第一部 後 『早咲きの向日葵』

4.

 アケビが目を覚ましたということを知ったのは、ソラが退院したその日の夕方に祖父と杖作りの計画を立てている時だった。

 念のため病院に報せておいたソラの携帯に電話がかかってきた。予後も問題なくお見舞いに来てもいいということだったので、ソラはとんぼ返りで病院に向かった。

 いつから家にあったかわからないぼろぼろの自転車を漕いで病院へ向かう。昼過ぎに帰宅した際にはタクシーを使ったが、病院は自転車でも行けるほどの距離にあった。

 ソラは外傷こそかすり傷だったものの、ほぼ丸一日寝ていたと家に帰ってから祖父に教えられた。きょうは連休前の最後の登校日だったのだが休んでしまっていたので、昨日の朝に学校を飛び出したあと自分の扱いがどうなっているのかはわからなかった。

 ただ、病院で目を覚ましたときの倦怠感はどこかに吹き飛んでしまっていた。身体は羽が生えたように軽く、ペダルを踏み込む足は力強い。自転車は病院に向けてどんどん加速していた。アケビが目を覚ましたという連絡が想像以上にソラの中でエネルギーに変換されている。

 病院は川の向こうにあるので、橋を渡らなければならない。アケビの魔力が暴発した例の橋は、病院での会話を聞いた限りではほぼ修復されているとのことだったが、どうなっているんだろうか。ぼろぼろの自転車は漕ぐ度にぎいぎいと不快な音で呻いた。

 川沿いの道に出ると、そこはいつもと変わらないのどかな風景が広がっていた。遠くに見える橋も盛んに自動車が往来しているのがわかる。手前から見た限りではどこにも異常は無さそうだった。土手の上を走り近づいてみても爆発があったとは思えない。自転車を止め、昨日は吹き飛んでいたはずの橋の欄干に触れてみるが頼もしいほどの頑丈さが掌を通して伝わってきた。どう修復するのかと考えていたが、吹き飛んだ部分と無事だった部分との継ぎ目も見当たらず、これは修復というより再現だと思った。あの出来事は夢だったんじゃないかと思えるほどなにも変わっていない。橋の下を覗きこんでみたがめくれ上がった土もなく、敷き詰められた石の間から雑草が窮屈そうに背伸びしていた。

 改めて橋を渡り、そのまま十分くらい漕いでいると、住宅街の手前の曲がり角に立つ病院の外観が見えてきた。煉瓦を模した外壁が一見歴史を感じさせるが、実際はそこまで古い建物ではないらしい。手前の駐車場を抜け、入り口脇の駐輪場に自転車を止めるとソラは院内へと入った。

 受付で事情を説明し、午前中まで自分も入院していた病室へと向かう。ノックをすると、中からごそごそと音がした。手をかけようとした瞬間、がらがらと引戸が開かれた。奥で上半身を起こしたアケビがひらひらと左手を振っていた。

「よお」

「あ……」

 とりあえず元気そうなアケビの様子にソラは駆け寄りたい気持ちを抑え、病室にそっと足を踏み入れた。

「こんにちは。望月ソラくん」

 突然、横から声がした。声のしたほうを見ると、引戸の脇にすらりと背の高い男が立っていた。彼が戸を開けてくれたらしい。ダークグレーのスーツに濃紺のネクタイ、髪をぴっしりと七三に別け、メタルフレームの眼鏡を掛けている。絵に描いたようなサラリーマンみたいだとソラは思った。

「……こんにちは」

 低音だが通りのいい男の声には聞き覚えがある。おそらくソラがまだ病室のベッドに横たわっている間に祖父と話していた相手だ。

「片桐と申します」

 片桐は背広の内ポケットから名刺を差し出した。ソラはそれをぎこちない動作で受けとる。名刺には小さい字で『厚生労働省 魔法局 魔法規制課 広域児童担当 片桐悠介』と書いてあった。

「せっかくお見舞いに来ていただいたのに申し訳ない。戸村さんと今後について話をしていたんだ。君も無関係とは言えないし、悪いけどこのまま同席してくれるかな」

 高校生の自分に対しても丁寧な言葉遣いだったが、有無を言わさぬような眼鏡の奥の鋭い目つきと肩書に威圧され、ソラは頷くしかなかった。


「今回の事故は魔力の暴発です。数年、あるいはもっと長い期間に蓄積された魔力が、激しい感情の昂りがきっかけとなって放出されてしまったことによります。激しい感情の昂りというのは、男にブレスレットを取り上げられたから、ということでいいね?」

「はい。あれは母親が残してくれたもので、私と母の唯一の繋がりを示すものでした」

 アケビが手首の辺りを擦った。そこにあるはずのものがないという喪失感がアケビの声を通して伝わってくる。男が彼女のブレスレットを奪い掲げていたシーンが思い出される。そういえば、アケビのブレスレットを奪った男はどうなったんだろう。

「君は自身が魔力を持っていることを知らなかったというが、本当かい? これまでに自分の周りで不思議なことや説明できない事象が発生したことは?」

「……本当に知りませんでした。不思議なことって言われても、特に思いつくことはありません」

「その火傷の痕は? 今回の事故ではなくもっと古い傷のようだけど。以前にも魔力を暴発させたことがあったのでは?」

 片桐がアケビの病衣の隙間に見える火傷痕を指差して言った。まるで取り調べだ。片桐は丸椅子に座りメモ帳を片手にアケビを尋問している。

「これは……」

 アケビが言い淀んでいるのを見て、ソラは我慢ができずに口を挟んだ。

「あの、片桐さん。聞かれたくないこともあるじゃないですか」

 片桐が眼鏡越しに値踏みするような目つきでこちらを見た。余計な口を挟むなというメッセージがはっきりと伝わる冷ややかな視線。

「……本来、魔力を持つ人間は杖を持っていなければいけない。いいかい、杖の保持は”権利”ではなく”義務”だ。今回はたまたま被害者や目撃者がいなかったからいいものの、これが都会のど真ん中だったらどうなっていたと思う? 私たちがこれまで取り組み、維持してきた魔法の地位がまた地に墜ちてしまう」

「アケビは自分が魔女だって知らなかったんだから仕方がないと思います」

 思わず口を衝いて出たソラの反論に片桐はやれやれと呆れたように首を振った。

「いいや、違う。これは魔力の有無とは別の問題だ。感情の昂りで魔力が暴走してしまうのなら、そこに銃があったら発砲するし、ナイフがあればそれを振り回すだけだ」

「でも……」

 なおも言い返そうとするソラをアケビが手で制した。

「いいよ。ソラ。このおっさんの言う通りだ。私が未熟だった」

 片桐が片方の眉を上げ、頷いた。

「おっさんではない。が、現状を受け入れることは次に進むために避けては通れない。では、ここからはどうやって魔力を暴走させないかという話になる」

 片桐は自身の杖を取り出すと顔の前にすっと立てた。光沢のある焦げ茶に、弛みのない詰まった木目。長さは少し短めで、見た目通りとても固そうである。ソラは目の前で天井を突くように立てられた杖をじっと見つめた。

 胡桃か麻栗樹か……胡桃だったらもう少し色は薄いかな。着色加工をしていることもあると聞いたことはあるけれど、この人はそういうことをしなさそう……。

「杖は、魔力に指向性を持たせる重要なものだ」

 片桐が杖を振る。ベッドの脇のデスクに置いてあった病院のパンフレットが風に吹かれたように宙に浮いた。ソラはスマートフォンを取りだし、カメラを起動した。レンズを通して魔法痕を見ようとする。

「戸村さんは、見えてるね」

「はい。……円に十字」

 レンズの向こうにはこれまで見た魔法痕の中でも最もシンプルな紋様が浮かんで見えた。

「”十字架(クロス)”だ」

 片桐が言う。格好つけてるような響きにソラは内心吹き出しそうになった。

「魔法とは結果でしかない。我々が管理しなければならないのは過程のほうで、重要なのは魔力の生成量と”器”のサイズだ」

 宙に浮いていたパンフレットがビリビリと音を立て、20cm四方の正方形になった。

「どちらも生まれ持ったもので基本的には生涯変わることはない。厄介なのはそこにあまり連関がないという事実だ。器が大きければ大概の問題は解決されるが、器が小さい、あるいは魔力の生成量に見合っていない場合は能動的に魔力を放出する必要がある。そこで杖を使うんだ」

 先ほどまで正方形だった紙はいつの間にか折り鶴になっていた。片桐がもう一度杖を振ると、折り鶴はくしゃくしゃと小さく丸められ、最後には音も立てずに空中で消えてしまった。

「君はこれから一生魔法と付き合っていかなければならない。自身の魔力を知り、杖を持ち、魔女になる。決して楽しいおとぎ話ではない。穿った見方をすれば我々魔法使いは重火器を背負って街を歩いているようなものだ。特に若い君は衆目に晒されることも、謂れのない中傷を浴びることもある。日本政府は大々的に喧伝こそしていないが、魔法を危険なものとして捉えている節がある。経済成長に伴って整備されてきた魔法管理法、そして継ぎ足された杖の所持規制、魔力検査、投薬治療、これらは全て魔法犯罪撲滅の大義名分の傘の下で行われている。今回のような杖未所持による暴発事故には蓋をして」

 片桐の表情が曇った。彼は肩書の上では行政側の人間だが、魔法使いとして思うところもあるのだろう。

「片桐さんはどうして魔法使いなんですか」

 アケビが訊いた。確かに三十代半ばにも見える片桐は当然、魔法管理法が制定されたあとに産まれたはずである。片桐は少し迷った素振りを見せ、やがて口を開いた。

「政府の四つの政策のうち投薬治療だけは義務ではなく、要請なんだ。なんせ産まれたての赤子に薬を投与するんだから、副作用を懸念した多くの医師や保護者が反発し、紆余曲折を経て、最終的に推奨はするが強制はできないという形になった。私はそこの狭間でたまたま魔力を持って産まれてしまっただけだ」

 政府の魔法に対する歪な姿勢。必要以上に怖れ、上辺だけの対策を重ねていった結果が悲劇に繋がっていく。アケビのように自身が魔力を有していることに気がつかない人間はもっといるのかもしれない。

「でも、そしたら投薬なんてせずに、魔力を持って産まれた子には杖を持たせて魔力をコントロールさせれば良かったんじゃないですか。そのほうが安全に……」

 あ、とソラは手で口を覆った。自分で言葉にしていて話の終着点に気がついた。片桐が複雑な表情を浮かべ、悔しそうに頷いた。

「投薬への抵抗が想定以上だったため、政府も杖の量産に方針を転換しようとした。杖の所持規制を施行しておきながらだから、こちらも相当の反発を招いた。結局、完全に舵を切れたのは2000年代に入ってからじゃなかったかな。ただ、当時の杖もオーダーメイドで生産が追いつかない上に高価だったため、そのときいち早く杖の廉価生産に着手していた業者に委託したんだ。……そうしてろくに検証もせずに最初に生産された杖が魔法痕”白”だったんだ。日本政府、そして日本魔法使い連盟の最低最悪の失敗。粗悪品による魔法犯罪の増加。政府は尻拭いをすべく、いよいよ本腰を入れて魔法の撲滅に取りかかった」

 片桐は肩を落とした。ソラは話の途中から祖父のことを思い浮かべていた。杖量産の反対派の急先鋒は祖父だったのかもしれないと思う。一方で片桐ははっきりと自身の所属する組織への嫌悪感を露にしていた。

「これは高校生の君たちにも解るはっきりとした矛盾だ。日本は軍事力を持たない。核を使わない。この国はそんなことばかりだ。投薬治療が推奨になってしまった時点で魔力根絶は破綻しているんだ。それなのに政府はそれを頑として認めず、魔法使いへの圧政はますます強まるばかり。それもこれも既得権益の……おっと、言い過ぎてしまった。いまのは忘れてくれ」

 熱くなっていた自分を誤魔化すように片桐は眼鏡を掛け直す素振りを見せた。第一印象は高圧的で最悪だったが、そこまで悪い人ではないかもしれないとソラは思いはじめていた。

「長々と話してしまったが、つまり戸村さんには杖が必要だ。魔法局としては信頼できる杖職人、つまり君のお祖父さんに依頼をしたのだが」

 片桐がソラのほうを向いた。アケビがなにかを察したのか目を大きくしてこちらを見ていた。

「お祖父さんは、君に任せたと言っている。あの人が言うなら間違いないとは思うが……」

 ソラはアケビを見返し、ゆっくりと頷いた。

「マジかよ」

 アケビが不安とも期待とも取れる表情で呟いた。彼女の数奇な運命の一端をソラは握っていることを自覚した。

「話は以上だ。杖が完成次第、登録の手続きが必要になるからその時は連絡をくれ。言い忘れていたが、戸村さんに暴力を振るった男は無事だ。魔法が絡む案件なので通常の流れではないがきちんと罰を受けさせる。そこは安心してほしい」

 最後にソラの目を見て片桐は言った。

「頼んだぞ、若い杖職人」

 片桐が自分の頭上に円を描くように杖を回した。するとパシッという音と共に片桐の姿は煙のように消えてしまった。

「掴めないおっさんだったな」

 先刻まで片桐がいた場所を見つめながらアケビが呟く。ソラはアケビが横たわるベッドの端に腰かけた。

「そんなに悪い人じゃなさそう」

 ソラが笑うと、アケビもつられて笑った。

「ソラ、窓開けてくれ」

 ソラは立ち上がり、窓を開けた。夕暮れの風が病室の淀んだ空気を撹拌していく。きゅっと真一文字に結ばれたアケビの口元が不意に緩んだ。

「この火傷さ、私の一回目の暴走の痕なんだ」

 晴天の霹靂のようなアケビの突然の告白。ソラは驚いて口を開きかけたが、黙ってアケビの次の言葉を待った。

「前に私が孤児だって話したろ? 私が七歳になった誕生日に、親父がお袋を刺したんだ。不倫がどうとか慰謝料がどうとか言ってたな。それで目の前で血を流すお袋を見て、守らなきゃって強く思ったんだ。頭が真っ白になったよ」

「……それは僕が聞いてもいい話なの? アケビは、わりとなんでも話してくれると思ってたけど、思い出したくない過去だってあるでしょう」

 片桐にも隠していたアケビの壮絶な過去。ソラもやっとの思いで言葉を絞り出す。アケビの寂しそうな横顔はいまにも消えてしまいそうなほど儚く見えた。彼女は弱々しく首を振った。

「いいんだ。ソラには聞いてほしい。だって私の杖を作るんだからな。クライアントの経歴ぐらい把握しといたほうがいい」

「それは、そうだけど……」

 夕焼けチャイムの音が遠くで聞こえた。寂しさは一層その色を強くする。

「それでさ、目が覚めたら病院で、隣でお袋が寝てた。親父は小指の先だけ残して吹っ飛んじまった」

 アケビが自分の小指を立てながら言う。

「私も死にかけ、お袋も死にかけ。お袋はそのあと一週間くらいで亡くなったんだが、最期にちょっとだけ意識が戻ってな。ブレスレットをくれたんだ」

 アケビがもう一度手首を擦った。ソラはあくまでも気丈に振る舞おうとする彼女を見て唾を飲み込んだ。目を瞬かせ、深呼吸をする。そうしないと涙が溢れて止まらなくなりそうだった。

「でもまあ結局、不倫は事実だったみたいだし、お袋が悪いんだろ。親父も私の魔力を使ってなにやら稼ごうとしていたみたいだし、ちゃんと魔力をゼロにしとくべきだったんだ。そしたら誰も傷つけることなんてなかったのに」

 アケビがからからと笑った。病室に響く乾いた笑い声はこれまでで一番悲しそうに聞こえた。

「引き取られた孤児院では魔力があることを秘密にするように言われた。あの時は意味が分からなかったけど、魔力があるといろいろと厄介なんだな」

ソラは頷いた。病室のベッドの上で盗み聞いた戸村児童保護センターの話。施設ぐるみで魔法使いは隠蔽されていた。

「……そうだ。それでひとつ思い出したんだけどさ」

 アケビがソラのほうを見て言う。陰になっていたアケビの顔がふっと綻んだ。

「私の魔力が暴発したのは、あいつにブレスレットを取られたからじゃないんだ」

「……?」

 ソラは首を傾げた。アケビは片桐にそう説明していたはずだ。

「あれは、お前が殴られそうだったから」

 予想外の告白に、ソラは洟をすすって笑った。

「なんだそれ」

 アケビが照れたように頬を掻いた。

「ありがとう」

 ソラは頭を下げた。アケビが手を伸ばしたあの瞬間を思い出す。今度は自分がアケビを守る番だと心に誓った。

 「そういえば、どうして私があそこにいるって分かったんだ?」

 「それは」

 どうしてだろう。目を閉じたらアケビのいる方向がわかったなんて話が通じるのだろうか。

 「必死に探したから?」

 語尾があがった疑問形のソラの言葉にアケビがぷっと吹き出した。


 ノックの音がした。

 ふたりは病室の入り口のほうに顔を向けた。こんこん、と控えめな音。僕が出る、とソラは立ち上がった。

 引き戸を開けると暗い廊下を風が通り抜けた。病室の中からは見えない位置に、隠れるように立っていたのはクラスメイトのミホだった。

「誰?」

 背後からアケビの声がする。彼女からはやはりミホの姿が見えないらしい。ソラはアケビには答えないまま、にわかには信じられない気持ちで立ち尽くしていた。

 あの日、アケビの魔力の暴発の直後に川原に寝転んだソラが最後に見たのは太陽の下で逆光になったミホの不安げな顔だった。

『ごめんなさい』

 ソラが意識を失う間際に彼女の口から零れ出た第一声は謝罪だった。それが示す意味は、凶悪で救いようのないものだったはずだ。

 どの面下げて、ここに来た。罵声が喉元までせり上がってくる。お前のせいでどれだけアケビが傷ついたか。

「ごめんなさい!」

 ミホが身体を折り曲げるようにして再び謝罪の言葉を口にした。ソラは拳をぎゅっと握った。

「谷川か」

 背後から聞こえてきたそれは穏やかで、いつもと変わらないアケビの声。ソラは振り返った。

「アケビ」

 ソラは彼女の名前を呼んだ。後に続く言葉は喉元の寸前で止まった。アケビはミホを許すのか。

「そんな怖い顔すんなよ」

 アケビは笑った。ソラは怒りの矛先を抑えられたようで、迷ったように彼女とミホを交互に見た。

「あの男は、誰だ」

「……昔、付き合ってた元彼」

 ソラの質問にミホはぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で答えた。アケビは自分の爪の先を見ながら、興味が無さそうにふたりのやり取りを聞いている。

「どうして、あんなことを」

 思わず、言葉に力がこもった。半分怒鳴るような口調でソラは詰め寄る。ミホがびくっと肩を震わせた。

「おい、ソラ。もういいだろ。許してやれよ」

「でも……」

 食い下がるソラの険しい表情にアケビはふっと力を抜いて笑った。

「感情の昂りを抑えないと、だろ」

 アケビはそのままソラの肩越しにミホを見つめ、言う。

「谷川。ここまで謝りにきたのは立派だよ。だから許す。昨日のことも、これまでのことも。……でも、今後はもう私に関わらないでくれ」

 短くシンプルな、しかし強烈な拒絶のメッセージ。アケビはそれだけ言うと、すっかり暗くなった窓の向こうを向いてしまった。

「本当に、ごめんなさい」

 ミホはもう一度深く頭を下げた。ソラの中でやり場のなかった怒りがみるみる萎んでいく。当の本人が許すと言っている以上、これ以上怒りをぶちまける立場にはないのだが、それでも悶々とした思いは消えそうにない。ソラは握った拳を解き、頭を垂れるミホに話しかけた。

「ミホ、ちょっと手伝ってほしいことがある」



 日が沈んだあとの橋の下は真っ暗でなにも見えなかった。スマートフォンのライトを頼りに足元に目を凝らす。ソラは病院からの帰り道、例の橋の下でアケビのブレスレットを探していた。

 ソラはここにブレスレットがあるという確信に近い思いを抱いていた。橋は修復ではなく傷のひとつに至るまで再現されていた。ということは河原もどこかから石を運んできたのではなく、魔法によって元の状態に復元されていると考えて間違いない。なので、ブレスレットという本来河原にない異物はわかりやすく落ちているのではないかと思った。

 土手の上からがしゃがしゃと音を立てながらミホが降りてきた。懐中電灯をふたつ手に提げている。

「これ、家から持ってきた」

「ありがとう」

 ソラは懐中電灯を受けとると、スマートフォンをポケットにしまった。ミホとふたりで橋の下を探した。大きめの石はひっくり返し、ライトで照らす。シルバーのブレスレットだったので光を反射するはずだが、時々きらりと光るものは割れた瓶の欠片や用途のわからない金属の破片などだった。

 ミホは黙々と石を持ち上げてはその下を覗きこんでいた。アケビからの絶交を告げられこれ以上関わる必要もないのに、彼女はそれが罪滅ぼしであるかのようにブレスレットを探している。ソラはそんな様子の彼女を見てもやはり許す気にはなれず、少し離れた場所で地面を照らした。

 時々、橋の上を走り抜ける車のエンジン音がふたりの沈黙の間に響いた。

「ねえ、どうしてあんなことをしたの」

 先に気まずい沈黙を破ったのはソラのほうだった。ミホのほうに顔を向けないのは、許してはいないというせめてもの意思表示のつもりだった。

「……最初は普通に喋ってたの。戸村さんって人付き合いの壁はすごく高いけど、それを越えてしまえば話せる子でしょ?」

「うん」

「一年生の頃はもう少し周りに友達もいて結構うまくやれていたんだけど、夏のプールの授業の時からかな。少しずつ戸村さんとの距離が離れていった」

 ソラの通う学校では毎年夏にプールの授業がある。男女で別れているのでソラはそこで起きた出来事についてはなにも知らなかった。

「彼女は……身体の火傷を理由に一度も授業に参加しなかったの。それ自体はいいんだけど、クラスの中にね、日に弱いだの生理だのってなんとか理由をつけて休もうとする女の子がいて、『私も戸村さんみたいに休みたい』って……それで」

 そこからのミホの話はとてもつまらなく、単調だった。身体的特徴を揶揄したわかりやすいいじめの構図。一度転がりだした集団はターゲットをぐちゃぐちゃにするまで止まらない。

「私も加担しないと次にいじめられるかもしれないって思ったら怖くて、それで、この前のノートの件の後に元彼に相談したら……」

「楽しかった?」

 ソラはミホの話を途中で遮り、橋の下の暗がりで彼女を睨んだ。ミホは怯えた表情で首を横にぶんぶんと振った。

「もう暗くなってきたし、帰ろう」

 ブレスレットは見つからなかった。ソラは最後に祖父やアケビを探したときのように目を閉じてみたが、さらに暗闇が広がっただけでなにも見つけることはできなかった。


 自宅に帰ると、祖父は薄い滑らかな布で綺麗な紫陽花色の石を磨いていた。

「いい石は見つかったか?」

 ソラは首を振り、収穫が無かったことを告げた。切り株の根本にあった石ころを拾い上げる。数時間前に祖父も適当な石ころを拾い上げ言っていた。

『魔力を持った石は人を惹きつける。宝石じゃなくてもいい。使い捨てくらいに脆くはなるが、これでもいいんだ。石は栓の役目を果たす。ラムネの瓶に入っているビー玉とおんなじだ。お前がこれだと思ったものを使え』

 石は杖の持ち手の部分に嵌め、余計な魔力の漏出を防ぐ役割を果たす。常に魔力に晒されるため、それに耐えうる頑丈さと、魔法を使う際の魔力の流れを邪魔しない滑らかさが必要になる。

「すぐそこの河原で見つかるようなものじゃないよね……また日を改めてちゃんと探しに行くよ」

「おう……そうだ、ネコマタから連絡来てたぞ。明日、夕方に阿知須駅に迎えに行くって。それ読んどけ」

 祖父は切り株の上に放り投げてあった便箋を指差した。突然の話に戸惑ったが、そういえば木材の調達の手筈は調えると言っていたっけ。

「あじす?」

「ああ、日本一の杖材の店だ。金は出すから色々勉強してこい」

 聞いたことのない駅名だと思いながら、ソラは便箋を広げた。浅葱色の紙に、つい先刻書きつけたばかりのような墨の匂いがふわっと鼻をくすぐる。毛筆の几帳面な文字が並んでいた。

『望月ソラさま

この度はネコマタ商店をご用命いただき誠にありがとうございます。つきましては四月二十九日、逢魔ヶ刻に阿知須駅にお迎えに上がりますので、駅の待合室にてお待ち下さい。

猫又ミサオ、タマキ』

 シンプルな文面で、待ち合わせ以外には何の情報も得られなかった。不穏な表情を浮かべるソラを見て、祖父はソラの頭をがしっと掴んで口角を上げた。

「そんなビビることねぇよ。可愛い夫婦だ。きっと良くしてくれる」

「いや、その、阿知須ってどこ?」

「山口県の海のほうだ」

 ソラはびっくりして便箋と祖父を交互に見た。

「山口? あの中国地方の?」

「それ以外になにがある」

「……飛行機じゃん」

 ソラはその場でスマートフォンを起動し、ルートを調べた。

「折角のゴールデンウィークだ。一人旅も悪くないだろ」

「……それはそうかもしれない」

 祖父が家を離れようとしないので、自然とソラも遠出の機会はほとんどなかった。杖作りのためとはいえ、降って湧いた小旅行にソラは緊張と期待の色を隠せなかった。

「じゃあ、あした行ってくる」

 そうと決まれば、準備をしないと。ソラは頭の中でリュックサックに詰め込む荷物を思い浮かべた。



5.

 ジャングルを彷彿とさせる鬱蒼とした木々の間を一匹の黒猫が歩いていた。蔓を巻いた巨木の脇を闊歩するにはあまりにも華奢で場違いではあったが、しなやかな肢体はそんな違和感を払拭するほどの気品を漂わせ、ぴんと伸びた尻尾はまるで黒檀のような光沢を湛えていた。

 黒猫は暫く優雅に歩を進めていたが、やがてついと前脚を伸ばし一本の木の根本にその前肢を乗せた。

「ここか?」

 黒猫の後ろをついてきていた男、猫又ミサオが背負っていた斧に触れながら訊いた。帽子を目深に被り、伸び放題の無精髭は黒猫と対照的にお世辞にも清潔とはいえない。黒猫はふいと首を曲げ、頷くような仕草を見せた。

「間違いないわ」

 艶のある声。それはミサオの頭の中で響いた。黒猫が翡翠色の大きな瞳で彼を見上げていた。

「ちょっとだけもらうよ」

 ミサオは地面を這うように伸びる根に垂直に斧を立てた。こおん、という音が空気を震わせる。

「……そういえば、そろそろ来るんじゃないか」

「そうね、出発の準備をしなくちゃ」

「その格好で行くのか?」

 ミサオは斧を肩に乗せ、黒猫を見下ろす。

「あら、人間の姿よりずっと動きやすいわ。塀の上も走れるし」

「……気をつけてな。タマキ」

 黒猫はそこでくるりと一回転して見せると、にゃあと鳴いて姿を消した。


 ゴールデンウィーク初日の東京駅は大勢の人でごった返していた。ある程度覚悟はしていたが、ソラは自分に関係のない人間が溢れている光景に圧倒されてしまった。人混みを掻き分け、駅の売店で祖父に指示されたお土産のサバ缶を買い、ソラはなんとか十七番線のホームへ向かった。飛行機での移動を計画していたが、予約で一杯だったため空の旅は早々に諦め新幹線へと切り替えた。しかし新幹線の指定席も当然のように埋まっていて、自由席も家族連れで賑わっていたので、車両の連結部分でリュックサックを尻に敷いて座り、居心地の悪い旅路をスタートさせた。新山口駅まで四時間半。まだ乗車したばかりだというのに、ソラの気分はまるで地を這うカタツムリのようだった。

 ソラは退屈しのぎに持ってきた『魔法図鑑 -第八刷-』を開いた。パラパラとページを捲り、瞬間移動の項目を目で読み上げる。病院で魔法局の片桐が使っていたのを思い出す。座標を指定しそこへ飛ぶという、構造自体はとてもシンプルな魔法だ。まずは石ころや木片のような小さなものを部屋の端から端へ飛ばす練習。だんだんと質量と距離を上げていき、ものから生物へ、最後に哺乳類を任意の場所に飛ばせるようになったらいよいよ自分を飛ばす。この魔法は第二級制限魔法に指定されており、使用には魔法局の認可が必要になる。例えば結界のような相反魔法のない場所には行き放題なので、悪用すればどんな場所にでも侵入できてしまう。ちなみに瞬間移動の場合は、移動する前の地点と到着した地点の両方に魔法痕が残るらしい。

 それにしてもこんなに便利な魔法があるというのに、どうして軌道の上しか走ることのできない箱に押し込められているんだろう。ソラは車窓から外の景色を眺めた。遠くに富士山が見える。魔法を使えば簡単にあそこまで、と思ったが、これ以上考えていても虚しいだけなのでソラは再び魔法図鑑に目を落とした。

 昔は一日これを読んでいるだけでわくわくした。幼少の頃からひとりで過ごすことが多かったソラは、祖父の仕事を手伝っていたこともあり、同じ年齢の子どもと比べて魔法への憧れが強かった。街を歩けばあちこちで魔法が披露され、皆が必ず杖を持ち歩いているものだと思っていた。実際は、魔法を使用できるものは極端に限られており、その限られた人数はさらに減少の一途を辿っている。もう幾度となく考えていることだが、ソラは自分の将来が明るくないことにまた不安になりため息を吐いた。

 名古屋駅までもう少しというところで、ソラは肌を刺すぴりっとした刺激にぱっと顔を上げた。先頭車両のほうから流れてくる気配。誰かが魔法を使ったようだ。

 アケビの魔力の暴発に巻き込まれて以来、魔法の気配に敏感になったような気がする。片桐が魔法を使った時も、使用の直前に彼の魔力が膨れ上がるのを感じていた。誰がどんな魔法を使ったのか興味はあったが、ぎゅうぎゅう詰めの車両を移動してまで確認しに行く気にはなれない。少し仮眠を取ろうとソラはゆっくり目を閉じた。


 新山口駅についたのは午後三時を少し回ったところだった。東京より日が長く、午後の陽射しがまだ強く照りつけていた。手紙には”逢魔ヶ刻”とあったのでもう少し時間に余裕がある。ソラは駅のホームで大きく伸びをした。身体中の関節がばきばきと鳴った。

 新山口から宇部線に乗り五駅。乗客はソラ以外にふたりしかいない三両編成の短い電車に揺られ、自宅を出てから六時間かけてやっと阿知須駅に到着した。

 当然のように無人で、とうてい改札とは呼べない出入り口の真ん中にICカードを読み取るポールが立っている。その脇には切符を入れる木箱がぶら下がっていた。ソラは人の道徳に全幅の信頼を置いた原始的な駅の佇まいに感動しつつ、切符をそっと木箱の中に入れた。

 出入り口を抜けると待合所とロータリーが目に入った。見える限りの建物は全てシャッターが降りていて、長い間開けられた形跡がない。当然、コンビニやドラッグストアは影も形も見当たらない。自分が住んでいるところも田舎だとは思っていたが、ものを買うのに困らないという時点で違うのかもしれないと心の中で反省した。

 空気が美味しい、気がする。土と水の匂いが混ざった風。高い建物もなく、遠くに見えるドームのような建物を除けば視界の半分以上は空と山だった。雲ひとつない空で、太陽は新山口駅で見上げたときより橙色を帯びていた。逢魔ヶ刻はもうすぐだ。

 ふと不安が過り、スマートフォンでホテルを検索した。どう考えても今日中に用事を済ませ帰路に着くことはできない。宿くらい簡単に見つかると思っていたが、自分の考えが如何に甘かったかと思い知らされる。地図上に一ヶ所だけ表示された最も近いホテルでも車で三十分はかかるようだった。

 また、瞬間移動の魔法が頭に浮かんだ。ぶんぶんと頭を振り、その悲しい想像を頭から追い出すとソラは待合所のベンチに腰掛け項垂れた。

 最悪、ここで寝るか……。

 ベンチの座面を撫でると、樫の固い感触が掌を通して伝わってくる。樫を杖にする場合は融通の利かない真面目な人に向いているんだっけ……。

 それにしてもまるで昭和の時代にタイムスリップしてしまったかのようだ。ぶうんと低い声で唸る青い羽根の扇風機が天井に近いところで空気を撹拌している。掲示板には既に終わった町内会の催しの告知の横に、秋芳洞の観光ポスターが並んでいた。しかしどちらも色褪せ、今にも剥がれ落ちそうだった。ソラは待合所の窓から周囲を見回した。車はおろか人ひとり見当たらない。そもそもどうやって迎えに来るんだろうとソラは首を傾げた。

 時間潰しに魔法図鑑を再び開いた。擦りきれるほど読んだつもりだが、まだときどき新しい発見をすることがある。ページの端のほうはこちらも色褪せていて、印字された図柄が消えかかっている部分もあった。

 ソラが図鑑を読み耽っていると、足元からみゃあと声がした。

「うわっ」

 ソラは思わず飛び退いた。いつの間にか待合所に入ってきたのか、黒猫が一匹、ソラのことをじっと見つめていた。耳の先から尻尾の先まで整えられた美しい毛並みはビロードのように艶がある。ソラに警戒心を抱くことなく近づいてきたところを見ると、どこかから逃げてきた飼い猫なのではないかと思った。しかし、首輪はしていない。そっと手を出し背中を撫でると黒猫はごろごろと喉を鳴らした。

 ついに生き物に出会ったと妙な喜びに浸っていると、黒猫はソラの脇をするりと抜け、ベンチに置いてあったリュックサックを前足でつつきはじめた。

「あ、サバ缶が入っているからかな」

 ソラは黒猫を刺激しないようにリュックサックをそっと持ち上げると、自分の肩に掛け直した。

「ごめん、これはお土産なんだ」

 ソラが黒猫に謝った瞬間、また魔法の気配がソラを襲った。今回はそれほど離れていない、どころかすぐ目の前……。

 ソラは待合所を飛び出し、ロータリーをぐるりと見回した。夕焼け空は東のほうが藍色に染まりはじめ、じりじりと音を立てながら電灯に光が灯った。そのままきょろきょろと周囲に目を向けたが、相変わらず人がいる様子はなかった。魔法の気配は強まったり弱まったりしていて判然とせず、立ち尽くすソラの足元に先ほどの黒猫が再び纏わりついていた。

「だから、お前のものじゃないんだってば……」

 ソラは踵を返し待合所に戻ろうとしたが、ふと足を止めた。

 他に美味しいものなどいくらでもあるのに、東京からのお土産がサバ缶?

 ソラはリュックサックからお土産に買ったサバ缶を取り出した。祖父は確かにサバ缶をお土産に買っていけと言っていた。それに、可愛い夫婦とも。

「……もしかして、君がお迎え?」

 ソラはしゃがみこんで、黒猫の顔を覗き込んだ。黒猫のエメラルドのような瞳がきらりと輝いた。

「もう少し早く気がつくと思ったわ。望月ソラちゃん」

 頭の中に響いた女性の声にソラはびっくりして尻餅をついてしまった。

「さあ、ちょうどいい時間よ。ネコマタ商店に案内するわ」

「……お願いします」

 ソラは余りの驚きに立ち上がることができず、そう言うだけで精一杯だった。


「ゼンちゃんは元気かしら」

「あ、はい。元気です」

 ゼンとはソラの祖父の名前である。しかし、祖父をちゃん付けとはこの黒猫も随分と長生きしているようだとソラは思った。

「ごめんなさいね、この姿のままで。一度変身するとなかなか体力を使うから。あ、私は猫又タマキです。好きに呼んでちょうだい」

 怪訝な表情を浮かべるソラの前を黒猫はぴんと尻尾を伸ばして歩いていく。脳内で魔法図鑑のページが慌ただしく捲られる。これは瞬間移動より上位の第一級制限魔法の代表格である"変身"だ。

 猫又タマキの名前は手紙に書いてあった。奥さんのほうだろうか。喋り口調や猫にしては品のある雰囲気から、ソラは黒猫の元の姿は梅野さんに近いんじゃないかと勝手にイメージを膨らませていた。

「すいません。全く気がつかなくて。"お前"なんて言ってしまいました」

「いいのよ。気にしないで」

 黒猫の髭が震え、目が細く光った。どうやらタマキは笑っているらしい。

 辺りはすっかり暗くなっていた。タマキの輪郭は夜よりも暗く、そこだけが浮かんで見える。ふたりは住宅と畑の間の道を歩いていた。湿った土の匂いが鼻を抜けていく。畑のほうで農機具の片付けをしていた中年の男がふたりに気がついて手を振った。

「お客さんかい」

 男はよく通る野太い声でタマキに呼び掛ける。

「お得意様よ」

 タマキもそれに応える。大きな声だったが、やはり空気を伝ってではなく、頭の中に響いた。

「そうかー。気ぃつけてなー」

 男は浅黒く太い腕をぶんぶんと振ったあと、鍬のようなものを肩にかけ畑の向こうへと歩いていった。ソラはこの町ではじめて人間に出会ったと思ったが、それよりも目の前の不可思議なやり取りに驚いていた。

「この町の人は猫と普通に話すんですね」

 タマキはひげをぴんと伸ばして頷いた。

「私は魔法を使えることを隠してないもの。……でも、そうね、この町は他と違って魔法を推奨しているから、抵抗なんてないのよ」

 タマキの発言にソラは目を見開いた。

「推奨って、魔法を積極的に使ってるんですか?」

 日本における魔法の扱いはどんどん厳しくなっており、ソラの住む街はもちろん、そんな話は聞いたことがない。

 タマキはちょうど差し掛かった踏切でこちらをくるりと振り返った。ソラが乗ってきた宇部線の踏切。踏切とは名ばかりで遮断機はなく、畑に平行して単線が東西に走っている。ノスタルジックな光景だが、タマキは悲しそうに前足で線路を撫でていた。

「ここは赤字路線なの。待っていたってちっとも来やしない」

 赤字路線という言葉は公民の授業で習った覚えがある。ソラは宇部線の時刻表を思い出していた。一時間に一本もない電車に、ほとんどいない利用客。

「地方の交通機関は限界が来ているわ。ちょっとやそっと運賃を上げたくらいじゃ追いつかないくらい。高齢化も進んでいるし、人口が増える見込みもない。だからといってずっと住んできた土地を手放すことはできない。……いまの山口市長はね、魔法使いなの。知っている人はほんの一握りなんだけど、本当よ。彼がね、日本で唯一の魔法推奨都市を作ろうとしているの」

 魔法推奨都市という聞き慣れない言葉。タマキの話は急に現実的になったものの、ソラの想像を遥かに越えていた。田舎だと決めつけていた町が魔法使いにとっては国内最先端に位置しているのかもしれない。

「じゃあ、さっきのおじさんも魔法使いなんですか?」

「あの人は違うわ。魔法推奨都市とは言っても魔法使いの数が多い訳ではないの。……魔法はこんなに便利なのにどうして使われてないのかは知ってる?」

「魔法使いの絶対数が少ないのと、魔法痕が残ってしまう点と、燃費がとても悪いところです」

「そうね、正解。ああ、私はむかし人を教えていたの。気を悪くしないでね」

 ソラは頷いた。足元から見上げるように語られているのに学校の授業を思い出した理由がわかった。

「その課題を解決する方法が、魔力の貯蔵と共有よ」

 タマキのひとつひとつのワードがソラに衝撃を与えていた。祖父も含め、これまでソラが知っている魔法に関わる人は閉鎖的で悲観的な感情を持っていたように思う。衰退する魔法の世界に歯止めが効かず、維持することで精一杯に見えた。しかし、この町は違う。魔法を発展させるという野望を持って、明るい将来を夢見ている。走り出したくなるくらいの感動がこの町にはある。

 しなやかに駆け出したタマキが毬のように跳ね、ソラの肩に飛び乗った。

「さあ、飛ぶわよ」

 耳の横で魔力がぶわっと膨らんだ。

「えっ」

 ソラの驚いた声だけを残し、ぱしっという音とともにふたりの姿は忽然と消えてしまった。


 目の前に現れたのは茶色い壁。よく見ると、壁の表面はごつごつしていて縦に幾筋もの線が入っていた。一歩下がるとそれが巨大な樹木の幹であることがわかる。昔テレビで見たことのある屋久杉や、海外のずんぐりとしたバオバブの木とも比べ物にならないくらいの太さと高さで、てっぺんのほうは青い霞に包まれていてわからない。そしてこの空間にはそんな巨木が見渡す限り櫛比していた。その圧倒的な存在感に思わず足がもう一歩下がった。スニーカー越しに伝わる柔らかい土の感触。そこでようやく巨木が目の前に現れたのではなく、自分が飛ばされたことに理解が追いつく。

「おかえり、遅かったな」

「ちょっと課外授業を」

 先刻まで居た場所と比べて少し暖かく、明るい気がする。そして何故か自分の家にいるような懐かしい安心感。振り返ると見知らぬ男女がこちらを見ていた。ソラより二回りも大きい大男はくたびれた帽子を被っていた。仏頂面のまま、ごつごつした分厚い手をソラに向けて伸ばした。

「猫又ミサオだ」

「あ、望月ソラです」

 ソラもおずおずと手を伸ばし、ぎこちない握手を交わした。

「タマキです」

 赤みがかった色の長髪をふわりと肩に回しながら、人間の姿をしたタマキが言う。ソラのイメージとはかけ離れた都会的で垢抜けた容姿で、三十代と言われても五十代と言われても頷いてしまうような、年齢を感じさせる要素がどこにもなかった。

 この空間やふたりの容姿に、足元がぐらつくくらいアンバランスな空気に襲われる。ソラはせめて自分のいる場所は確定させたいと口を開いた。

「あの、ここはどこですか?」

「ここは、阿知須の地下よ」

「地下……」

 答えを聞いてもソラは思考回路がショート寸前だった。喋る猫に親しげに話しかける住民。地方の田舎町の地下には存在しないはずの巨大な空間。日の光も届かないこの場所で、見たこともない巨大な木々が乱立している。魔法の力を借りているのは明らかだった。常識が音を立てて崩壊していく。魔力を持って産まれる子の減少。仮に産まれたとしても後天的に魔力を抑制する投薬治療。魔法犯罪の増加による日本政府の規制強化。それらが示すものは魔法の衰退と避けられない絶滅だったはずだ。

「びっくりしたでしょ」

「あの、何から聞いたらいいかわかりません」

 ソラは正直に告げた。聞きたいことはたくさんあるのに、疑問がボトルの口にぎゅうぎゅうに詰まってしまっている。

「ゼンちゃんがわざわざこんな片田舎まで寄越したということは、色々教えてやってくれってことなのよね?」

「あいつは先に動いていつも説明が後になる」

 ミサオが答える。彼もどうやら祖父とは親交があるらしい。

「その前にご飯にしましょうか。ソラくん、きょうは泊まっていくでしょ?」

 タマキの提案にソラは二つ返事で頷いた。いまは衝動に身を委ねる以外にないと思った。



『先週発生した渋谷魔法テロの犯人が逮捕されました。渋谷警察署に自首した模様です。出頭時、杖は所持しておらず、対魔特捜課による裏付けが進められています。また、本日昼頃に名古屋市内で起きた事件にも関わっていると見られ、捜査は一気に進展の兆しを見せております』

「捕まったのか」

「本物かしら」

 巨木の根本に張りつくように建てられた小さな家で三人は食卓を囲んで晩御飯を食べていた。ソラが買ってきたサバ缶は食卓のちょうど真ん中に置いてあり、タマキは箸で摘まんで口に運んでいた。ソラは猫が餌を食べる姿を想像していたが、そんなわけがないと思い直した。

 他には瀬戸内海で獲れたイカナゴの天婦羅にヒラメとメバルの刺身、阿知須で収穫された野菜のサラダと味噌汁など地元の食材が食卓いっぱいに並べられている。どれも美味しく新鮮で箸が止まらない。

「美味しいです」

「それは良かった。どれも町の人が魔法で送ってくれたのよ」

「魔法で?」

「そう。輸送コストも時間ロスもゼロ。スポットを港と青果市場に固定しているから、あとは魔力を供給するだけで転送させられるわ。まだ実験段階だけどね」

「便利ですね」

「そうよ。現体制の顔色を窺わなければ、魔法はなんだってできるの。……魔法による物質の転送が一般化されるようになったら誰が困るかわかる?」

「おいおい、勉強は飯を食ってからじゃなかったのか」

 タマキの講義のような質問にミサオが呆れた顔で呟いた。ミサオは食事中でも帽子を被ったままだった。

「あら、いいじゃない。時間は有限よ」

「……わかったわかった。好きにしてくれ。俺は木を見てくる」

 ミサオは諦めた様子で立ち上がった。ポケットから深緑色の珍しい杖を取り出しひと振りすると、空になった皿だけが浮き上がり台所のほうへとふわふわと飛んでいった。

「さて、分かったかしら?」

 宙に浮く皿に目を奪われていたソラは、慌てて顎に手を当てて考えた。物質の転送が一般的に普及したときに困る人……。

「宅配便?」

「半分正解かな。宅配便を含めた運送業はもちろん、交通機関、旅行業界、あらゆる"モノを運ぶ"人たちに影響が出るわ。社会インフラの基盤を根底から揺るがすことになる」

「そんな大変なことになるんですか」

「そうよ。とっても大変なことになる。そして本当に一般的になったら、そこに携わるほとんどの人が職を失い、路頭に迷うことになる。残念ながら魔法使いの数と魔力の貯蔵に限界があるからそんなことにはならないけどね」

 ソラは頷いた。タマキは過去に教鞭を執っていたと話していたが、きっと社会科目なんだろうなと思った。

「魔力の歴史はとても古くて日本だと卑弥呼まで遡ることができるけれど、魔法使いの歴史はそれほどでもないの。それこそ"杖を用いて魔法を使う"いまの形態になっていったのは第二次大戦後の話になるわ」

「でも、杖という物自体はもっと昔から存在していませんでしたっけ」

 ソラは首を傾げ、思いついた疑問を口にした。

「いい質問ね」

 タマキがにこっと笑った。立ち上がり、次にこちらを向いたときにはその顔に眼鏡が掛けられていた。いつの間にか手にしていたミサオと同じ色の杖を宙に文字を描くように振った。杖の先から黒いインクが迸り、そのまま宙に留まった。完全に教師と生徒の立場になり、突如として始まった杖の歴史について彼女は語り出す。

「モーセが海を割ったとき、あるいは権力者の象徴としての杖は神話の時代からあるわ。これは権力者が無自覚下であっても魔力を知覚し、"木"がそれをコントロールできるということを知っていたという証拠なのよ。ちなみに日本では木ではなく、鉱石がその役割を果たしていた。それが勾玉を含めた三種の神器や、錫杖、日本刀になっていくのよ。だけど、鉱石はそこまで魔力を放出する媒体としては最適ではない。そこが日本と欧州の神話の違いね。向こうは神様の直接的な神罰が多いけど、日本は八百万の神の力を借りたとしても最後は自力で解決するものが多い。日本の場合、あくまで最後は人間の力なのよ。八岐大蛇しかり神風しかり」

 タマキが杖を振る。八つの頭の蛇と、教科書で見たことがある武士の絵が空中に描かれる。それらは微妙に揺らいでいて、蛇はまるで生きているように蠢いていた。

「それから長い時間をかけて魔法は表舞台からほとんど姿を消すことになる。大衆が魔法を過度に恐れたの。未知なるものへの恐怖は迫害に近いものもあったわ。そして、次に注目されたのは軍事転用」

 涙を流す女性、火炙りの刑を模した絵が消えると、次にはインクで象られた戦車や戦闘機、銃剣を抱えた大量の兵隊が杖の先から飛び出した。タマキは自分で創り出したそれらを眺め、少し悲しそうな顔をした。

「二度の大戦の時代には各国が鎬を削って魔法開発を推し進めたわ。凄惨な人体実験もあったようだけど、ここでいまの杖の原型が出来上がることになるの。戦争は科学も魔法も区別なく進歩の起爆剤の役目を果たした」

「科学技術の発展については戦争との関連があるというのは学校の授業でも習いましたが、魔法については聞いたことがありません」

 ソラはいつの間にか挙手をして発言していた。すっかりタマキのペースに乗せられている。

「だって必修項目じゃないもの。……政府は魔法を歴史から抹消しようとしてるのよ。不必要なまでに徹底してね」

 滑らかな語り口調だったが、”政府”と口走った瞬間に言葉に詰まった感じがした。魔法を取り巻く歴史の闇は思ったより深いのかもしれない。そしてタマキの話し方から察するに現代の魔法使いは現状の魔法の不当な扱いに大なり小なり不満を持っている。

「それからはソラちゃんも知ってるところよ。日本は戦争に負け、その反動で科学は飛躍的な発展を遂げる。魔法との違いである"誰でも使えるもの"という点を一番に進化させていった結果、大衆は科学を選んだ」

 タマキの杖の先から描かれる高層ビル群、車、薬品のカプセル、そしてスマートフォン。ソラ自身も恩恵に預かっているものばかりだった。

「魔法は武力。個人がそれを持つことを、”持たざるもの”は恐怖している。明確に危害を加える魔法を禁止するのはわかるわ。でも、なんでもかんでも制限魔法にしたり、医療行為を禁止したり、その利便性から余りにも目を逸らしすぎている」

 ”持たざるもの”というタマキの口から発せられたそれはなんだか危険な響きを孕んでいて、ソラはぶるりと身体が震えた。

「でも、やっぱり、怖いんじゃないかと思います。この前のテロ事件もそうですし……」

 きっと渋谷で魔法に巻き込まれた人は最期まで何が起きたか分からなかっただろう。それを思うと胸が痛いが、タマキは冷めた目で呟いた。

「そう。だから私は嫌悪します。杖は人を傷つける道具じゃない」

 タマキが真っ直ぐにソラの目を捉えた。猫に変身しているときより濃い緑色の瞳に不思議な色が差す。奥に燃える暗い炎の舌先がちらちらと見え隠れする。それはまるで憎しみの対象がソラに向けられているようで、ソラの背中にじっとりと汗が滲んだ。

「暗い話になっちゃったわね。ここからは魔法の未来の話をしましょうか」

 ぱっと表情を変えたタマキが杖を振る。宙に浮いたままだったインクが渦を描くように杖の先に吸い込まれていく。

 いつの間にか食卓の上は綺麗に片付けられており、ソラは立ち上がった。

「移動するわ」

 タマキが後ろ手に戸を開けた。ソラは彼女の後をついて外に出た。


 地下であることを忘れてしまいそうな巨大な空間にソラは再び立っていた。相変わらず教師然とした格好のタマキがソラの背後の巨木を指して言った。

「この木は”ユグド”といってね、魔力を流すのが苦手で杖の素材にはあまり向いていないの。だから誰も注目していなかったんだけど、実は魔力を吸着する力と貯める力が他のどんな木よりも高かったの。この空間が魔力で満ち溢れているのは、ユグドの木々が貯めている魔力が空気中に溶けだしているからよ」

 ソラはこの空間に飛ばされたときから魔法の気配を感じとることができなくなっていた。ミサオやタマキが杖を振っても何も伝わってこないと思っていたが、既に濃い魔力で満たされている空間であればわからないのも無理はないとソラは納得した。

「魔力はその性質上、ほとんど貯蔵できないと考えられてきた」

 ソラは頷いた。確かにそれは聞いたことがある。魔力は人間やほんの一部の生物の身体以外ではその場に留めることができない。電池の類いの開発は何度も進められたそうだが、どんなに人間に似た性質のものを用意しても魔力はあらゆる壁をすり抜け空中に四散してしまうらしい。

「だけど、木は杖に加工されたとき魔力の伝達経路としての役割を果たしている。杖の出口を塞げば、理論上は魔力を貯められるのではないかと思った、んだけどね……成長しちゃうのよ」

 はあ、とタマキはため息を吐く。巨木を見上げて半分呆れたような口調で話す。

「人間が生成した魔力を木に移すところまでは上手くいったんだけど、その木の成長を止められない。いちど成長を止めようとしたら、裂けてしまったわ。生き物をタンク代わりにするのだからそもそも理解は得られない可能性は高いのだけれど、そこで空間を大きくしていく方向で進めていったら、町の地下にこんな大きなものが出来上がってしまったの」

 タマキの話はどこか楽しそうに聞こえた。試行錯誤を繰り返す楽しさは、祖父の杖作りを見てきたソラにも少しだけ理解できる。

「ここの魔力を町の人のために活用するんですか?」

「そう。もっと整備を進めて安定供給ができるようになったら、そのつもりよ」

 タマキはころころと表情を変える。今度は決意に満ちた強い眼でソラを見つめた。ソラも小さく深呼吸をしてタマキを見返す。

「……僕は、祖父の仕事をずっと見てきました。使う人が減っている杖を作り続けることに疑問を覚えたこともあります。魔法はもう進化はしないものだと、いつかは科学に負けてしまうと、そう思っていました。でも、負けるのは魔法じゃなくて魔法の可能性を信じきれなかった僕だったのかもしれません。……僕は魔法が好きなんです。あの、魔法を目の当たりにしたときの高揚感を僕は忘れたくない」

 決意表明のような言い方になってしまったが、いまの正直な気持ちを吐露したことで、将来を覆い尽くす不安の霧が少しだけ明るくなった気がする。タマキが目尻を下げて微笑んだ。

「大丈夫よ。まだ間に合う。……ゼンちゃんが貴方をわざわざここまで来させた理由がわかった気がするわ」

 よし、とタマキは手をパンと叩いた。タイミングを計ったようにミサオが戻ってきた。

「終わったか?」

 タマキが頷いたので、ソラも遅れて首を縦に振った。

「さて、明日は実際に杖の素材を選定するわよ。ゼンちゃんからしっかり教育してくれと念を押されているから、はりきっちゃうわ」

 ガッツポーズをするように腕を立てるタマキに、ミサオが呆れた顔で笑った。


 夕飯を囲んだ家の二階は客間になっていた。というより、ソラのために設えたと言ったほうが適切かもしれない。使われた形跡のないベッドと文机のあるシンプルな部屋だった。ソラは部屋の隅に荷物を置いて一階に戻った。

「ごめんなさい。ここにはお風呂がないのよ。近くに銭湯があるからそこに行ってきてくれるかしら」

「わかりました」

「あなた、着いていってあげて」

 タマキがミサオに声をかけると、ミサオは露骨に嫌な顔をした。

「そんな顔せずに」

 タマキがぽんぽんと労うようにミサオの肩を叩いた。

「……掴まれ」

 ミサオが杖を取り出した。ソラが慌てて彼の袖を掴んだ瞬間、ふたりは地下空間から消えてしまった。


 最初にタマキと飛んだ地上の踏切の脇に戻ってくると、辺りはすっかり夜になっていて、満天の星空が町を覆うように広がっていた。

「直接、銭湯に飛ばないんですか」

「入り口をあそこに固定しているから。毎回、瞬間移動を使っていたら流石に魔力が空っぽになっちまう」

 ミサオが踏切のほうを指で示したが、ソラには何も見えない。というか、瞬間移動ではない魔法で移動をしていたのか。あとで魔法図鑑を確認しないと、とソラは思った。

「ああ、お前は魔法痕が見えないんだったな」

 決して馬鹿にするつもりはないのだろう、ミサオは悪びれる様子もなく続ける。

「親父さんは……」

 ミサオはそこではっとしたように口を噤んだ。ソラがぱっとミサオの顔を見上げた。聞き間違いかと思ったが、ミサオがすっと目を逸らしたことが逆にソラを確信させた。祖父ではなく父親。

「お父さんですか?」

 口を滑らせたことを後悔するような苦い顔でミサオは言う。

「あー…なんだ、まあ、ちょっとだけ話したことがある」

「どんな話をしたんですか」

 ソラは食い気味にミサオに尋ねた。祖父もほとんど教えてくれない両親の話がこんなところで飛び出すとは。

「いや、魔法の将来の話をしただけだ。先刻のお前とタマキみたいにな」

 ミサオはそれきり黙ってしまった。帽子の影に隠れてミサオの顔色を窺うこともできず、ソラもそれ以上は聞かなかった。


 ミサオは銭湯の前で待っていると言うので、ソラは湯船には浸からず急いでシャワーを浴びた。地元の人しか使わないような公衆浴場で、祖父くらいの歳の老人がひとりで湯船に浸かっていた。銭湯を出ると、乾ききっていない髪に冷たい夜風が当たった。

 先刻の問答から気まずい沈黙が流れると思っていたが、先に口を開いたのはミサオのほうだった。

「アケビってのはどういう子なんだ?」

「え?」

 急にアケビの名前が出たことにソラは驚いて聞き返した。

「その子の杖を作るんだろ?」

「はい。そうですけど……」

 祖父が事前に報せてくれていたのか。余計なお世話かとも思ったが、顧客の人となりを把握するのは大切な作業であることはソラも知っていた。

「えっと……言葉遣いは乱暴で、態度も悪くて、わりと不器用なんですけど、芯が強くて、真っ直ぐな女の子です」

「思い人か?」

「ち、違いますよ」

 ソラの慌てた返答にミサオが少し笑ったような気がする。

「杖を一番強くする素材はなんだか知ってるか?」

「固い木材ですか?」

 ミサオは首を振り、大真面目な顔をして言った。

「杖を使う人のことを想う、愛だよ」


 地下空間では、タマキがカップを手に分厚い本をぱらぱらと捲っていた。銭湯へ向かう前にはなかった白いガーデンチェアに腰掛けている。

「早かったわね」

 ミサオが大きな欠伸をした。寝る、と短い言葉を発し、ユグドの森のほうへふらふらと歩いていく。

「待って。私も行くわ」

 タマキがぱたんと本を閉じた。彼女が杖を振ると、カップと本と椅子がひとかたまりになったかと思うとそのまま空中で消えてしまった。さすがにソラも頻出する魔法を見てあまり驚かなくなってきた。しかし、ここまで魔法を積極的に使用する人を見たことがない。確かにプライベートな空間であれば魔法痕を気にすることはないが、消費する魔力はどうなのだろう。あるいは梅野さんのように使っても使いきれないくらいの膨大な魔力を持っているのだろうか。

「ありがとうございました」

 もやもやと疑問を残したまま、ふたりに感謝を告げる。

「また明日ね。きょうは疲れているだろうし、早くお休み」

 タマキが先を行くミサオの手を取り、寄り添うように森の中へ消えていった。


 寝床に入っても、悶々とした感情が邪魔をしてなかなか寝つけない。肉体は疲れきっているのに、頭は溌剌として思考を止めようとしない。ソラはリュックサックからスマートフォンを取りだした。地下空間だというのに液晶の右上にはしっかりと三本のアンテナが立っている。散々迷った挙げ句、アケビに電話をかけた。

『なんだよ。病院だぞ』

 三コール後に電話に出たアケビの、相変わらずのぶっきらぼうな話し方。ソラは安心している自分がいることに気がついていないフリをした。

「ちょっと聞きたいことがあってさ」

『なに?』

「いま、アケビに合った杖の素材を選定していて、どういうものがいいのかなって」

『強そうなやつ』

 アケビの即答にソラは電話口で思わず吹き出した。

「違う違う。好きな木とか」

『好きな木なんて考えたことねぇよ。……あれだ、ハリー・ポッターと同じでいいよ』

「ヒイラギだったかな」

『知らないけど、それでいいんじゃない』

「……そっか。ありがとう」

 沈黙。ややあって電話の向こうからアケビの声が聞こえた。

『それを聞きたくて電話してきたのか?』

「え? うん。そうだよ」

 とん、と心臓の拍子がずれる。部屋の温度が上がった気がして、着ているシャツをぱたぱたと扇いだ。

『ふーん、そっか。まあいいや。お休み』

「お休み」

 がちゃっという電話が切られる音。体内ではいつもより大きく脈を打つ音が響いていた。

 ホームシックだとソラは思うことにした。


 翌朝、まだ陽が出たばかりの時間にソラとタマキは昨日とは違う地下空間にいた。こちらには地上でもよく見られる木が植わっていて、ぱっと見た限りでは地上の森とあまり変わらなかった。違うことといえば、桜と紅葉が同時に見られることである。空間は大まかに四つに区切られていて、それぞれが四季を再現していた。素材を切り出すのにもその木ごとに最適な季節があるらしい。ふたりは春の桜の木を見上げていた。

「どんな木でも杖に加工することはできるの。春は梅、桃、桜かしら。しなやかでクセの少ない杖になるわ。逆に藤や木蓮なんかは丁寧に使ってあげないと反発することもあるのよ」

 足元から声がする。タマキは駅で出会ったときと同じ黒猫の姿になっていた。

「杖を作ってあげるのは、どんな子なの?」

「粗暴なんですけど、人のことをよく見ていて、芯の強い女の子です」

 昨夜ミサオに同じことを聞かれたので、タマキにも聞かれると思い準備していた。ミサオに聞かれたときはアケビのことを”不器用”と評していたが、自分と比べるとそんなことはない気がしたので意図的に外した。

「なるほど。それではもう少し硬い木でもいいかもね」


 ソラはタマキの後をついて回る。夏、秋、冬の季節のゾーンはもちろん、蔓性植物、水辺のマングローブ林、水中の巨大な海藻などありとあらゆる植物を見てきたが、どれもしっくりくるものが見当たらない。冬のゾーンに植わっていたヒイラギは葉こそ棘々しいものの、樹自体は繊細で一目見て彼女の杖にはなり得ないと思った。

「もう一周してきます」

 タマキにそう告げると、ソラは再び春のゾーンに足を踏み入れた。

 花見の季節の公園のような風景で、歩いているだけでも気分が落ち着く。ピンク色の花びらが宙を舞い、ゆったりとした時間が流れる。その桜の木は真っ直ぐ天に向かって伸びていて、地上のものより一回り大きい気がした。褐色の樹皮に地面と水平に何本も筋が通っている。杖の素材は根と幹の境目の部分を使うので足元に目をやると、この桜の木も以前材料として使われたのか、根元に色が変わっている部分があった。地上にいるときはこんな風に木を観察したことがなかったので、今後はもう少ししっかり観察しようと心に留めた。

「うーん……」

 見渡す限りの樹木にソラは思わず唸ってしまった。ここからアケビに合う木を選ぶなんて途方もない作業になりそうだ。なにかアタリをつける必要があると記憶の中を探る。

 梅野さんは岩手の南部桐だったっけ。魔法局の片桐さんは黒くて固そうな胡桃か麻栗樹。クセの強い人間にはクセの強い木を。人が杖を選ぶのではなく、杖が人を選ぶ……。

『お前には無理だ』

 アケビが進路調査書に女優と書いたとき、彼女はそう言って欲しかったらしい。

 アケビの投げた石は水面に幾つもの波紋を作っていた。あのとき彼女は練習したと言っていた。いま思えば、彼女なりの孤独を紛らわす手段だったのかもしれない。

 ミホに詰め寄るアケビは剥き出しのナイフのような危なっかしい強さに満ち溢れていた。いつも気怠そうで、面倒臭そうで、他人に興味がなさそうなのに、僕が殴られそうになったとき、彼女の魔力は暴発した。

 誰よりも強い女の子。

「迷っているな」

 いつの間にそこにいたミサオが背後から話しかけてきた。きょうも帽子を目深に被り、背中に斧を背負っていた。

「ミサオさん、ここにある一番大きな木はどれですか」

「ああ、ユグドの次はオオクスノキだな。初夏のところだ」

 ミサオは左のほうを指差した。

「見せてもらえますか」


 夏のゾーンの入り口ではタマキが尻尾を立てて待っていた。背後には圧し潰されそうな大きさのクスノキが空を埋め尽くすほどの葉を繁らせている。

「クスノキはよく神社で祀られていて、がっしりとした風貌で中身も詰まっている。木自身が力強いから、それなりに扱う人間にも力量が必要だ」

「はい。大丈夫だと思います」

 ソラは目前に堂々と聳えるオオクスノキを見上げた。ユグドの木には及ばないが、先刻の桜と比べると親子ほど大きさが違う。どんな嵐に襲われてもびくともしなさそうな重厚感は、古来から日本人が神の依り代として崇めてきたのも頷ける。

「この木でお願いします」

「わかった」

 ミサオが紐を解き、背中から斧を抜いた。ソラはクスノキを選んだ理由くらいは聞かれるかとも思っていたが、タマキは黙ってミサオが準備するのを見ているだけだった。

「ここか?」

 タマキが示した地面から飛び出した根に斧を当てる。タマキはこくりと頷いた。

「根っこの部分は一番魔力が流れやすいんだ」

 ミサオが根に対して垂直に斧を振り下ろす。こおん、と想像より甲高い音が響いた。

「やってみるか?」

 ミサオに問われ、ソラは頷いた。

 斧を受け取ると、ずっしりとした重さが両腕に伝わってくる。

「足は肩幅に開いて……そう、左手はここ、右手は手前で」

 ミサオにアドバイスを受け、ソラが頭上に斧を持ち上げると身体がふらついた。勢いに任せて振り下ろすと、先刻より低い音が辺りに響いた。根の部分に浅い亀裂が走る。

「まあ、はじめてならこんなもんかな」

 ミサオにぽんと肩を叩かれた。ソラは斧を返すと、じんじんと衝撃が残る両手を眺めた。

 その後はミサオが綺麗に切り出すのを黙って見ていた。ミサオは斧一本で必要な素材を器用に切り出していく。やがて50cmほどの角材になったクスノキの根をソラは受け取った。

 先ほどの斧よりもずっと重い。これを持って帰るのは骨が折れそうだと悩んでいると、タマキが笑って言った。

「大丈夫。それは送ってあげるわ。防虫や乾燥の最低限の加工はこちらでやる必要があるから」

「ありがとうございます」

 ソラは頭を下げ、ほっと胸を撫で下ろした。


 二階の客間で荷物をまとめて階下に降りると、既に出発の準備をしていたタマキが待っていた。

「さ、行きましょうか。忘れ物はない?」

「はい」

 別れの時間が近づいていた。ソラにとってこの二日間は見るもの全てが新鮮で輝いて見えた。

「二日間、ありがとうございました」

 タマキがにっこりと笑った。奥ではミサオが大きな手を振っていた。

「どうする? 家まで飛ばしてあげようか?」

「いや、それは大丈夫です。電車で帰ります」

「そう? じゃ、踏切まで飛ぶわね」

 耳元でぱしっという音がしたかと思うと、周囲の景色、気温、匂い、ありとあらゆるものが入れ替わった。

「楽しかった?」

「とっても楽しかったです。もっと勉強したいと思いました」

「それは良かった」

 前を歩く黒猫の、艶のある背中を見つめる。この風景にもすっかり慣れてしまった。

 昼下がりの太陽は久々にソラの頭上を照らしていた。陽光を反射しきらきらと光るアスファルトの舗道を叩く靴音は固く、そこに空間があるなど微塵も思わせない。地下の木々のてっぺんがすぐ足元に広がっているはずで、それを考えると木の上を歩いているようだと思った。

「それじゃあ、ネコマタ商店をごひいきに」

 駅の改札でタマキがぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございました!」

 ソラも頭を下げたが、次に顔を上げたときには黒猫の姿はどこにも見えなくなっていた。


「お帰り」

 黒猫がミサオの肩にぴょんと飛び乗った。

「なんだか寂しくなっちゃうわね」

「そうだな」

「……貴方、いつまで人間に変身しているの? 戻れなくなっちゃうわよ」

 いじわるそうな声で話すタマキにミサオは黙って頷いた。ぽん、という音とともに大男の姿は消え、代わりに黒と茶色の斑模様の猫が姿を現した。

「さて、きょうは久々に休業日にするか」

「そうね。私、ずっと行きたかったところがあるんだけど……」

 二匹の猫は仲睦まじそうに暗がりへと消えていった。



6.

 家の前に背の高い男の人が立っていた。きっちりとした黒のスーツに身を包んでいるわりに、所在無げに中を覗き込もうとしている。祖父を訪ねるお客さんだろうか。門扉の向こうは森が広がっているので、確かに初見では立ち入りずらいのはよく分かる。ソラは声を掛けようとしたが、車が前を横切った拍子に姿が消えてしまった。

「ただいまー」

 仕事場のほうに声をかけたが返事がない。祖父は珍しく外出しているようだ。

 離れに戻り、シャワーを浴びた。洗濯物を片付け、ベッドに腰かけるとどっと疲れが湧いて出た。

机に目をやると小包がふたつ雑に積まれていた。まさかとは思ったが大きいほうを開けると、今朝切り出したはずのクスノキの素材だった。これだけ早いなら自分も飛ばしてもらえば良かった、と行き同様に六時間かけて帰ってきたソラは後悔した。

 もうひとつの小さな包みは心当たりがなかった。薄い水色の布の包みを丁寧に開けると、白い布に包まれた銀色の細いブレスレットが入っていた。

「あ……」

 手に取ると、ほんのりと熱を持っている気がした。蛍光灯に照らされきらきらと光るそれは、アケビのものに間違いなかった。

 送り主の心当たりはミホしか思い浮かばない。彼女はあれからずっと探してくれていたのか。

 ブレスレットを手に仕事場に行くと、いつの間にか祖父が戻ってきていた。

「ただいま」

「おう。荷物、届いてたぞ」

「ありがとう。……小さいほうの包みなんだけど」

「ああ、昨日の夜に女の子がお前に渡してくれって」

 勘違いしているらしい祖父が心なしか楽しそうな口調で言う。

「そっか。ちょっと病院行ってくるね」

「いまからか?」

 ソラは頷いた。日は傾き、仕事場の裸電球は既にふんわりと辺りを照らしていた。

「杖に使う石ってこれでもいいの?」

「持ち主がそれでいいなら構わない。加工は必要だが」

「ありがとう」

 ソラは旅の疲労の溜まった身体を奮い立たせ自転車に跨がると、アケビのいる病院へと向かった。


 病院の駐輪場に自転車を停める。見上げるとアケビの病室は窓が開いていて、カーテンが揺れていた。

 ソラは病院に入る前にミホに電話をかけた。何度かコール音が続いたが、電話はぷつりと切れてしまった。『ブレスレットありがとう』と短いチャットメッセージを送り、ソラはスマートフォンをポケットにしまった。

「またお前かよ」

 アケビは開口一番そう言い放った。

「折角のゴールデンウィークなんだから遊びにいったらいいのに」

「いや、仕事の話をしにきた」

「もう杖できたのか」

「それはまだ」

 アケビが笑う。軽口を叩く彼女の様子を見てソラは安堵に胸を撫で下ろしたが、彼女はまだ身体のあちこちに包帯を巻いていて、部屋には消毒液の臭いが充満していた。

「これ」

 ソラはポケットから銀のブレスレットを引っ張り出した。

「ミホが見つけてくれたんだ。アケビのでしょ」

 アケビが驚いた顔でソラとブレスレットを交互に見た。

「もう見つからないと思ってた」

 アケビが嬉しそうな、少し寂しそうな表情でぽつりと呟いた。

「それで、相談なんだけどさ……これ、アケビの杖の素材に使ってもいいかな」

「素材?」

「うん。杖は木と鉱石でできてるんだけど、鉱石は杖に魔力が流れすぎないようにするストッパーの役目があるんだ。だからアケビがずっと身に付けていたブレスレットはきっとどんな鉱石より馴染むと思う」

 アケビはソラの掌に乗せられたブレスレットをじっと眺めていた。彼女と母を繋ぐそれは、ソラが思うよりずっと大切でかけがえのないものなんだろう。アケビは迷っていたようだったが、やがて小さく頷いた。

「……いいよ。使ってくれ。一度は失くしたものだからな。生まれ変わって、また大切にするよ」

「ありがとう」

 ソラの中で最高の杖を作ろうという思いがまた一段と強くなった気がした。

「……ソラ、なんかすごく疲れてねえ?」

「実は、木のほうを買いにちょっと遠出を……」

 ソラは頭を掻いた。アケビがまた笑った。

「早く帰って寝るんだな……。あ、そうだ。悪いけど、谷川にお礼言っといてくれ」

「わかった」

 ソラは頷いた。


 その後のことはよく覚えていない。ふらふらと自転車を漕いで、晩御飯を買って、祖父と二三言葉を交わした気がする。シャワーを浴びて、気がついた時にはベッドの上だった。波のように押し寄せる疲労で頭が回らない。

 明日からは本格的に杖を作っていく。まずは、木を削るところから……。

 ソラの意識はあっという間に深い眠りへと落ちていった。



 翌朝、まだ陽が出たばかりの時間にソラは祖父と一緒に仕事場で杖作りの準備をしていた。

「お前には杖を二本作ってもらう」

「二本?」

「そうだ。予備という意味もあるが、一本はお前が持て」

 きょうの祖父はなんだかいつもより漲っている気がした。灰色のくたびれたツナギまでもがしゃきっと襟を立てているように見える。

「一本の木、一つの鉱石から二本の杖を作ると、お互いが魔法を使ったときに反応することがある。お前らはまだまだ若く、未熟だ。彼女がまた暴走しそうになったときはソラ、お前が止めるんだ」

「はい」

 ソラの決意に満ちた返答に、祖父は満足そうに頷いた。

「よし。どんなものを作る?」

「えっと……素材はオオクスノキ、長さは少しコンパクトな28cm、鉱石は銀」

「まずは大まかな削り出しからだ。ここに座れ」

 祖父は普段自分が座っている切り株を指差した。ソラはおそるおそるそこに腰を落とす。いつも見ていた祖父の定位置。そこに自分が重なっている事実に少しだけ感動を覚える。

「木に残っている魔力をゼロにするのがなかなか大変なんだが、ネコマタの奴らがきっちり乾燥までやってくれたみたいだから話が早い。これで切りたい位置に印を付けて、鋸で削ぎ落とす」

 ソラは木材の端を手で抑え、縦も横も少し長めに鉛筆で印を付けていった。作業台の端に木材を万力で固定し、鋸を印に当ててゆっくりと引いていく。

「ずっと見てただけあるな」

 祖父が感心するように頷いた。

 確かに、ソラはずっと祖父の仕事を見ていた。帰りが遅くなっても、喧嘩をして気まずくなっても、ソラはできる限り祖父の手元を覗き込んでいた。夏の日は額に汗を滲ませながら、雪の日は悴んだ手を擦りながら、祖父は毎日杖を作っていた。

「ごめん」

 心の底に隠れていた幼いソラが、いまのソラを見上げていた。自然と口を衝いて出た言葉は、いまのソラの正直な気持ちを表していた。

「あ?」

「なんでもない」

 ソラは上に着ていたパーカーを脱いだ。頭上を覆う木々のざわめきは初夏の陽射しを遮っていたが、ソラの全身にはじっとりと汗が浮かんでいた。

「これは、魔法で、やっちゃダメなの?」

 鋸を引きながらソラは祖父に訊いた。梅野さんが木端から仏像を削り出していたのを思い出していた。

「せっかく乾燥させて空っぽにしたのに、他人の魔力が入っちまうからダメだ」

「なるほど」

 簡潔な回答にソラは返す言葉がない。少しでも体力を減らさないよう、何も考えずにソラは作業に集中した。

「銀は液体にして、杖の中央に注ぐ。持ち手の根のほうに穴を開けろ」

 粗い棒状のヤスリでさらに形を整える。ぱらぱらと木屑が足元に小さな山を作っていく。途方もない作業に思えたが、最初は角ばった木の塊だったものが、確かにだんだんと丸みを帯びていくのがわかる。いったん一本目の杖が原型を象ったところで、二本目も同じ行程を進めていく。

 祖父はどこから持ってきたのか薄い小さな皿の上にブレスレットを乗せ、ガスバーナーで熱していた。割り箸のようなものでブレスレットをつつきながら器用にくるくると回していく。橙色に激しく光るブレスレットはやがて大きな水滴のような銀色の塊になった。

 ソラは無骨な二本の杖の底に錐で穴を開けた。万力で杖の先端を挟むと、祖父がその穴にゆっくりと銀をほんの少しずつ注いでいく。

「燃えないの?」

「ぎりぎり燃えない」

 じゅっという音がして、銀が穴に吸い込まれていく。二本とも注ぎ込むと、祖父は膝に手をついて立ち上がった。

「あとは納得いくまで磨け」

「わかった」

 祖父が置いていった古びた道具箱の中にはぎっしりと紙のヤスリが詰め込まれていた。目の粗いものからほとんど引っ掛かりのない滑らかなものまで、ぱっと見ただけでも数十種類はありそうだった。

 ソラは指の関節を鳴らし、理想の杖の形をイメージしながら粗い目の紙ヤスリを手に取った。


 ソラが杖作りに着手してから四日後の午前中、病院の駐車場でアケビは待っていた。右手にはまだ包帯を巻いていたが、ソラを見つけるとその手をぶんぶんと振った。

 ゴールデンウィーク最終日、ソラは出来上がった杖を持って病院を訪れていた。魔法局の片桐が縁石に足をかけ、退屈そうにこちらを見ていた。

「待ちくたびれたぜ」

 アケビが興奮を隠せない口調でソラを急かした。ソラも待ちきれない様子で背負っていたリュックサックを下ろすと、中から絹布に包まれた杖を取り出した。

「おお、開けていいの?」

「待って待って」

 ソラは大きく深呼吸をした。息を整え、昨夜こっそり練習した口上を反芻する。

「……山口県はネコマタ商店、オオクスノキの28cm、石は銀。持ち手のところにはブレスレットを象った彫りを入れています」

 四日間、杖を磨いた。最初は木の枝と変わらなかった。粗いものから細かいものへ。妥協すればもっと早く終われたはずだ。でも、祖父に杖作りを任された以上、半端なことはできない。腱鞘炎になりそうな手首に湿布を貼り、ソラは必死で杖を磨いた。やがてソラの手で磨かれた二本の杖は、手触りは漆塗りのように滑らかで、そして琥珀のような光沢を湛えた。

『初めてにしては、上出来だ』

 祖父の言葉が脳裡を過る。込み上げる感情をぐっとこらえ、アケビが杖を手に取るのを待った。

「綺麗だな」

 アケビが左手で杖にそっと触れた。瞬間、風が吹いたような気がした。掌で優しく包むように持ち上げる。

「よくわからんけど、すごい気がする」

「”本気”で作った」

 アケビはソラの顔をじっと見た後、きらきらと陽光を反射する杖を真剣な眼差しで見つめた。螺旋状に刻まれた手元の紋様を指先でなぞる。

「なにかあった時の為にもう一本は僕が持っておくね。それと、魔法を時々使うように。そうやって適度に放出していれば、もう暴発したりしないから」

「アフターサービスも万全だな」

 アケビが微笑んだ。

「ありがとう」

 ソラは平静を装って頷いた。これは仕事だと自分に言い聞かせ、喜びの感情が爆発しそうになるのを抑えるのに必死だった。

「……お取り込み中、失礼。私は次があるのだが」

 背後でふたりのやり取りを見ていた片桐が腕時計を示しながら言った。

「なんだよ、空気ぶち壊しかよ」

「ああ、すいません。アケビ、このまま杖の登録をするよ」

 すかさず悪態をつくアケビにびくびくしながら、ソラは片桐に頭を下げる。

「戸村アケビで間違いないな」

「はい」

 アケビが片桐の前に立つ。

「杖を」

 アケビが杖を片桐に示した。片桐が杖を検め、アケビに返す。

「魔法痕の確認をするから……そうだな、そこの縁石を持ち上げてみてくれ」

 片桐が駐車場の隅の縁石を指差した。

「どうやんの?」

「対象に杖を向けて、風船に乗せるイメージを持て。ゆっくり、気を抜かずに」

 アケビが杖を縁石に向けた。ソラはスマートフォンのカメラを起動し、その様子をレンズ越しに見つめた。アケビから魔力の気配が立ち昇った。

 縁石がごとん、と音を立てた。それはがたがたと揺れながらやがて縦に起き上がると、ふわっと宙に持ち上がった。そして縁石のすぐ上に魔法痕が浮かび上がる。

「これは……」

 黄色い円の縁に広がる小さな花びら、中心は三つの同心円の中に細かい十字模様が幾つも刻まれている。早咲きの向日葵が空に大輪を描いた。

「ヒマワリか」

「ずいぶんカワイイな」

 アケビがまた軽口を叩く。油断したのか、縁石がぐらりと揺れた。

「おい、気を抜くなと言ったろう」

 片桐が手を伸ばそうとしたが、縁石はその手をすり抜け病院のほうへと勢いよく飛んでいった。

「あ……」

 がっしゃーん、と頭上で大きな音がしたかと思うと、大量のガラスがきらきらと降り注いでくるのが見えた。片桐がすっと胸元から杖を取り出しガラスの破片に向けて振ると、ガラスはそこで糸に吊られているかのようにぴたりと動きを止めた。

「あの部屋は、君が寝ていた部屋か」

 さすがのアケビも申し訳なさそうに頷く。

「すいません」

「不幸中の幸いだな。まあ、おいおい慣れていくといい」

 片桐がもう一度杖を振ると、病室から巻き戻し再生のように縁石が飛び出し元の位置へと着地した。あれだけ粉々になったガラスも一欠片も残すことなく元の窓枠に収まった。

「すげぇ」

 ソラとアケビは感嘆の声をあげたが、片桐はこんな事態は想定内といった表情で杖をしまった。

「さて、長期休暇も明けるし、君たちは明日から学校に復帰するんだろう? 杖の登録手続きはこちらで済ませておくから、心配はいらない」

 ソラは頷いた。あっという間のゴールデンウィークだったが、これまでで一番退屈しない、とても充実した休みだったと思った。隣でアケビも満足そうに頷いていたが、先ほどの向日葵とは違い少し浮かない顔をしていた理由を、ソラはこの後すぐ知ることになる。



6.

「お時間いただきありがとうございます」

 春の気配は彼方に過ぎ去り、蒸し暑い風が教室を吹き抜けはじめる頃、ソラはいつかと同じ空き教室で担任の藤崎と向かい合って座っていた。藤崎は相変わらず窮屈そうに椅子に座っていたが、前回と違うのはふたりの間に置かれた進路調査書にソラの進路が記されていることだった。

「もっと時間がかかるものだと思っていたが、意外と早かったな」

「はい……」

 ソラの小さな声は、校庭のほうから聞こえてきたサッカー部の声援にかき消された。藤崎が慰めるように優しく言葉を紡ぐ。

「戸村のことはまあ、考えても仕方のないことだろう。私もあいつは何も考えていないと思っていたが、そんなことはなかった。自分の道を自分で選んだ。その結果だ」

「そうですね……」

 季節はこれから夏を迎えようとしている。空の青はより深まり、緑が躍動する季節。僕らはこれから大人の世界に足を踏み入れ、自分の小ささを知る。しかしそこに彼女の姿はない。


 戸村アケビは学校を去った。


 ソラがそれを知ったのは数日前、学校に登校してすぐのことだった。藤崎に呼ばれ、戸村が退学届を提出したことを聞いた。今朝、封筒に三つ折りになった退学届が学校の郵便受けに投函されていたらしい。ソラは呆然として藤崎に理由を訊いたが、藤崎もわからないと首を横に振るだけだった。ただ、彼女が"魔女"であったこと、魔力が暴発してしまったことは学校も把握していて、いま別の先生がアケビの家に確認に向かっているとのことだった。

 アケビに杖を渡してから時々、杖がふんわりと光ることがあった。ちゃんと魔法を使っているんだなとソラは思っていた。週末には退院できるという話をソラはアケビ本人から聞いたばかりだった。退学なんて、そんなはずない。

 ソラはいてもたってもいられなくなり藤崎に頭を下げると、くるりと踵を返し学校を出ようとした。藤崎は制止しようと手を伸ばしかけたが、若人の衝動に水を差すわけにはいかないと、ぐっと拳を握り引っ込めた。

 見慣れた道を走り抜け、ソラは病院へ向かった。

いつかソフトクリームを奢ってもらったカフェの前を通り過ぎる。あの日のビターチョコレートの苦味が口の中に広がった気がした。

 激情に任せて飛び出したというのに、頭はひどく冷静だった。この先の結末がきっと自分の思い通りにはならないだろうということが分かるくらいに。

 アケビのことで学校から飛び出したのは二回目だな、とソラは思う。そんなに長い付き合いでもないし、なんならミホのほうが多く話した仲なのに、ソラの中でアケビという存在がとてつもなく大きくなっていたのだと改めて知る。

 信号待ちで、肩を上下させながら目を閉じた。暗闇はどこまでも広がっていて、遠くには弱々しい光が見えた。息があがる。足が重い。光が示す方向は病院ではない。ソラは病院へ向かう道を引き返し、橋へと向かった。まだ先月の出来事だというのに、すっかり昔に起きたことのような気がする。春の夕暮れにふたりで石を投げた場所。アケビがソラを守ろうと手を伸ばしたあの場所。

 住宅街を抜け、川原が一望できる土手を走る。向こう岸にアケビの姿を探しながら、ソラはもつれる足をさらに踏み込み橋を渡った。制服が肌に貼りついて気持ちが悪い。額の汗を拭った。

 魔法は武力。アケビは自分が魔女だと知ったとき、何を思っただろう。誰も傷つけたくない、と彼女は言っていた。意図しない魔力の暴発はソラが思っているよりずっと彼女に深刻な考えをもたらし、杖を持つだけでは安心できないくらいに彼女は悩んでいたのだ。その思いに気づくことができなかった自分に腹が立ち、ソラは悔しさに唇を噛み締めた。

 ここだ。ソラはひっくり返りそうな勢いで、あの日ふたりでソフトクリームを食べた土手を駆け降りた。ざわざわと揺れる雑草を踏み、河原に向かう。橋の下もぐるりと見回したが、彼女の姿はどこにもない。

「はあ……」

 ソラは膝に手をつき、がっくりと頭を下げた。いない……。

 目を閉じると、微かだが魔力の気配がする。ソラはもしかしてと思いポケットからスマートフォンを取り出した。カメラを起動し、空に向ける。レンズ越しに見える突き抜けるような青空。ソラはそこに映ったものを見て、呆れてその場に座り込んでしまった。

「なんだよ……」

 青い空の真ん中に、この街ならどこからでも見えそうなくらい大きな向日葵が咲いていた。

 それは、彼女の未来を表しているような気がした。きっと彼女はどんな場所でも咲いていけるのだろう。

 ソラは溢れる涙を拭い、アケビの残した向日葵に向かって手を振った。


「大学に進学しようと思います」

「お祖父さんの仕事は継がないのか?」

「……まだ早いと思いました。でも、進学先は魔法史を学べるところを考えています」

「そうか。何事も知識は必要だ。若いほうが学べることも多いだろう」

「はい。そこでたくさん勉強します。そして卒業したら……」

 ソラは大きく胸を張った。


 夢は道標。

 夢を持ち、人は前に進んでいく。薄っぺらじゃない、本当になりたいもの。

「魔法の杖職人に、なります」



7.

 渋谷警察署の留置所はひどく冷たい空気で満たされていた。消灯から二時間が経過したというのに男は充血した目で飾り気のない白い壁を見つめ、スクランブル交差点で杖を振るったあの日を振り返っていた。

 計画は完璧だった。標的は時間通りにそこに現れた。渋谷駅の連絡橋の上からピストルのように撃ち出された魔力の弾丸は手前のカップルの頭を貫通し、標的を貫いた。ちょうど交差点の真ん中に着弾した魔力は炸裂し、周囲に閃光と爆風を轟かせた。突然の出来事に右往左往する通行人。逃げ惑う様子もなくスマートフォンで撮影をはじめる若者が視界に入った。もうもうと立ち込める煙の中で徐々に被害が明らかになっていく。阿鼻叫喚の地獄絵図。鬱陶しいだけだった魔力にこんな使い途があるとは知らなかった。まるで神にも等しい所業ではないか。高笑いを抑えその場を立ち去った。

 誤算は自分の精神の脆さだった。連日テレビで報道される悲劇は自分が起こしたのにも関わらず、自分が被害者のようにも思えるほど精神を蝕んでいった。食事は喉を通らなくなり、はじめて無断で仕事を休んだ。悪夢は日を追うごとに激しく責め立ててくる。警察署の前をうろつくことが増えていった。不審な様子を察した警察官に話しかけられたとき、堰を切ったように全てをぶちまけてしまった。

 あれだけのことをしでかしたのだから、当然死刑は免れない。恐ろしかった。一瞬でも”神”になれたと錯覚した自分が恥ずかしい。

 「こんばんは」

 突然、脳内で声がした。目の前に知らない男が立っていた。ついに幻覚まで見るようになってしまった。

 「杖を置いてきたのは賢明な判断でした。しかし、貴方は与えられた役目を放棄してしまった。残念ですが、罰を与えざるを得ない」


 絶命し、冷たくなった男が発見されたのは翌朝のことだった。

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