僕らは欠陥に生かされているんだってよ

幸泉愚香

おわり

 

 この部屋が黴臭い理由は、思うに窓がないからだと思うんだよね。空気が全く循環せずに漂い続けているんだ。それでも窒息しない理由はまた違ったところに欠陥があるからだ。至る所に隙間が空いていて上手い具合に僕らは生かされているんだ。欠陥に生かされるなんて不名誉なことだ。


 そんな小さな小さな欠陥だらけな、彼女の名義で借りている部屋で目覚めたのだけれど、昨日の記憶が盗まれたように全くない。この部屋の生命線であるドアのシリンダーはザルで全く仕事をしなくて、僕みたいって言われ続けているのだけれどそのせいではなさそうだ。わざわざ部屋に入ってきて僕の腐れ記憶だけ盗むなんて到底思えないし、敏感で物音ひとつで起きてしまう犬みたいな彼女が何も反応していないところをみるに有り得ない。


 その噂の彼女は僕の隣で薄水色のタオルケットをお腹に掛け、子どもみたく小さく丸まって寝ている。寝ている姿は本当に平和だ。嵐の前の静けさを思わせて僕は身震いするけれど。


 僕と一緒に部屋の真ん中で雑魚寝するなんて、普段しないことをしているのが気になる。その中に僕の記憶に関するヒントが隠れているはずだ。上体を起こしてうーんうーんと考えるのだけれど何も思いつかなくて終には寝そうになった。


 陽光が入ってこないので湿ってしまった畳の上に再び頭を預けてぼんやりしていると、うーんと隣から背伸びする声が聞こえた。


 振り向くと、彼女がぼんやりとした顔でこちらを見ていた。小首を傾げて潤んだ瞳で僕を見ていた。その瞳は僕を見ているようでそうではない。明け透けな僕を探して彷徨っている。


 僕は蛇に睨まれた蛙みたく、畳に縫い付けられて身動きが取れなくなった。息をするのも慎重に、僕は彼女の首にぶら下がる鍵の形をしたネックレスを見ることしかできなかった。


「おはよ」

彼女はそう言って僕に撓垂れ掛かった。彼女の長い濡羽色の髪が僕の顎を擽った。


 今日はどうやら日曜の昼のようで人類最後の日らしい。ニュースキャスターがそう投げやりに言っていた。信じてないのか諦めたのか、そんなニュースキャスターの顔がテレビを消した後もぼんやりと画面に浮かんでいた。


「ねぇあなたは、いつ働くの?」

僕の手で遊びながら彼女はそう言った。ああ、そのことで昨日喧嘩でもしたんだなと思った。


「君はいつまで働くの?」

僕は素直に一週間後くらいかな、などと嘯いてれば良いものを、そうやって言ってしまうのだ。


「はぁ……」彼女は大きくため息を吐いた後、

「で、いつ働くの?」今度は語気を強めて繰り返した。


 僕もこのままでは駄目だと思っているんだよ? こんな黴臭くて、盗人ばかり来客してくる部屋しか借りられないのは殆ど僕のせいだし、君がそう言いたい気持ちも判るよ。でもそこをどうか一つ堪えて楽しい話をしようよ。ギリギリの崖っぷちでレジャーシートを敷いて食べるご飯も美味しいかも知れないよ? などと言うと、僕がセットしようとしていたニンテンドースイッチを掴み容赦なく膝で真っ二つに折った。そのまま手を離して、物言わぬ亡骸となってしまったゲーム機がドスンと二つ落ちた。それに追従するようにパラパラと金属の破片が舞い、畳の隙間に入っていった。


 彼女は怒ると僕の持ち物を壊すんだ。今のゲーム機は僕が働いていた頃に買った最後の持ち物だった。と言っても他の持ち物もゲーム機で、それも同じように折られたのだけれど。


 彼女は以前、任天堂のゲーム機は連結部分が判りやすくて折りやすいわ。弱点になるんだからなくせば良いのにね、と項垂れる僕に他人事のように言った。


 それに僕は、連結部分がなければ可動しなくて面白くないよ。人間の腕だって一本の棒じゃなくて連結部分があって可動するじゃないか。そうすることに因っていろんなパフォーマンスができるじゃないか。幅が広がる。でも怪我の原因はそこからが多い。任天堂のゲームが何故面白いかもそこに集約されているんだと思うよ、といじけながら返した。


 その時、彼女は納得したようなそうでないような、そんな曖昧な顔をして、二つに折れた3DSを重ねてもう半分に折った。これじゃあ4DSになっちまうよ、という僕の声を無視して。


 今日も今日とて、ぐちゃぐちゃになったゲーム機の前で、僕は手と膝を突いて項垂れている訳だけれど、全く学習能力のない二人だよね。彼女はこうやって日頃のストレスを発散するけれど僕には全く手を出さない。手を出されても文句など言えないのだけれど手を出さない。ゲーム機を割った破片が飛び散って、僕の手を切った時なんかは、今まで怒っていたことなど忘れたように、狂ったように泣きながら謝られた。


 彼女は心が少し人と違う。気持ちが溢れて抑えられないんだ。初めて会った時もその感情が抑えられなくて滂沱と泣いていた。その気持ちが人を傷つけたい欲求になってしまった時は自分の手首を切る。じわじわと流れていく血が、彼女の涙に思えて僕は哀しい気持ちになる。


 その傷跡を僕によく見せてくる。最初は厭だなあ、気持ち悪いなあと思っていた。ギターを抱いて寝た後のように手首に線が入っていて、手首を動かす度にそれがうねうね動いて、皺と相まって百足みたいだった。


 印象が変わったきっかけは、僕が酔って寝て目覚めたときに、彼女は僕の上に乗って傷跡を無表情で見せていた。その時僕は寝ぼけていて、それが真っ新な楽譜に見えたんだ。音楽を囓っていた僕は、調子に乗ってその五線譜にマジックで音を付けた。


 彼女は勝手に作曲された手首をじっと見て弾けるように笑った。その一小節を口ずさむように笑ったんだ。それ以来も自分を傷つけるのを止めなかったけれど、僕は軽い気持ちで受け止めることが出来た。


 それ以上増やしたらタブラチュア譜になってしまうよ? 歌いづらくなってしまう、と僕。そうなってしまえばあなたがギターを弾けば良いでしょ? と彼女。などと軽く弄り合えるようになった。


 そんな彼女は絵を仕事にしている。僕が薦めたのだけれど、その溢れる気持ちを芸術にぶつけるべきだと言ったと思う。最初は面倒くさがっていたけれど、今では少ないながら稼げるようになってしまった。僕より生産性のある人間になってしまったんだ。自立だって出来る、むしろしている。


 きっと彼女がふと正気に戻ってしまったら、僕などはまず捨てられてしまうだろう。正しくゴミを見る目で、ゲーム機を潰す感じで二つに折られ、生ゴミの日に中身が見える袋に入れられて、無感情にゴミステーションに捨てられるんだ。それを見た近所のおばさんは、ようやく煩わしいやつが居なくなったものだわ、うふふ、と僕を囲って井戸端会議をするに決まっている。僕は彼女の彼女自身が煩わしく思っている、溢れる気持ちに生かされている。だから僕はお礼の意味を込めて、彼女の全てを受け入れている。


 因みに彼女の描く絵は、人を描けばまるで生きているようにキャンパスの中を動き回り、風景を描けば風が吹き、太陽の光が差し、川や雲があれば流れ、自然の温かな香りがするんだ。


 今あまり売れてない理由はきっと知られてないだけなんだ。ひとたびテレビなんかで紹介されれば、この部屋に鬼のような勢いで電話が殺到し、どこかの芸術団体に招かれて、多額のお金を貰って優雅に絵を描けるようになる。そして僕なんぞとは比べものにならないくらい顔の整った金持ちの男と結婚して、ハネムーンはヨーロッパのルーヴルにしようね、などとベッドの上で囁き合うに違いない。


 僕はというと公園のジャングルジムの頂上で、緋色に染まってゆく空を見上げながら、アコースティックギターを弾いてシャウトしているだろう。働くヤツは馬鹿だとか、勉強しても意味がないとかを音楽に乗せて、近所の子どもに聴かせて尊敬されてるだろう。正しくその姿はお山の大将。そんな人間にだけはなりたくないね。


「ねぇ? ついに、あなたの持ち物、なくなっちゃったわね」

彼女は僕の耳元でそう呟いた。


 そう、あのギターだって彼女が買い換えてくれた物で僕の持ち物ではない。よくある木彫目のアコースティックと、バンプの藤原基央モデルのイエローカラーが眩しい、ギブソンのレスポールスペシャル。結構な値段がするギターなのである。


「参ったな、何もすることがなくなってしまったよ……これで僕は働くことしか出来なくなった。君の作戦通りだよ……ははは」


 そう言う僕に、彼女はアコースティックの方のギターケースを指差し、

「ギターがあるじゃない」

とアントワネットみたいなことを言う。実は言っていなかった説があるけれど、今、目の前に居る彼女の口から放たれた言葉は紛れもない事実である。


「これで食っていけと?」

「ううん、食っていけなくていい。ただ聴かせて欲しい」


 彼女はえくぼを作ってにっこりと笑った。ただでさえ綺麗で魅力的な顔に、更に魔法が掛かった。僕はその唐突な笑顔に呆気にとられた。そんな僕を余所に彼女はギターをケースから取り出して、はい、と僕にネックの部分を持たせた。


 うん、と僕は黙ってストラップを肩に通して、ベンEキングのスタンドバイミーを弾いた。教本に載っていた曲だからスムーズに弾ける。


「うん、凄く良い」


 彼女は僕の弾く音色に耳を傾けながら話し始めた。


「あなたが働きに出ていったら、きっと狂ってしまうわ。無音に耐えられない。この部屋とか燃やしてしまうと思うの。油絵は燃えやすいし、この部屋換気が悪いから、きっとわたし直ぐに死んじゃうよ? そうなると困るでしょ? あなたが半年以上仕事が続いたことがあるの? ないでしょ? 直ぐにのたれ死んじゃうよ? そして結局わたしと同じ共同墓地に入って、ほら言った通りでしょ? って言うからね。覚悟しておいてね、働きたいなら」


「ソオ、ダーリン、ダーリン、ステェン、バァミー」


 僕はサビに入り唐突に歌い始めた。ギターサウンドが反響する中で、隣の住人が壁を殴る中で、彼女がまるで告白を聴いたようにうっとりする中で、世界が終わっていく中で、僕は歌い続けた。


 視界が白んでいく。ピックで弾く感触は疎か、ピックを持つ感触がもうない。彼女の姿はもう見えない。ただ僕の声が文字となって空中に浮かんでいる。これが人類最後の瞬間なのだろうか。なんて呆気ないのだろう。


 そう、いつか世界が終わるって判っているから失敗し続けられる、歌い続けられる。いつか死ぬって判ってるから大きな顔をして生きてられる、歌ってられる。いつか捨てられるって判ってるからそれまで優しくすることができる、歌うことができる。




 ねえ君に言い忘れたけれど、この世界は、僕らは――

                                  



                                     了

 

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僕らは欠陥に生かされているんだってよ 幸泉愚香 @N__Kawasemi

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