第2話
時計は14時20分を示していた。
講義は佳境を迎えているはずだが、声のトーンは開始直後から変わらない。
──Traditionの裏にはTransitionがある。すなわち伝統とか、伝承というものの裏側には必ず、変遷があるのです。一見変わらないように見えますが、時の流れと共に、伝えられるものは取捨選択されていく。
そう、移ろいゆくものなのです。伝統は、伝わらなかった無数の物によって支えられている。……最も分かりやすい例が歴史です。意図的にせよ、そうでないにせよ、歴史は伝わったものと伝わらなかったものの二面を内包しています。
講堂の半分は埋まっているだろうか。高い天井に、口ひげをたくわえた立派な体格の教授の声がこだましている。空間のどこかで微かに私語が聞こえるが、反響してしまってさざめきぼやけて誰の物かは分からない。教授はそんな些末な音は聞こえないかのように講義を進めていた。
森山茜はペンを止めると、黒髪を耳にかけた。眼鏡の度が合わなくなったのか、板書きされた単語がぼやけて読み取れない。猫のように目を細めてようやく言葉を拾い、再びノートに書きだした。
外で研究することが好きな彼女は座学をあまり好まない。しかし、この教授の話は別だった。伝承という一種の物語を、生き物として捉えるという考え方は面白い。生きているならば、その過程で起こるアポトーシスは必然であるのだという。
生きる物語を追うのは歴史家。しかし死んでいく……墓碑さえ与えられず忘れられてしまう運命だった物語を追う自分たちの存在は……墓守に近いと彼は言っていた。
──変遷、というと惜しいような気になるかもしれませんね……。僕も惜しいと思うことがある。しかし、そうですね、世の中には、惜しくはない最初から無かった方が良かったものもあります。現代において変遷と共に急激に忘れられていくであろう事の一つが……おっと。
講義の途中で終業のベルがけたたましく鳴り響く。
鳴る前から撤退の準備をしていた何人かは、教授の言葉を待たずにばたばたとノートをしまっている。茜の隣に座っていたゼミの友人も両腕をあげて伸びをした。
講堂の中が一時騒がしくなった。
「ええ……それでは話の続きは次回。フィールドワークのレポート提出期限が来週なので皆忘れないよう」
提出期限の話が出た途端に悲鳴が上がったが、教授はそちらの方を一瞥して呵呵と笑いながら身体を揺すって出ていった。
「無かった方がいいものってなにかな?」
姉との思い出が蘇る。茜は小首を傾げ、ペンをくるりと回した。
──アレは、無かった方が良かったものだったんだろうか? きっとそうなのだろう。
「さあねぇ、あんまりよくないモノなんじゃない。例えば病気なんかはよく昔話に絡められるけど。──あれ?」
「なに?」
「んーん、気のせい」
友人、今野が、茜の影がぶれて見えたのだと肩をすくめて言った。
「光の加減かもね」
のんびりとした口調でそう言うと、彼女はバッグを拾いあげた。
森山茜は、母一人、子一人の家庭で育った。古くは神職の家柄だというが、もう祀る神もなくただ古い日本家屋が残るのみだった。
実際は母一人、子二人だったのだが、姉はとあることがきっかけでいなくなってしまった。姉妹とはいっても、髪の色も目の色も似ても似つかない。姉、初夏は色素の足りない淡いくせ毛で、これまた色素の足りない、見ようによっては橙色にも見える瞳をしていた。一方で茜は、艶やかな黒髪に赤みがかった瞳だ。
性格も正反対で、おっとりふわふわとしてどこか抜けている姉は、皆に愛される存在だった。一方で茜は気が強く、近所の男子としょっちゅう喧嘩しては生傷を作って母親に怒られていた。
「次休講だって。私サークルの方行くけど茜はどうする?」
「あ、私は昼寝。こんないい天気寝ないと勿体ないし?」
「外好きよね。猫かなんかなの? 放課後のゼミ飲み忘れないでよ」
今野は、茜に飲み会に来るよう念を押すと、サークル棟の方へ行ってしまった。
一方茜は、しゃんと伸びた友人の背中を見送ると、図書館の裏手にあるベンチ目指して踵を返した。
外に出ると、目が利かなくなるくらいの光に囲まれる。
半袖でも良さそうな気温だった。喉が渇いたので自動販売機でジュースを買うと、定位置である穴場へと向かう。ミツバチの羽音のする中庭を通り過ぎ、つつじの生垣に囲まれた入口をかき分けるとそこには5畳くらいの芝生の空間がある。
その端に鎮座ましますベンチの上には藤棚が良い日陰を作ってくれている。茜にとってつつじの生垣を過ぎるのは、日常と非日常の境界を跨ぐ行為だった。
はたして芝生の空間には誰もおらず、静かな木陰がベンチの上に落ちている。
茜は鞄を投げ出し、ジュースを一気に煽るとごろんと横になった。
ひっくり返って芝の上に広がる空を見上げる。
無かったほうが良かったものがある事は知っている。
でも、本当に無かったことになってしまうとは思わなかった。
ぽかぽかする気温の中で身体の力を抜く。そうして姉がいなくなった時の事を思い起こす。横に放り出した鞄の中からノートを一冊取り出すと、開いて顔の上に広げた。
今までもこうやって繰り返し、あの時に何があったのかを思い出そうとしたけれど、肝心のところを記憶の箱から中々取り出すことができなかった。
記憶の中で、茜はまだ高校生だった。
バスケ部に入っていて放課後は毎日練習に明け暮れていた。……はずなのだが、その日は怪我をしてしまったのだったか、練習に参加することなく学校を後にした。今より少し短い髪をポニーテールにしていた覚えはあるから、きっと出るつもりでいたのだろう。口の中を切ってしまったようで、ちりちりと痛んだ事を思い出す。
俯瞰で眺めると、過去の自分は随分と滑稽に映った。
お気に入りのシューズを抱えて、何故だが急いで走っていた覚えがある。丁度今と同じ時期。まったくもって平和な昼下がり。まだ空は明るくて、やっとのことでたどり着いた駅のホームには主婦や、スーツの男の人ばかりがいた。茜一人が焦っていて、周囲がのんびりとしている分、奇妙に見えた。
高校生の茜はぜいぜいと息を切らして、そして顎まで落ちてきた汗を手の甲でぬぐって顔を上げ……そして。
目を見開いた。
過去を思い出す今の茜も表情を歪める。
「……うい、か」
目の前のホームに、そこにいてはいけない人の姿を見つけたのだ。昼間外で見る姉の姿はひどく儚く見えた。淡い色彩の身体は日の光に透けてしまいそうだった。
制服を、着ていた。
絶対に苦しいはずなのに、きちんと背中を伸ばしてそこに立っていた。
線路の直線とホームの直線。そしてホームの柱が自分のいる空間との境となり、姉は手の届かない所にいるようだった。
「なんで」
姉は、身体が弱く茜とは別の近所の高校に通っていた。部活もやっておらず、大体学校が終わると直帰して家で臥せっていた。
部活をしない代わりにピアノを弾いたり、本を読んだりしていて、それでも疲れると止めてしまう。本は図書館のものや、家に放置してある古文書の類を引っ張り出しては辞書を使って読んでいた。
読むのが困難なほど読み終わるのに時間がかかるのが良いと言って笑っていた。姉は夏場は縁側に冬場は炬燵に本と一緒に寝転がっている事が多く、炬燵に潜っている時など見えなくてよく踏みそうになったものだった。
初夏は心臓に生まれつき欠陥がある。
この時は丁度、治癒不可能だと宣告されたばかりの頃。その欠陥のせいで常に酸欠で、最近では歩くこともままならない。学校に行くのに車椅子を使うくらいだった。
だから、家から数キロ離れた駅にいるなんて、普段だったら絶対に考えられない。
何があったんだろう。何か、あったんだろう。頭の中でぐるぐる考えが回る。ざわざわと胸の内で黒いものが騒めきだした。
姉と、目が合った。心配そうに微笑んだように見えた……と、彼女の姿が揺らいだ。少し衝撃を加えれば霧散しそうなくらい輪郭が綻びていた。胡蝶の夢の話を、最近聞いたばかりではなかったか。
「ダメだよ……?」
茜は、初夏に──線路に向かってふらふらと歩んだ。
ホームに電車が入ってくると、離れろと拡声器が何度も告げていた。
ぷあん、と大きな警笛を響かせて周囲の音をかき消し電車が滑り込んでくる。数多の車輪の振動がホームを揺らす。茜は初夏の姿に手を伸ばした。
ぐいっと後ろに引っ張られて、鞄やシューズがホームに散った。
腰をしたたかに打って呼吸が止まる。
周りの人に口々に大声で色々言われた気がするけれど、全然頭に入ってこない。
人だかりの隙間から向かいのホームを見ようとしたら、不自然な位置で電車が停まったままになっている。走り回る駅員の姿、座り込む人、叫ぶ人。普段と違う景色が、電線とホームの線で区切られた中展開されて、まるで出来の悪い映画のように茜の目に映った──。
そこで、茜の記憶は途切れている。
次に思い出せるのは、目の前に蹲る誰かと、その誰かが流す血の事だった。
自分がやったのだと、茜は理解していたが何故やったのかを思い出せずにいた。
訳も分からず人を傷つけた自分が怖くて、それから人と距離をおくようになった。
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