空を取り戻した日:または、物語を否定した君の話。
泉杓志
完結
太陽が見えなくなってから何年経ったのか、ぼくは知らない。
初めそのことに気づいたのは、ぼくではなく、同級生の
「うちが覚えとる限りでは、あの空にこう、それは大きい光球があったと思うんやけど。」
どこに行ってしもたんやろ、と、金魚みたいな間抜け面で金魚みたいに口をぱくぱく開けて、柄にもない真剣な声で、薄昏の下校中、空を見上げて千早は言った。
ぼくはその横顔だけを見ながら、
「本当。マヤの暦って、十年ずれてたのかも。」
と占星術同好会らしいことを言った。
帰宅してニュースを見て、『え、嘘じゃないの?』と知り合いたちに連絡したことを覚えている。望遠鏡を探して、下らないと辞めたことも。
太陽の後を追随するように天体たちは姿を消していって、一年も過ぎると、星座占いは過去のオカルトとなり、月経という言葉は耳にしなくなった。プラネタリウムは人気が再興したけれど、同好会はぼくが卒業して数年後には潰れた。
しかしそれ以上に世界は変わらなかった。
発生源が見えないのに光は依然として降り続けたし、ぼくたちは当たり前のように大学に進学した。地球滅亡を訴えていた人たちもアルファベット一文字にカタカナ三文字の名前で今や蔑まれている。月見バーガーは名前を変えて今も期間限定で発売中。そうして時間は過ぎていった。
役に立ちそうで立たないことを幾つか学び、一生を変えそうで変えない経験を幾つか積んで、そして何一つ自分の力で生み出したりはできずに、ぼくたちは社会に出た。
特筆すべきことが何かあるとすれば、千早が就職してすぐに結婚した、くらいか。
後から、相手がぼくの元カレだったと知ったが、千早も気づいていなかったようだ。
結婚式の前の週、ぼくは千早の家に行った。
同棲をするにあたって、彼氏は実家に荷物を取りに帰っていたらしく、その日曜日の午前に『暇や~家きて~』というメッセージが携帯端末に届いた。
ぼくは夕食を一緒に食べる旨を伝えて、就職祝いで祖父母に貰った車で向かった。
その家は、ごくごく庶民的なマンションの三階の片隅だった。
着いて呼び鈴を鳴らしたところで、ぼくは持参品を忘れたことに気づき、出てきた千早に軽く謝った。
千早は苦笑しながらかぶりを振って、居間までぼくを呼び込むと、そこの片隅にうず高く積み上げられた梱包品の山を指さした。
それらを除けば、部屋は隅々まで掃除されており、複数人分の家具も嫌味なく並べられていた。
それから、畜産農家の親戚からという肉の厚いステーキを食べ、互いの近況を話し、仲の良かった教授からという甘いワインを飲み、互いの趣味嗜好を話した。
相変わらず千早は天体と映画が好きで、相変わらずぼくは一人で小説を書いていた。
ただ、千早の特徴だった赤褐色のインナーカラーが混じったショートボブは、黒く嫋やかなストレートロングになり、口紅もナチュラルなものに、褐色のやや荒れていた肌は見る影もなくなっていた。
「そういえば、今どういう小説書いてるん?」
「まだ構成を練ってる段階。」
「今思いついてる分だけでええよ。」
「太陽。あの太陽のことを覚えてる、三人の少年の話。子供の頃はいつも仲良しで一緒の三人組だったけど、あの消失以来別々の道に行って別れる。特に太陽の再生を望む一人と、現状維持を望む一人は対立関係になる。残りの一人、これが主人公、は太陽なんかどうでもよくて、何でこんなことになったんだろうって悩んだりする。
「そら、傑作の予感がするなあ。完成したら送ってもらおうかな。」
「いいけど、どうせ読まないでしょ。」
「ひどい言い草やなあ。うち、ちゃんと最初と最後の十頁は読む主義やで。」
「随分と最低な趣味してる。」
食事を終え、勧めるままソファに相席して、中サイズの液晶にサブスクリプションサービスを映し、ぼくたちは前に見た白黒の映画を選んだ。
佐藤
しかし横を向くと、千早は自分の左手の薬指をただじっと訝し気に眺めていた。そこにあるべきものは、まだ付け損ねているようだった。
その横顔はとても綺麗だった。でも眼だけは、草臥れているように見えた。
千早は隣の視線にも気づかない様子で、
「なあ、杏ちゃんは、映画で言うと
「それ、誉め言葉?」
「うん。もう結構前からの付き合いやけど、いつまでも飽きへんというか、良さが変わらんというか……うちは変わりまくりやし。」
と言い、くすくす笑った。
ぼくは前を向きなおした。その言葉が、余りにも含みがあるように感じたから。
「まだ、懐古するような
「それはせやねえ。でも、今日杏ちゃんと会ってな、比べたら、やっぱうちは遠いすごいところまで来てしもたんやなーって思ったんよ。」
今思えば、ぼくたちは両方とも酔っていたんだと思う。それが酒か、何か別のものかは、分からず終いだけど。
そうでなければ、
「千早、不安なの?」
「そうかもしれへん。」
「それで呼んだの?」
「……そうかもしれへん。」
「そういうの、私には役不足じゃないかな。」
「役不足って、どっちの意味なん。二つあるやろ。誤用か、ほんまの方。」
「さあ。分かんないし……そうだ、試してみる?」
と言って、ぼくが千早の掌に掌を重ねた時に、当然拒絶してくれただろう。
だから数秒の無言の後、千早が迷いのない口ぶりで、
「ええよ。」
と言った時、ぼくは驚いた。
ベットの上で、ぼくがどんな言葉を発したかは記憶にない。
千早がひどく手慣れていたこと。その真っ白で、円く、滑らかで、掴めば指が染み込んでいくような、けれど脆い崩れやすい儚いという形容詞は当てはまらない、そんな千早の肌のこと。その日初めて知ったそれらの事実だけを、確かに覚えている。
終わってから、千早は手際よくシーツを片付けて、バスルームに向かった。
ぼくは服を着直しながら、その寝室を観察して、カレンダーを見つけた。花色の綺麗なもので、千早らしい拙い字のメモがあちこちにあった。
ぼくは今日の日付に『杏ちゃんとあう』とピンクの蛍光ペンで書かれているのを見つけた。それは、次の週にある『けっこんしき』と同じ程度掠れていた。
ぼくは靴下を履いてから、千早には黙って帰ろうと思った。足音を立てないように寝室から出ると、幸いに液晶画面では次の作品が自動再生されているようだった。
玄関まで行き、靴に足を入れようとしたところで、千早のくぐもった声が聞こえた。
「杏ちゃん。
「聞こえてる。」
「……あら、もう帰っちゃった? まあ別にええか。」
「大丈夫。……聞こえてる!」
ぼくの声を聞いたからか、千早は脱衣所の洗面室に出たみたいで、
「杏ちゃん、もう帰るつもりなん? あの人明日までおらんよ?」
「……いいの。で、なに?」
「いや、シャワー浴びながら考えてたんやけど。杏ちゃん、めちゃくちゃ上手ない!? 指の動きが素人ちゃうわ! プロやプロ!」
「……やだ、そんなこと大声で言わない。千早、今何時だと思ってんの。」
「ごめんごめん。でも、嘘ちゃうよ。ランキングに付けるなら、歴代で三位にはまず入るレベルや。知らんけど。」
そんな冗談か本気か分かりにくい前置きを置いて、
「やけど。やけどね。うちは……やっぱ、男の人の方が好きみたいやわ。」
と言った。
それは多分、ぼくが千早と知り合ってからの十年で、一番綺麗で、艶やかな声だった。
振り向けば、千早は何の衣類も着けないで、洗面室から身を乗り出していた。
「それは良かった。」
ぼくははっきりそう言って、それから靴底に踵を合わせ、扉のドアノブに手を掛けた。
流れてくる外気は全くもって生温かった。
それ以来、ぼくは千早に会っていない、と言って、目の前の少女を見た。
その女子高生は、後ろで二つに括った髪をぱたぱたと揺らしながら、おそらくは愉快と不思議との感情を顔に交互に書いていた。
「へー。先生、その人の結婚式にも行かなかったんです?」
「行けると思う? それに、あっちからも連絡は来なくなったし。」
「それは何とまあ、完全に別れちゃったってことですか。けらけら。」
ぼくを先生と呼び、笑い声を文字で喋る少女は、
大学生時代のアルバイトの家庭教師として、ぼくの最初の顧客であり、また最後まで教えていた生徒でもあった。
ぼくの担当は国語と英語で、山城が苦手なのは長文の読解だった。
山城は頭の回転が遅いわけでは無く、また刹那主義を標榜しているが根は真面目で、特段一般常識に欠けているとかそういう精神的な事情も無かったが、どうしてか一向に成績が伸びなかった。ぼくは度々、自分の能力を疑いかけたりした。
そうであるのに、山城は家庭教師がぼくでなければ嫌だと言い続け、結果、ぼくはもう社会人になったというのに、今でも時々勉強を教えるために山城家に来ている。
ぼくは山城の解いた問題の採点と赤筆修正を行いながら、
「別れた、は適当な表現なのかな。確かに千早を好感を持ってたのは事実だけど、山城さんも知っての通り、わたしだって大学生の時、何人か彼氏作ったし。だから、なんというか、もっと良い表現があるように思うな。」
「さいですか。でも、それは先生が出すべきですよー。だって小説家なんですから。女子高生の語彙力なんかに、そう文句を付けないでください。くすくす。」
「作家って、お金が稼げて初めて名乗れる肩書きじゃないかな。私は趣味でやってる一般人。一つだって胸張って完成させた作品は存在しないような。」
「ふーん。そういう自己認識なんですね。あ、私は先生の小説、好きですよ?」
「わたし、山城さんが読書してるところ見たこと無いけど。」
「女の子は秘密を持ってるものですよ。それは先生もご承知のはずです。ぷくぷく。」
「まあ、そっちの人とはABC順で十八文字ずれてるからね。」
ぼくはため息混じりにそう答えたが、山城は意も留めず、椅子の上で体育座りをしてくるくるり、と回りつつ、
「嘘じゃないですよ。頭の中に女の子がいる男性飛行士のやつとか、引きこもりの女の子を福祉の人が更生させる話かと思ったら女の子は天照大神(あまてらすおおみかみ)だったやつとか、毎回落とすの下手だなーって思いますけどそこを除けば結構面白いです。台詞じゃないところの文で特に先生の性根が出てて良いです。へへへ。」
「性根ね。わたしって別に、大した中身が無い人間だと思うから、それはぴんと来ないな。例えば、どういうものなの……質実剛健、深謀遠慮、温厚篤実、とか?」
「私の第一印象では、慇懃無礼で悪逆非道、心配になる人、でした。」
「第一ってことは、そこから変わってくれたりしたわけ?」
「いいえ。だって先生は、性根性格だけじゃなくて、他も変わってませんもの。でも、それは良い事ですよ。何も変わらないというのは、芯がぶれてないってことです。」
と言って、山城はぼくから机に目を向けた。
それから何問か問題を解いた。そのうちの現代文の批評文が、少し気に食わなかった。もはやありきたりの部類に入った多様性についての話で、その例の少数派と多数派が、まるで一生交じり合わないような対立構造にあるという口ぶりが嫌だった。
また、ぼくは太陽について考える。在るべきものが消えたこの世界は、これからも何事もなく続いていくのだろうか、そうだとしたら、太陽は元々何のためにあったんだろう。端から無くても良いものだったとして、それでも存在する理由があったとしたら、それは何だろうかと思った。
そんな風に時間を過ごすうち、やることが無くなった。腕時計で確認すると、もう午後七時を越していた。ぼくは鞄を背負って立ち上がった。
「お帰りですか。」
山城はそう聞き、ぼくが頷いたのを確認すると、
「先生。やっぱり、別れたで合ってると思いますよ。」
「どうして?」
「そんな顔で女子高生を見つめる人、いませんから。」
「詳しいんだ。わたし、メイクとかあんまり変えてないと思うけど。」
「何年も研究してきましたから。顔に出てるんですよ、心ここにあらず、未練ここにあり、という具合に。ふふふ。」
と、いつもと同じように冷淡に言った。しかしいつもと同じであることが、この場合、尚更感情を含んでいるように聞こえた。
ぼくが玄関まで歩くと、山城は先んじて扉の前に陣取り、
「先生、駅まで送りますよ。」
「生憎と、今日は車で来たの。」
「じゃあ、車に乗せてもらえれば大丈夫です。」
「ペーパードライバーだから、まだ人載せたくない。それに……女子高生を変な目で見てる大人と一緒に相席して、何かがどうかなったら、って思わない。」
「……どうかなってくれるなら、それは願ったり叶ったりですよ。きゃっきゃっ。」
と再度わざとらしく言った。
ぼくは一拍だけ逡巡した。ぼくは山城のぼくへの感情を理解していたから、それは関係がなかった。代わりに脳裏に浮かんでいたのは、今はもう誰もが名前と過去の映像でしか覚えていない、あの太陽の姿だった。目に優しくないオレンジの円が、懐かしかった。
ぼくは、「E=mc^2」と背景に大きく書かれているカレンダーを指さし、
「そうだ、今月の終わりのこの模試で良い結果出せたら、一日山城さんを車でどこにでも連れて行ってあげる。」
「いいですね分かりました。ついでに、その日は私のこと、下の名前で呼んで下さいね。約束ですよ。わらわら。」
手を振ってドアを開ける。流れてくる外気は、少し寒い風が吹きつけていた。
来月までに小説を書き終えようと思った。千早に送るつもりも、山城に見せるつもりも特段なく、しいて言うなら自分に必要なことのように感じたからだ。
しかし数十
数日して、大学時代の先輩から、久しぶりに会わないかと連絡が来た。
彼と会うのはサークルの送別会以来だった。
北に地元を持つ先輩は、今は社員寮で一人暮らしをしているようで、着いてすぐ、部屋が清潔に保たれている箇所と乱雑に物が散らばっている箇所とで奇妙に綺麗に分けられているのを見て、彼の彼らしさが失われていないことを知った。
踏み場の無い通路を抜けると、一人で暮らすには十分なスペースと、二人で暮らすには貧相なインテリアが待ち構えていた。ぼくは普段は節約して貰わないレジ袋からレモンサワーの缶を取り出し、先輩は備え付けの冷蔵庫を開けた。
先輩は冷蔵庫製の氷を入れたグラスに安いウイスキーと水を注ぎながら、
「そういや大学の時もいつもそれ飲んでたなァ。」
「言ってませんでしたっけ? クエン酸が好きなんです。」
「あっそう、分からん。そういう理由なら、酒じゃなくて清涼飲料水を買え。」
「アルコールが無くても酔えるならそうしてますけど。」
「へえ、なら今からドライブにでも行くか。」
「先輩、前に車はコスパが悪いし時代遅れだって言ってませんでした?」
「さあなこの頃記憶が……そういや夕食は来る前に済ませたか?」
「二年前ぐらいに間違いなく言ってましたよ。あ、食べてないですね。」
二人とも何度か唇を付けた後、先輩は台所に向かい、ぼくはその時の事を思い出した。
ぼくのいた文芸サークルは年々衰退の一途を辿っており、そこで打開策として掲げられたのが部室内飲酒の全面解禁。言わなくても分かるが酷い有様になった。毎日のように騒ぎ、調子に乗った先輩らは最終的に、酩酊状態で小説を書いて発表しあう、中島らも選手権を開催したりした。
酔っても話は思いつくが文章にできない先輩のため、口述筆記役としてぼくは駆り出された。先輩とはそれまで関わりがなかったが、ちょうど暇だったので選ばれた。それから度々つるむことになった。
どんな小説を代筆したんだったか、と思い出している間に、先輩は調理用のボウルに袋から出した菓子を雑に入れてやってきて、
「普通に冷蔵庫開けたら中身空っぽだったわ。」
「わたしなら良いですけど……他の女の子連れて来てそれだったら終わりですよ。」
「だから暇で暇で後輩を呼ぶ羽目になってるんだ。」
「なるほど。うーん、この場合、同情するのが正解ですかね。」
「女の子に同情されてもな。大抵そっちが選ぶ側じゃね?」
「あくまで大抵ですよ……わたしも、何でも上手くいってたりはしてないです。」
と言って、ぼくは坂文千早との間にあったことについて話を変えた。
全部話しはしなかったが、合間に彼が録画したきりのアニメを消費したりしたので、ひとしきり話し済んだ頃には先輩はべろべろに泥酔していた。ぼくはまだ一缶も飲みきっていなかった。
「こんな具合です。先輩は、最近何かありました?」
「無い。……大学入った時も、社会に出た時も、これで何処か変われるんじゃねーかなって思ってたけど、実際は全く駄目だな。成長してる気がしない。」
「わたしも、知り合いの女子高生にそういうこと言われましたよ。」
「それは知らないが、何か近いものを俺は前に書いたことがあると思う。」
どれだったかな、と先輩は思い耽り、携帯端末の手帳型のカバーケースを開いた。ぼくは彼の本棚に何冊か並んでいる部誌を手に取った。手作りの紙束たちには、手垢やシミが付いているものから、全頁が清潔なものまであった。大抵は、先輩が書いた作品が載っていない方がより汚くなっていた。
「ダメだ、一文字も読めねえ。」
と先輩は言い、ぼくは一つの冊子を握って振り返り、
「多分これですよ。先輩がわたしに書かせた例のやつ。」
「ああ、そうだっけ。記憶力の良い後輩を持てて俺は幸せだよ。」
「酔っぱらいの戯言を清書する体験なんて、二度となかったですからね。」
ぼくが冒頭を読み上げると、先輩はそれに連ねるようにして喋り始めた。
それはあの消えた恒星、民主主義なんて度外視して身勝手に輝いていた空の大王、誰かが存在を望んで誰かが存在を否定した彼、についてのサイエンスフィクションだった。
「西暦20××年。NASAもJAXAもメシアコンプレックスどもも全員太陽の謎を解決できずお手上げ状態になった。そこで十四歳にしてオックスフォード大学で博士号を取った天才美少女Rちゃんが登場する。俺の分身にしてポスドクの青年Aはこう言う『何をなさるおつもりなんですかRさん』『決まってるでしょ。私の知能を再現したAIを作って宇宙船に乗っけて太陽まで飛ばすのよ』『何故です』『あたしのカンがそう言ってるの』で二人の孤独な戦いが始まるわけだ。資金のやりくりに苦労し、途切れない失敗と侮蔑の数々を受け、歴史上未解決の数学問題をこのために十数個攻略し、数年後、完成した宇宙船にAI『
「それで、オチは?」
「実は太陽は消えたんじゃなくてアップデートされてた。俺たち人間は時代遅れの旧型でとっくの昔にサポートが終了してて、太陽を見ることが不可能になっていた。Aはイカロスに誘われ、Rを捨てて宇宙船に乗り込んで太陽へ向かう。最後真実に気づき、そのまま死ぬ。あんま面白くねーな。」
「いや、面白かったです。途中から、わたしが知ってるものと違ってましたけど。」
「そうだっけ? 別の奴と混同したのかね。」
「ともかく、先輩が相変わらず、人間至上主義がお嫌いなようで安心しました。」
「別に嫌いではない。俺は何も嫌いじゃない、単に、諦めが早いってだけだ。」
先輩は喋り疲れたようで、代わりにぼくが、今書いている小説について語れ、と言った。
ぼくは手元の缶を飲み干して、自分のパソコンを開いた。文書作成ソフトを起動して、書いている途中の物を画面に表示する。
現在二万三千文字。短編として何処かの賞に送り付けるにはやや厳しく、逆に読み応えに充実した長編には満たない中途半端な文量だったが、物語は佳境に入っていた。
主人公はかつての友人たち二人の前で、一つ自分の結論を述べようとする。そこは三人が出会った公園、やがて主人公だけが置いてけぼりにされた思い出の場所。その一言で、彼らの関係は修復されるかも知れないし、完全に断裂してしまうかもしれない。
大事な台詞で、だからぼくはそれ以上書くことができずにいた。
先輩はそこまで聞くと、独り言のように言った。
「なんだろうな、もちろん、俺だったら『今更無価値だから止めろ』とか、『そもそもお前らは無くなる前は殆どどうでもいいと思ってただろ』みたいな結論しか出さないし、出せない。それは結局のところイチゼロで決めるのが楽だからで、だから俺は変わらないし、変われないんだろうってのは、分かるだろ。」
ぼくはアルコールが体に回りつつあるのを感じた。
「でも徳田、お前が変わらないのは俺とは別の理由だと思うんだよなあ。俺のは怠惰の結果だけど、お前のそれは努力の結果だと思う、どっちかっていうと美徳の部類だ。だから俺は、お前にはそのままでいいって言う。まあ、どう受け取るのも別にお前の勝手だと思うけどな。」
ぼくは、キーボードを叩き、三頁から五頁を選択してバックスペースキーを押す。処理中に別の没にした自作品を開き、数行コピーして戻ってペーストし、その続きを変換もせず平仮名のまま書く。似たようなことを多数の個所で行う。脳内に流れる音楽から歌詞を拝借する。目に付く本、映画やCDのジャケット、サプリメント、の題名を借用する。そうして再び主人公の独白にまでたどり着く。意識が曖昧になり、指だけが勝手に動き回って、それ以上は覚えていない。
目を覚ますと、日差しが眩しかった。寝ぼけ眼のまま目の前のパソコン、既にバッテリーが切れている、のを閉じて、立ち上がった。
玄関まで行ったところで、後ろから足音が連続し、意識が微妙にはっきりする。
「一応、保存はしといた。随分と文章が無茶苦茶になってたから、帰ったら直しとけよ。」
先輩は呆れ顔でぼくの事を見つめていて、ぼくも呆れ顔で、
「ありがとうございます。でも、先輩もあんな真面目なこと言えるんですね。」
と言って笑った。
外に出ると、体中を寒気が包み込んだ。
「なんていうか、打ち切りみたいな終わり方ですね。俺たちの闘いはこれからだ! というやつ。にやにや。」
助手席にこぢんまりと収まっている山城は、車窓から空を眺めながらそう言った。
右手には『国語―偏差値73.8』『英語―偏差値70.2』という用紙が握られている。
「急に覚醒した、だったら面白いけど。美波ちゃん、何時から手を抜いてたの。」
「世の中、思ったより面白いことは起こりますよ。なぜなら太陽は消えますし、先生はどこまで行っても私の元に帰ってきますしね。ぷぷぷ。」
「目標値まであと
歪な喋り方をする少女の言葉をかき消すように、カーナビが声を上げる。
ぼくは頭腹背に三つの顔を持つ不気味な巨大オブジェクトを斜め前に見つけ、
「そろそろ着くみたい。……それにしても、たかが買い物のためのタクシーとして使われるのは、あんまり良い気しないね。」
「え、先生、女子高生とドライブデートできて嬉しくないんです?」
と山城は馬鹿らしいほど目を丸くしているようで、
「人の小説を勝手に読んで、打ち切りだ! って言う女子高生だし。」
「別に、打ち切りだから悪いなんて言ってませんよ。むしろ、明確な答えを敢えて出さない、私の好きな先生らしいところが現れているという、誉め言葉です。えへへ。」
「そんな人を好きになるのは、趣味が悪いしお勧めできない。美波ちゃんは、もっと自分を大事にすべきだよ。」
「違いますよ。先生。先生が私を大事にしてくれれば万事解決なんです。」
「……賢いね。いいよ、分かった。」
窓を半開きにすると、日の光など見せてしまわないように冷気が
空を取り戻した日:または、物語を否定した君の話。 泉杓志 @ssselturtle1121
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