三ツ星の杖職人
えま
第一部 前 『魔女と杖』
1.
夢は足枷。叶わなかった人のほうが多いのに、大人は無責任に夢を持てと言う。
小学校の卒業文集に将来の夢は"宇宙飛行士"と書いた。でもそれは書けと言われたから書いたもので、本当は興味など全然なかったのだ。
「何も考えていません」
高校三年生の望月ソラはきっぱりと言い切った。普段は使われることのない空き教室に、まるで挨拶のような明朗な声が響き渡る。机を挟んで向かいに座っていた担任の藤崎は、内容と声量がちぐはぐなソラの放言に生徒用の椅子の上で窮屈そうに身じろぎした。土埃を被りざらざらとした机の上に、無造作に置かれた進路調査書。そのくすんだ再生紙にはプリンターの黒いインクで印字された文字しかなく、ソラはそこに何も書かずに提出していた。
背凭れに体重を預けることなく、背中に定規を当てたように真っ直ぐ座るソラを前に、藤崎は茶色いチェックのハンカチで額の汗を拭い、困ったように頭を掻いた。白髪混じりのぼさぼさの髪は教師の苦労をそのまま体現しているようだった。
「あのなあ……」
放課後の柔らかい春の陽射しがカーテンの隙間から差し込んで、宙を漂う埃をきらきらと照らしている。ソラは周囲に浮かぶプランクトンのようなそれを見て綺麗だと思ったが、呼吸をするたびに肺に取り込まれていきそうな気がしたので、なるべく息を止めていようとも思った。集中を欠き、視線を泳がせるソラに藤崎は呆れたようにため息を吐いた。
「お前はそこそこ勉強もできるし、素行も悪くない。高校生活も今年度で終わる。色々考える時期だとは思うが、先生としては就職でも進学でもどちらを選んでも応援したいと思っている。不良が将来について何も考えていないということはこれまでもあったが、お前みたいな優等生がこうなるのははじめてだよ」
藤崎は”優等生”というワードを殊更に強調し、進路調査書の希望進路の空欄をコツコツと指でつついた。ソラも藤崎の脂の乗った顔から進路調査書に目を落とした。
ソラは美術や体育などの実技も含め、学校の成績は常に上位に位置していた。気さくな性格で友人も多く、教師からは年上に敬意を払いつつも分け隔てなく接することができる好青年、と評価されている。ただ、高校生にしては少し大人びていて、将来を悲観するほどではないが明るい未来には期待していないように見える、というネガティブな一面も持っていた。
「うーん……特に興味のある学問もないし、働きたいとも思いません」
将来のビジョンは曇っている。現代の若者然としたソラの回答に、藤崎は迷える子羊を導くことこそが教師の仕事だと意気込んだ。
「それじゃあニートまっしぐらじゃないか。いいか、大人になるっていうのはひとりで生きていけるという意味だ。高校を卒業したらもう社会に認められる立派な大人なんだよ。ご両親……。いや、失礼。お前を育ててくれたお祖父さんにも申し訳ないと思わないのか」
世の中に蔓延する立派な諫言。しかしそれは時と場合を間違えるとただの陳腐な言い回しに終始し、本当に伝えたいことはいつだって届かない。特に大人が子どもを”子ども扱い”する言葉は正にそうだ。大人と子どもの狭間にいるソラが少しムッとした顔をして言い返す。
「ニートにはならないですよ。ただ、少し考える時間が欲しいだけです。別に高校を卒業してすぐに働いたり大学生になったりしないといけないという決まりはないでしょう」
「それはそうだが、その”考える時間”というのを世間では”空白期間”と言うんだ。千里の馬は常に有れども伯楽は常にはあらず、だ。伯楽に見初められるためには常に牙を研いでおかなければいけない。もちろん、伯楽を目指すことも大切だが」
「さすが古文の先生ですね。伯楽みたいだ」
「そうだろう。好きこそものの上手なれだ」
ソラの挑発めいた発言をさらりとかわし、ふん、と藤崎が鼻を鳴らした。ソラは自分の言葉が如何に幼稚であるかを頭の片隅で理解しながら、しかし今度は少し間を置いて慎重に切り出した。
「でも、やっぱりいまはまだ決められないです」
表情を固くするソラを見て、藤崎がまた頭を掻く。ソラも決して担任の事を困らせようと思って発言したわけではないが、想像以上に親身になってくれる担任を前に少し申し訳ない気持ちが膨らんできていた。ややあって藤崎は肯定も否定もせずにやんわりと話を続けた。
「でもなあ……。そうだ、お祖父さんはどんな仕事をしているんだ? いまも学校が終わったら手伝っているんだろう?」
藤崎は名案を思いついたというような顔で掌をぽんと叩いた。ソラからするとあまり聞かれたくない質問ではあったが、担任に対する良心が口を開かせる。
「……杖を作っています」
予想外の返答に藤崎は目を見開いた。慌てた様子で聞き返す。
「杖? 杖ってあの、老人が使う」
床をつく杖のジェスチャー。ソラは言下に否定した。
「違います」
ドローンが空を飛び、電波が世界を繋ぐ科学隆盛の現代では目にする機会も無く、掛軸や日本刀のように骨董の価値としても足元には及ばない、時代遅れの代物。
「……”魔法使いの杖”です」
壁に掛かった時計が夕方の四時を指していた。秒針が刻む規則正しい音が静まり返った教室に響いている。さすがの藤崎もどう声をかけていいのかわからないといった様子で目をぽっかりと開けたまま静止している。ソラはふう、とため息を吐いた。だから言いたくなかったんだ。遠くから聞こえたチャイムの音に藤崎ははっと我に返ったように口を開いた。
「魔法使いの杖か……。かれこれ二十年教師をやっているが、作っているというのははじめて聞いたよ。だってほら、魔法使いってもうほとんどいないんだろう?」
「そうですね」
魔法使い、あるいは魔女と称される人間は有史以来、世界各地に存在していた。"魔女狩り"や"悪魔憑き"などの言葉が示すように世界的には畏怖の対象となることが多かったが、反対に”巫女”や”仙人”として信仰の対象となることもあった。人知を越えた不可思議な奇蹟は人々を魅了し、惑わし、歴史の節目や厄災の裏には必ず魔法使いが潜んでいると言われ、一時は国家の趨勢を担うほどの力を持つ時代もあったという。しかし産業革命以降の目まぐるしい科学の発達や、二度の世界大戦を端緒に魔法使いの影響力は徐々にその勢いを失い、いまは世界中どこを探してもほんの一握りしか存在していないと言われている。
「お祖父さんは魔法使いじゃないのか?」
「たぶん違うと思います。作っているのは見たことがありますが、使っているのは見たことがありません」
藤崎は腕を組んでうーん、と唸った。
「そうか。望月、お前も魔法は使えないの?」
「僕も何回か検査しましたが魔力の欠片もないみたいです」
とんがり帽子を被り、ローブを身に纏った黒ずくめの魔法使い。振り上げた杖の先から迸る稲妻は空を切り裂き、兎をライオンに、ライオンを戦闘機に変身させる。箒に跨がり宙を舞い、瞬間移動も朝飯前。魔法は全てを意のままに、あらゆる願いを実現させるーー。物心がついた頃から祖父の仕事を通して魔法を肌身で感じていたソラは、魔法使いに対する人一倍の憧れを募らせていた。祖父の店を訪ねる魔法使いや魔女はいつもミステリアスで形容しがたい雰囲気を纏い、悪い魔女の登場する絵本を読んで抱いていた畏怖の念はあっという間に尊敬へ、そして夢へと変わっていった。
そうして魔法使いになりたいと心に決めたソラに、魔力検査は容赦のない現実を突きつけた。一歳、三歳、六歳の検査を経て、ソラには魔力が全くないことが確定し、魔法使いになりたいという夢はほんの一瞬のうちに泡沫のように消え去った。途轍もないショックを受け呆然自失しているソラを、祖父は不器用なりに必死で宥めようとしてくれた。
『ほとんどの人間に魔力なんかないし、魔力が無くたって杖は作れる。楽譜が読めなくたって楽器は作れるだろう?』
『僕は杖職人じゃなくて魔法使いになりたいの!』
涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしていた、幼かった頃の自分を思い出しながらソラは言葉を続ける。
「……絶滅危惧種しか使わない道具に需要はありますか? この先食べていける保証はありますか? ……だから僕は家業を継ぐ気はありません」
「絶滅危惧種って、お祖父さんにとっては大切なお客さんだろう。第一そんなに言うなら、お祖父さんはどうやってお前を養ってるんだよ」
「さぁ、株でもやってるんじゃないですか。僕の両親の遺産もあるみたいですし」
藤崎の言葉はいちいち的を射ている。それがソラの心をちくちくと苛立たせていた。口からでまかせで適当に繕ってみたが、繁盛もしていない杖の売買以外にどうやって生計を立てているかはソラも知らなかった。ただ、電子機器の類を祖父が扱っているのは見たことがないので、少なくとも株式投資ではないなにかではあるはずだ。
「そうか……。まあまだ卒業まで一年あるし、お前ならゴールデンウィークくらいから受験勉強をはじめたってそこそこの大学には入れるだろうさ。犯罪にさえ手を染めなければどんな生き方だって応援するから。……じゃ、今日のところはこれくらいにしておこうか」
藤崎が突っ張ったズボンの膝のあたりをぱんぱんと払いながら立ち上がった。ソラもつられて立ち上がる。藤崎が進路調査書を取り上げ、ソラに手渡した。
「書いたら持ってきてくれ。いつでもいいから」
「はい。……すいませんでした」
ソラは頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。結局は担任のどこまでも大人な対応に自分の未熟さが浮き彫りになったようで恥ずかしい。
「迷うことも大切だ。……次は、戸村だな。悪いけど隣の教室で待たせているから呼んできてくれ」
「はい」
ソラは教室を出るときにもう一度藤崎に頭を下げた。謝罪の意を込めていたが、藤崎はそんなこと気にも止めない様子で大きく伸びをしていた。
「おせーよ」
慣れ親しんだ教室に戻ると、戸村アケビが窓際の席で椅子に浅く腰かけ両足を机の上に乗せていた。スカートの下からジャージの裾が見える。彼女は両腕を頭の後ろで組んで蛇のように目を細めてこちらを睨みつけていた。『不良は何も考えていない』という藤崎の言葉が脳裏を過る。こいつは間違いなく何も考えていないとソラは思った。
「てか、なに。優等生も調査書出さないとかあるの?」
眉にかかる短い前髪を弄りながらアケビが訊く。彼女はある意味ソラとは対極に位置している。一匹狼を気取っていて言葉も態度も刺々しい。勉強はそこそこらしいが振る舞いは素行不良そのもので、教師はおろかクラスメイトからも一定の距離を置かれていた。
「よく考えた結果、白紙で出しただけ」
ソラは鞄を机の上に置いた。がらんとした教室にはソラとアケビのふたりしかおらず、昼間のざわめきは見る影もない。クラスメイトは予備校での勉強か引退が迫った残り少ない部活動に勤しんでいるのだろう。校庭から聞こえてくるサッカー部の声援は、どこか遠い世界のもののようで判然としない。ソラも椅子に座り、首を回した。
「でも、なんか申し訳ないことしたなって思った。なんでもいいから書いとけば良かった」
短い面談ではあったが、やはり相手が教師だと緊張していたらしい。どっと吹き出した疲れの重さに耐えきれず、ソラは身体を倒し、頭を机の上に乗せた。
「私は書いたよ。将来の夢」
不意にそう呟いたアケビが足を上げ、器用に身体を回して机の上に座り直した。心なしか誇らしげな顔をしている。
「何て書いたの?」
夢じゃなくて進路だろと思ったが、ソラは自ら話を進めず聞かれたがっている様子のアケビに素直に従う。アケビはにやにやと笑みを浮かべた。
「女優」
「へー、いいじゃん」
ソラは少し驚いてそう返した。一年生の頃から同じクラスだったがほとんど話したことはなく、彼女の人となりを詳しく知っているわけではないのだが、なんとなく適当に書いたものではないんじゃないかという直感がある。
「あら、予想外の反応。笑われるかと思った」
アケビが眼を細めてはにかんだ。暑いわけでもないだろうに、ぱたぱたと胸元のシャツを扇ぐ。彼女の、第一ボタンを外した首元に見える赤紫色に爛れた皮膚がちらりと視界に入った。ソラは見てはいけないものを見てしまったようで、慌てて目を逸らした。その痛々しい火傷痕は、溶けてしまいそうな暑い季節でも、長袖シャツとジャージで過ごす彼女の全身に残っているというのをクラスの女子から聞いたことがある。火傷の原因は、煙草の不始末で家が全焼したとか、乗っていたバイクが炎上したとか、面白おかしく装飾された噂を耳にしたことはあったが実際のところはわからなかった。
「笑いやしないよ」
ソラは目を逸らしたことを悟られないように首を横に振った。アケビは感心したようにほう、と声をあげた。
「人間できてるなあ、ソラ。アイス奢ってやるからちょっと待ってろよ。五分で終わらせてくる」
アケビはそう言うや否や力強く立ち上がると机の脇にあった鞄を肩に掛け、ソラの返事も待たずに教室を出ていってしまった。人の予定も聞かないアケビの傍若無人な振る舞いにソラは呆れるしかなかったが、幸いきょうは家に帰ってもやることがない。アイスひとつで足止めされるのもたまには悪くないと思った。
時計は四時十五分を指していた。少しうとうとして目を閉じると、頭の片隅でぱきっと木材が割れる音がした。
乾燥させている木材に亀裂が入る音。木の収縮はそれ自身を断裂させるほど強力なものだ。自宅で静かに過ごしていると昼夜を問わず聞こえるのですっかり耳の奥まで染みついてしまっている。祖父がごつごつした手でソラの頭を乱暴に撫でながら言う。
『これは木が呼吸をしとる音だ。最高の杖は最高の木材と最高の鉱石から、だ。お前も木が呼吸する音を聞き分けられるようになったら杖を作らせてやろう』
祖父はソラが物心ついた頃からずっと杖を作り続けている。来る日も来る日も木を削り、石を削り、片目を細めて杖の撓りを確かめている。そんな祖父に一時は憧れの感情を持っていたことを思い出す。学校に通いはじめ"一般人"と交わるにつれ、自分の置かれている環境が特殊であることに気がついた。どうやら普通の子どもはお父さんとお母さんと暮らし、休みの日にはファミリーレストランにご飯を食べに行ったり、遊園地に連れていってもらったりするらしい。
"それ"を知ってしまったソラは子どもながらに反発し、祖父と大喧嘩をした。幼い頃の祖父との記憶は喧嘩ばかりだ。あれからもう何年も経つというのに、ソラは祖父との間にある薄い膜のような軋轢を払拭できずにいた。
「五分の間に居眠りかよ」
頭上からきん、とよく通る声がした。はっと頭を起こすと、アケビがにやにやした顔でこちらを見ていた。
「あんまり遅いから」
ソラが目を擦りながら呟いた。
「どうだった?」
「どうだったも何も、背中を押されて、知り合いの劇団を紹介されたわ」
呆れたという表情でアケビは両手を天井に向けた。
「良かったじゃん」
「良くねえだろ」
アケビは苦い顔で首を横に振った。ソラにはいまいちピンと来ない。とぼけた顔をするソラを見て、アケビは大袈裟にため息を吐くと吐き捨てるように言った。先刻より傾斜のついた西日が彼女の顔を燃えるような色で照らしていた。
「『お前には無理だ』って言って欲しかった」
四月にしては暖かい日。橙色の太陽が残った熱を全て放出しようと遠くの山際で光を放っていた。
高校から歩いて五分ほどのカフェ"マルシェ"でアケビはソフトクリームを二つ注文した。ひとつはバニラ、もうひとつはソラがリクエストしたチョコレート。
その場で受け取ったソラはお礼を言い一口舐めたが、すぐに苦い顔をした。
「……甘くない」
「ビターだからな。なんでもカカオを仕入れるとこから自家製らしい」
「へー」
ソラは感嘆の声を漏らした。原料まで拘るお店の店主もすごいが、そんなことを知っているアケビも意外だった。およそ女子が興味を持つものは敬遠しそうなのに。
ふたりはソフトクリームを片手に並んで歩きだした。
「藤崎先生はそんなこと言わないでしょ」
通学路の近くを流れる川の低い土手で、ふたりはソフトクリームを片手にぼんやりと水面を眺めていた。ビターチョコレートのソフトクリームは最初こそ舌が拒否するくらい苦かったものの、ゆっくり味わうと苦味の奥にほんのりと甘い香りが漂っているのがわかる。それに、奢ってもらったという事実だけでより美味しい気がした。
ふたりが座る土手のすぐ右手には橋が架かっていて、車が通過する度にタイヤが路面を擦る音と排気ガスの臭いが風に乗って運ばれてくる。
「あの日和見野郎には荷が重かったな」
零れそうになった乳白色の液体を指で掬いながらアケビは言った。藤崎に対してあんまりな言い方だったが、どこか好意的な響きも含まれているような気がする。ソラは苦笑し、斜面に長く伸びた影を見つめて言った。
「……僕は昔、魔法使いになりたかったんだ。魔法が使えたらなんだってできる。魔法執行員とか警察の対魔法特捜課とか格好いいよね。悪い魔法使いを正義の魔法使いが倒すんだ。他にも一般人を守るヒーローみたいな、民間の魔法組合もありかな……。まあ、進路調査書にそんなこと書かなくて良かったと思うよ。夢と進路は違うから」
「魔法使いね……」
アケビが夕陽を反射しきらきらと輝く川面を見つめながら呟いた。少しだけ物憂げな表情を浮かべたのは気のせいだろうか。
「戸村は」
ソラが口を開きかけたところで、アケビが手でそれを制した。
「アケビでいいよ。アケビ。戸村は施設の名前だから」
「施設?」
「そう。私、孤児なんよ。戸村児童保護センター出身。川の向こうにあるけど知らん?」
アケビは川向こうを手で示し、あっけらかんとした様子で言い放った。ソラは一瞬言葉を失い、同時に納得と安堵の感情が広がった。
これまでアケビとほとんど接したことのない理由は、ソラのほうが避けていたからだった。確かに彼女は一見近寄りがたい雰囲気を纏っていたし、誰かしらと常に行動しているソラとは学校での過ごし方が違った。クラスメイトもアケビのことを不良だと認識していたし、彼女もそれを正面切って否定はしなかった。水と油のような交わらないものを狭い教室に押し込んだ時、生まれる軋轢を回避する方法は”関わらないこと”以外にない。好きの反対は無関心というが、不良のレッテルを貼られた彼女をろくに知ろうともせずに忌避していた自分を恥じた。ソラは過去の自分を否定するように首を振った。
「僕も、両親がいない」
この短い時間でアケビに抱いた安心感の答え。ソラはこれまで手続きなどでどうしても必要な時以外、両親の不在を口にしたことはなかった。同情を買うのも癪に障るし、一般的には当たり前に在るものがない劣等感や羞恥心に苛まれ、隠してきたと言ってもいい。
アケビは口をぽかんと開けてソラの顔を見た。やがて肩を震わせて笑いだした。
「だったら、なんだよ」
ばりっとソフトクリームのコーンを口の中に放り込むとアケビは立ち上がった。土手を駆け降り、じゃりじゃりと河原を歩いて静かに流れる水面に近づいた。彼女の手にはいつの間にか平べったい石が握られていた。
「見てろよ」
アケビは腰を曲げ、低い体勢から遠心力に任せ大きく右腕を振った。彼女の右手首に巻かれた銀色の細いブレスレットが光った。ふわりとスカートの裾が弧を描く。鋭く回転のかかった石は波紋を残しながら滑るように水面を進む。
「すごい」
ソラは思わず感嘆の声を漏らしていた。
「練習したからな」
アケビはくるりと振り返るとまだ土手に座ったままのソラを見て、両手を腰に当てた。
「親とか、どうでもよくない?」
「……」
俯くソラに、アケビはさらに声をかける。
「私は丈夫な身体に産んでくれて感謝してるぜ」
ソラはゆっくりと顔を上げ、眩しそうに手を翳すアケビを見つめた。
「ごめん。アケビって何も考えていないと思ってた」
「は?」
怪訝な表情のアケビを見てソラは笑った。
「どうでもいい、確かにそうだね」
ソラも立ち上がった。
「それ、教えてよ」
アケビがふん、と鼻を鳴らした。
「まずは、石探しからだな」
ソラも残ったソフトクリームを平らげ河原に降りると、足元に転がる大小様々な大きさの石を眺めた。四月の春の夕暮れは石を探すには少し暗い。
「掌に収まるくらいで、円くて、平べったくて、少し重いやつ。あんまり小さくてもダメ」
アケビはひょいと石を掴んでは川に投げ込んだ。ソラも彼女に倣って目を凝らす。"仕事"で石を探すことはあったが、目的が違うのでなかなか見つからない。一見、平べったく見える石も手に取ってみると裏側がごつごつしていたり、凹んでいたりする。ソラは何度も石を拾い上げ、そして投げ捨てた。これだという石が見つからない。しかし、その見つけられない状態を少しだけ楽しいと思っている自分がいた。
「まだ見つからねぇの?」
「しっくりくるものがない……」
「しょうがねえな」
アケビは手に持っていた石をこちらに向かって投げた。ソラはそれを辛うじてキャッチすると、その手触りに思わず驚いた。
「完璧じゃん」
ソラの掌に収まったその石は円くて、平べったくて、ちょうどいい重さをしていた。
「もう暗いし、それを投げたらおしまいだ」
「ありがとう」
ソラはアケビに投げ方を教わり、できるだけ低く上半身を曲げると、勢いよく石を投げた。ぱしゃっと軽い音がして飛沫が上がったが、それきり水面は静かになった。
「失敗だな」
アケビが笑った。ソラはばつが悪そうに頭を掻いた。
「そろそろ帰るよ。じいちゃんが心配する」
「そーだな。私も帰るわ」
鞄を肩に掛け直したアケビを見て、ソラはふと思ったことを口にした。
「アケビは誰かと暮らしているの?」
言った後ではっと口を噤んだ。あまりにも無神経な質問だったと後悔する。
「いや、高校生になって、施設出てからずっとひとり暮らし」
「あ、そう。なんかごめん」
俯くソラの背中をアケビは思い切り叩いた。
「だから気にすんなって」
アケビと別れ、夜に紛れて消えかけの自分の影を追いながらソラは帰路を辿っていた。藤崎との面談からアケビとの会話を振り返り、ソラは自分が思っているよりずっとちっぽけな存在だったと思い知らされた。あるいは自分を残して世界がぐっと拡大したのかもしれない。それでも気分は清々しく、足取りは重くない。
もっと早く話しかけていれば良かった。アケビはいつもひとりで、虫の居所が悪そうな表情を浮かべていた。そんなだから当然、クラスでも浮いていたし、話しかける人間もいなかった。ソラも遠回しに見ていただけで、実際のところ教室に飾られている花瓶や掲示板のポスターのような、風景の一部としか認識していなかった。
『女優』
彼女は進路調査書にそう書いたらしい。彼女の口から放たれたそのワードはくっきりとした夏の青空のように凛とした響きを帯びていた。真偽や理由はどうであれ、彼女はそれを進路という形でアウトプットしたのだ。同時にソラの脳裏には彼女の痛々しい火傷の痕が浮かんでいた。テレビで見る女優は誰も彼も彫刻のような造形で、全身を覆う皮膚は傷ひとつなく滑らかに連続している。彼女は本当に『お前には無理だ』と言って欲しかったのだろうか。自分だけでは夢を諦めることができず、他者にまるごと否定されたかったのだろうか。自分で自分を否定することは、きっとすごく難しいことなのだろう。白紙で提出した自分はともかく、ちゃんと進路を記入した彼女をどうして藤崎は呼び出したのか。
あれこれ考えている内に、夕食を買う予定だったスーパーを通り過ぎてしまった。引き返すのも面倒なのでこの先にあるコンビニで済ますことにする。祖父とのふたり暮らしで、食事の担当は専らソラが担っていたが、ソラが自ら調理したものでもコンビニで買った惣菜でも祖父は「おう」としか言わずに全て綺麗に平らげるので張り合いがないとは常々思っていた。コンビニでおにぎりを四つとペットボトルのお茶を買い、帰りの路を急いだ。街灯がじりじりとソラの足元を照らしている。
鬱蒼と繁る木々の間、蝶番が軋む背の低い門扉を開ける。その向こうには両側に切り出された木材が乱雑に積まれ通路になっており、このまま真っ直ぐ抜けると祖父の仕事場がある。森の中に立てられた東屋のような屋根だけの簡素な仕事場。そこで祖父は一日中杖を作っている。
「ただいまー」
おそるおそる声をかけると、小さな裸電球の灯りの下でなにかがもぞっと動いた。短く刈られた白髪頭に白いタオルが被せられている。そして灰色のツナギを着るのが祖父の仕事中の正装だった。
「おう」
祖父がこちらを見ることもせず、唸った。肩の辺りが上下している。おそらく杖をヤスリにかけているのだろう。ソラには慣れっこなので、ビニール袋から自分が食べるおにぎりだけを抜いて残りを手前の切り株の上に置いた。
「晩飯ここにおいとくから」
祖父がちらりとこちらを向いた。口の端でもごもごと何か言っている。
「なに?」
「あした来客があるから空けとけ」
ソラは無言で頷いた。来客は月に二、三回ほどあり、新しい杖を受け取りに来るか、修理の依頼かのどちらかである。いま預かっている杖はないはずなので、おそらく新しい杖を受け取りに来るのだろう。
「茶菓子はあるか」
「ちょうど切らしちゃってるかも。さっきコンビニ寄ったから言ってくれれば買ってきたのに」
祖父は連絡手段を持っていない。家を離れることがないのでいらないと本人は言っているが、こういうときのために旧型でもいいから携帯電話を持っていてほしいと思った。
「明日でもいい?」
ソラが聞くと、祖父は無言で頷いた。祖父はくるりと背中を向けるとまた両手を動かし始めた。
ソラが覚えている祖父の最も古い記憶も、あの丸まった背中であった。根っこでも生えているかのように決まった位置に座り、いつもいつも丁寧に杖を作っている。本体になる木を刈るところから嵌め込む鉱石の選定まで、祖父は杖に関わる全ての行程をひとりで行っていた。最もここ何年かは祖父も寄る年波には勝てないのか、木材を買いつけたり、ソラを手伝いに駆り出したりすることはあるが、ソラの手伝う領域はただの芝狩りと石拾いで、いわゆる杖作りには未だ関わらせてもらえなかった。
ソラは祖父の仕事場を後にし、同じ敷地内にある”離れ”へと帰った。こちらはまだ家のなりをしていて、木造平屋建ての簡易シャワーがついた六畳間である。ソラにとっては快適な自分の城だった。
家の裏にある洗濯機にシャツを投げ入れ、シャワーを浴びる。着古した寝巻きに着替えると今どき珍しいブラウン管のテレビを点けた。
おにぎりを頬張りながらチャンネルを回していると、とある民放のニュース番組が目に入った。ちょうど一週間前に起きたテロ事件の特集が組まれていて、ニュースキャスターと専門家が難しい顔をして議論を交わしている。
『では、ここで改めて事件の概要を振り返ってみましょう』
地味な格好をしたキャスターが神妙な顔で頷いた。画面が切り替わり、男性の声でナレーションがはじまる。
『国内では半年ぶりとなる魔法犯罪です。犯人は白昼堂々、渋谷のスクランブル交差点で杖を振りかざしました』
その時の映像が流れる。視聴者がスマートフォンで撮影したもののようで、縦長の画面の向こうで人々が右往左往していた。撮影者が走っているのか、画面は左右にぐらぐらと揺れている。派手な爆発音、悲鳴、怒号。画面端から立ち上る煙は黒々として巨大な怪物のような様相をしていた。
『死者十二名、行方不明者十一名の凄惨な事件。中には衆議院議員の立川幸伸氏や、日本医師会副会長の元木俊郎氏も含まれており、日本政府への明確なテロリズムとも見做されています。犯人は未だ捕まっておらず、現場に残されていたのは半年前と同じ魔法痕"白"でした』
画面が切り替わり、CGで製作されたような黒い背景に白い模様が浮かび上がる。平面に光る白い円の中に複雑な幾何学模様が描かれ、ゆらゆらと揺れていた。
”魔法痕”とは魔法を使った際に現れる固有の印である。
日本は戦後の経済成長の途上で魔法を実用化、汎用化する研究に多額の資金を費やした。研究は功を奏し、魔法に係る謎が次々と解明されていく中で、とある研究者が発見した『魔法痕は指紋と同様に個人に固有のものである』という事実はこれまでの研究の中でも最大の功績とされている。つまり魔法痕は指紋や虹彩と同じレベルで個人を特定することができる。そしてその発見は皮肉にも魔法の衰退に拍車をかける結果となってしまった。魔法犯罪が増加の一方を辿る中で、時の政府はこれをチャンスとばかりに魔法使い達に魔法痕の登録を義務づけた。犯罪者のような扱いに当時は反対運動も起きたそうだが、政府は強硬に政策を進めてしまった。そうなると、加害行為はもちろんのこと日常の些細な魔法さえ魔法痕が残るものだから、ただでさえ好奇の目に晒される魔法使いは自然とそのなりを潜めてしまったのである。そもそも魔法痕は本来は魔法使いにしか視認できないものであったが、当時開発された専用の眼鏡やカメラを通せば一般人にも目視できるようになっており、魔法は物好きの趣味か、既に過去のものという認識が世間には浸透していた。
ただ、魔法痕"白"となると話は変わってくる。それは特殊な杖を使い個人を特定できなくさせるものらしい。昔祖父から話を聞いたような気がするが、ソラも詳細までは覚えていなかった。
ソラは自室であっと声をあげた。そういえば祖父から渋谷テロ事件の続報があったら教えてくれと頼まれていたことを思い出す。立ち上がり、部屋を飛び出した。
まだ湿った髪が夜風に当たって心地良い。仕事場に行くと祖父はソラがせっかく買ってきた夕飯にも手をつけず、数刻前に見たときと同じ格好で一心不乱に木端を磨いていた。
「じいちゃん、先週のテロ事件の特集やってる」
背後から声をかけるが、祖父は手を止めず、脇に置いてあった桶から水を手で掬うとまたごりごりと杖を磨き始めた。
「……魔法痕は?」
「”白”って言ってた」
「見る」
祖父は木の端とヤスリを作業台の上に置くとばっと立ち上がった。切り株の上に置いてあるビニール袋にはじめて気がついたというような素振りを見せ、それを手に掛けるとさっさと歩き出した。慌ててソラも後を追う。
「ねぇ、”白”ってなに」
「出来損ないの魔法痕」
祖父はぶっきらぼうに言い放った。
「工場生産で作ったインチキ商品が、失敗作かと思ったらとんだ代物だった。前に話さなかったか?」
祖父の言葉でソラはやっと思い出した。魔法痕登録義務づけに反発した一部の魔法使いが作り上げたと言われている魔法痕を残さない杖。これまで杖とは祖父がやっているようにオーダーメイドが基本だったが、”白”の杖は工場でのオートメーションで生産されたため、短期間で大量に出回ってしまったらしい。その実態は個人の魔法痕に別の魔法痕を上書きするもので、上書きされた魔法痕自体が白いということもあるが、その紋様の中に走る太い線が漢字の”白”に似ていたことからその名前が付けられたという。ただ、この魔法痕で個人を特定されないようにするという目論見は魔法使いへの規制をより一層強めることになり、魔法使い側からも批判を浴びる中で工場は瞬く間に廃業となってしまった。その時市場に出回っていたものは大半が回収されたというが、今回のテロ事件は回収を逃れた杖の持ち主がその事件を引き起こしたと推測されている。
「また、杖の立場が悪くなる。クソ迷惑なことしやがって」
祖父は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
部屋に戻ると画面はスタジオに切り替わっていて、珍妙な格好をした老人が深刻な顔をして座っていた。
『それではここで専門家の紹介です。日本魔法使い連盟”JWF”の会長、都筑魔佐人さんです』
『よろしくお願いします』
全身を黒のローブで覆った都筑が頭を下げる。頭の上に被っていた三角帽子の先がくにゃりと折れ曲がった。
「どっかのプロレスラーを真似てあんな変な名前にしたんだと、ヒマレンの馬鹿が」
祖父は日本魔法使い連盟が絡むとすごく口が悪くなる。会長とは個人的な繋がりがあるらしく、しかし連盟の頭文字を取った”ヒマレン”は親しみではなく侮蔑の意味を込めてそう呼んでいる。祖父曰く、ロクに働きもしないヒマな連中ということらしい。
『都筑さん、今回の事件を受けて、連盟としてはどのような対策をお考えでしょうか』
『はい。引き続き対象の杖の回収に全力を挙げて対応して参ります』
『現在、杖の製造には法務省の認可が、所持には各自治体の登録が必要ですが、例えば使用の制限などもっと規制を強めろと言う声も聞かれます。そちらについてはどのような考えをお持ちでしょうか』
都筑は難しい顔をしながら両肘をテーブルの上に乗せ、顔の前で指を組んだ。
『まず、杖規制の問題としてアメリカの銃規制の話が比較対象としてよく引き合いに出されますが、根本的な違いとして杖は人を殺傷する目的の武器ではないことをご理解いただきたいのです。かつて魔法は常に人と共に在りました。人間の探求心は留まることを知らず、魔法の研究は加速度的に進みました。魔法痕による個人の特定、魔法によるエネルギーのロスなどデメリットばかりが取り上げられ、現代文明では残念ながら魔法は過去の産物となりました。自身の行動範囲や魔法の使用履歴が公に開示される点や、自ら手を動かし皿を洗うのと、魔法で皿を洗うのとでは結局消費される自身のエネルギーはほぼ同じという点などですね。だったらスイッチひとつで、電力で食器洗い機を起動させたほうがいい。これは当然の帰結です。スマートフォンが魔法より魔法らしく、便利なデバイスであることも認識しています。しかし、科学製品がどこまで便利になろうとも、人が魔力を宿し生まれてくる以上、魔法が消えることはありません。蓄積された魔力は行き場を失い、感情の昂りなどをきっかけとして暴発することがあります。杖はその溢れそうな魔力に指向性を持たせるものです。必要なんですよ』
都筑は特に最後の一言の語気を強めた。しかし、司会進行のキャスターは都筑の言葉に全く怯むことなく、右肩下がりのグラフが記載されているパネルを示し、言葉を続けた。
『現代では魔力を持って生まれる子はほとんどゼロになっています。仮に魔力を持って生まれたとしても投薬で後天的にゼロにする対策が進められています』
『それは、そうですが……』
都筑の顔が曇る。それを見ていた祖父も険しい顔をして画面を見つめていた。魔法は過去のものという認識は、度重なる魔法痕"白"による事件によって”魔法は悪”という認識に変わりつつある。ハリー・ポッターが世界中で大流行した頃に魔法使いの地位も多少改善すると思われたが、それも一時のもので長続きはしなかった。魔法使いの絶対数は減り続け、それに代わるようにエネルギーロスの少ない便利な科学製品が世の中に次々と誕生している。
『そうして代替品が魔法を凌駕していった結果、杖の”生活を豊かにする”という目的は失われ、使い道は人に危害を加えるというものしか残らなくなったのではないですか。それに殺傷力という点では、銃とは比較にならないほど強力ですよね?』
『杖に罪はないんです。犯罪を犯すのは常に人間です。どんな道具も正しい使い方をしなければ凶器になり得ます。杖の所持に関しての自治体の登録には我々JWFも密接に連携しています。使用者には徹底してルールの理解を進め……』
祖父がテレビの電源を消した。膝を押さえて立ち上がる。静かな怒りが陽炎のようにその背中から沸き出ている。
「都筑は馬鹿だ。コテンパンにされるのが分かっているのにテレビに出やがる」
苦渋の表情を浮かべながら呟いた。
「……だが、『杖に罪はない』というとこだけは同意だ」
翌日の放課後、ソラは学校からの帰り道に、昨日と同じ土手に座りぼんやりと川面を眺めているアケビを見つけた。橋は自宅と学校を行き来するためには必ず渡らなければならず、ソラは毎日通っているのだがアケビが目に入ったのははじめてだった。昨日の口ぶりから察するに、彼女はそれなりにここに来ているようなので、単にソラの意識がそちらに向いていなかっただけなのかもしれない。
「また練習?」
さくさくと若葉を踏みしめソラは土手を降りていく。昨日よりもまだ日が高く、穏やかに流れる風は川面に小さな波を立てていた。声に気がついたアケビが振り向いて頬を緩ませた。
「きょうはイメージトレーニング」
「イメトレ?」
「そう。……ここは舞台。きらきらしてる水面はカメラのフラッシュ、あるいは拍手、歓声。劇団四季でもブロードウェイでもなんでもいいけど、大喝采を浴びる舞台に私は立っている」
ソラも水面に目を向ける。確かに、乱反射する光の粒はそのひとつひとつが聴衆に見えなくもないし、川のせせらぎを拍手と捉えることもできそうだ。
「すごいね。もうオーディションとか受けてるの? 芸能事務所に応募したり?」
「まさか。口だけだよ」
アケビは呆れたような口調で言った。あくまで冗談、ということらしい。
「なんだ。進路調査書にも書いてるって言うから、本気かと思ってた」
「本気…ね。ソラは本気でなにかに取り組んだことある?」
アケビが自分の隣を手で示した。ソラはおずおずと隣に座り込む。振り返ると同じ制服を着た生徒が連なるように土手の上を歩いていて、ちらちらとこちらを見ては何事か話しているようだ。一気に居心地が悪くなる。アケビは気にするな、と笑った。
「……あんまりないかもしれない」
「そうだよなあ。そんな気がしてたんだよ」
頷くアケビにソラは首を傾げた。
「本気出さなくても八十点取れるなら、それでいいよな。百点満点なんていらないから」
端的なアケビの言葉にソラは痛いところを突かれたように黙りこんでしまった。八十点は過大評価だが、ソラの根底に横たわる思考は確かにそれに近いものがある。
「……だからさ、怖いのよ。女優目指すのが。本気でなにかをやってやろうっていうことが」
アケビが手探りで石を拾い上げながら言う。それはソラに話しかけているようで、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「たぶん、このままじゃどう転んだって無理だ。……ちょっと前にひとりで渋谷に行ったことがあって、待ち合わせするフリしてずっと駅前で突っ立ってたの。ほら、芸能人って一日に何回もスカウトされたとか百人にナンパされたとかの逸話があるじゃん。そんなこと起きないかなーって思ったら、やっぱり起きない。月並みなんだけど、現実知ったよね。女優が要求されるもののうち私が満たしているのって、身長くらい?」
アケビの手から放たれた石は綺麗な放物線を描いて川へと飛び込んだ。パニックに陥った聴衆が右往左往するように川面が乱れる。
そんなことないよ、という言葉が思い浮かんだが、それはすぐに萎んで消えていった。いま、彼女にかけるべき言葉は自分の中にはない。ソラも適当な石を拾い上げて投げた。アケビが作った波紋に被せるように、新しい波が生まれて消えた。
「もし、自分の全てを注いで失敗したとしたら、もうそこには何も残らないのかな」
ソラはぽつりと呟いた。不意に頭に浮かんだ疑問。進路調査書の空欄は自分の弱さを的確に表していた。
「やったことないからわからない」
アケビが答える。沈黙。橋の上を車が通過した。川は一定の速度で流れ続け、空の高いところを二羽の鳶が旋回していた。
ソラは立ち上がった。アケビが見上げたその手には平たい石が握られていた。
「……やってみるよ」
ソラは体勢を低く構えた。首を傾け、橋脚の一点を見つめる。
「まずは三回だ」
ソラの手から放たれた鋭く回転のかかった石は、ほとんど水面と平行に滑るように水の上を跳ねていった。そのまま橋脚の低いところにぶつかり石は姿を消したが、目視でも五回は跳ねたような気がする。
「やるじゃん」
石の行方を目で追っていたアケビが笑った。
[newpage]
2.
屋根を打つ雨の音で目が覚めた。四月も後半に入り、このまま初夏へと季節は移り変わっていくものかと思っていたが、一転して冷たい雨の降る肌寒い朝だった。もう少し寝ていたいと思ったが、ぱたぱたと鳴り響く雨音がソラの脳を覚醒させた。
目を擦りながら制服に着替え、顔を洗った。朝食はもう何年も摂っていない。テレビを点けるときょうの東京西部は一日中雨だと天気予報士が告げていた。ドアに立て掛けていたくたびれたビニール傘を持ち外に出た。少し早いが学校に向かおうと思った。
祖父の仕事場の方からはなんの物音もしない。きっとまだ寝ているのだろう。積まれていた木材には青いビニールが被せてあった。
家から学校までは歩いて三十分ほどかかる。自転車でも構わないのだが、杖作りの中でも特に木や鉱石の素材探しはなかなか体力が必要で、運動習慣のないソラは登下校だけでも足腰を鍛えようと徒歩通学を選択していた。
アスファルトの路面に跳ね返る雨滴はすぐに靴をびしょびしょに濡らしてしまった。足指の不快感に替えの靴下を持ってくれば良かったと少し後悔した。
教室の戸を開けると、クラスメイトの谷川ミホが自分の席でノートを広げなにかを書いていた。他人のことは言えないが、まだ始業まで一時間もあるというのにずいぶん早い登校だと思った。
「おはよう」
声をかけるとミホはびっくりした表情を浮かべ、こちらを見た。彼女は顔にかかった湿気を含んで重そうな長い黒髪を払うと首の後ろでひとつに纏めた。
「あ、ソラくん。おはよう」
ミホはノートを閉じると微笑んだ。彼女とも三年間同じクラスだ。話す機会もそれなりに多く、クラスメイトの女子の中でも仲が良いほうである。
「藤崎先生との面談はどうだった?」
心配そうな表情を浮かべミホが訊く。昨日の帰りのホームルームでソラとアケビは名指しで呼び出されていたので、進路調査に問題があったことは周知の事実となっていた。
「すごく優しかった。藤崎のこと見直した」
ソラは藤崎との会話を思い出しながら答える。
「ふーん、戸村さんは?」
「さあ」
ソラは手を上げて知らないフリをした。アケビの進路に関わる話を彼女の許可無しに他人に漏らすわけにはいかない。
「へー、昨日彼女とふたりで帰ってたから何か聞いてるのかと思った」
探るような視線を向けてくるミホに、ソラは首を振った。
「なにも聞いてないよ。すぐ解散したし」
ソラは自分の机に鞄を置くと、トイレに行くと言って教室を出た。
廊下の窓から重たい雨空を眺める。窓には水滴がたくさん流れていた。
ソラはみんなと仲が良い。自分でもそう思っていたし、他人からの評価もそう違いはないはずだ。昔から他人の顔色や感情の機微を読み取るのに聡く、当たり障りのない生き方をしてきたつもりである。特別仲が悪い人間もいなければ特別仲が良い友人もいない。だから、ソラの勘違いでなければミホのように一線を越えた好意を向けられると急に居心地が悪くなる。彼女には悪いと思っていたし、自分が人の気持ちに真っ向から向き合えない臆病者なのも理解しているが、それでも教室にふたりきりになるのは避けたかった。
「よお」
そのまま窓の縁に腕をかけ、永遠に降り注ぐ水滴を眺めながらぼんやりとしていると、アケビが鞄を肩に引っ掛けながらこちらに歩いてきた。
「どうしたそんな暗い顔して」
「おはよう。アケビも早いんだね」
ソラは普段はもっと遅い時間に来るので、朝は誰がどの順番で来ているのか知らなかった。
「まあな。自衛っつーの?」
「自衛?」
ソラの質問には答えずに、アケビは歩いてきた勢いのまま教室の前のドアをがらがらと開けた。
ミホがばっと顔を上げた。ソラが声をかけたときとは違うひきつったような驚きの表情。彼女はアケビに顔を向けたまま、ノートをそっと閉じた。
「……おい、言いたいことがあんなら直接言えよな」
アケビはまるでミホが教室でなにをしているのかを知っているかのような口ぶりで言い放った。だん、と威嚇するように鞄を机の上に置くと、アケビは腐ったものでも見るような蔑んだ目でミホのことを睨んでいた。
「そのノート、私のだよな。返せよ」
ソラはアケビの剣幕にひどく驚いていた。ふたりのやり取りは尋常ではない。剣呑な雰囲気は湿った空気を伝いソラの全身を包んでいた。
「あ、おはよう戸村さん……」
ミホが消え入りそうな声で言う。アケビの肩越しに中を覗いていたソラと視線がぶつかった。
「違うの、違うのよ。昨日拾ったから返そうと思って」
慌てて立ち上がったミホはアケビにではなくソラに話しかけていた。ただ、ソラはミホがそのノートに何かを書き込んでいたのを目撃している。状況から察するに、苦しい言い訳だった。
「は? いいから返せ」
アケビはつかつかとミホに歩み寄ると、ノートを引ったくった。その場でぱらぱらとページを捲る。その顔に表情はなく、無言でそこに書いてあるものを目で追っているようだった。
「はあ……」
全て読み終えたのか、アケビはため息を吐くとそのノートを教室の後ろにあるゴミ箱に放り込んだ。がん、とノートの縁がゴミ箱に当たり、その音でミホの身体がびくりと震えた。
アケビは鞄を肩に掛け直すと窓側の自分の席に座った。鞄を足元に投げ出し、頬杖をついて窓の外の雨空に目を向けるとそのままぴくりとも動かなくなった。立ち尽くすミホは憤怒とも羞恥ともつかない真っ赤な顔でアケビのことを睨みつけていた。
一部始終を目撃したソラは早く誰か来てくれと教室の外で祈っていた。
「従って、摩擦で発生する音、熱、その他諸々もエネルギーとして捉えれば……」
かつかつとチョークが黒板を擦る音が聞こえる。英語の授業のはずだが、いつの間にか先生は物理の訳のわからない話をしていた。大学の過去問を解説するという授業だったが、クラスメイトが持参した英文が物理法則について論じられているものだったらしく、議論はあらぬ方向に白熱していた。ソラはそれをノイズとして聞き流しながら、降りしきる雨に漠然とした将来への不安を重ねていた。ミホは右前の席で机の上に志望大学の過去問を広げ、忙しなく手を動かしノートにせっせと書き込んでいる。窓際に座るアケビに至っては堂々と机の上に突っ伏していた。耳を澄ませば寝息が聞こえてきそうなほど背中がゆっくりと上下している。他のクラスメイトも思い思いの作業に没頭していた。
制服は免罪符だ。これを着ていれば大抵の未熟さは許される。未完成であることは批判の対象にはならず、設計図を書き続けている限りは声援すら受けられる。仮に完成品がひどく矮小であっても、設計図が実現不可能であっても、高校生なら許されるのだ。大人になりつつある抗えない時間の流れ。ソラは否応なく迫ってくる無限の可能性に足が竦み、しかし数多の選択肢に思考は鈍る。
杖職人を継げばいいじゃないか。
無責任な誰かが言う。そう簡単に言ってくれるな。僕にだってやりたいことがある。
やりたいことって、なに?
また、声がする。
それは……。
朝から降りだした雨は、帰宅の時間になっても弱まることはなく、憂鬱そうに空を覆う灰色の雲から降り注いでいた。
あれから結局、アケビは放課後まで誰とも話すことはなく、帰りのホームルームが終わるとさっさと教室を出ていってしまった。ミホはというと他のクラスメイトと仲良く談笑できるほどに普段の落ち着きを取り戻していて、朝の出来事などなかったかのように振る舞っていた。
アケビとミホはソラとずっと同じクラスだった。教室でふたりが仲良く話しているのを見たことはないが、逆に対立しているのも見たことがない。それこそ水と油のように関わらないようにしているのだと思っていた。アケビはそもそも敵を作ることを気にかけるタイプではないし、あの態度を良く思わない人もたくさんいるだろう。しかし、今朝のアケビのミホに対する対応は過去に何かあったことが明らかだったし、ミホもああいうことをするのははじめてではなかったように思う。
それにしても、その場に居合わせてしまった運の悪さに辟易する。アケビが生半可なことは自ら振り払ってしまうので大事にはなっていないことだけが幸いだった。
帰り際、教室の後ろにあるゴミ箱が目に入った。あそこにはまだアケビのノートが投げ込まれたままだ。ミホは何かを書きつけていたようだが、ふたりの反応から察するにろくなことは書かれていないのだろう。見ても気分が悪くなるだけだと、ソラは教室を後にした。
冷たい雨に体温を奪われソラはぶるっと震えた。肌寒かったので、今夜は鍋にでもしようかと思った。スーパーで鍋の食材と、祖父に頼まれていたお菓子と飲み物を買った。重たいビニール袋を傘の持ち手に引っ掛けて歩いていると、ちょうど家の門の前に人が立っているのが見えた。その人はソラが近づいてくるのに気がつき、こちらを振り返った。
「あら、ソラちゃん」
「こんにちは、梅野さん」
梅野はその年齢にしては豊富な銀髪を揺らしてゆっくりと頭を下げた。肩に掛けた夜空のような色のストールが揺れる。ストールを肩に掛け直したとき、大きな青い宝石の嵌まった指輪がきらりと光った。流麗な仕種は本人の雰囲気も相俟ってとても絵になっている。梅野は一年に一回は祖父のもとを訪ねてくるのでソラとも顔馴染みで、品のあるおばあちゃんという印象をソラは抱いていた。
梅野はこんな雨だというのに傘を差していなかった。しかし、彼女の髪は穏やかな春の日のように乾いている。彼女の頭上の一点を中心に雨粒が放射状に広がり、空間を滑るように落ちていく。
「きょうの来客って、梅野さんのことだったんですね」
彼女は”魔女”で、それも日常で魔法を使うことを厭わない、いまでは珍しいタイプである。
「そうなの。杖を新調しようと思ってね。いま使っているこれも悪くはないんだけど、重くてね」
梅野が腕に掛けた小さなバッグから杖を取り出した。ソラはその杖をじっと見つめた。30cmか31cm、黒に近い茶色で節がごつごつとしている。ぴんと真っ直ぐに張っていて、撓りは弱そう……。ソラは頭の中で祖父と杖用の木材を伐りに行った日を思い出す。
『杖の素材はひとりひとり違うんだ。相性がある。弱い木なら気にすることはないが、クセの強い人間にはクセの強い木を当てないといかん。臆病なやつに強い木を当てると主従が逆転しちまうこともある。人が杖を選ぶんじゃなく、杖が人を選ぶんだ』
「確かに重そうですね……。杉、北海道のほうの杉ですか?」
「あら、すごいわねソラちゃん。大正解よ。背が伸びただけじゃないようね」
梅野が杖をひょいと振ると、ソラの頭上に小さな赤い花が咲いた。
「じいちゃん、梅野さん来たよ」
作業場のトタン屋根を穿つ雨の音に負けないようにソラは声を張った。相変わらずの姿勢で作業をしていた祖父は手を止め、首だけをこちらに向けた。
「おう。ちょっと待っとれ。茶でも出してやんな」
祖父は立ち上がると杖や素材を保管している半地下の倉庫へ向かった。
「すみません。雨で座るところもなくて」
ソラが申し訳なさそうに言うと、梅野はにこにこと笑って言った。
「大丈夫よ」
梅野は杖を宙に掲げると大きく円を描くように先端をくるりと回した。ざわざわと木々が揺れる音がしたかと思うと、あたりは急に静まり返った。雨の音が遠くに聞こえる。ソラは傘を閉じた。見上げるとトタン屋根は乾き、頭上を覆う葉の先に滴る水の一滴さえも見当たらない。"雨"がこの空間から除外されているのがわかった。ソラは目の前で魔法を目撃し、驚きと感動で言葉がでない。
祖父を訪ねる魔法使いや魔女は梅野を除いて魔法を惜しみ無く使う人はいない。そのため、ソラは彼らと話すことはあっても魔法を目にする機会はあまりなかった。
続いて、どこからか丸太が一本ふわふわと飛んできた。梅野が杖を横に振ると、ちょうど真ん中でふたつに割れ、あっという間に簡易的な椅子が二脚できあがった。
「こんなものかしらね」
ソラは目の前で展開される魔法に目をぱちぱちとさせるだけだった。
自らの手でペットボトルから湯呑みにお茶を注いでいる自分がちょっと恥ずかしい。ソラが湯呑みを差し出すと、梅野は小さく会釈をしてそれを受け取った。
「梅野さんはそんなに魔法を使って、疲れないんですか」
魔法を使うとすごくお腹が空くと聞いたことがある。魔法を行使した場合、それを人力で行うのと同等のエネルギーを消費するというが、消費した分を食事で補うという点も同様らしい。
「私、魔力がすごく余っているの」
梅野が湯呑みに口をつけた。
「他の人より"器"が大きいらしくてね。普通の人だったら何日かで魔力はいっぱいになっちゃってガス抜きが必要だったり、それ以上は溜まらなかったりするらしいんだけど」
「そうなんですね。どれくらい溜まるんですか」
ソラは思った疑問を口にした。魔女本人に魔法に対する疑問をぶつける機会はそうそうない。
「三十年くらいかしら。使っても使っても無くならないの」
ソラはまた驚いて言葉を失った。梅野は魔法を使える人間の中でもスケールが違うようだ。
「私はね、尻尾が残った人間なのよ。自覚があるかどうかは別にして、昔はもっと魔法使いも魔女もたくさん居たの。魔法の原理も何も解ってなかった頃ね。魔法を使うとお腹が空くなあって思うくらい」
梅野はどこか遠くを見る目で、懐かしそうに語る。
「それが、科学が発達して魔法の研究がはじまるといろいろ魔法の良くないところが指摘されるようになったわ。冗談みたいな話だけれど、魔法を積極的に使うと食費が嵩むのよ。家電製品はどんどん改良されてエコになってきているのに、魔法はいつまで経っても燃費が悪いまま。……四つの力ってご存知かしら。そう、重力とか電磁気力のことね。魔力が五つめの力として科学の俎上に乗ったときから、魔力を持って産まれてくる子はどんどん減っていった。科学が新しい武器になった人類に、魔法はもう不要なの。類人猿が人間に進化するときに尻尾を失ったようにね」
梅野の湯呑みを持つ手が小さく震えていた。彼女の悲しそうな表情を見て、ソラも気分が落ち込んでしまう。
「僕は、魔法は素敵だと思います。どんなに燃費が悪くても、便利な科学製品が世の中に溢れても、無くなって欲しくないです。先刻の梅野さんの魔法を見て感動しました」
自分のような若輩者が百戦錬磨の魔女に励ますような言葉をかけるのはどうかとも思ったが、それでもソラはいまの思いを素直に言葉にする。
「ふふ……。ありがとう。貴方みたいに魔法を素敵だと思い、魔法の可能性を信じる人がもっと増えれば、魔法使いもまた増えていくんじゃないかしら。……貴方みたいな人のことを何て呼ぶか知ってる?」
ソラは首を傾げた。梅野がいたずらっぽく微笑んだ。
「浪漫、って言うのよ」
「演説は終わったか?」
いつの間にか戻ってきていた祖父がぶっきらぼうに言った。
「あら、失礼しちゃうわ」
梅野が頬を膨らませる。祖父はそんな梅野の様子を気にも留めずにツナギのポケットから滑らかな絹布に包まれた亜麻色の杖を取り出した。
「強度は若干落ちるが岩手の南部桐、長さは変わらず30cm、石は猫目石で前の杖のものと同じ、木目に合わせて抜いたから持ち手のところが少し膨らんでいるが、持ちやすいはずだ」
祖父が自信を漲らせた声色で語る。これまでも杖の新調の機会に何度か同席したことがあるが、杖の解説をしている瞬間の祖父は格好良いとソラは密かに思っていた。
梅野が片方の眉を上げ、じっと杖を見つめた。ソラはその様子を見てごくりと唾を飲み込んだ。
「いいじゃない」
先ほどまでの柔和な表情は消え、煙のように揺らぐ不思議な色彩を湛えた瞳で梅野は杖を眺めた。現代の老魔女は深い皺の刻まれた指先で杖の真ん中から持ち手をなぞり、そのまま優しく掌で包み込むように杖を持ち上げると手首を返し、杖全体を検めていく。
魔法使いは生涯現役。祖父がそう言っていたのを思い出す。スポーツや勉学、あるいは他のあらゆる分野において加齢とは避けられない障壁で、衰えは歳を経るごとに加速していく。しかし魔法使いは逆で、歳をとるほど魔力は高まり、洗練されていく。既に喜寿を迎えているらしい梅野が実年齢より若く見えるのはそういった理由もあるのだろう。
やがて彼女はきょろきょろと辺りを見回すと、適当な端材に向かって杖を振った。端材はふわりと宙に浮き、ぶるぶると震えたかと思うと、派手な音を立てて木屑をばらばらと散り落とし、地面に小さな山を作った。つい先刻まで使い途のない木の端だったそれは静謐な微笑みを湛える小さな仏像になっていた。
「私の魔法痕は"蓮"なの。それは変わってないかしら」
梅野は仏像の頭のあたりを何かを確かめるようにじっと見つめた。祖父は胸ポケットから取り出した眼鏡を掛けた。ソラも慌ててスマートフォンを取り出し魔法探知用のカメラを起動した。
レンズを通した液晶の向こうでは、金色に縁取られた円の中に淡い紫色の丸みを帯びた十枚の花弁が仏像の頭上に浮かんでいた。画面から目を外すと仏像を残し魔法痕はすぐに見えなくなる。祖父が頷いた。
「魔法痕は変わらん。あれは杖じゃなくて人に宿るものだ」
「それなら安心だわ。最近、"白"がどうこう言ってたから心配だったの。とっても手に馴染んで使いやすいわ。ありがとう」
また優しい雰囲気に戻った梅野がゆっくりと頭を下げた。祖父は照れ隠しなのか鼻の頭をぽりぽりと掻いている。
「チトセさんか、貴方のところで迷ったのだけれど、こちらにして良かったわ」
「ああ、そりゃこっちで良かった。チトセんとこは年末に廃業している」
祖父の声には少し残念そうな響きが含まれていた。"廃業"という響きにソラはどきりとする。先日の魔法犯罪のテレビ特集や梅野さんの話を聞いていると、やはり魔法使いの絶滅は不可避であるような気がしてならない。
「それは悲しいわ。魔法使いと杖職人は持ちつ持たれつよ。どちらとも生き残るか、どちらともいなくなるのか。ソラちゃんみたいな若い杖職人に魔法使いの未来が懸かっているわね」
「……僕は杖職人ではありません」
ソラは不必要な修飾語を削ぎ落として最小限の言葉で答えた。祖父がこちらに視線を向けているような気がしたが、ソラは祖父のほうを見ることができない。
「あら、そうなの。まあ、自分の夢は自分で決めるものよね」
梅野がちらりと祖父を見た。祖父はふん、と鼻を鳴らしただけで何も答えなかった。
その日の夜。ソラは自室のベッドで天井を見上げていた。雨はいつの間にか止み、小さな虫の翅を擦り合わせる音だけが響いている。ソラの手には小学校に上がったばかりの頃にはじめて自分で作った杖が握られていた。杖といってもただの木の枝をヤスリでそれっぽく仕上げただけのもので、魔力に指向性を持たせたり、先端から眩い閃光が飛び出したりはしない。それでも小学一年生の自分がこの杖を祖父に見せたとき、祖父は大層喜んでいたのを覚えている。
『僕は杖職人ではありません』
”まだ”なのか”いまは”なのか。付けられなかった言葉に後悔の念が浮かぶ。振り子のようにソラの考えは行ったり来たりしていた。
気分を変えようと、学校の授業で作ったラジオの電源を入れた。ダイヤルを回し、適当に周波数を合わせているとノイズに混ざり声が聞こえてきた。
『ーー好きなことして生きていくのって本当に難しいことだと思うんですよ。僕はたまたま上手くいっただけで、もし息子が僕と同じミュージシャンになりたいって言い出したら、反対しますね』
『えー、勿体ない』
『かと言って、国家公務員になりたいと言われても困るんですけどね。昔、宇多田ヒカルが歌っていたように……』
話はまだまだ続きそうだったが、これ以上聞いているとさらに気分が落ち込みそうだったので、ソラはラジオの電源を落とし頭から布団を被った。
ゴールデンウィークが間近に迫ってくるとどうしても気が緩んでしまう。昨日とはうってかわってソラは遅刻ぎりぎりで教室に滑り込んだ。
休みまであと二日。特に何をするという予定はなかったし、きっと祖父の手伝いをするばかりなのだが、それでも浮き足立ってしまう。教室を見回すとクラスメイトも大体同じような感じで、いつも以上にざわざわと落ち着きがないような気がした。
「あれ?」
ソラは窓際の空席を見つけると首を傾げた。授業態度は良くないが、遅刻も欠席も見たことがないアケビの席が空いている。昨日の朝あんなことがあったので、少し心配になった。
「ミホ、アケビ知らない?」
教室の後ろのほうで友達と輪になって楽しそうに談笑しているミホにソラはそう問いかけた。ミホはびくっとしてソラを見上げ、ぶんぶんと首を横に振った。
「なになに、アケビがいないと心配なの?」
ミホと話していたクラスメイトが話しかけてくる。ソラはにっこり笑って返事をする。
「そんなんじゃないよ。あいつ、態度悪いくせに学校は休まないじゃん。だから気になってさ」
ソラの言葉に聞いていたクラスメイトたちが声を上げて笑った。笑っていないのはミホとソラだけだった。
ソラは自分の席に鞄を置いた。どうにも嫌な感じがする。ざわざわと肌を刺す空気。粘っこく、生々しい感触は身体の外から伝わってくる。学校内、いや、もっと離れた場所のような……。
ソラが神経を研ぎ澄ませていると、ぱちんと膨らんだ風船が弾けるような音がした。ソラはびっくりして辺りを見回したが、周囲に変わったところはなく、音の正体はわからない。それどころかクラスメイトは誰も今の音に気がついていないようだった。
ソラは大きく深呼吸をした。前にも同じような感覚を味わったことがある。祖父が珍しく外出をした日。帰りが遅く、心配になったソラは誰もいない仕事場でひとり目を閉じた。ぎゅっと瞑った目の向こうに広がる暗闇の中できょろきょろと祖父の姿を探す。黒い画用紙に空いた針の先ほどの小さな穴。それは瞬く間に強い輝きを放ちはじめる。光はどんどん大きくなり、やがて祖父の姿を象った瞬間、家の門の蝶番が軋む音がした。
来るのがわかるのなら、こっちから行くこともできるはず。ソラはあの時の感覚を思い出そうとした。目を閉じると広がる漆黒の世界で、彼女の名前を呼ぶ。
アケビ。
彼女を探しているいまも、孤独に祖父を待っていたときも、ソラは自分の行動に確信を持っていた。ソラの本能が、こうすれば見つけられると教えてくれる。
暗闇の中で炎のように揺らぐ光。小さくなったり大きくなったりしている。頭の後ろ。炎はそこに留まって動く気配はない。ぱちん、とまた音がした。先刻はわからなかったが、薪の爆ぜる音に似ていると思った。
南の方角。ここからそう遠くない。
ソラは立ち上がっていた。
「忘れ物した!」
クラスメイトが笑うのを他所にソラは教室を飛び出した。不安そうな面持ちでこちらを見つめるミホと視線が交錯する。彼女の目はひどく怯えているように見えた。ソラはほんの少しだけ違和感を覚えたが、半ば無理矢理それを千切ると階段を一足飛びで駆け下りた。
こちらに向かってくる生徒の間を抜け、下駄箱で上履きを放り投げた。スニーカーを突っ掛け、そのままの勢いで学校を飛び出す。正門の前に仁王立ちしていた生活指導の先生が何事か叫んでいたが、風を切るソラの耳には届かなかった。
ソラは焦っていた。不安が蛇のように全身に纏わりついてくる。その感覚は目的の場所に近づくにつれ大きくなりソラの足を一層急かしたが、この先に彼女がいるという確信も同時に強くなっていた。
川沿いの道に出た。数日前にアケビと水切り石投げをした河原が一望できる。低い土手、生い茂る緑。すぐ手前には二車線の橋が架かっていた。その思わず立ち止まってしまうほどの牧歌的な風景とは裏腹に、辺りを覆い尽くすほどの言い様のない見えない”圧”を感じる。ちりちりと肌を焼くような感覚。魔力のないソラにもわかるくらいの魔法の存在が近くに在る。
「アケビ!」
ソラは姿の見えない彼女の名前を叫んだ。ぎゅっと目を閉じると暗闇のすぐ近くで炎が大きく揺らいだ。
ソラは土手を転がるように駆け下りた。彼女は橋の下にいる。
「来るな!」
アケビの声。いつもの人を小馬鹿にするような響きはなく、その声は緊張と恐怖を孕んでいた。ソラはもつれる足を必死に動かし、声のしたほうへと向かう。橋の下の暗がりで影がふたつ動いた。
「そんなに大切か」
低く野太い声。聞いたことのない男の声だった。
「お願いだから、それを返してくれ」
消え入りそうなアケビの声。手前の影が動く。男は右腕を高く掲げた。その手の先には千切れてだらんと垂れ下がった銀色のブレスレットが握られていた。あれはアケビのものだったはずだ。
「大した女だ」
男が吐き捨てるように言う。男の向こうではアケビが河原の石に頭を擦りつけるようにして蹲っていた。
「アケビ……」
ソラの全身が震えた。恐怖でも武者震いでもない。逆巻く怒りが出口を探してソラの中を暴れまわっていた。
「おい」
ソラは男の背中に向かって声をかけた。魔法の”圧”は先刻より強まり、足の指の先まで力を入れていないと吹き飛ばされてしまいそうなほどだった。
「なにしてるんだ」
一歩、踏み出す。拳をぎゅっと握った。
「ああ?」
振り向いた男は邪悪そのものを貼り付けたような醜い顔をしていた。距離を詰めるにつれ、そいつが自分より一回り大きいことに気がつく。男はにやりと口角を上げて笑った。
「なんだお前、こいつのツレか?」
男はブレスレットを握った手で肩越しにアケビを指差した。
「……友達だ」
ソラは歯を食いしばって男を見上げた。殴るなら殴れ、絶対に殴り返してやる。
自分は勝てない相手に立ち向かうほど馬鹿ではないと思っていた。でもそれは”臆病”という言葉を使わないように表現しただけで、情けない自分から目を逸らしていただけなのかもしれない。ソラの握った拳には憤怒と後悔と矜持が混ざっていた。この後ぼこぼこに殴られたとしても、目の前でクラスメイトの女の子が酷い目にあっているのを見過ごすことはできない。
こんな数瞬の間にいろいろなことが考えられるんだな、とソラは思った。スローモーションの世界で男がゆっくりと拳を振り上げた。男の唇がめくり上がり、ますます醜悪な顔になった。男の握られた拳の中で爪が皮膚に食い込む音。男の棍棒のような太い腕が空気を擦る音。五感が研ぎ澄まされていく。唐突にソラの頭に疑問が浮かんだ。殴られるのか? 魔法使いに?
男はアケビのブレスレットを握っていた。杖は持っていない。
魔法痕が残るから杖を使わないだけか? それともこいつは魔法使いではない?
じゃあこの魔法の”圧”はなんだ。びりびりと頭の片隅が痺れている。どこかで聞いた声が脳裏にこだまする。
『蓄積された魔力は行き場を失い、感情の昂りなどをきっかけとして暴発することがあります』
ソラは男の肩越しにアケビを見た。アケビは泣きそうな顔で叫んでいた。
「ソラ! 違う! 逃げろ!」
瞬間、魔力の”圧”が消えた。身体がふっと軽くなった。男の拳は空を切り、ソラの鼻先を掠めた。男の驚く顔。アケビの伸ばした手の先が男に向いていた。ソラは悟った。魔力の”圧”は全て持ち主の、アケビの元に戻っている。ソラは彼女の名前を叫んだ。
「アケビ!」
眩い閃光がアケビの手の先から迸る。最後に見たのはアケビの苦痛に歪んだ顔。ソラの視界は真っ白になった。
それは誰かの記憶。彼女はいつも窓の外を見ていて、退屈そうに、憂鬱そうに、雲ひとつない快晴でも、雨が降る曇天でも変わらず空を眺めていた。
「なに見てるの?」
クラスの中心にいた彼はクラスメイトの制止を振り切って彼女に話しかけた。仲間外れは良くないと振りかざした正義感を万能だと勘違いしていたのかもしれない。
「なにも」
彼女はさらに気怠そうに、話しかけてきた彼を見上げた。視線がぶつかる。彼女は首を傾げた。
彼の瞳は吸い込まれそうなくらい真っ暗で、そこには何も映っていなかった。いま目の前にいる彼女のことも、先ほどまで楽しそうに話していたクラスメイトも誰一人、彼の瞳に映っていない。
一方、彼も彼女の瞳に何かを感じ取ったらしい。しかし小さな共感はすぐに後ろで騒ぐクラスメイトの嬌声にかき消された。
「そっか」
彼はぽつりと呟いた。もう一言彼が何か話しかけていれば、彼女がもう少し柔らかい態度を取っていたら、ふたりはもう少し早く知り合うことができたかもしれない。
……。
鼻腔を抜ける草の匂い。雑草は生まれたその場所で、太陽へ向かって必死で背を伸ばしている。きょうが秋の終わりだったなら剥き出しの岩に頭をぶつけて死んでいたかもしれない。ソラは後頭部を擦りながら上体を起こした。
きょろきょろと辺りを見回す。寝起きのように頭が上手く働かない。まるで夢から無理矢理引っ張りあげられたような感覚。確実にわかるのは全身を襲う鈍い痛みと倦怠感。地面についた手がそこにある石を握った。円くて、平べったくて、少しだけ重い、水切りに向いていそうな石……。
ソラはばっと立ち上がった。あまりの勢いで立ち上がったので右膝の辺りがずきっと痛んだ。
「アケビ」
先刻までそこにいたはずの橋が遠くに見える。よく見ると、橋の手前側は橋脚を残してその原型を留めていなかった。どうやらアケビから放たれた魔法で吹き飛ばされたらしい。ソラは重たい足を引きずって急いで橋まで戻った。草の焦げる臭いが強くなっていく。橋の下は石や雑草が根こそぎ吹き飛び、茶色い地面が剥き出しになっていた。
男の姿はどこにも見当たらなかった。コンクリートが割れ、鉄骨が剥き出しになった橋の下を抜けると、向こうにアケビが四肢を投げ出すように倒れていた。
「アケビ!」
ソラは駆け寄り、横たわるアケビの脇にしゃがみこんだ。服はところどころ破け、穴が開いている。いまできたのか、元々あったものなのか、火傷の痕がてらてらと太陽の光を反射していた。
ソラは胸元を注視した。微かだが、とてもゆっくりとしたスピードで上下に動いている。少なくとも生きている。ソラはほんの少しだけ安心した。
アケビの顔の半分から下は血で汚れていた。彼女の口元を制服の裾で拭うと、ほんの少し空気が流れているのがわかった。
「アケビ」
ソラはまた彼女の名前を呼んだ。必死で彼女の名前を呼ぶ。喉がからからに乾いて声を出すたびに痛みが走ったが、声をかけ続けていないとソラ自身がどうしようもなく不安になってしまいそうだった。
アケビの右手の先が血で真っ赤に染まっていた。魔法はここから溢れだしたのかもしれない。痛々しい指先に目を奪われていると、その指先がぴくりと動いた。
「痛ってぇ」
眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべるアケビ。首を傾けうっすらと開いた目は、やがて焦点を結び、しっかりとソラを捉えた。
「よかった……」
声が震えた。自分が泣きそうになっているのがわかった。
「だから逃げろって言ったのに」
ソラは頷いた。視界が霞む。頬を伝う涙がアケビの胸元に落ちた。
「ひっでぇ顔」
「アケビもだよ。血まみれだったんだから」
アケビが掠れた声で笑った。
「なんか、すごく腹が減った」
彼女は雲ひとつない青い空を見上げていた。
「でも動けねぇ。……ちょっと寝るから、適当に起こして。……いやいや、死なねぇから。ホントにちょっと目を閉じるだけだって」
アケビが笑いながら言った。ソラも笑った。
「僕も、寝る。もう動けない」
目を瞑るアケビの横にソラも並んで横たわった。遠くでサイレンの音がする。駆け寄ってくる足音。視界の端で制服のスカートが揺れた。ソラを呼ぶ聞いたことのある声。
「ごめんなさい。ソラくん」
なんだ、心配になってここまで追いかけてきたのか……。
ソラの意識はそこで途切れてしまった。
[newpage]
3.
「後処理は完了しました。直接の目撃者はおらず、埋設されていたガス管の爆発ということでカタがつきそうです」
「橋のほうは?」
「そちらも地場の建設会社立ち会いの下、九割は修復しました。残りは任せる方向で進めています」
「そうか。こちらも人手不足だから、ここで手を打つべきだろうな。ありがとう。もう帰って大丈夫だよ」
「はい」
革靴がリノリウムの床を叩き、がらがらと引戸が引かれる音がした。ややあって礼を述べた男が話しだす。
「魔法痕は"白"ではありませんでした。こちらが撮影した魔法痕です。未登録ではあったので、現場の状況から戸村アケビの犯行で間違いないと思われます」
「"犯行"って、犯罪者じゃないだろうが」
聞き慣れた嗄れ声。祖父の声だ。
「……失礼しました。未登録ということで彼女を洗ってみたのですが、彼女は孤児で戸村児童保護センターの出身です。施設としての魔力検査の提出は履歴が残っていたので、隠蔽していたのかもしれません」
「……まあ隠蔽だろうな。戸村っていや、明治の戸村家の末裔だろ」
「そうですね。センター長本人に魔力はありませんが、魔法規制の反対派ではあります」
「それで子どもがこうなっちまったら仕様がねぇわな」
はあ、というため息。
「で、この娘はどうすんだ」
「ここまで育ちきってしまうと薬はもう効果がないです。あれは乳児期に投与しないと効果を発揮しない。なので、魔法と生涯付き合っていくしかないと……」
「お前も魔法使いの癖に、魔力を重荷みたいに言うなよ。持って生まれたものなんだから誇りゃいい。だからおれを呼びつけたんだろうが」
「それはそうなんですが……」
「復学は?」
「魔法を完全に制御下に置くことができれば、つまり杖所持の認可が下りれば、可能です」
沈黙。ソラはどうやら病院かどこかのベッドに寝ているようだった。いまいち確信が持てないのは、自分の身体を全く動かせない上に目も開けられず、口も開かないからだ。おそらく大人の男性と祖父が話しているのはわかるのだが、祖父の相手がどんな人物なのかは声以外全くわからなかった。
「それで、お孫さんは……」
「ああ、こいつは大丈夫だ。大した怪我してないから、そのうち目を覚ますだろう」
「不幸中の幸いですね。……私はいったん魔法局のほうに戻ります」
椅子を引く音がした。が、その後の足音は聞こえてこない。代わりにぱしっという音がした。
「……聞こえてたか、ソラ」
「うん」
祖父の問いにソラはゆっくりと上体を起こした。金縛りのように身体が動かなかったのが嘘のように自由に身体を動かすことができた。あれは先ほど部屋を出ていった男の仕業だろうか。魔法使いらしいし、話の邪魔をされたくなかったのだろう。
痛むところはないが、全身が風邪を引いたときのように怠い。見回すと、そこは小さな病院の一室のようだった。ソラから見て左側に部屋の外への扉があり、反対側にはベッドがもう一床とその向こうに窓があった。
「とりあえず無事で良かった。目が覚めたら呼んでくれと言われているから、ちょっと待ってろ」
丸椅子に座っていた祖父は膝に手を当て立ち上がると、部屋を出ていった。奥の窓から吹き込んでくる風が頬を撫でる。白いレースのカーテンが風に吹かれて揺れていた。
「……」
隣のベッドにはアケビが寝ていた。布団から出ている首から上はいつもと変わらないように見えた。ゆっくりと胸の辺りが上下している。
「望月ソラさん」
部屋の入り口のほうから声を掛けられ、ソラは振り向いた。看護師がきびきびした動作で注射器や細い管を弄っている。
「ちょっと検査しますね。まずは熱を測ってもらえますか」
体温計を受け取り脇に挟んだ。手持ち無沙汰になり、ソラは隣のベッドを指差して訊いた。
「アケビ……戸村さんはどうなんですか」
看護師が試験管を振りながら答える。
「まだ目を覚まさないのよ。右手の怪我も心配だけど、数値に異常はないからもう少しで目を覚ますと思うんだけどね」
ぴっという音がした。ソラは体温計を看護師に渡した。
「うん。大丈夫ね。あとは採血と先生に診てもらうだけだけど、今日中には帰れると思うわ。ゴールデンウィークに間に合って良かったね」
看護師がにっこりと笑った。ソラはぺこりと頭を下げた。
「ソラ、話がある」
看護師が部屋を出ていった後、再び丸椅子に腰かけた祖父が言った。
あまり表情の読めない祖父だったが、心なしか深刻そうな顔をしていた。ソラはベッドの上で体勢を変え、祖父の真正面に座った。
「はい」
祖父はソラの両眼をじっと見つめた。祖父の焦げ茶色の瞳は、ソラの眼球を通しもっと向こうの何かを見つめているような、中身を確かめているような気がする。やがて視線を外すと意を決したように奥のベッドを指差して言う。
「あの娘、戸村アケビは”魔女”だ」
「魔女……」
予想はしていたが、祖父の口から改めて聞かされると身が引き締まる思いがした。
「そこで、だ」
今度は祖父が居住まいを正した。
「ソラ、お前があの娘を守ってやれ」
祖父の力強い言葉。ソラはもう一度寝ているアケビのほうを見た。両親に捨てられ、ひとりで生きてきた彼女。その境遇を感じさせない強さをソラはこの短い間に何度も目の当たりにした。一方でその強さは、不安を覚えるほどの危うさを内包している。独りよがりの暴力的な強さ。
ソラは頷いた。こちらに向かって手を伸ばしたアケビの、助けを求める顔を忘れることはできない。
「まだ一度もやらせたことはなかったがいい機会だ」
祖父はそこでもったいぶるように言葉を切った。ソラは大きく息を吸い、祖父の次の言葉を待った。
「お前にあの娘の杖作りを任せる」
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