ぬらり

明星浪漫

祝福

「おめでとうございます」

女がいた。向かいのマンション、風の通る階段の踊り場に女がいた。目が合った。よく見かけるようなレディースのスーツを着て、こちらをただただ見ている。知り合いかと思ったがそうでも無さそうだ。光に輝く茶髪がスーツとの違和を生み出していた。ただ、ジッと見ている。真っ赤に見えるルージュが丸くなる。なんだなんだと注目する。何某かを話しているようだった。道路をひとつ挟んだ向こうにいる女なので何を話しているかまでは知れなかった。何と話しているのだろう。ただぱくぱくとルージュが開閉しているのだけが分かる。気味の悪いことも分かる。私は人と目を合わせるのが酷く苦手だった。心の内を透かされている心地がする。目を逸らそうとした。女が肌色のよく見える胸元まで手を上げた。酷く慎重な動作であった。下校中である小学生たちの喋り声だけが響く道路に乾いた音が落ちた。女が拍手をしていた。速さも強さも不揃いの、なんだか······不安になるような拍手であった。

「──······と······ざ──す」

同時に、大きさの不揃いな声で何かを話している。気味の悪いことだけはっきりした。何度か、······何度も、何かを言って、それで、

「おめでとうございます」

大きな声だった。それでやっと聞こえた。女は何かを祝福していた。


老人がいた。私のマンションと、向かいのマンションの間を大きく分断する道路の、真ん中に、老人がいた。土産屋で売られているような柄物のセーターに毛玉を付けた、老人だった。髪は薄くて風に散らばって、老翁か老媼か分からなかった。道路の中央によれよれと立っているので、最初は人とは思わなかった。近づいて、その老人が私を見ているのが分かった。腰は曲がっているのに私とそう背丈が変わらず、嫌な感じがした。関わってはいけないような気がしたので、ジッと見てしまっていた目を逸らした。老人は見開いた目で私を見ている。逃げるように爪先を見て、足早にマンションに向かった。エントランスに差し掛かり、自分でも思わず老人を振り返った。私が振り返って老人の背中を見ると、その時、老人が背骨が音を立てる勢いで私を振り返った。

「おめでとうごじゃいます」

入れ歯があっていないのか、少し泡立った口元で、早口で、唾を飛ばすように老人は何かを祝福した。


男がいた。階段の踊り場、狭い空間にボウッと立っている男がいた。薄い銀鼠色のスーツをよれよれにしたくたびれた男だった。髪は薄く汚らしい印象を受ける。ボウッと立っている男はジッと私を見た。男の方が半階上という位置にいるために、見下ろされて気分が悪い。踊り場から半歩見えている足は踏み出すと転げ落ちるだろうと思えた。私は気が重くなりながら注意を促した。

「──あの、そこ、危ないですよ」

男はまだボウッとしていた。ただ私はジロリと見直した。わざわざ黒目をぐるりとしてまた私を見た。私はあと二階分階段をのぼる。退いてもらわなければならない。聞こえなかったのだろう、もう一度声を発することにした。私は見知らぬ人に声をかけるのが苦手だった、声を出そうとすると胸が詰まる心地がするし、声をかけたのに無視をされると頭がカッとする。もう良いという気分になる。だと云うのに男は私が帰宅するのを邪魔する。

「──······あの、そこ」

退いてくれるだけで良かった。男はゆっ······たりと両手を胸の高さに持ち上げた。

「おめでとうございます」

「ハ」

「おめでとう、おめ、おめでとう、おめでとう」

男は低い声を単調に揺らしながら手を打ち始めた。不揃いな音だった。不揃いな速さだった。言祝ぎの葉を紡ぐ割には全く謝意など感じなかった。壊れた猿の玩具がゆっくり震えるようなものだった。何を祝われているのかも、何も思い当たるものがなかった。男は足を片方踏み出した。一段飛ばして降りた。まだ寿いでいる。だが言葉は途切れたものになった。次は飛ばさず一段下がった。おめでとうまで言えた。降りる度に首がカク、カクと動く。歯がカチ、カチと鳴るのが言葉の合間合間に聞こえた。男が近づいてくるのに、私は後退ることしかできずに壁に貼りつくようにして避けようともがいた。男は私は見て、まだ見て、見て、見ながら階段を降りきった。そして私に目を付けながら踊り場を曲がってさらに下に降りようとしながら、途中で私から目が離れそうになって、素早くぐりんと首を回してまだ私を見た。コキッと音がした。

「おめでとうございます」

「······──·····」

男は階下に消えた。まだ言祝ぎの言葉が聞こえていた。私は滑る階段を駆け上がって自分の部屋まで急いだ。外は雨が降っていた。ベランダに置かれた物干し竿や柵に当たる音が先程までの揃っていない拍手のようで、私はゾゾゾとする腰元を撫でた。


カーテンを開けた。外は雨が降っていた。雫が地面や窓を打ち付ける音があの祝福はくしゅに聞こえただけだと、ほう、と息をついた。耳元を湿気を含んだ風が吹いた。

「おめでとうございます」

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ぬらり 明星浪漫 @hanachiri

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