第4話 噂の人



 夏が始まる少し手前。

 いつ買ったか覚えていないビニール傘を差す。

 朝なのに暗い街は、乱層雲が覆い隠した空を恋しくさせる。

 電車に乗り込むと、じめついた空気が車内に充満していた。

 雨のせいか、いつもより車内は人で溢れていた。

 隣に立っている人の傘から私の靴へ水滴が滴り落ちる。

 それを避けようとして少し右へずれたら、隣に立っていた人にぶつかってしまった。

「すみません」

「あ、いえ」

 あれ、この声どこかで聞いたことあったような…と思い右側に目線をやる。

 身長が高く顔が見えない。斜め上を見上げるように相手を見ると目が合った。

「あ」

「おはよう町田さん。昨日はいきなりごめんね」

「いいえ」

 昨日、駅で私に話しかけて来た人だ。

 あの時は適当にあしらってしまったから、この状況はとても気まずい。

 まさか昨日の今日で再会するとは想像していなかったし、もう二度と話すことはないと思っていた。

 モニターが駅の到着を告げるが、まだ私の下車駅ではない。

「町田さん、俺の名前覚えてる?」

 なんだっけと考えながら、夏海が田所先輩と言っていた事を思い出す。

「田所先輩?」

「わあ、覚えててくれたんだ。すげぇ嬉しい」

 ちらちらと同じ制服姿をした人達からの視線を感じる。

 どこまでも筒抜けの会話は私の心を削っていく。

 色々と考えるのが面倒くさくなり、次話しかけられたら無視しようかな、なんて考える。

「町田さんって相澤先生と仲良いよね」

 反射で「は?」と出そうになった声を必死に抑えた。

 いきなり心臓を殴られた様に脈が早くなる。

 無視しきれないその話題に焦りが現れないよう、丁寧に返す言葉を探す。

「そうですか?普通だと思いますけど」

 誰に聞かれているか分からない所で凪さんの話題を振るな。

 私にとって凪さんは聖域だ。どんな相手でも、ここに無作法で触れることは許さない。

「そっか、でも…まぁいいや」

 田所は何か言いたげな雰囲気を出していたが、それ以降口を開くことはなかった。



「宵、おはよう」

「おはよう」

 教室に着くと燈がいつもの様に挨拶してきた。

「宵…何かあった?」

「え、なんで?」

「こんな顔してたよ」

 燈が眉間に皺寄せ自分の指で目を吊り上げる。

「あー、昨日の先輩にまた話しかけられたから、

 かな」

「昨日のって…」

 燈が言いかけたところでバタバタと足音が近付いて来る。

「田所先輩と一緒に登校したって本当?」

 背中の衝撃と共に夏海が現れた。心臓に悪いからもうちょっと大人しく登場してほしい。

 興奮気味の夏海が私の肩をぐわんぐわんと揺らす。

「してない」

 同じ電車に乗り合わせ、降りる駅は学校が同じだから必然的に一緒になる。

 それを一緒に登校していると表現されたらたまったものじゃない。

「えーなんだ。つまんないの」

「つまんなくて結構」

 何か考えている表情をしていた燈が不思議そうに夏海に質問する。

「どうして夏海は宵が先輩と登校したと思ったの?」

「教室に着く前、何人かに宵と田所先輩が付き合ってるのか聞かれたから、なんでそんな噂が流れてるか聞いてみたんだ。そしたら二人が今朝一緒に登校してるのみたって子がいたらしくて」

 なんだそれ。

「いや、してないよ。たまたま同じ電車に乗り合わせただけ」

「宵の事だからそんな事だろうと思ってたけど…。なんかもう結構噂になってるっぽい」

「どう言うこと?」

 噂になる?どうして一ミリも興味のない人と噂なんてされないといけないのだろう。

 私は芸能人でもなければ消費されるためのコンテンツでもない。

 最低な気分だった。

「C組の鳥井さんって知ってる?」

「誰それ?」

「田所先輩の元カノ。先輩とは入学前から付き合ってたらしいんだけど、4月の最初の方で田所先輩が他に好きな人が出来たからって振られたらしい」

 夏海と燈が私の方を見る。なぜ見る。

「いや、宵は悪くないんだよ?でも、その鳥井さんって言うのが宵の事を相当恨んでるらしくて。宵の色々ない噂を流してるらしい」

「何それ。逆恨みじゃない」

 燈が怒りを含んだ口調で抗議する。

「いやいや、私に言われても…」

「あ…そうだよね。ごめん」

 私なんかを噂する人は相当暇だと思う。

 私の通っている私立海英高校は偏差値が高い。そのお陰か、勉強熱心な人も多く噂話に興味がない人も多い気がする。

 それでも暇だったり、勉強のストレスが溜まっている子達はくだらない話に飢えていた。

「私の噂ってどんなのが流れてるの?」

 夏海は私から目を逸らし、聞かない方が良いと思うと言った。夏海が私を思ってくれている事が分かる。

「私を知らない他人が言ってる事だから、別に何を言われても気にしないよ。でも、私だけが知らないことを噂されて、陰で笑われてるのはむかつくの」

「噂なんて基本悪口だよ。聞いてもいい事ないけど、それでも知りたい?」

「うん、お願い」

 夏海はやれやれと言った感じで溜息を着いた。

 燈は諦めた表情で夏海を見ている。

 その様子を見るに、二人は私の噂がどんな物なのか知っているのだろう。

「先に言っておくけど、私は信じてないし本当に下らない話だと思ってる」

 頷く私を見て夏海が重たそうに口を開いた。

「援交してるとか、他校の男と出来てるとか、男子全員に色目使ってるとか、あと…女の子が好きとか」

 最後の所だけおいおい、どこからそんな噂が流れたと問い質したくなったけどやめておいた。

「くだらないね」

「でしょ、絶対聞かない方が良かったよ」

 確かに決していい気分にはならない。

 でも、私を知らない人の、私の印象にそういった前置きがあると知れたことは良かったと思う。

 あと、女の子の所は正直ドキリとしたが、その噂の根源に凪さんが関わっていないのであれば無関係だ。

 この噂が凪さんの耳に入っていなければいいなと思った。


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