を降りた。

「え、なに、どうしたの急に」

 カイトもふたりの後を追い、慌ててホームに降りた。

「ごめん。この埋め合わせはこんどするから」

 ホノカが両手を合わせカイトに謝る。ソラは気配を見失わないようにホームの人混みの間を駆け出していた。


 魔力の気配は駅から遠ざかるように少しずつ動いていた。小さくなったり大きくなったりしている。ノイズに紛れいまは判然としないが、電車の中で感じたそれは確かにホノカが放つ魔力の気配と同じものだった。

 ソラに追いついたホノカが、肩で息をしながらソラに尋ねる。

「どうしてわかるの?」

「昔から、他の人より敏感に魔法を使う気配がわかるんだ。で、さっき感じたのはホノカが魔法を使うときと同じ気配だった。もしかしたらホノカの杖に残っていた魔力を感じ取ったのかもしれない」

 ソラは駅構内を注意深く観察しながら、気配の元へと迫っていた。ごった返す人波の間をどうにか目的の方向へと進んでいく。向こうも徒歩で移動しているらしく、距離は少しずつしか縮まっていない。

「カイトには申し訳ないことをしたな。こんど何か奢ってあげないと」

 駅前の大きな横断歩道を渡り、繁華街へと向かう。日は沈みかけ、広告看板のネオンが空を照らしはじめていた。これからこの街は賑わいを増していく。ソラの頭の中ではあらゆる想像が駆け巡っていた。

 ホノカが杖を失くしただけなら不幸中の幸いだ。酔っ払って店か、電車の中に置き忘れていたのだろうと思っていた。翌朝になったら鞄の底に入っていたとか、ベッドの下に落ちていたとか、彼女自身の過失であってほしいと願っていた。

 その可能性は、考えないようにしていた。……盗られたのではないと。

「ホノカ、いちおう杖出しておいて」

「わかった」

 ホノカは肩掛けの鞄から杖を取り出し、左手でぎゅっと握りしめた。

 魔術倶楽部の部室でホノカが杖を披露したあのとき、和泉の眼はそれに釘付けだった。でも、それは純粋に杖を見ていただけで他意はないはずだ。ソラは唇を噛んだ。まだ、彼に盗まれたと決まった訳じゃない。あの日、ホノカは魔術倶楽部とは全然関係のない場所で失くして、それを全然関係のない人が拾ったパターンもあるじゃないか。

 ソラは半分駆け足になっていた。

『杖を拾いませんでしたか』『ああ、いま警察に届けようと思っていたところでーー』

 それならいい。それで全て終わる話だ。

「あれ?」

 ソラは飲食店の並ぶ繁華街の中心で急に立ち止まった。すぐ後ろを着いてきていたホノカがソラの背中にぶつかった。

「消えた……」

「消えた? 見失ったの?」

「うん」

 先刻まではっきりと感じていた魔法の気配が、煙のように消えてしまった。両眼を閉じてみるが暗闇の中に光るものはない。

「なんでだろう。ごめん」

 どん、と男がふたりにぶつかった。舌打ちをして通り過ぎていく。ざわざわとした喧騒の中で、何故か急にアケビの顔が思い浮かんだ。

「あ」

 ホノカが道の向こうの飲食店を見て声をあげた。手前の植木鉢を手で示し、立ち尽くすソラの服を引っ張った。

「ねえ、あれ、杖じゃない?」

 ホノカが雑踏を掻き分けるように歩いていく。ソラはホノカの後ろから鉢に刺さっている棒切れのようなものに眼を凝らした。

 ネオンの光を反射して、姫沙羅の独特の赤みを帯びた風合いが不思議な色に染まっていた。確かにホノカの杖のように見える。でもなんでこんなところに……。

 ホノカが杖を取ろうと手を伸ばしたとき、ソラは背後にこれまで感じた中で最も大きな魔法の”圧”を感じた。

 ソラは叫んでいた。自分でもなにを口走ったのかわからない。ホノカの腕を掴み、力任せに引っ張る。ソラは振り返らずとも理解していた。ホノカの杖を盗んだ奴は、いまこの瞬間、明確にホノカに攻撃をしようとしている。

 ホノカを引っ張った反動でソラは頭から植木鉢に突っ込むようにバランスを崩した。通行人が怪訝な表情を浮かべ行き過ぎる。その向こう、道路の向かい側のビルの非常階段からひとりの男がこちらを見下ろしているのが見えた。その手には杖が握られ、杖の矛先ははっきりとこちらに向けられていた。

 ホノカはソラに背を向けるように地面に座り込んでいた。その手にはソラが作った杖は握られておらず、ソラの足元に転がっていた。ホノカの杖は植木鉢に刺さったままだった。間に合わない。咄嗟にソラは目の前に落ちていた杖を拾い上げ、中空に掲げた。

 雷のような轟音がしたかと思うと、白い閃光がソラの視界を覆った。ばちばちという音とともに徐々に視界が晴れていく。ソラとホノカは球状の半透明な膜に覆われていた。

「大丈夫?」

 ソラは轟音に掻き消されないように大声でホノカに尋ねた。ホノカは泣きそうな顔で頷いた。

「なにが起きたの?」

「ホノカの杖を盗んだ奴が、攻撃してきた」

 悲鳴、黒煙、膜の向こうで人が入り乱れている。いつかテレビで見た光景がソラの脳裏に鮮やかに蘇った。杖の先端がぶるぶると震えて止まらない。杖からみしみしと音がする。埋め込んだはずのガーネットが姫沙羅の繊維の間から露出していた。

「望月くん」

 どれくらい経っただろうか、膜の向こうから聞いたことのある声がした。

「あ、山吹さん」

 ホノカが言った。山吹が諭すようにソラに話しかける。

「望月くん、落ち着いて。もう大丈夫だから。バリアを解いて」

「……!!」

 ソラは蛇口を締めるイメージで杖をくるりと捻った。半透明の膜は杖の先端に吸い込まれるようにして消えていった。

「山吹さん……」

 全身の震えが止まらない。疲労というレベルを越えた痛みのようなものがソラの全身を襲っていた。そしてはっきりと感じる飢えに近い空腹。

「もう大丈夫。あっちは和泉くんが対応しているから。……それにしても望月くん魔法使えるんだね」

「……」

 ソラはなにが起きたのかわからず、放心状態で山吹の話を聞いていた。だらりと垂れ下がった自分の手元を見ると、作ったばかりのホノカの杖が持ち手のすぐ上から真っ二つに折れていた。



4.

 現場から帰ってきた片桐は自分のデスクで大きく伸びをした。

 魔法局のフロアは暗く、同僚は既に帰宅の途についていた。点けっぱなしのテレビからきょうのニュースが流れてくる。

『本日七時半ごろ池袋駅西口の繁華街で発生した爆発事故は、杖未所持の魔法使いによる魔力の暴発によるものと判明しました。幸い死傷者はおらず、日本魔法使い連盟立ち会いの下、現場では修繕作業が進められています』

「死傷者はゼロ、か……」

 不幸中の幸いという言葉が頭を過る。眼鏡を外し、指で目頭を強く押した。じんわりと疲労が拡散されていく気がする。片桐はふうと息を吐いた。


 数時間前、片桐が通報を受け現場に駆けつけると、繁華街は騒然とした空気に包まれていた。喧騒の中心に迷うことなく足を踏み入れる。野次馬と格闘している警察官に魔法局所属であることを告げ、黄色いテープを潜った。

 最初に目に入ったのは、折れた杖を握りしめ項垂れる望月ソラの姿だった。近くの飲食店を貸し切り、店内には関係者が集まっていた。彼の大学の友人だと思われる三人の男女。そして縄で縛り上げられ横たわる男がひとり。先に現場に到着していた部下の樫木が報告を読み上げる。

「こちら右から和泉トオルさん、山吹アリスさん、久住ホノカさん、望月ソラさんです。望月、久住の両名が不審な魔力の漏出を感知し、駅から漏出元を辿っていったところ、魔法による襲撃を受けました。和泉、山吹はーー」

「樫木さん。そこからは私が説明します」

 和泉が足元に転がっている男を指さした。

「彼、西宮ヨシトが久住ホノカさんの杖を盗んだことが今回の事件の発端です」

「盗んだ?」

「はい。先日、我々が所属するサークルで望月さん、久住さんの歓迎会を催したのですが、その際、久住さんが杖を失くすという出来事がありました。彼女からの連絡を受け私も独自に探っていたのですが、どうやら西宮が盗んだ可能性が高く、密かに私と山吹のふたりで彼を追いかけていました」

 和泉が淀みない口調で事情を説明していく。後を追っていた西宮が突然ホノカの杖を置き、その場を離れたこと。直後にソラとホノカが現れその杖を拾おうとしたこと。西宮がふたりに向けて魔法を放ったこと。

「ふたりに気づかれたと思った西宮は、久住さんの杖を囮に彼らを消そうと画策したのでしょう。望月くんは魔法を使えないし、久住さんは杖を所持していない。遠くから魔法を放てばバレないと思った」

 和泉は拳をぎゅっと握っていた。冷静な口調とは裏腹に表情には嫌悪と憤怒の色が見える。

「こんな奴だと知っていたら、私は……」

 片桐は横たわる西宮の前にしゃがみこんだ。縄は魔法で作られたもののようで、頭の先から爪先までぐるぐると締め上げられている。目を閉じ苦しそうに呼吸する彼の頭部にひとつと背中のあたりにひとつ、魔法痕が浮かんでいた。どちらも円の中に正方形が幾つも重なっている紋様が刻まれている。魔法使いが魔法使いを襲撃するという事態は前例が幾つかあるものの、どれも事後が深刻を極め、これから来る嵐のような後処理を思うと片桐はため息を吐きそうになる。

「……この魔法痕は誰のだ? 彼を縛り上げたのも君か?」

「はい。彼が杖を振り上げたのを見て、咄嗟に魔法を使いました。動きを止めようと思ったのですが」

「そうか。頭部に命中しているのは厄介だな。記憶が混濁していなければいいが、後で君の杖も検めさせてくれ」

「私の杖も、西宮との接触で折れてしまったのですが……わかりました」

その手には言葉通りぐにゃりとひしゃげた杖が握られている。

「西宮も自分の杖を所持しているようだが、今回杖を盗んだ理由に心当たりはあるのか?」

「それはわかりません。ただ……」

 先ほどまで流暢に話していた和泉が言葉に詰まった。もう少し詳しい話を聞く必要があるな、と片桐は心に留めた。片桐は立ち上がり、続いてソラのほうに向き直った。

「久しぶりだね」

「……」

 ソラはゆっくりと顔を上げた。その顔に表情はなく、まだ呆然としているようにも見える。

「その杖は、君のか」

 ソラは力無く首を横に振った。折れた杖の先端がぶらぶらと揺れた。

「ホノカ……久住さんのです。僕が作りました」

「君が作ったのか。登録は?」

「きょうはじめて使ったんです。試運転をしてから登録する予定でした。……でもその必要はもうないですね」

 自虐的な笑みを浮かべ、ソラは呟いた。片桐は同情するように声をかける。

「魔法を使ったのは君だね。君は魔法使いではないはずだが」

「僕もそう思っていました。だけど、杖を向けたら魔法が……」

 ソラが片桐を見上げた。その両眼には不信感がありありと浮かんでいた。

「君のお祖父さんにも話を聞く必要がありそうだね」

「……」

 片桐は頭を掻いた。本当であれば今すぐこの場から逃げ出したいくらいの感情がせり上がってきていた。杖の盗難、公衆の面前での暴力的な魔法犯罪、意図的ではないとは言え未登録の魔法使いによる魔法の行使、しかもそれら全てが学生によるものである上に、まだなにか隠されている部分がある気がしてならない。メディアへの対応や彼らになるべく損害を与えない後処理を考えるだけで頭が痛くなりそうだった。

「お取り込み中、失礼するよ」

 店の入り口から場違いな呑気にも聞こえる穏やかな声がした。声の主を見て片桐は驚きのあまり目を大きく見開いた。

「貴方は……」

 そこには日本魔法使い連盟の会長、都筑魔佐人が立っていた。


「これはこれは、JWFのトップが何故こんなところに」

 動揺を最小限に抑え、片桐は都筑の正面に立ち塞がった。

「強力な魔法を感知してね。なんとなく察しがつくが、これは”杖の未所持による魔力の暴発”だね」

 都筑は魔術倶楽部の面々をひとりずつ確認しながら言った。

「違います。これは魔法犯罪の」

「いいや、魔力の暴走だよ」

 都筑の有無を言わさぬ断定に、片桐は言葉を詰まらせた。都筑の片桐を睨む眼の奥に、覗きこんではいけない圧がある。

「法人格とはいえ、民間団体だ。部外者は帰ってくれ。本件は魔法局の預かりで進める」

 都筑は顎に手を添え、なにかを思い出すように天井を見上げた。目尻の皺がその狡猾な振る舞いを表すように深く刻まれている。

「……魔法局の、いまのトップは宇津見くんだったかな」

「それが、どうかしましたか」

 喉元に牙が突き立てられている。この後の展開を片桐は知っている。これだから公僕は嫌なんだ。

「もう話は済んでいる。方針の転換だ。つまり、君の出る幕ではないということだよ」

 頭ひとつ小さい老人の決着を促す台詞に、片桐は悔しさを顔に滲ませながら半身を翻し道を譲った。

「我々は立場は違えど魔法使いを守るべく組織された集団だろう。流石に目撃者も多くガス爆発では片付けられんし……これ以上、魔法犯罪者を増やすことも魔法への恐怖心を民衆に植えつけることもしたくないのだ。彼らはまだ若い。彼らを守るべき我々が裁いてどうするというんだ」

「しかし……」

 片桐は食い下がった。

「片桐くん。そこの寝ている彼を保護観察に回してくれ。メディアの矢面には私が立とう。ここは協力関係を築こうではないか」

 都筑が右手を差し出した。片桐は迷った挙げ句、固く握った拳を解き、休戦の握手を交わした。

「さて、学生諸君。いまのやり取りは聞いていたと思うが……あれ」

 都筑は店内をぐるりと見回し、首を傾げた。

「ひとり足りなくない?」


 衝撃はまだじんじんと腕の中で響いていた。はじめて向けられた悪意のある魔法。その閃光は唸りを上げ、ホノカを、あるいはソラを殺そうと真っ直ぐに空気を切り裂いてきた。ソラは杖を握った瞬間、自分の中のなにかが膨れ上がるのを確かに感じた。これが、魔法を使うということ。潮が満ちるように感動がソラの心をじわじわと埋めていく。しかしその感動はある一定の水位で止まってしまう。何故ならそこはもう既に別の感情で埋め尽くされていて、それは魔法を使うことができた感動を以てしても覆せないものだった。

 怒り。明確な殺意を持って向けられた魔法。和泉が言っていた通り、西宮はソラとホノカは魔法が使えず抵抗できないことを見越していたに違いない。杖の盗難に加え、魔法を武器として使用した罪は赦されるべきではない。

 疑問。奴の攻撃を防御したあの膜は、間違いなくソラが放ったものだった。魔力がない、と幼少の頃に告げられたソラは魔法使いではなかったはずだ。何故、魔法が使えるのか。

 失望。真っ二つに折れた杖は自分の未熟な腕前を示している。他人の杖を使用した場合、耐久性が落ちるとは知っていたが、あれで折れるようでは半端な仕事だったと断罪されても仕方がない。急ぎの案件だったとはいえ、過信と怠慢が一本の杖を殺してしまった。本気で作ったと、思っていた。


 門扉は変わらずぎしぎしと音を立てて開いた。薄暗い森の中を抜ける。仕事場に灯りは点いていなかった。こんな時に祖父はどこへ行ったのか。いてもたってもいられなくなり、ソラは森の中へ向かって駆け出した。叫び出したくなるほど静かな夜だった。ぐしゃぐしゃと土を踏むソラの足音だけが森の中でこだました。拳大ほどの石に足先が引っ掛かり、ソラはつんのめるように立ち止まった。そのままの勢いで石を蹴り上げる。暗闇の中、その石はごろごろと転がっていった。

「なんなんだよ……」

 これまで後天的に魔力が発現した事例はないと和泉が言っていた。それはソラも自分で調べたことがあるので知っていた。魔法使いになれないと告げられた幼いソラはなんとかして抜け道を探していたのだ。しかし、探せば探すほどそれが不可能であることを知った。

 それが、魔法使いに襲われて、自分で作った杖を折られて、急に魔法が使えますだって?

 運命も悪戯が過ぎる。ソラの怒りと疑問の矛先はいまや祖父に向けられていた。森の向こうに小さな光が灯ったのを見て、ソラは一直線に駆け出していた。枝葉が腕を引っ掻いたが、ソラはそれを気にも留めなかった。

「……どうして、隠してた」

 切り株に座る祖父が薄暗い電球の下でソラを見上げた。一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに無愛想な顔に戻った。長い沈黙。祖父の表情からはなにも読み取ることができず、全てを打ち明けようとしているのか、まだ誤魔化そうとしているのかわからない。痺れを切らしたようにソラは言葉を続ける。

「魔法が、使えた。あれだけ『魔法使いにはなれない』って言われてたのに。……もっと早く知ってたら」

 ソラはそこで言葉を切った。ひゅう、と空気が喉の奥を通り抜けた。

「……知ってたら、杖職人なんて目指さなかったよ」

 祖父は悲しそうに目を伏せた。

「そうか」

 はあ、と大きなため息を吐き祖父が立ち上がった。

「いつかこの日が来るとは思っていた。ちょっと待ってろ」

 祖父が懐から小さな鍵を取り出した。作業机の一番下の引き出しの鍵穴にそれを差し込む。中から取り出したのは、一冊の古いノートだった。

「ここに全部書いてある。いや、封じられていると言ったほうが正しいか」

 ソラは薄汚れたノートの表紙に書いてある英単語を読み、首を傾げた。

「日記? いったい誰の?」

「お前の父親のだ」

「お父さんの……」

 顔も知らない父親の日記。両親はソラがまだ記憶も定かでない頃に交通事故で亡くなったと聞いていた。そんな重要なものを今まで隠し持っていた事実にソラはさらにふつふつと怒りが沸いてくるのを感じた。

「表紙を捲って中の紙に触れてみろ。おそらく父親の記憶を覗くことができる。ここにはお前の知りたいことも、知りたくないことも全て載っている。おれから説明するより見たほうが早い」

「魔法?」

 祖父が頷いた。ソラはごくりと唾を飲み込んだ。

 知りたいこと、知りたくないこと、それがなにを指しているのかぼんやりとわかる。その日記は魔力を帯びていた。だから当然、魔法痕も残っている。その魔法痕はソラも見たことがあるものだった。ソラはそっと手を伸ばした。指の先がノートの表紙に触れる。

グレーの厚紙の表紙に変わった点は見当たらない。おそるおそる表紙を捲ると罫線の引かれた一ページ目が現れた。真っ白でなにも書かれていない。

祖父のほうを訝しげに見つめてから、ソラは指先で罫線をなぞった。

 瞬間移動とは違う身体が引っ張られていく感覚。景色が歪み、目の前に立つ祖父の身体がぐにゃりと曲がった。自分の肉体と精神が切り離され、ぐるぐると誰かの意識の中に溶け落ちていく。



 そこはソラがまだ生まれたばかりの世界。

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