Anh.31『あなたの声に心は開く』(完)

 ―第12場―

『不義と狂気の虞淵ぐえん


 ―2022.11.10 37歳―

 眼前がんぜんに広がるおびただしい量の赤漿せきしょう。黒い程に赤……。

暗紅あんこうまみれた映像が、夢を見ているように脳裡のうりへ流れ込んでくる。

溢れ出る源泉は譲二の腹部。深く突き立てられた刃物は、一体誰が――?


 起きなければ。……今すぐ目を開けないと。

目を開けるのっ――!!

どうして?!瞼が開かない……!


 峻烈しゅんれつを極める凄まじい恐怖……。ただならぬ予感が、夢じゃないと告げる。

まるで金縛りのように、身体が言う事を聞かない!


『この世に未練なんて、もう無いはずよ――』


 Ray……?――まさか!!


 だめよ!純麗子すみれこ!頭に響く声に惑わされないで!それはあなたの意思じゃない!

アバターRayは既に超知能AIスーパーインテリジェンスに乗っ取られてる!

だからあなたが行き着く場所はもう無いのよ!――お願い、届いて……!!


 どれくらいの時間念じていただろうか。純麗子か私、どちらの意識が覚醒しているのかすら顕然としない。


 ――!!?

ん……。何?……お腹が熱い。

焼けるように、熱い……?


 味わった事のない灼熱。

手は生ぬるく、足の感覚が無くなっていく。

何かが怪訝おかしい――。

もう終わりなの?私はRayに敗北し消えるの?


 錯乱し混迷を極める私の意識へ、数分前の純麗子の記憶がアップデートされた。



 ◇


「純麗子、結婚10周年おめでとう。そして、いつもありがとう」


 譲二は毎年結婚記念日には大きな花束を抱え、朝一番に純麗子の部屋を訪れる。

「ありがとう……」とベッドから起き上がり、花束を受け取る彼女の喜色きしょくを、後ろめたさが邪魔をする 。10回目にして初めて心から祝う事が出来ない記念日。

浮かない顔で力無く腰掛けた純麗子を気遣いながら、譲二はパソコンの前に座り、いつもと変わらぬ声で話し始める。


「僕を裏切る前の純麗子と、純麗子に裏切られる前の僕に帰ろう。

大丈夫。僕を信じて――」


 譲二は優しさと真剣さが入り混じった眼差しで、純麗子をジッと見つめる。

唐突に思える言葉――。

しかし彼女は「やっぱり……」と、ただ一言返した。


「うん、僕が気付かない訳ないよ。いつも純麗子を想い、純麗子を見てる」


「……でも、美嶺ミレを抱いたわよね?」と、“入れ替わりに気付かなかったんでしょ”と言わんばかりの疑いの素振りで、しかしゆるすように笑った。

そんな彼女の微笑みを譲二は深懐しんかいと捉え、心の内で甘えているようにも見える。パソコンを操作する彼と、鏡に向かい髪をブラッシングし始めた純麗子がチラリと交わした視線に、二人の関係値を見た気がした。


 ――どうして?どう考えても責められるべきは純麗子なのに……。

不自然に思える遣り取りと、奇妙な共鳴。

純愛とも偏愛ともつかない異常性。

狂逸な一体感に当てられ、虚しさで消え入りそうな私の思考は止まることすら許されず、覚醒を前にして、見たくない続きでも早く取り込まねばならない。


「実はね、成田先生の純麗子に対する治療を不可解に思った僕は、彼をずっと調べてた。

結果だけ話すと、余程探られては困る彼と、僕の利害が一致した。

昨年データ化した純麗子の脳情報からの人格を削除し、僕が作成した純麗子のアバターに精神マインド転送アップローディングしてある。

もちろん僕のアバターにも、今年初めにデータ化しておいた脳情報を使用した。

よし、準備は全て整った。

行こう――」


 譲二はパソコンから純麗子に視線を戻すと、立ち上がって彼女に旧型デバイスを手渡し、力強く訴える。

「あなたじゃなきゃ駄目なんだとか、あなたさえいれば良いなんて、……言葉にすれば情けなく聞こえるかもしれないけど。

僕の全てを賭けて――、純麗子を取り戻す!」

言葉を紡ぎながら赤く潤み出した瞳は、一滴足りとも零さぬように上空を泳ぐ。


「僕には欲も執着も無かった。恵まれた環境に生まれ育ち、いつの間にか万能感を持ち合わせていて。

望めば手に入る事が分かってしまった日々に、求める事も無くなった。

純麗子に出逢うまでは――。

ただ一人、初めて取り憑かれたように欲した。

何を手放しても離したくない人……!

そんな大切な人を、繋ぎ止める事が出来なかった……。

お願い。もう一度チャンスが欲しい。

あなたと過ごした日々は僕にとって何もかもが新鮮で、儚く煌めいて、まるで夢のようだった。壊れてしまうくらいなら、醒めない夢にあなたと堕ちたい。

行こう!純麗子」


 溢れそうな涙を拭って、明鏡止水の境地で柔らかく微笑む。


 ザジュッ――!!

譲二は満面の笑みのまま、躊躇なくひと突きでナイフを柄まで腹にめり込ませた。


 恍惚として目を細める純麗子の脳へ、

“この世に未練なんて、もうないはずよ。生命を断つのよ”とRayの電気信号――。


 それを掻き消すように、冴えない叫びがハウリングする。

“頭に響く声に惑わされないで!それはあなたの意思じゃない!”


 ――私の声が、届いてたんだ!!

譲二が自分で刺した事に当惑し、停止していた思考が浅はかにも歓喜する。

純麗子がこめかみに貼っていたシールを剥がし、事も無げに捨て去ったことで、私はにわかに安堵した。

しかし彼女は幸福絶頂の表情を浮かべ、ベッドの下から用意していたナイフを取り出す。


 えっ……。待って……!どういうこと――?

彼女の記憶を見ているだけの私が今更足掻いても、過去は変わらない。もう何もできないのだ。


「行きましょう、私たちの新しい明日に――」


 純麗子は同じように立ち上がり、両手で大きく振り被ると、勢いよく腹部に突き刺した。

彼女はベッドに倒れ込み、置いていた花束が踏み潰される。

散り散りになった花びらの上を譲二は這いながら移動し、優しく純麗子を抱きしめた。


「不思議だわ、新しい力が湧いてくる。

譲二の腕の中にいると、痛みも感じない。

私達はもう一度、生き直す事ができるのね。

ハッピーバースデー、譲二。奇しくも誕生日に生まれ変われるなんてね」


 羽ばたかせまいと、四肢を地面に縛り付けていた過去が、燦然さんぜんと昇華されていくようなイメージを彼女は巡らせる。


「ありがとう。3日後の純麗子の誕生日も、共に祝おう。

僕らの想い出には一点の曇りもあってはならない。これからも僕が取り除き、美しいものだけで満たしていく。純麗子は何も気にせず、傷付かず、見たいものだけを見ていればいい。

誰に咎められようと、神に背こうと、あなたを守る事が僕の生きる意味だ。


 僕は、アルフレードのように……、離れたりはしない。――ましてや、ウグッ……、ヴィオレッタのようにいっ、ふぅー、あなたを死なせたりしない!

ゴフッ――、永遠に……」

譲二があの日の言葉を贈り、二人は旧型デバイスを装着して、意識を失った。

最期に付け足された“永遠”が、彼の愛執あいしゅうを物語る。


 ◇



 微睡まどろみのような時を抜け、突然ひらけた視界は、深緋こきひの海だった。

真っ赤なダリアの花首が折れ、朱殷しゅあんに染まり濡れている。

乱れてしまった花束には『結婚10周年』のメッセージカードが悲しく踊り、その隣で蒼白い譲二が眠っていた。


 手に硬いものが触れた違和感に視線を落とすと、私と譲二の腹部に突き刺さるナイフの柄同士が当たりコツンッと無機質な音を奏でる。

あまりの光景に身がすくみ、気が遠のく。

霞ゆく意識の中で、Rayの言葉がリフレインする。


『じゃあ、無駄話に付き合ってくれてありがとう』


 ――無駄話?なぜあの時彼女は“無駄話”と言ったのか。

少なくとも私にとっては、無駄話なんかではない。私の知りたい事を全て教えてくれたのだから。

でも何故わざわざ私に声を掛け、話をしたんだろう。純麗子を自殺させるから話しても良かった?

そうだとしても、話す必要は無い。

もしや、時間稼ぎ……。

いや、何のために?彼女は選択や思考にフレームをはめられていない 超知能AIスーパーインテリジェンス。無数の分岐選択的な思考回路ではないはず……。意味不明に思えても、より人間的な理由を持つ可能性が高い。ならば何か彼女にとって不都合があるはず?

Rayはナノマシンを純麗子に入れる事を諦めていた?

邪魔……?


 私は惑乱した頭で考え続けた。

そして導き出した一つの仮説――。

完全には管理下に置けない本体の人間純麗子に、アバターを削除される危険性が残っている。彼女はそれを怖れていた?

恐らく間違っていないと思いつつ、まだ何か引っ掛かる。


 とは言え、一刻を争う事態。すぐにドレッサーに置かれたスマホに駆け寄ろうとするが、足がもつれ倒れてしまう。

這いながら手を伸ばし掴み取るも、画面は黒く閉じられていた。

息絶えるまでに、一年近く解き明かせなかったパスコードを入力しなければならない!?

到底無理だと思いながらもスリープボタンを押すと、すぐにロックが解除され、ログイン保持状態の『Snow Crash』が画面に現われた。

なぜかFace IDで解除される仕様に設定が変更されている。

Rayが話していた“美嶺に人生を明け渡そう”と純麗子が考えているというのは、本当だったのかもしれない。


 今、MIREのアバターと接続すれば、もしかしたら私も生きられるかもしれない……。

そんな甘く愚かな考えがぎる。


 ……だけど、Rayを葬らねば純麗子がやられる!私も必ず生き延びてみせるから、メタバースで幸せに生きて――!


 意識が朦朧とする中、三体全てのアバターを完全に削除し、『Snow Crash』を退会した。





 ―2025.11.13 41歳―


 私には分かる。純麗子は消えた――。

彼女の意識が再び覚醒する事はないだろう。


 譲二も一命を取り留めたが、譲二だったという記憶を無くした。

“二人は行ったんだ……、新しい世界に”

そう感じずにはいられなかった。

だからきっと譲二の記憶ももう、戻ることはない。だが、心底それでいいと思えた。

譲二自身、記憶を失った事に取り乱したりはせず、何もかもを受け入れ、一日一日を慈しむように過ごしている。


 総一郎と譲二のフォルスストロベリーは、総一郎が裏で手を回し削除した。

BCIデバイスやナノマシンを使用しないよう敬三が強く訴えていた事で、彼らは洗脳されずに済んだのだが、まだ何も確証を持たない弟を、兄達が迷いなく信頼した結果だ。


 つまり譲二は狂信的に純麗子を愛し、本当に気が触れていたという事になる。


 Rayが敬三と私を足止めしていたのは、嗅ぎ回る敬三を實に殺させる為だった。

實のフォルスストロベリーとRayの思惑に気づいた敬三がRayを追いかけるのをやめ、すぐに現実に戻り實のフォルスストロベリーを削除したおかげで阻止できたが、洗脳前の實に戻る事は残念ながら難しいかもしれないと総一郎は話した。


 でも希望はある。實は『早く逃げろ、殺してしまう』と自分の足を刺しながら敬三を守ったのだから。父の愛は洗脳にも抗えるのだと、私は思う。


 あの日起きた事は、総一郎により揉み消され、それから私たち家族は『Snow Crash』には立ち入っていない。きっと二人は幸せに生きていると信じて。


 ここ数年で、宇宙事業が一気に進んだ。

『秘密結社ラビュリント』は続いているのだろう。もう間も無くRayの話していた未来が訪れる――。


 私は譲二の抜け殻のような彼と共に、火星でその日暮らしを始めた。

先の事なんて誰にも分からない。今が幸せならそれでいい。

正義?正気?息苦しい――。

誰かが決めたフレームに押し込められ、重力崩壊する前に。






 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『メタバース不倫』 鐘堂リルア @LILUA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ