後編
美香が彼氏と別れたのは数時間前だ。
しかも、彼氏の隣には彼が教育を担当している新人の子がいた。
最近、彼氏と新人の子が噂になっているのは美香の耳にも入っていた。けれどそれは単なる噂だと思っていた。男女のペアは邪推されることが多く噂になりやすいからと気にも留めていなかったのだ。
そんな美香にとって別れ話は寝耳に水だった。
しかも、接待を終えたばかりですでに疲労はピークを迎えている。
本来なら彼氏に癒してもらいたいタイミングでトドメを刺されたのだ。
あまりのショックに怒ることも泣くこともできなかった美香は「わかった」とだけ言ってその場から逃げ出した。
「別れ際に『今まで俺の趣味に嫌々付き合わせて悪かったな!』って言われたんだよね。確かに私はインドア派だけど彼と出かけるのは楽しみにしていたのに……でも、彼にはそうは見えなかったんだろうな……」
そして、その隙を彼と同じアウトドア派の新人の子が埋めてしまったのだろう。
自嘲を浮かべる美香を柊真がじっと見つめる。
柊真は苛立ちを含ませた声で言った。
「そうだとしても浮気をしていい理由にはなりません」
何とか自分を納得させようとしていた美香の目頭が熱くなる。
美香はわざと声を荒げた。
「そうだよね! あー今になってムカついてきた! よし、このイライラは敵にぶつけよう!」
美香の勢いに押されたのか柊真も今度は素直に頷く。
ゲームを再開した後は二人とも夢中になり、すっかり元の雰囲気に戻っていた。
気づけば午前三時を回っている。
自動セーブが終わったタイミングで二人とも自然とコントローラーを手放した。
「区切りがいいし、一旦休憩にしようか」
「そうですね」
美香は二人分のホットコーヒーを入れ、片方を柊真に渡した。
――――あ、これ柊真くんには苦いかも。
渡した後で気づき、こっそりと様子を伺う。
柊真が気にした様子もなく飲んでいるのを見て美香もコーヒーに口をつけた。
一息ついた後、美香は口を開いた。
「まだまだいけそう? 眠かったら続きは後日でもいいよ」
「余裕ですね」
食い気味に返ってきた答えに美香の頬が緩む。
「いやー長時間同じ熱量で付き合ってくれるの本当にありがたいわ」
「いつでも呼んでください。というか、俺の方こそ毎回無料で遊ばせてもらって申し訳ないです」
そう言って苦笑する柊真に今度は口が緩んだ。
「次に付き合うなら柊真くんみたいな人と付き合いたいなあ」
言ってしまってから我に返る。
「ち、違うからね! あくまで『みたいな人』ってことで柊真くんと付き合いたいなんて思ってないから!」
せっかくできたゲーム友達を失うなんて嫌だ。
しかも柊真とは好きなゲームの種類やプレイングも似ている。とても貴重な存在なのだ。
そんな大切な存在を失いたくなくて美香は必死で説明したが、柊真の反応は想定外のものだった。
「そんなこと言われなくてもわかってますよ」
怒りを抑えたような口調で言われ、思わず美香は口を閉じる。
――――私の言い方が気に触ったのだろうか。
美香は慌てて謝ろうとしたが柊真に遮られた。
「『みたいな人』じゃなくて俺じゃダメなんですか?」
「……え?」
言葉の意味が理解出来ずに混乱する。
「ダメなのは柊真くんの方だよね?……一応私も女だし。え?もしかして私のこと男だと勘違い」
「してるわけないでしょう」
呆れたように言われ言葉に詰まる。
その間にもじりじりと柊真が距離を詰め、美香はソファーの端まで追い詰められた。
「しゅ、柊真くん。と、とりあえず一旦お、おちついて」
今にものしかかってきそうな勢いの柊真を両手で押し返す。
しかし、柊真は蕩けそうな笑みを浮かべて美香の手を絡め取った。
「こんな美香さん見るの初めてだ。意識してくれてるんですね」
「え……あっ」
柊真の笑みに見惚れた瞬間、美香の身体は後ろへと倒された。
両手は柊真の手でソファーに縫い付けらている。
あまりの手際のよさについ本当に恋愛経験がないのかと疑ってしまう。
その瞬間鋭い視線を感じてビクリと身体震えた。
逆光で柊真の表情はよく見えないが、その目が自分を捉えていることだけはわかる。
影は徐々に濃くなり、互いの吐息が重なる。
あっと思った時には唇にあたたかくて柔らかいものが触れていた。
触れていたのはほんの数秒。
美香はゆっくりと離れていく熱を名残惜しく思う自分に戸惑っていた。
「……すみません」
柊真が口にした謝罪の言葉にツキリと胸が痛む。
追いつけない自分の気持ちの変化に美香は気づかないフリをして笑って答えた。
「いや、私も避けなかったし。きっとお互い眠くて頭が回ってないんだよ。続きはまた今度にして寝よ寝よ!」
この話はもう終わり!と柊真の身体を押し起き上がろうとした。
けれど、柊真の身体に拒まれる。柊真は逃がさないようにと美香の上に覆いかぶさったままだ。
呆然と見上げる美香を見つめて柊真は言った。
「違いますよ。俺が言った『すみません』は、弱ってる隙をついて『すみません』っていう意味ですよ」
「別に弱ってなんか」
「嘘つき」
そう言い切って柊真は美香の頬に触れた。
その手が思いのほか優しくて、全く泣くつもりはなかったのに涙が零れる。
ついでに誰にも吐くつもりはなかった弱音も零れた。
「私は本気で好きだったんだよ。確かにお互いの趣味は全く違ったけど、私はそれがいいと思ってた。彼のおかげで知らない世界が広がっていくあの感じが好きだった。でもそれは結局私の独りよがりだったんだよ。……ばかみたい」
柊真が絞り出すような声で呟いた。
「美香さんにはそんな男なんかよりもっといい人がいますよ」
美香が「いるかなあ」と呟くと柊真が「います」とすぐに返した。
美香は「そっか」と言うと目を閉じてそのまま意識を手放した。
気絶するように寝てしまった美香を前に柊真は固まる。
美香が起きないのを確かめ、柊真はゆっくりと身体を起こした。
起きてびっくり。
目を開けるととても見慣れた天井が見えた。
上半身を起こして周りを見る。どうみても自室だ。
――――柊真くんが運んでくれたのか。
……年下の大学生に慰められ、泣き疲れて眠った挙句、運んでもらったなんて恥ずかしすぎる。
美香は頭を抱えて唸り声を上げた。
ただ、全て吐き出したおかげですっきりしている。
元彼に対する気持ちも薄れている。
それよりも柊真のことがいろんな意味で気になって落ち着かない。
呆れられただろうか。
というか、なぜあんなことをしたのか。
もしかして、あれは夢だった?
考えだしたら止まらない。
「あ、あああああ――――――」
無意識に自分の唇を触っている自分に気づいて奇声をあげる。
いったいこれから柊真とどんな感じで接すればいいのだろうか。
答えは見つからなかったが、結局美香の心配は杞憂に終わった。
あれから一ヶ月、柊真とは一切顔をあわせていない。
元々、柊真が家にくるのは不定期だった上、たまに居合わせた時にゲームするくらいの仲なので連絡先も交換していない。
さすがに情緒不安定だった美香も落ち着いた。
とにかく今は仕事に集中しよう。ちょうど忙しい時期だ。男女のあれこれにうつつを抜かしている暇はない。
美香はひたすら毎日がむしゃらに働いた。
そんなある日。いきなり元彼に話しかけられた。
美香の中では完全に過去となった存在だ。
特別な感情は浮かんでこず、ただの同僚として挨拶を返した。
ところが、元カレはまるで付き合っていた時のように話しかけてきた。
「なあ。この後飯食いにいかね」
「はあ? 嫌」
思わず低い声が漏れた。
断られるとは思ってなかったのだろう。
元カレは驚いた顔をしている。
「
仕方なく助言すると、元カレは嫌そうな顔をした。
「アイツといるのは楽しいけどさ、それは休日で充分っていうか。仕事上がりの疲れている時にはキツイというか」
「いや、しらんがな」
思わず本音が零れて慌てて自分の口を押える。
美香は咳払いをして誤魔化すと改めて別の提案をした。
「一人で食べに行くか、弁当でも買って家で食べたらいいんじゃない?」
「いや、一人飯はちょっと……」
ああ言えばこう言う元カレを前に美香は段々イライラしてきた。
「とにかく、私は一人で帰るから」
そう言って踵を返そうとしたが、元カレに腕を掴まれ止められる。
ゾワリと嫌悪感が走った。
反射的に腕を振り払おうとしたが、その前に誰かが元カレの手を払い落とした。
腰を後ろに引き寄せられ、背中が何かにぶつかる。
驚いて後ろを見ると、元カレに鋭い視線を向ける柊真がいた。
元カレは驚いた様子で美香と柊真の顔を交互に見た後、何故か美香を睨みつけた。美香も負けじと睨み返す。
元カレがイラついた様子で口を開こうとした瞬間、さらにもう一人現れた。
「先輩待っててくれたんですか~?」
噂の今カノが元カレの腕に抱きつきながら優越感を滲ませた目を美香に向ける。
けれど、美香は全く動揺しなかった。
今カノは面白くなさそうな表情を浮かべてその後ろにいる柊真を見た。
柊真の顔を見た途端に今カノは目と口を開けて固まった。
今カノの頬はバラ色に染まり、目は潤み始める。その視線の先には柊真しか映っていない。
その光景をすぐ傍で見ていた元カレは一気に険しい顔になった。
今カノは元カレの様子にも気づかずにひたすら柊真を見つめている。
今カノが柊真に声をかけようとにじりよった瞬間、柊真は美香の手を引いて歩き始めた。
後ろで何か二人とも喚いていたが柊真も美香も振り向く気は一切ない。
手を繋いだまま無言で歩き続け、気付けば美香の家に到着していた。
美香はひとまず「ありがとう」とお礼を告げた。
柊真も「いえ」と言ったきり、無言で口を閉ざす。
でも、視線は痛いくらいに感じていた。
美香は迷った末、とりあえず柊真を家に招き入れることにした。
「拓はいないけどお茶でも飲んでいってよ。さっきのお礼に高級お茶菓子もつけてあげる」
扉を開けて中に促すと柊真は素直に中へと入っていった。
次いで自分も入り、防犯の為鍵を閉める。
ガチャリと鍵が閉まった瞬間、後ろから抱きしめられた。
持っていた鞄が手からすべり落ちる。
耳元で柊真の咎めるような声が聞こえた。
「この前のことがあったのに警戒しないんですね。そんなに俺のこと眼中にないんですか」
「そんなこと……」
柊真の言葉に反論できずに口を閉ざす。あの日から色々とキャパオーバーなのだ。
どう反応していいのかわからない。
それなのに柊真は追撃の手を緩めてはくれない。
「また同じことされてもいいってことですか?」
あの日のことが蘇りビクリと身体が揺れる。
柊真は逃がさないとでもいうようにさらに抱きしめる腕に力をいれた。
――――同じことってあれだよね……このまえのあれ……
「どうして?」
「その『どうして』は何のことを指してます?」
「いや、その、女性嫌いの柊真くんがなんで私にそういうことをしたがるのかわからないなーって」
本気で聞いたのに何故か柊真からは溜息で返された。
思わずむっとしていると、柊真が呆れたような声で言った。
「好きだからにきまってるじゃないですか」
勢いよく振り向き、柊真の顔をじっと見つめる。
――――え? 好き? だれがだれを?
美香が困惑しているのを理解したのか柊真は苦笑して一度咳ばらいをした後、改めて言った。
「俺は美香さんが好きです」
「……私女だよ?」
美香は自分を指さして確認した。柊真は呆れたように頷く。
「知ってますよ」
「その好きってlike?Love?」
「loveの方ですね。ちなみに、俺は美香さんとなら何回でもキスしたいと思っていますし、なんならその先もしたいと思っています」
頭の中で言われたフレーズがリフレインする。
理解した瞬間、全身が沸騰したように熱くなった。
柊真は美香の顔を見て嬉しそうに微笑む。
「その顔は俺にもチャンスがあると思っていいんですか?」
「し、しらない」
「嫌ではなく? さっきの元カレさんにはご飯誘われただけで即答してましたけど」
確かにと思い返す。元カレとはご飯食べに行くのすら嫌だと感じたが、柊真からの言葉は嫌じゃなかった。
ただただ、恥ずかしかっただけで。
美香は自分の気持ちに混乱しながらゆっくりと頷き返す。
「なら、これからがんばりますね。俺、恋愛経験はありませんけど、耐久戦と心理戦は得意なんです」
まるで捕食者のような目をして笑う柊真に美香はぶるりと身体を震わせた。
終わらない遊戯 黒木メイ @kurokimei
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