後編

 ゴールデンウィーク。うららかな日差しが、横浜の歓楽街を照らしている。

 佐久間と、初めての旅行にやってきた。

 遊園地で思いきり遊んで、中華街で食べ歩きをして。

 歩き疲れたころに、予約していたホテルに訪れた。

 お互いに大浴場で身体をやすめて、部屋に帰り、備えつけの浴衣に身を包む。


 会話も少なくなり、明かりを消して、薄暗くなった室内。

 付き合っている男女が、同じ部屋に寝泊まりすることの意味を、理解はしていた。 


「幸。良いよね?」

  

 同じベッドに寝転ぶ佐久間が、私に、手を伸ばす。

 こういう時の正解は、頬を赤らめながら、恥ずかしそうに頷くこと。

 頭では、嫌になるぐらい分かってる。

 だけど。


「……っ」


 ムリだった。

 それは、未知のことだから恐ろしく感じる、などという生ぬるい恐怖ではなかった。

 手を繋ぐ意味も、キスをする意味も、のみこめない私にとって。

 その先の行為は、反射的に拒絶したくなるほど、恐ろしいものだった。


「ごめん……っ。ごめんね。どうしても……ムリだ」


 あっ、と思った時には遅かった。

 一度放ってしまった言葉は、二度と、取り消せない。

 

「…………あっそ」


 その瞬間の。

 底冷えする冬よりも冷たい声と、まるで初めて会った他人のような顔をした彼の表情を、一生忘れられない。

 佐久間は、そのまま一言も発さずに、寝た。 

 旅行の次の日の記憶は、ほとんどない。

 ただ、これまでどうやって会話していたのかも分からなくなるほど、気まずい空気だったことだけを覚えている。 


✳︎


「お前、ハッキリ言って最低だよ。さく、めちゃくちゃ傷ついてた」


 音の星会同期飲みの席についた瞬間。

 同期の玲央れおは、開口一番に、私の顔を見てそう言った。

 心臓をえぐるような、鋭い声音で。

 玲央が、横浜旅行の夜のことを言っているのは、すぐに察しがついた。

 鼓動が高鳴って、舌の根がかわく。殴られたみたいに、脳髄がグラグラした。


「さくは?」

「今日はきてない」

「……そっか」


 佐久間が、今日の飲みに不参加なことも、知らなかった。

 あの旅行の夜から一ヶ月近く経つけれど、あれ以来、彼とは連絡がつかなくなっていた。

 玲央が、無遠慮に聞いてくる。


「なんで拒否ったの」

「っ」

「まあまあ、玲央。その辺にしときなよ。さっちーも、初めてだったんだしさ」

「んなの、さくだって一緒だし。なのに拒否られるとか、トラウマになるだろ」


 目頭が、熱くなる。

 そんなの、玲央に言われなくても、痛いほど分かってる。

 私は、あの夜、佐久間をめちゃくちゃに傷つけた。

 だけど、じゃあ私は?

 私は、悪者でしかなかったというのだろうか。

 話していて楽しかった記憶も全て無意味になるほどのことを、私は、あの夜にしたというのだろうか。


「もう、さっちーのことは、良いじゃん」

「そうだよ。佐久間、ゆりちゃんと良い感じみたいだし」


 ゆりちゃんと良い感じ?

 そうなんだ。全然、知らなかったな。 

 虚をつかれたように黙りこくった私を見て、みんながマズいという顔をする。

 はは。

 なんかバカみたいだ。


「……わかんない、な」

「は?」


 佐久間のことも、ゆりちゃんのことも、玲央のことも、みんなのことも。

 大好きだけれど、分からなくもなった。

 好きな人と付き合ったら、手をつないで、キスをして、その先の行為に進んで、それはとても幸せなことだという顔をしている全員の顔が、宇宙人に見える。

 だけど。

 みんなからしたら、きっと、それを当たり前だと思えない私の方が宇宙人なんだ。

 居心地が、最高に、悪い。


「……帰るわ」

「ええっ! さっちー、ちょっと待ってよっ」

 

 それ以来、音の星会には行かなくなった。



 音の星会を離れて、大学を卒業し、社会人になった。

 別れた直後は、佐久間からの通知がこない携帯を眺めて、沈んでいたけれど。

 どんなに辛い出来事も、数年の時が経てば、忘れていく。

 そして、私は、愚かにもまた恋をした。


「付き合おう」


 彼と両想いになり、二度目のお付き合いが始まった。


『幸は、気にしすぎだよ。たまたまその元カレと相性があわなかっただけで、いつか運命の人に出会えるって』


 高校時代からの親友や、サークルを離れてからも仲良くしていた友人たちのアドバイスをそのまま真に受けて。

 今度こそ、うまくいくと思っていた。


 だけど……。

 私は、また同じことを繰り返してしまった。

 佐久間を反射的に拒絶してしまった後悔もあって、今度こそ、ちゃんと向きあおうとは思っていた。

 だけれど、どんなに頑張っても、気持ちだけで乗り越えられない。

 佐久間の時と、全く同じだ。

 手を繋いでも、キスをしても、戸惑ったような顔をしている私に、彼は、疲れたような顔をして投げやりに言った。


「幸は、おかしい。真面目に、病院に行った方が良いよ」


 病人扱い。

 ものすごく、ショックだった。

 酷いことを言われたのに、追いつめられた私は、律儀に産婦人科にまで一人足を運んだ。

 医者から、「正常ですよ」と苦笑いされたことは、一生忘れない。



「あのー……。呑みすぎ、じゃないっすか?」

「ほっといてよ!!」


 病院の帰り道。私はいてもたってもいられず、都内のバーに足を踏みいれた。

 とにかくおかしくなりたかった。

 脳みそをアルコールで焼ききっておかしくならないと、やっていられない。

 

「あのさ。間違ってたら、申し訳ないんだけど……有野、だよね?」


 有野。

 ありの……。

 ありの!?


「どうして私の名前を知ってるの?」


 話しかけてきた人物に、視線を向けたら。

 その瞳には、見覚えがあった。

 きれいな、黒い瞳。

 私が、高校時代を懸けて、好きだった人。

 

「くろ、せ……?」

「うん」


 黒瀬は、静かにウィスキーを飲みながら、首をかしげた。


「なにか、あったんでしょ? 話くらいなら、聞けるけど」


 誰でも良いから、このモヤモヤとした気持ちを、洗いざらい、ぶちまけてしまいたかった。

 酔いが手伝って、舌が饒舌にまわる。


「私、ね……付き合っても、全然、うまくいかないんだ」

「うん」

「好きだと思って、付き合うんだよ。でも、どうしても、触れられたいとは思えない。だから……それでいつも彼と気まずくなっちゃうの」

「ふうん」

「やっぱり、おかしいのかな」

「いや?」


 黒瀬は、なんでもないことのように、言った。


「有野は、アセクシャルなんじゃないかな」


 アセクシャル。

 初めて聞く言葉だ。


「なに、それ……?」

「セクシャルマイノリティの一種で、性的嗜好のこと。LGBTQ、という方が耳馴染みがあるかな」


 セクシャルマイノリティ。LGBTQ。

 知識としては、もちろん知っている。

 だけれど、どこか他人事だった。

 知ってはいるけれど、関係のない世界だと思いこんでいた。


「アセクシャルは、他者に、性的欲求が向かない人のこと。他人と性的行為をしないことが自然だと思えるセクシャリティのことだよ。統計調査上、人口の約一%が該当するらしい」


 困惑した気持ちのまま、首を傾げる。


「でも……。私は、異性を好きになるよ?」


 佐久間のことも。彼のことも。

 私は、ちゃんと、好きだった。


「うん、知ってる。けど、セックスをしたいとは思えないんでしょ?」

「なっ……」

「違った? 俺には、そういう話に聞こえたけど」


 あまりにも直球な物言いに、心臓がヒヤリとする。

 だけど。

 否定、できなかった。


「……そう、だね」

「有野みたいな人のことを、ロマンティック・アセクシャルっていうんだよ」


 酔いも醒めて、ただ黒瀬の話に聞きいっていた。


「恋愛感情はあるけれど、性的欲求は他人に向かない人のこと。日本ではノンセクシャルとも呼ばれてる。有野は、そういう人なんじゃないかな」


 恋愛感情はあるけれど、性的欲求は他人に向かない。

 初めて知った言葉だった。

 だけれど、初めて知った言葉だとは思えないほどに、しっくりきた。

 それは、黒瀬への片想いは三年間も続いたのに、両想いになると一年も続かないことの答えに思えた。


「なんで、黒瀬は、詳しいの……?」

「当事者だから」

「えっ」

「俺は、恋愛感情も性的欲求も、他人に向かない。アロマンティック・アセクシャルを自認してる」


 高校時代に、彼に言われた言葉が、唐突に蘇る。

 そうだ。

 あの時、黒瀬は私に、「恋が分からない」と言った。それは、文字通り、そのままの意味だったんだ。


「……恋が、どんな感情か、わからない。でも、多くの人は、恋はして当たり前のものだって思いこんでる。まだ運命の人に会ってないだけだって、勝手なことを言う。二十五になって彼女の一人もいたことがない、というと、憶測でゲイ扱いをされたりもする。説明するのも面倒だから、もう、そういうことにしてるよ」


 黒瀬は、深々とため息をついた。


「俺は、恋をしない、普通の人間だ。だけど、世間では恋をしないだけで異常になる。そういう価値観にはマジでウンザリする」


 泣きたいような、気持ちだった。

 好きになった人と、触れあいたい。

 彼が、その気持ちが分からないことを、そのまま肯定してくれたから。


「有野も、苦しんできたんだな」


 ずっと、自分がおかしいんだって悩んでた。

 好きになった人に、触れたいと思えないことも、触れられたいと思えないことも。

 いつか乗り越えなければいけない壁のように思えて、胸が、重たく沈んでいた。

 だけど。

 もう、迷わなくて良いんだ。


「……黒瀬、ありがとう」


 二十五年生きてきて、私は、初めて自分のことをきちんと理解できたような気がした。



「あーーっ! クソ。また、爆死したわ」

「ガチャの回しすぎは良くないよ」

「シャルちゃん当てるまで、あきらめないし」

「あっそ。ねえ、黒瀬」

「ん?」

「黒瀬はさ、将来のこととか、考えてる?」


 彼は、やっとスマホ画面から目を離して、私を見つめた。

 ややもして、首をかしげた。

 

「さあ」

「ずっと一人で生きていくことに、不安とか、感じたりはしないの?」

「んー……。ま、そんな難しく考えても、未来のことは誰にもわからないだろ」

「そっかあ」

「うん」


 たしかに、その通りだ。

 高校時代は、黒瀬と大人になってから偶然バーで再会して、たまにお茶をする関係になるなんて想像もつかなかった。

 未来のことは、誰にも分からない。


 ずっと、当たり前の「恋」に呪われていた。

 だけど今は、恋の形は一人一人違うのだと、思えている。もちろん、恋をしない人がいることも知った。


 私の思う恋は、みんなの思う恋とは違う。

 恋はする。触れあいたくはない。


 もしも触れあいたいと思う気持ちを恋だとするのならば、アセクシャルの私は、この世の誰にも恋はしないことになる。

 だけど、好きになった人を見つめてドキドキしたり、話ができて嬉しくなった気持ちまで恋じゃなかったとはどうしても思えない。


 好きだから、触れあいたい気持ちは、間違っていない。

 だけど、今は、こうも思っている。

 好きだけど、触れあいたくはない気持ちも、間違ってはいないんだって。

   

【完】

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私の思う恋は、みんなの思う恋とは違う 久里 @mikanmomo1123

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