鬼教官
はるより
本文
「八百九十二、八百九十三、八百九十四……おい、朝夕。もっとしっかりしろ、ペースが落ちているぞ?」
「そう思うなら……いい加減降りてください……!」
「お前、女に重いと言うのか。何とも不躾な奴だ、さぞモテなかろうな」
紡はくそ、と小声で悪態を吐く。
己の背に座る逆波に軽い殺意を覚えながら、八百九十五回目の腕立て伏せを行った。
紡の入学式から一ヶ月……皇宮警察学校の一室、板張りの武道場での出来事。
初めにこの武道場を見た時、紡は己の通っていた尾根山道場を思い出し、少し懐かしい気持ちになった。
……のも束の間。戦闘実技の組分けで『甲』に放り込まれた紡は、通常の講義や訓練が終わった後に、こうして
入学以来、紡は夜遅くまで指導を受け、くたくたになった身体で家に帰り、泥のように眠って、また早朝に通学するという日々を送っている。
絃や友人のことを恋しく思う暇がないのは、ある意味で好都合なのかも知れないが……本来の目的である、帝都軍の書庫に触れることも出来ていないのは大変に歯がゆいものだった。
「えっと……掃除。終わったので、帰ります」
「ああ、
「はい。……朝夕さんも、頑張って」
一見武道に縁も無さそうな眼鏡をかけた少年……
「というか、何故俺ばかりにちょっかいをかけるんですか……!鶴瓶だって、貴女がお気に召したから連れてきたんでしょう!?」
「は?お前、自分が私のお気に入りだと思っていたのか?」
「違うんですか!?」
「なんと傲慢なんだ……」
紡は、そう呆れたように言う教官に苛立ちを覚える。
そんな教え子を他所に、逆波は相変わらず紡の背から退こうともせず、腕を組んで「ふむ」と小さく呟いた。
「まぁ、朝夕はもう良いだろう。」
「はい……?」
「おっと、腕立ては続けろ。お前達を『甲』に入れた理由を話してやる」
紡は先ほどの反応通り、自分が逆波にとって虐め甲斐のある人間だから、という理由で連れ回されているものだと思い込んでいた。
逆波は明らかにサディストな性質の人間であり、紡や他の生徒が訓練で悲鳴をあげているのを見て、日々さも愉快そうに顔を歪めているのだから無理もない。
……例え他の目的があったとしても、やはり紡に与える、稽古という名の責苦を楽しんでいるのではないか、と思わざるを得なかった。
「貴様ら二人は、入学生の中でも明らかに浮いていた。お前は見るからにだったし……鶴瓶の方はある程度芝居を打っていたか。しかしそれで身のこなしや刃先の軌道までは隠し切れるものではない」
「はぁ……」
「私は教鞭を取る以前に軍人だ。相手の力量くらい一太刀交えれば測れる。とにかく……貴様らは実践経験もない癖に、場慣れしすぎなんだよ」
確かに紡は何度も迎撃戦に参加している。
ステラドレスを纏っているとは言え、動く相手に真剣を振るっている事に変わりはない。きっと、その経験値を逆波に悟られてしまったのだろう。
「ここは腐っても皇宮警察……帝都軍の中枢に接している場所だ。中に入り込んで、憎い相手の首を掻こうとする奴もたまには現れる」
「生徒に混じって、という事ですか」
「そうだ。実際、過去に一人やられているからな。」
皇宮警察……紡自身も、その存在をよく思っていない身近な人間を何人も見てきた。
だからこそ、逆波の話がやけに真実味を帯びて聞こえる。
「でも……良いんですか?俺は、身の潔白を証明したつもりは無いですが」
「お前は馬鹿正直だからな。伏せ勢には不向き過ぎるし、自分で腹に一物抱えていたとしても全部顔に出る質だろう」
悔しいが、言い返すことができない。
紡は悔しく思いながら、黙って腕立てを続ける。
「だが……鶴瓶は何とも得体が知れない。朝夕も、気を配っておけ」
「はぁ……」
紡から見た鶴瓶は、齢十五の沈着で物静かな少年……言い換えれば、影の薄い男であった。
ただ、口数が少なければ気を悪くする事も言わないので、黙々と訓練を続ける相手としては悪くはなかった。
確かに掴みようの無い人物だと言えなくもないが、もしもその正体が本当に何らかの工作員なのだとしたら……彼の作戦は大成功、という訳である。
「そういうわけで……あと五十回。気張って終わらせろ」
どうやら、話しながらも紡の腕立ての回数を数えていたらしい。
逆波は気まぐれな猫のように立ち上がり、武道場の端へと歩いていくと、持参していた風呂敷包を広げた。
そして中に入っていた握り飯をもしゃもしゃと貪り始める。
どこまでも気ままな人だと思いながら、紡は先程よりも随分軽い体で、早々に五十を数える。
「お疲れ。食うか?」
「いや……遠慮します。食欲が湧かないので」
「なんだ、軟弱な奴め」
大きな握り飯を口一杯に頬張り、ペロリと平らげる逆波の隣に座り、紡は水筒の中の水を飲み干した。
中身はただの水のはずだが、身体が疲弊した今は、喉を流れ落ちるそれがまるで甘露のようだった。
「ならば、腹が減るまで身体を動かすか?今日はまだ打ち込みを……」
「いえ、結構です」
ひょい、と傍に置いていた大太刀……いや、鉄の塊と表現した方が適切に思えるそれを、逆波はいとも容易く持ち上げながら言った。
いつもながら、多少筋肉質であるとはいえ女の細腕で持ち上がるとは思えない業物を軽く振り回している逆波の姿は、ひどく異様なものである。
「……そんな刀、よく振えますね」
「まぁ、私は鬼だからな。この位が丁度良いんだ」
「は?」
「ん?」
おかしな言葉が耳に入り、紡が硬直していると、逆波は不思議そうに首を傾げた。
「今……何と?」
「この位が丁度良い」
「その前です」
「私は鬼だからな」
「……それは比喩ではなく?」
「何故自分自身に『鬼』という表現を使う必要があるんだ」
怪訝な顔をする逆波に、紡はそれもそうか、と思う。
しかし比喩でないということは、彼女が鬼である、という言葉は事実な訳で。
「見ろ」
混乱した様子の紡に、逆波はため息をつくと……顔を半分覆った長い前髪をぺろん、とめくって見せる。
額の皮膚を突き破るようにして生えた三寸程の角。
赤黒い、固まった血液のような色のそれは、彼女が人ならざる者である事を象徴しているようだった。
「騒ぐ者がいるので、こうして隠しているが……どうだ?中々に格好良いだろう?」
「そ……そんな、事が」
「まさか、取って食われるとでも思ってるのか?」
酷く顔を強張らせた紡に、逆波はやれやれ、とため息をついて見せる。
「……実在しているとは、思いませんでした」
「人伝に伝わっているものは、大体誰かが実際に見聞きしたものだ。少なくとも、言い始めた人間にとっては事実だろう」
紡はこの数年で、自分の信じていた世界がほんの表面的な物である事を、嫌というほどと思い知らされてきたが……まさか、寝物語で聞かされた鬼とこの様な出逢い方をするとは夢にも思わなかった。
「案外、気付かないだけで、街には人ならざるものが溢れているんでしょうか……」
「どうだろうな。私は遠くから来たから、帝都のことはよく分からないよ」
「遠く?……帝都以外の場所から?」
「そうだ。壁に囲まれた街で、人間の屑共に消耗品として扱われていた」
まるで世間話でもするように、物騒な言葉を口にする逆波。
「ある日、人間の馬鹿女と共謀して逃げ出し……紆余曲折あってここに流れ着いたという訳だ」
『馬鹿女』と言った時……逆波は何処か懐かしむ様な、彼女にしては珍しく穏やかな表情を浮かべていた。
「……その人も、帝都に?」
「そいつはとうに死んだよ。なんせ六百年も昔の話だからな」
六百年。
紡には途方もない年月に思えたが……鬼である逆波にとっては、当たり前に過ごせる時間なのだろうか。
「人間の一生なぞ、天寿を全うしたところで一瞬に過ぎない。プライドや冒険心を理由に無闇に散らすのは、余りにも勿体無いと思うが……そうする輩が後を絶たんのは不思議な話だ」
「……鬼は、死なないんですか?」
「死ぬよ。ただ、老いはしないし人の死とは違う」
逆波は唇の端についた米粒を拭い、口に放り込んでから言った。
「植物は枯れても、地に落ちた種から同じ植物の芽が生える。それに似て、鬼は死んだ場所に同じ存在が再び生まれる」
「はぁ……」
「消耗品としては、私のような鬼は栽培できて、都合が良かったのかもな。」
紡が神妙な顔をして聞いていると、逆波は少し意外そうに言った。
「冗談だとは思わないんだな。角の事も、私の故郷のことも。お前は頭が硬そうだから、信じないと思ったが」
「信じるに値する経験を、色々としてきましたから。現に、逆波さんの怪力だって見ていますし」
「そうか……久しぶりだな、丸っ切り疑われなかったのは。前に話した奴は、最後まで冗談だと思っていたろうし」
逆波は表情こそ変えないものの、何処か楽しげに語る。
「揶揄い甲斐のある可愛い奴だったな。跳ねっ返りが強くて……眼差しが、少しあの馬鹿女に似ていたんだ」
それは、自分の言葉を信じなかった相手の話をしているとは思えない口振りであった。
彼女の語り口からは、逆波と相手の人物はもう長い間顔を合わせていないように思える。
その理由は、その人物が学校を卒業したからか……他に事情があっての事か。
何にせよ、他人があまり詮索して良いものでもないだろう。
しかし、その疑問すらも顔に表れていたのだろうか、それとも鬼は読心術でも使えるのだろうか。
逆波は小さく笑みを浮かべて、「そいつも、いつの間にか姿を消してしまったがな」と言った。
「……今日はこれで失礼致します。」
「ああ、もうこんな時間か。」
紡が立ち上がると、逆波は壁にかけられた時計を見ながら言った。
時刻はすでに二十二時を軽く回っている。
「それじゃ、朝夕。また明日会えるのを楽しみにしてるよ」
軽く手を振って、その場を去ろうとする紡を見送る逆波。
……先ほどの話を聞くと、もしかしたら何気ないこの挨拶でも、彼女なりに人との別れを惜しんでいるのかもしれない。
そう考えると、この教官が握り飯を勧めたり、稽古を続けて己を引き留めようとするのも、何処となく切なく思われる。
「案外平気そうだし、明日は今日の倍のノルマを課すかな」
「このまま夜逃げしますよ」
「出来ない癖に。お前はそういう人間だろう?」
前言撤回。
ニヤニヤと口元を歪めて笑うこの女は、名実共に鬼に違いない。
紡は彼女がこれ以上何かを言い出さぬうちに荷物を拾い上げると、さっさと武道場を後にした。
鬼教官 はるより @haruyori
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