私の思う恋は、みんなの思う恋とは違う
久里
前編
あなたは、恋を知っていますか?
私は何度も恋をしてきたし、当然、分かっているつもりだった。
少女漫画や、恋愛ドラマに胸をときめかせながら、いつか自分も「普通」に恋をするんだって信じていた。
これは、自分の思う恋と、多くの人の言う恋が別物であることに気がつくのに何年もかかった話。
*
私、
中学時代まで現実の恋とは無縁だった私に、初めて好きな人ができた。
相手は、クラスメイトの男子。
彼――
特に印象的だったのは、長い前髪から時折のぞく瞳だ。透きとおっていて、意志が強そう。
そんな黒瀬は、超弩級のアニメオタクだった。
「おはよー、黒瀬。なぁ、『あく図書』シリーズの最新刊、もう読み終わった?」
「よっす、
「さすが。お前、授業中、ずっと読んでたもんな」
「うん。今巻は、めろんパン回だったな」
「意味わからんくて草。俺はこれから読むから、ネタバレだけはよせよ」
「じーつーはー」
「やめろ、絶交するぞ!」
「ははっ。冗談だよ」
里中とオタクトークをしている時だけ楽しそうに笑う黒瀬をひっそりと眺めるのが、日々の幸せだった。
黒瀬に恋をしたきっかけは、はっきり言ってない。
ろくに話したこともなかったし、ほとんど、一目惚れだったと思う。
そうやって適当に始まった片想いは、自分で思ってもみないほど長続きした。
眺めるだけで満足して。たとえ事務的なやりとりでも、一言でも会話を交わせた日には、スキップしたくなるほど浮かれた。
一方的で幸せな片想いが、高校生活を通してずっと続いた。
卒業前、私は思いきって黒瀬に告白をした。
「ごめん。俺さ、恋とかよく分かんないんだよね」
私の高校三年間を懸けた初恋は、「分からない」の一言で一蹴された。
*
たかが告白に失敗した程度のことで、人生が終わるはずがない。
黒瀬とは違う大学へと進学した私を待ち受けていたのは――
「猫丸文芸会でーす! 書くことに興味はありませんかーー!?」
「おしゃカフェ巡りの会、募集中ー」
「未知の生物研究会! 一緒にワクワクする謎に迫ろう!」
――人、人、人。
とんでもない熱気、飛び交う威勢の良い声、足の踏み場すら埋めつくすチラシの山。
大学の校門をくぐった瞬間に、新入生サークル勧誘争奪戦が勃発していた。
なに、これ。
「ねえねえ。君、もうサークル決めてるの? テニスしようよ!」
「はっ。お前のとこのはテニサーとは名ばかりの、ただの飲みサーだろ」
「うるせえ。それをいうなら、お前のとこのオーランなんて飲みサーそのものじゃん」
「オレらは最初から謳ってんだから、良いんだよ!」
「あ、あはは……」
私そっちのけで火花を散らす上級生から、そそくさと離れる。両手にはすでに抱えきれないほどのチラシを押しつけられていた。
いったん人混みを離れて、建物の間の通路にまで避難したら。
後ろから足音が聞こえて、ギクッとした。
まさか、こんなところにまで新入生勧誘に追いかけてきた!?
「はあ……なんだよ、あれ。みんな必死すぎだろ」
振り返れば、そこには私と同じようにチラシを大量に抱えさせられて、ウンザリした顔をしたスーツの男の子が立っていた。
呆けて、思わず見ていたら、目があった。
互いに抱えたチラシの山に視線を向けあって、噴きだす。
「大学のサークル勧誘って、すげえな。噂には聞いてたけどビビったわ」
「ね! 圧倒されちゃったよ」
彼は私に歩み寄ってくると、首をかしげた。
「おれは佐久間。
「有野幸だよ」
「あれ。今更だけど、有野さんも新入生……だよね?」
「うん」
「だよな。ほら、新入生のフリするために、わざわざスーツで来る物好きな上級生もいそうじゃん?」
「ええっ! そんな人いるかなぁ」
「世の中いろんな人がいるし」
佐久間の第一印象は、気さくで、愛嬌のある人。
彼は、手元のチラシに視線を落として、再びため息をついた。
「こんなにもらっても、ゴミになるだけだよなぁ。おれ、もう入るサークル決めてるし」
「そうなんだ! 何系?」
「バンド!」
心音が、高鳴った。
まるで運命を感じたみたいに。
同じだったから。
「ほんとに!? 私も興味あるんだ」
「おーっ、マジで? じゃ、よかったら一緒に見学に行かね?」
連絡先を交換した私たちは、一緒に見学をしにいったバンドサークル『
瞬く間に、私の大学生活は、音の星会一色になった。
学科の友だちは作る機会を逃してしまったけど、さびしいと思う日はなかった。
毎日が音の星会であふれていたから。
毎月の定例ライブには、必ず参加した。
ベースを弾くことも、サークルのみんなのことも、大好きで。
スタジオ練習やライブ以外の日も、飽きもせずに、みんなと一緒にいた。
男女問わず仲が良かったけど、特別に仲が良かったのは佐久間だ。
私たちはベースパート同士で、バンドは一緒に組めなかったけど。ライブ中も、みんなと遊びに行く時も、彼はいつもそばにいた。
「私、さくと、バンド組めないの残念だなぁ」
「できるよ」
「えっ?」
「幸が、ギターかボーカルやれば解決じゃん」
「まあねぇ。てか、なんでドラム省いたの?」
「幸、運動できなさそーだし」
「うるさ!」
話していて楽しくて。笑顔がかわいくて。だけど、ステージに立って、難しいフレーズを弾きこなす姿は、すごく格好いい。
そんな佐久間を意識しはじめるのは、そう時間がかからなかった。
*
それは、吹く風が厳しさを帯びはじめた、冬の新入生ライブの打ち上げでの出来事。
大衆居酒屋に入り、ほどよく酔いが回ってきたところで、ギターボーカル担当のゆりちゃんが酔っぱらい全開で絡んできた。
「さっちーは~~、いつ、佐久間と付き合うわけ~~?」
ジュッと、頬が熱くなった。
お酒のせいじゃない。心臓、バクバク言ってる。
「二人、ほーんと仲良いのに中々くっつかないんだもーーん。じれったい~~」
「まあまあ。ゆり、落ちつけって。初々しいじゃん」
「えーー? もー、チューぐらいはしてんじゃないの~~?」
「し、してないよっ! ってか、さくに聞こえちゃうって!」
「聞かれたところで、今更なんだからいいじゃーーん。むしろ、喜ぶっしょ」
「はい、ゆり完全なる酔っぱらい~~。でもさ、さっちーも、満更でもないでしょ?」
「それは……」
みんなにやじを飛ばされながら、別の卓で笑っている佐久間を盗み見る。
心臓が高鳴った。
「あーーっ。顔、赤くなってる~~」
「う、うるさいっ」
酔っぱらいの権化となったゆりちゃんの口をおさえていたら、噂の張本人が立ちあがり、こっちの卓に近づいてきた。
「なになに? 同期で集まって、なんの話してんの?」
「あっ、佐久間~~。あのねー、さっちーがぁ」
「な、なんでもない!!」
「えー。ほんとに?」
佐久間は首をかしげながら、私に視線をやって、笑った。
きれいな三日月型を描くその笑顔が、好きだと思った。
吐く息が白くなり、街中にクリスマスソングが流れるようになった頃。
私と佐久間は、二人で出かけていた。
七色に光るイルミネーションを背に、彼は、いつになく緊張した面持ちで言った。
「幸のことが、好きです。付き合ってください」
大学一年生の冬。
人生で初めての彼氏ができた
初めての、両想い。
ずっと憧れていた両想いだ。
「うん。ありがとう、さく。私も、好きだよ」
一緒にいて楽しい佐久間となら、きっと幸せになれる。
この時の私は、そう信じていた。
*
違和感を抱きはじめたのは、付きあいはじめて間もないころだった。
彼氏彼女になってから、初めてのデート。
「幸。手、つなご?」
佐久間は、当たり前のように手を差しだした。
手をつなぐ。
カップルならば、当たり前にすること。
「うん」
差し出された手を、握る。
佐久間の手は、触れると骨張っていて、男の人の手だった。
「ふふ。幸と、こうしたかったんだ」
こういう時、ドラマや漫画の主人公はみんな、胸が高鳴ったり、心臓がドキドキしたりしていた。私は、そんな彼女たちに憧れを抱いていた。
だけど。
現実の私の心は、驚くほど冷めていた。
佐久間の手は、汚くない。むしろ、きれいだ。汗もかいていないし、毛深くないし、白くて美しい。手を握ったら、ときめきそうな手だった。そう、想像していた。
それなのに、現実の私は、少しもドキドキしなかった。
がっかりしなかったと言えば、ウソになる。
だけど、きっと現実はこんなものなのだと自分に言い聞かせて、笑顔を取りつくろった。
「早く、水族館にいこ? イルカショー、はじまっちゃうよ」
ヘンに思われなかったかな。
不自然な反応に、なっていなかったかな。
正解が分からなくなり、ぐるぐると不安な気持ちが渦巻く。
「見てよ。こんなにかわいいのに、猛毒があるんだって。危険な生き物なんだね」
「自然界、厳しいな」
水族館を一緒に見て回るのは、楽しかった。
付き合う前と変わったことといえば、佐久間の手が、私の手を離さずにいたことだ。
ご飯を食べて、佐久間と解散した後、妙な気持ちになっていた。
楽しかった。
楽しかった、のだけれど。
包み隠さず正直な感想を言えば、手を繋ぐ意味は、よく分からなかった。
嫌ではないし、気持ち悪さも感じない。触れれば、人体から発せられるあたたかさは感じる。親が、子供とはぐれないように、繋ぎとめておく。例えるなら、そういう感覚。
そう。
決してそれ以上の意味は、見出せない。
ドキドキしたり、心臓が高鳴ったり、私が恋物語や友だちの恋バナからイメージしていた「恋人と手を繋ぐ」というロマンチックな行為とはかけ離れているように思えた。
現実は、大したことないんだな。
頭まですっぽりと毛布をかぶりながら、思考を放棄するように、目をつむった。
*
しかし、そこで思考を放棄してはいけなかった。
佐久間と初めて手を繋いだ日に感じた違和感は、月日が経つごとに大きくなっていったから。
なんでも気さくに話せる佐久間と会うのは、楽しい。
楽しい、はずだった。
だけど。
佐久間と――恋人と会うということは、文字通り、会って、話をして、遊ぶだけでは終わらない。
「あのバンド、新曲、出したんだね」
「そーそ。新曲もサイコーにかっこいいよな」
今日は、カラオケデート。
もうすぐ、退店の時間。
他の部屋の歌声が遠くから聞こえるほど、静かになった。
「幸」
隣に座る佐久間は、緊張して震えていた。
叩いたら割れてしまいそうな緊張が、空間を支配していた。
きれいな顔が、近づいてくる。彼の長い睫毛が、よく見えた。
なんだか怖くなって目を閉じたら、唇に、やわらかいものが触れた。
唇と唇が、触れあっていた。
初めての、キス。
何も、感じない。
なんだか、ゾッとした。
それは、彼と手を繋いだ時に覚える感覚と、酷似していた。
「ふふっ」
うれしそうに瞳をほそめる佐久間を見つめながら、苦しくなった。
目の前の彼は、わたしに触れて、うれしそうなのに。
わたしは、同じ想いを抱くことができないでいる。
物語の登場人物も、友だちの話でも、好きな人とキスをするのはうれしいことのはずだった。だけど、私にとってのキスは、ただ触れあっているという事実だった。
昂揚しなければ、ドキドキもしない。
あまりにも、心の中に感情がわきおこらない。
ただ、なまぬるいものを唇に押しあてられている感触は、快か不快かで言えば、後者に秤が傾いていく。
みんなが幸せそうに語っていたものの現実は、こんなものなのか。
とても、恐ろしくなった。
*
私と佐久間は、それでも付き合い続けていた。
大学二年生になっても、『音の星会』でのバンド活動を続けながら、二人でご飯を食べにいって、遊びに出かけて。
手を繋いだり、キスをする意味は、相変わらず分からないまま。
だけど、その正直な気持ちは、佐久間に打ち明けられずにいた。
本音を打ち明けたら、彼を傷つけてしまうだろうことは理解していた。
好きな人に触れられたくない、だなんて。そんなことを考えている自分を認めたくない気持ちも、強かった。
そんな風に思ってはいけない。
そんなの、人として最低じゃないか。
佐久間と会って話をするのは楽しい。だけど、恋人として会うことの意味を思い出すと、胸騒ぎがする毎日が続いた。
「で~? 佐久間とは、どうなの~~?」
「えと……。普通に、付き合ってるよ」
ゆりちゃんのヤジに、自分で返答しておきながらモヤモヤする。
普通という言葉が、脳内で高速回転しはじめた。
普通。普通。普通。
普通の付き合いってなんだ?
困惑する私の耳に、好奇心を隠しきれない色をした声が届く。
「さっちーにとって、初めての彼氏でしょ? 初体験、どーだったの?」
初体験。
もう、大学二年生だ。その言葉の意味するところを知らないほど、子供ではない。
知識としては、もちろん知っている。
「……まだ、だよ」
目力の強い瞳が、驚きで見開かれた。
「ウソでしょ!? もう、五ヶ月近くは経つよね?」
「ちょっとっ。声大きいって……!」
「はーーー。まだ手出してなかったなんて、佐久間は我慢強いなぁ。さっちー、よっぽど大事にされてるんだね」
大事にされている。
たしかに、佐久間はやさしい。
戸惑っている私に、強引には、触れてこない。
たしかにゆりちゃんの言うとおりだ。佐久間に、非はない。
じゃあ、その「初体験」の日が全く楽しみじゃない私は、やっぱりおかしいの?
家について、部屋に一人になると、「初体験」という言葉が頭の中を埋めつくした。怖くなって、スマホで検索してみると、ネットには私と似たような悩みを漂流させている人が沢山いた。
『Q:彼氏との初体験が怖いです』
『A:初めては、誰しも怖いものです。だけれど、そうしてみんな大人になるのです』
未知のものに対する恐怖。初めては、痛くて、怖い。
参考になるような、ならないような回答がずらりと並んでいる。
私の感じている違和感は、みんなが感じている違和感と同じものなのか。
みんなが怖いと思うなら、この異常に初体験を恐れる気持ちも、普遍的なもの?
いざその日がきたら、『幸せだった』と、思えるものなのか。
分からないまま、審判の日がやってきた。
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