第3話
彼女が自分の家から出てこなくなったのは、東京に雪でも降りそうなほど冷たい冬のことだった。仕事にも行かず、食事もせず、電気も暖房もつけず、彼女はひたすら独り暮らしの家に引きこもった。
彼女に何があったのか僕は知っている。でもそれをここで語る必要はないだろう。それよりも大事なことは、その暗い部屋にこれでもかと詰められているのは紙とペンで、彼女は痩せていき、髪は黒くつやつやに戻っていったということだ。
僕はそんな彼女の姿を見ていた。涙なんか流さず、ただの黒い影となってひたすら絵を描いている彼女の姿。僕はそんな彼女の姿を見ていた。涙の代わりに流れた黒がどろどろと部屋を覆って、ひとつの狭い宇宙のようになった。
星もない暗い宇宙のなかで彼女はいう。
「こんなことになるなら、幸せになんてならなきゃよかった」
僕はなにも言わない。
彼女は続ける。
「こんな目に遭うなら、幸せなんていらなかった。外から眺めて綺麗だねって言っていればよかった」
それだけでよかった、よかった、よかったのに――
ぽつりぽつりと溢れる彼女の言葉が宇宙空間に消えていく。彼女の描いている絵は真っ黒で、僕にはどうしてやることもできない。僕はただ、そんな彼女の姿を見ていた。
彼女は何枚も、何十枚も、何百枚も真っ黒な絵を描いた。その度宇宙は黒く狭くなり、僕たちはさらに奥まで取り込まれていった。どこまでいくんだろう、と僕は見ていた。
僕から彼女にできることなんて何一つない。不幸ってそういうものだ。ただ側にいることしかできない。側で見ていることしかできない。彼女がどこまでいこうと、これからどうするのか、戻ってくるのか、こないのか、それはすべて彼女が決めることだった。冷たいようだけど、不幸ってそういうものだ。
だけどまあ、だからこそわかることもある。
『……』
やがてすべての紙を描ききって、すべてのペンのインクを使いきってしまうと、彼女はしばらく呆然としていたあと、右手の人差し指を空中において、一枚の絵を描いた。
それは涙の絵だった。
黒い空間に描かれた涙の絵――そうして彼女は僕の方を見た。幼い頃、クリスマスツリーの前でしたように、大人になった彼女は確かにこちらを見た。
ほら、やっぱりね。僕はにやり、とする。
そうして自分の胸に手を突っ込んで、その中からこの心を取り出す。水飴のように柔らかく、闇に黒く光り、どんな形にでも傷ついたこの心を彼女に渡す。彼女はそれを受けとると、幼い頃にしたように飲み込んだ。
と、次の瞬間、彼女の目から大きな涙が零れ落ちた。
その涙は止めどなく流れ、流れ、この程度の不幸じゃ足りないぐらい流れ、僕はさらにこの心を千切って渡す。彼女もそれを受け取り、飲み干す。まだ足りない。もっともっと千切って渡す。彼女もそれを飲み干し続ける。彼女の涙は流れ流れ、流れ流れ、流れ流れ、一粒一粒が宇宙空間に白く光りながら落ちていき、闇の底を淡く照らした。
そう、残念ながら僕たちってこういう感じだ。普通になれたと思ったけど、それすら不幸に変えてしまった。そういう生き方だ。じゃあもう仕方ない。どうせならもっと深いところまでいこう。
まだ、足りない。彼女がそう目で訴えてくるので、僕はさらに不幸を渡す。彼女のための不幸を渡し、孤独を渡し、悲しみを渡し、辛い気持ちを渡し、彼女のついた溜息を渡し、彼女の傷ついた心を渡し、消してしまいたい記憶を渡し、消えてしまいたい想いを渡す。その度涙は溢れて落ちて、暗くて深い宇宙に白い川を作り、銀河を作った。
「……」
『……』
彼女はなにも言わない。
僕もなにも言わない。
涙はようやく止まったようで、彼女はぼんやりとその銀河を眺めている。
僕もそれを眺める。よくもまあ、こんな光景を創り出せるものだ、とちょっと呆れながら。
彼女っていつもこういう感じだ。不幸体質っていうか、それを引き寄せてはこうして綺麗な景色に変えてしまう。そしてそんな光景を自分で作ったくせに、自分で驚いたりしているのだ。それを僕はよく知っていた。昔からずっと見ていたから。
「……」
彼女は泣き疲れてしまったのか、眠たそうにしている。
そんな彼女を見て、僕も眠たくなってきた。
そんな風に僕たちはよく似ている。当然だ。彼女は
そうして自分の不幸をすべて飲み込んだ彼女は、幸福も不幸もすべて折り合いをつけて、自分のものとして生きていけるようになるだろう。それにはもうちょっと時間がかかるだろうけど、彼女がそれをできることを僕は知っている。
その時に見える景色は――例えばクリスマスの光景とか――いったいどういうものになるだろうか。そんな彼女はどういう絵を描くだろう。
僕も今から、それを楽しみに待っている。
僕の名前は不幸という きつね月 @ywrkywrk
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