第3話
ゼミの飲み会は、大学の最寄駅から数駅離れたところで行われた。それでもまだ十二番街の中にとどまっているから、パスポートもいらず行きやすい場所といえる。
茜は駐輪場に停めていたバイクに荷物を括ると店へ向かった。あまり長居するつもりはなく、隙あらば逃げ帰るつもりでいた。
派手な看板が並ぶ飲み屋街を進み店の前に停める。ジャケットを脱いでハンドルに掛けていると今野に声を掛けられた。昼間とは違って綺麗に化粧をしている。彼女の口紅が普段と違う事に引っ掛かりを覚えた。淡く香水の香りがしていて、ゼミの時とは違う余所行きな雰囲気に首を傾げる。
「良かったー! あんたが来ないと人数足りなくなっちゃう」
「人数?」
「相手は欠席いないらしいし、これで来なかったらどうしようかと思った。あれ、あんた眼鏡はどうしたの……コンタクト? いいわね」
「違う。度が合わなくて疲れちゃうから今は裸眼……って何、ゼミ飲みじゃないの?」
何か、話しがおかしい。
ゼミ飲みならば、相手なんて言わないだろう。そういえば、フィールドワークの課題のせいで最近中々ゼミに顔を出せていなかった。迂闊なことに飲み会などの情報はまるきり今野任せにしていた。
「今野、まさか」
じろっと睨むと、慌てて目を逸らされる。
「あらぁ? サークル飲みって言わなかったっけ?」
「言ってない。なんで今野のサークル仲間と飲まないといけないわけ? はぁ……帰るわ」
「茜のこと気になるって人結構いるのよ。1時間だけでもいてよ。でないと」
「でないと、なに?」
今野はにやっと笑った。
「国語学の課題、一緒にやってあげない」
「ぐ」
「茜、古文書読むの苦手だもんねー? あんな立派な辞書持ってるのにもったいない」
「うう」
苦手な科目を言われて茜は何も言えなくなる。課題の提出日はフィールドワークのレポート提出日と一緒だった。好きなフィールドワークに時間を費やしあちこち旅に出ていた為、畢竟苦手な方は進んでいない。
結局、ため息をつきつつ、店に入る事になった。ゼミに顔を出すのも久しぶりだからと、まともな格好で来て良かったと、心の底から思う。軽く化粧を直して、覚悟を決めると今野の待つテーブルに向かった。
勿論、1時間で離脱することはできなかった。
サラダに、だし巻き卵に、揚げ出し豆腐。里芋を使ったポテトサラダが美味しくて料理を理由に我慢強く茜は座っていた。それでも何回目かの席の入れ替わりの後、繰り返し趣味やらなにやらを訊かれるのに飽きて外の空気を吸いに出た。
今野は、早く彼氏を作れと言っていた。そしたら、不愛想な顔にも少しは可愛げが出るんじゃないのかと言って笑った。心配されているのだという自覚はあった。ゼミの仲間はともかくとして、茜は人といるのが怖く、深くかかわる事を避けていた。唯一今野だけが茜が逃げようが何しようがぐいぐい迫っていつの間にやら友人のポジションを掻っ攫っていった。
ぼんやりと人の行き交う通りを眺める。店の中の賑わいは、入口のドア一枚隔ててほとんど聞こえてこなかった。
「……?」
歩いている人の中で、誰かが立ち止まってこちらを見た、気がした。
ポケットに手を突っ込んで人通りの波に逆らってゆらゆら歩いてくる。背の高い女の人だなと思って見ていたが、それが誰かを認識したと同時に手が震えだす。
「森山、なんでこんなとこに」
彼女は高校のバスケ部の先輩だった。
そして。
茜が、傷つけた相手だった。心理的に、ではない。物理的に傷をつけた相手だ。
「どこに行ったのかと思ったらまさかまだ同じ街にいるなんて。……相変わらず人喰ってんの?」
「……食べてない」
茶化すような口調にざわざわした。
毛皮を纏っていたら逆立っていただろう。指の無い手が自分の髪を掴もうとする幻を見た気がした。ざわざわは大きくなり、同時に何か黒い靄のようなものが自分の周りに現れ始めた。すう、と茜の瞳が細められる。
「ふーん……。何をそんなに警戒してるんだかしらないけど、また警察呼ばれるよ」
笑った彼女に、なんとも言えない気持ちが湧いてくる。
この真っ黒い感情はなんだろう。
茜の指先がぴくりと動いた。
「こんばんは、どちらさま? 茜の知り合い?」
ぽん、と肩に手を置かれて我に返る。
振り返ると、今野がいた。じろりと茜の前にいる人物を睨んでいる。肩に置かれた手の温かさに力が抜け、茜は自分の身体が緊張していたのだと気が付いた。
目の前の人は、ほどなくして姿を消した。いなくなる前に、そいつも喰うのかとにやにや笑いながらつぶやくのを、茜は聞き逃さなかった。
「なにあれ、感じ悪い」
今野は心底嫌そうに言った。
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