万葉ワンダーステップ

遥風はじめ

万葉ワンダーステップ

 どこまでも薄い水色の、晴れ渡った秋の空だった。空の下に広がる紅葉こうようの景色は向こうの山々まで遠く見渡せる。

 遠目で見ると色とりどりの葉が、水色の空に向かって手を広げていた。

 遠目に見ている分にはいい。いや、暖かく穏やかな色の葉は、近くで見てもきっと綺麗だろう。

 雲一つない青空。雲一つない青空。雲一つない——。

 洋子は唇をわずかに動かしながら同じ言葉をつぶやいた。ああ、穏やかじゃないのは自分だ。

 洋子の家は山の麓の駅から数駅程度。こうして休日に近所に買い物に出かけるだけで、紅葉狩もみじがりと言えるほどの紅葉を楽しめる。

 けれど洋子は、楽しむ気にはなれない。『雲一つない青空』などというありきたりのフレーズを繰り返しつぶやいている。そんなことをして気を紛らわせたくなるくらい、ずっと気になっている。


「合わないんかなぁ」

 足元にあった小石をこつんと蹴り飛ばし、ため息混じりにぼやいてみる。小石は元気よく不規則に跳ね、わきの草むらへ転がり消えた。

 見えなくなった小石を目で追うのをやめ、視線を上げて遠くの紅葉をぼんやりと見やる。山肌を染める赤や黄色やグレー。グレー? グレーの上着。最後に行った喫茶店。噛み合わない会話を交わしたかれの上着の色。自分のことばかり。景色を眺めているはずなのに。

 だめだ。洋子は思った。見えているものを見よう。見えているものを——。

 気持ちを切り替えたいと思い、改めて紅葉に焦点を合わせた。幾千の紅葉は、相変わらず綺麗だった。ううん、もっとたくさん。幾千じゃなくて幾万もの、葉。

 そういえば、万葉集というのがあったなと、洋子は思い出した。国語の授業で習った、短歌を集めた昔の歌集だ。

 いいネーミングセンスである。言葉をたくさん集めてるから万葉だ。紅葉みたいじゃないか。そうすると、あの紅葉の葉一つ一つが、言の葉か。それがあんなに色づき花みたいに咲いて、たくさん咲いて、人々を魅了している。

 洋子は自分の思いつきに少しワクワクしながら、帰路についた。


「週明けは秋雨前線の影響を受けて、東日本から西日本を中心に天気のぐずつく日が多くなりそうです」

 家に着いた洋子はテレビの天気リポートを聞きながら、なぜ『言葉』に『葉』という概念が使われているのか調べてみた。中国語では『ツィー』というらしく、『葉』の字は見当たらない。言葉に『葉』を当てているのは日本独自の表現らしい。言葉が葉っぱなのは、日本人が考えたことなのね。洋子は少しほっとして息をついた。

 樹木は幹からはじまり、枝を経て葉に至る。幹が違うと葉の広がりや形、色も変わるため、人が変われば発する言葉も変わるという意味で、言葉と表したそうだ。あんなにたくさんの木々の一本一本が、それぞれの人の心で、紅葉の葉一つ一つが、それぞれの人の言葉で。

 シナモンココアのマグカップにポットのお湯を注ぎながら、洋子は先人達のおしゃれな感覚にあたたかく心を満たされるようだった。

 かれからLINEが来たのはその時だった。表示された短い通知欄を見る限り、またげんなりしそうな内容だった。けれど未読無視は後でかれが怒る。洋子は仕方なく通知をタップした。内容を見て返事を考え始める。それから洋子は、少しのあいだやり取りをして、その内、うとうとと眠りについた。



 翌日、洋子はかさかさと乾いた音を靴で感じながら、落ち葉の道を踏み歩いていた。買い物を済ませ夕暮れの中を帰る時にはもう、風が少し強く吹き始めていた。

 鮮やかな紅葉もみじたちは優しさなど微塵もない北風に、ちぎられ空へ舞い吹き下ろされ、落ちて来る。それは風に誘われてでもなく、風に導かれてでもない、強引に引き剥がす容赦のない自然の一面だった。


 秋の夕暮れの日射しは日照時間の関係で、影がより長く伸びる。洋子の影も太陽と反対の方向に、道の端の方まで長く伸びていた。

 落ち葉を秋の夕日が照らし、そのあと洋子が通ると影が暗く染め、通り過ぎればまた夕日が照らす。道が続く限り、洋子が歩を進める限り、ずっとその繰り返しだった。

 洋子は落ち葉を見て思う。これは死んだ言葉たちだ。紅葉としてさっきまで人々を楽しませていたのに、今はもう地面に折り重なって踏まれている。このあとは作業員の人たちにかき集められる。『落ち葉は集積所に出す際に、どうしても袋に入れる必要があります。そのため資源としては回収できず、可燃ゴミとなります』という役所の事務的な文言の通り、可燃ゴミとなる。

 可燃ゴミか。燃やされて終わりだ。私の言葉も資源にもならない。届かないんだな。


 洋子が可燃ゴミと自分の言葉を重ねようとしたちょうどその時、幼稚園の女の子くらいの子どもが走って来るのが見えた。母親の手から離れたのだろうか。女の子は楽しそうに、スキップのような不規則で不思議なジャンプをしながら、自分のそばの、とりわけ落ち葉がうず高く積もっているところへ飛び込み、楽しそうに両足でがっさがっさと落ち葉を踏んだ。

 片方ずつ足を、膝を、肩くらいまで高く、高く上げて、小さな体を大きく使って落ち葉を踏みつけて遊んでいた。白と黒のチェックの小さなワンピースと厚手の黒のタイツが大きく元気よく動く。ここ最近の秋晴れで乾燥しきった落ち葉が、ぱりぱりと割れていく手応えが楽しいのだろう。

 昨日と違い、雲がところどころに見える秋空とまぶしい秋の日射しの中、女の子はけらけら笑いながら、ひたすら落ち葉を踏みつけては、はしゃいでいた。


 洋子は女の子を見て、つい、自分も、と思った。なぜだかわからないが、思ってしまった。私も全身で遊んでみたい。

 女の子のいる落ち葉の山へ分け入り、足を上げやすいようにロングスカートの裾を両手でつまんで、両サイドに広げる。

 女の子が洋子に気づき見上げた。目があった時に、スカートの裾を持って見つめている自分の格好が、なんだかお嬢様になって挨拶をしているように思えて、洋子は思わず吹き出してしまった。女の子は洋子が笑ったのを見て、また落ち葉で遊びだした。

 洋子も、脚を高く上げわっしわっしと踏んでみた。かさかさに乾燥した落ち葉は、圧縮されて足の裏で細かくなる。細かくなった落ち葉を踏むと、さらにこなごなになる。

 楽しい! 楽しい……! 我を忘れるほど楽しかった。なんてことはない、ただ踏みつけて遊んでるだけなのに、こんなに楽しい。乾いた落ち葉の感触と全身をめいっぱい動かす感覚。もっともっと! と思って、病みつきになってしまいそうで、そんな自分もおかしく思えてしまった。

 けれど洋子は、自身を咎め、気づいた。これじゃ、まるで子どもだ。夢中になってしまってる。少し気恥ずかしくなってしまって、もしや誰かに見られてしまってないかと周りを見てみたが、誰もいなかった。

 うん、大丈夫。今は、今このときだけは、この子と二人きりだ。

 安心して夢中になれる……! 洋子を止める常識や理性は、その瞬間に吹き飛んでしまった。また全身で遊び始めた洋子は、もう向かうところ敵なし、無敵だった。


 その時、落ち葉の道はどこまでも続いていた。遠い山の峰から落ち葉で遊ぶ二人を捉えた風の視点はぐんぐん二人に寄り、二人のそばを通り過ぎ、落ち葉の道を駆け抜けた。どこまでもどこまでも。その駆け抜けたすべてが、二人だけの世界であった。

 踏みつけて踏みつけて、ぱりぱりとこなごなになる。モミジも、カエデも、イチョウも、届かない言葉も、死んだ言葉たちなんて言い方も、事務的な可燃ゴミも、面倒な通知も、自分のことばかりのあいつも。ぱりぱり。ぱりぱりぱり。


 しばらく踏み続けた。少し息切れして、ふうっと息をついた時、気づくと落ち葉の山はかなり崩れていた。もっとかき集めて踏み続けたい気持ちもあったが、日がかなり傾いて来ていた。女の子は洋子のもう充分な雰囲気を察してか、不思議なステップで道を走って草むらのほうへ跳ねて行った。洋子も、もう帰ろうと思った。

「またね!」

 声をかけてみたが、女の子に届いたか届いていないかは、わからなかった。


 激しく足を動かしたからだろうか、家に着いてお風呂から上がった洋子は全身に疲れを感じた。気だるく心地よい疲れの中、マグカップにポットのお湯を注ぎながら、大好きなシナモンココアの準備をする。


 またあいつからLINEが来た。表示された短い通知欄を見る。大した内容ではない。既読をつけるのも面倒だった洋子は、右手の人差し指で右から左へスライドさせて通知をスマホの外に捨てた。私はこれからシナモンココアを楽しむんだ。


 天気予報はいよいよ秋雨の到来を間近に伝えている。落ち葉が湿気ってしまっては、もうあの遊びはできないだろう。洋子は温まったカップの縁をそうっと口に運んだ。

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