第4話
時は遡り、茜がまだ高校生の時の事。
茜は初めて、試合のレギュラー入りを果たした。
朝、夕と毎日練習を繰り返し、ようやく掴んだものだった。嬉しくて、弾むような足取りで家に帰った。帰宅早々、臥せっていた姉の初夏の部屋の襖を勢いよく開けて、だっと駆け込んで布団に飛びつく。
和室に不釣り合いなベッド。頭を少し上げてうとうとしていた姉はびっくりして可愛い声をあげた。茜がその頬に自分の頬をくっつけて甘えると、布団から腕が伸びてきて頭を撫でてくれる。
「ういか! きいてきいて」
「はいはい、なぁに? しっぽばたばたさせて」
初夏がふわっと目を細めて笑う。
オレンジ色に見える瞳。茜はその色を素直に綺麗だと思った。
「あのね、次の試合出られるんだよ! やっと、やったよー!!」
「すごいね! ……がんばってたもんね。あ、じゃあ何かご褒美をあげないと! ほんと、すごい!」
湿った咳をしながら初夏が大きな声ですごいすごいと繰り返した。茜は慌てて宥める。喜んでくれるのは嬉しいけれど、あまり興奮させると心臓の負担になる。
こんな時、自分たちは本当に憑き物つきの……ミサキの家系なのかと訝しく思う。聞いていた昔話だとご先祖様はミサキを使って願いを叶えていたとかいなかったとか。趣味で古文書を読む初夏ならどういうものかを知っているのかもしれなかったが、茜はかび臭い昔話に興味がなかった。
母は隠すように言っていたけれど、森山家には特別な事はなにもない、だから言うべきことも何もない。本当にただの普通の家庭。
ただし、神主で教師だった父は急逝して既におらず、姉は普通でなく身体が弱いくらい。昔話に出るような、憑き物の超常現象なんて未だに出会ったこともない。でも、と思う。どうせそういう夢物語が起きるなら、ミサキでもオサキでもなんでもいいから姉の身体を治してほしい。
入院の甲斐なく手術ができなかった姉。一緒に病院に行った母も……そして茜も、先生の話を聴いてから、魂を抜かれたように茫然自失となった。帰り道の重たい沈黙はまだ生々しく茜の記憶に残っていた。
呆然としたままベッドや車椅子をレンタルして在宅酸素の手続きを済ませているうちに、姉は帰ってきた。そうして、入院前と変わらない笑顔で、ここにいる。
初夏は布団の中、相変わらず人好きのする笑顔で柔らかく微笑んでいる。しかしその頬は青白かったし、布団の中にいると言うのに体温は低い。
茜はぎゅっと唇を噛む。
「ね、試合……応援に来てくれる?」
「……」
「それがご褒美でいいや」
初夏は返事をしなかった。茜は少し考えてから、そうっと初夏の布団の中に脚を入れた。
「茜?」
「あーあ、私が初夏の代わりになれれば良いのに」
潜り込む。
二人を隔てているものが無くなる。
初夏の身体がびくりと緊張した。
命を零さぬように、茜は軽い身体を抱きよせた。気付かれないようふわふわの髪にそっとキスを落とす。願わくば、自分の命を初夏に分け与えられますように、と。
初夏が咳が出ぬよう浅い呼吸を繰り返す度に胸が苦しくなる。手放したくない。いかせたくない。
「代わりになんかならなくていい。だって横になってたら、夢が見られるのよ。……夢の中で、私いろんなところに行けるの。どんなに走っても苦しくないし、空だって飛べる。結構自由でしょ?」
「そんなの、ただの夢でしょ。自由じゃない」
「そうね……胡蝶の夢かもね。つまり今いる私も夢かもしれない」
「意味わかんないよ。初夏は初夏でしょ」
「……」
ややあって、静かに、姉が言った。
「……いいのよ」
「え」
「罰だもん。だって私は、あなたを」
「もう、何も、言わなくていいよ」
茜が小さな声でなるべく優しく囁くと、初夏はこくりと頷いた。
「ねえ、茜。私……」
「何も言わなくていいってば」
「いなくなっても、守るから」
「……」
昔話は昔話。
人はいなくなってしまったら、もう会えないだけ。でも茜は言えなかった。普通の家のはずなのに、語り伝わる昔話。ご先祖様が憑き物になって傍にいるだなんて、そんな馬鹿げた伝説。でももしそれが姉の心の拠り所となっていたとしたら。そしたら安易に壊してしまう訳にはいかない。
「あーあ、もう……絶対に勝つから、夢の中でも良いから応援にきてね!」
「そうね、うん。そうする」
布団の中で向かい合わせで笑いあう。
茜がおでこに唇を寄せると、初夏は微かに身体を震わせた。
次の日、茜のシューズは捨てられていた。
シューズを捨てた先輩は、その日の練習に参加していなかった。
更にその翌日、あの駅で──茜は先輩の指を噛み砕いた。
二度と接げないように、血なまぐさくて骨っぽいその指を、飲み込んだ。
十三番街のカレイドスコープ 常 @nekoken222
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