二章 夷狄の王 其の一

 イスカが木京ムージンを占領した夜のことは、鵠国における年始の宴の直後であったことから、年始の変と呼ばれるようになった。

 その年始の変の後の二ヶ月間で、イスカは木京周辺に位置する各郡の庁を制圧し、長河チャンファの北側をほぼ掌握した。そして季節が変わり都が鮮やかな薄紅色の桃の花で包まれる頃、彼は即位し、王を名乗った。

 同時に鵠国皇帝燕宗の娘、チャオ雪加シュエジャを王妃とすることを宣言。

 そして鴉夷の字を同じおんの鴉威と改めた上で、新しい国の名前も威国いこくとした。夷という文字には蛮族という蔑んだ意味があったので、これを改めた格好である。

 蛮族どもは食料や金品を奪ったら北の大地へ帰って行くだろう、と楽観視していた一部の華人達は、彼らがこの国に居座るつもりだと知って愕然とした。

 しかしイスカは慌てる華人達を尻目に、本気で新しい国作りに取り組み始めたのだった。



 弱冠二十三歳の若き王は、即位した翌日から精力的に動き出した。

 瑞鳳宮に集めた文官らに指示したことは主に三つ。


 今年の租税は一切徴収しないこと。

 鵠国時代の法律をもっと簡略化させること。

 人材登用を広く世間に訴えること。


 租税を徴収しないとは太っ腹な話だが、これは単純に人気取りのためである。

 華人にとって鴉威の民は異民族。それも長年に渡り辺境の蛮族と蔑んで来た存在だ。それなのに年始の変により一夜にして支配する側からされる側になってしまった。華人が鴉威に敵意を抱くのは当然であり、その支配を受け入れられない者がほとんどだと思われる。

 だから租税を無くすことによって、華人の気持ちを少しでも和らげようと図ったのだ。幸いなことに瑞鳳宮は多くの宝玉や豪華な調度品で飾られていたから、これらを売り払えば一年くらいは税収無しでもしのげそうだった。

 しかし王位について十日目、イスカは華人らに対し、早くもうんざりし始めていた。


「華人ってのは、どうしてこんなに仰々しいことが好きなんだろうな」


 瑞鳳宮で文官達との話し合いを終えて部屋を出た直後、イスカは七歳年下の異母弟アビを前にしてぼやいてしまった。

 アビの母は鵠国から嫁いできた華人だった。そのため彼は華語が鴉威の誰より堪能で、イスカはそんな弟を従者として手元に置き、難しい言葉の通訳をさせているのだ。


「よくもまぁ、あそこまで無駄な口上を並べられるものだ。しかも毎回」


 質実剛健を地でいくイスカにとって、華人の官吏達の考えは理解できない。

 鵠国の官吏らのうち、希望する者はそのままの待遇で威国でも働いていた。

 鴉威の民は遊牧を生業なりわいとしており、農耕民族に対するまつりごとの経験がまるで無いから、彼らの事務処理能力は重宝しているのだが、実際に華人らを使ってみるとその手法に違和感を覚えることも少なくない。

 例えば、イスカが一つ意見をいうだけで、文官らはその場に跪き決り文句を言う。

「天帝の英知にも並ぶ陛下の御賢察、誠に畏れ入り奉ります。臣らの浅慮は陛下の足元にも及ばず、慚愧ざんきに堪えぬこと甚だし」

 イスカが、そんなまどろっこしいことはしなくていい、と咎めても「国の主たる人物とはこのようにやり取りするものです」と主張を曲げない。


礼之用和為貴礼の用は和を貴しと為すと申します。礼儀を守ることは大切なことです」


 そして彼らは自分達が王に対する礼を守ることで、王の威が増す、と説明した。


「そんなのは屁理屈だ。あいつらは蛮族は礼儀を知らないって馬鹿にして、わざとややこしい儀礼を持ち出してるだけだ」


 アビは唇をひん曲げ、心底憎たらしげに言った。


八哥パーグェがあいつらに配慮する必要なんて無いよ。華人のやりように合わせるんじゃなくて、こっちのやり方に染める。従えない奴は斬り捨てりゃいいだけだ」


 アビの意見は苛烈だ。

 彼は支配者である鴉威の民が被支配者である華人達に寄り添う必要など無い、と常々考えているのだ。

 ちなみにアビが王であり兄であるイスカに対して敬語を使わないのは、鴉威の言葉に敬語という概念が存在しないからである。

 対して華語では一つの表現に対し、相手や自分の立場に応じた複数の言い方がある。そのあたりの複雑さは、華語の苦手なイスカを苛立たせる要因の一つにもなっている。

 しかし文字を持たない鴉威の言語は、人々を統治するには不向きなのだ。苦手だろうが面倒だろうが華語を使うしかない。

 イスカは極論を語る弟と話をしているうちに、苛立った気分が少し落ち着いてきた。

 華人の土地を占領し、彼らと共に国を治めると決めたのだ。そのために多少の苦労をすることは覚悟していたはずではないか。


「まぁ礼節とやらを守ってやることで丸め込めるなら、付き合ってやるしかないな。華人を治めるには華人を使わなきゃならない。それは紛れもない事実なんだ」

「そこまでして中原を治める必要なんてあるのか?」

「うん?」

「さっき親父からまた早馬があって、まさにそう言ってたんだよ。中原なんて背負う必要はない、取るもの取ったらすぐに帰ってこいってさ」


 二人の父は先代の族長であり、病を得た後は族長の地位を息子に譲って鴉威の地で療養している。

 各部族ごと対立していた鴉威の民を一つにまとめ上げた勇猛で賢い父ではあるが、長年の隷属関係に慣れ、鴉威は鵠国に従ってこそ安泰、と思い込んでいる節があり、息子達が挙兵することにも大反対していた。

 だからイスカが威国を作って中原を治めていく、と説明したところで全く納得してくれないのだ。


「まぁ、病のせいで心細いっていう気持ちはあると思うけどな。でも親父だけじゃなくて、鴉威に早く帰りたいってのは、みんなの本音だと思うぜ」


 アビの言うとおりだ。

 特にこれから季節が夏になっていけば、暑さに慣れない鴉威の民からは、必ず帰郷の訴えが上がる。

 それはイスカにもよく分かっていた。だからこそ、父の命令を年寄りの世迷い言と切り捨てることはできない。この件については皆の理解を得られるまで根気よく説得するしかないのだ。


「鴉威に戻りたい気持ちは分かるが、でも皇帝の行方が分かるまでは駄目だぞ。俺達が兵を引いた途端、皇帝は瑞鳳宮に帰ってきて兵をまとめ、鴉威へ攻め込んでくるだろう。俺達の土地は起伏に乏しく広大で、山羊や羊を飼うにはいいが守りに適さない。鴉威を守るためにも、この木京と華人を掌握し続けることが大切なんだ」


 それがイスカの持論だ。

 広大で肥沃な土地と多くの民を抱える華人は、きちんとした指導者にさえ恵まれればいつでも鴉威を滅ぼすことができる。それだけの国力と資源を持っている。

 そんな強大な力を持った連中から身を守るには、彼らを従え、ともにこの地を治めていくしか手がないではないか。


「その鍵になる男がここにいる」


 イスカは地下への入口を指し示してアビに言った。

 瑞鳳宮の地下には罪人達を収容する大きな地下牢があり、イスカは今からこの中にいる老人に会いに行くのだ。



***

 鴉夷の兵士は少ない。

 元々人口も少ないのだから当然なのだが、イスカが率いるのはたったの三千騎だ。その後追加で女子供を呼び寄せたりはしているが、それでも千人も増えるものではない。

 だから牢屋まで見張る余裕がなくて、囚人らは常時手鎖で繋ぐなどして逃亡を防ぐようにし、配置する兵士の数を減らしていた。

 しかしこの日イスカが覗き込んだ牢屋の主は、冷たい石床の上に座っているものの鎖で拘束はされておらず、兵士達も最低限の礼節をわきまえた対応を命じられていた。

 洗濯したばかりのこざっぱりした衣服を身に着けているところも、通常の囚人ではありえない高待遇だ。


「おい。そろそろ首を縦に振ったらどうだ?」


 イスカは牢屋の鉄格子越しに禿頭の老人に話しかけた。

 白い顎髭が立派な彼は鵠国で宰相を務めていた人物で、信天翁シンテェンオウという。

 本当は祥天文という名なのだが、最初にイスカが祥宰相、と呼んだら「鵠国は滅び、自分も今はもう宰相ではないから雅号で呼んでくれ」とわざわざ要求してきた。

 雅号とは文や詩を書く為の仮の名のようなもの。祥宰相という人間はもはやこの世にいない、と言いたかったのだろう。

 それでもイスカは、この男を表舞台に引っ張り出したかった。

 皇帝から全幅の信頼を寄せられ、鵠国の文官の長としてまつりごとを行ってきたこの老人の手腕は貴重だったし、彼が威国に従うと言えば、倣う華人も多いはずだ。

 だから年始の変で彼を捕まえて以来、翡翠姫のように瑞鳳宮の一角へ軟禁し、寝返るように説得しているのだが、なかなかうまくいかない。それで痺れを切らし、数日前からは敢えて過酷な地下牢に入れてみたのだ。

 しかしイスカ自ら牢屋まで来てやっているのに、この老人ときたら目を合わそうともしない。石の床に胡座をかいて座り、牢の壁に向かって瞑想し続けているのだ。


「……飯は食っているようだな」


 イスカは牢の中に空っぽの椀が置いてあるのを横目で見た。蛮族から与えられる物など口にしない、と当初は言っていたはずだが、その点は考えを変えたらしい。

 信天翁は目を閉じたまま、口だけを開いた。


「この米は鵠国で収穫された、鵠国のものだ。何を遠慮することがあろうか」

「あぁ、なるほど」

「そしてぬしらをこの宮殿から追い出す日のためにも、この老体を朽ちさせるわけにはいかぬ」

「威勢のいいことだ。だが信天翁、我々がこの宮殿から出ることはない。鴉威と華人、二つの民族は融合し、この地を永く治めていくことになるのだからな」

「……」


 信天翁からの反応はない。

 再び瞑想にふけった彼は、蛮族の言葉など聞く気にもならないと態度で示しているのだ。

 しかしイスカは構わずに語り続ける。


「俺が望んでいるのは、互いが互いを無理やり支配する、これまでのような関係ではない。華人には華人の良さ、鴉威には鴉威の良さがあって、できないことも当然ある。これを補い合えるよう、力を合わせて国を作っていきたいのだ」

「おい、こっちを向け! 話をしている相手に対して、それが華人の礼節ってもんなのか!」


 無視を続ける態度に我慢しきれなくなったアビが大声を張り上げた。

 しかし信天翁は孫のように若い孺子こぞうなど眼中にないようで、微動だにしなかった。

 代わりに可愛げのないことをぬけぬけと言ってのける。


夷狄いてきなんぞに守る礼節は持ち合わせておらぬわ」


 夷狄とは華語の中で鴉威たちを最も侮蔑した言い方だ。直訳すると野蛮な獣という意味になる。

 華語をよく理解しているアビは当然いきり立ったが、イスカはそれを制した。


「やめろ、アビ」


 イスカは首を横に振った。この頑なな老人を口説くには、まだまだ時間がかかりそうだ。


「また日を改める。それまで俺達に出された飯を食ってよく考えておけ」


 こうしてイスカは何も得るものがないまま、疲労感だけを増やして、地上への階段を登ることになったのだった。



***

「頑固爺ぃめ。胸糞悪い奴だ」


 地上へ出てからもアビはまだ文句を言っていた。

 二人は今、後宮に張り巡らされた石畳の道を歩いているところだ。

 鵠国の歴代皇帝は大勢いる寵姫達それぞれに屋敷を持たせており、その屋敷同士は垣根で仕切られていた。彼女らは皇帝の足が自分に向くよう、垣根一つにも趣向を凝らして美しい花をたくさん植えていたため、二人の足元では連翹レンギョウが目にも眩しい黄色の花を、少し目線を上げれば木蓮が高い木の上で赤紫色の花をいくつもつけて、爽やかな香りを漂わせていた。しかし、いきり立っているアビは花になんて目も向けない。


「八哥がわざわざ足を運んでいるのに何なんだよ、あの威張り腐った態度は」

「あくまで蛮族には膝を屈しないってことなんだろ」

「あいつらは俺達を舐めきってるんだ。華人は狡猾で、傲慢で、自分達がこの世で一番偉いと思いこんでる糞みたいな連中で……」

「お前がそこまで言ってやるな。奴らの気持ちも理解してやれ」


 どんどん過激な方向へと思考が偏っていく弟を案じてイスカが嗜めると、アビは顔を真っ赤にして噛みついてきた。


「俺は鴉威だ。あいつらとは違う!」


 アビには頑ななところがある。

 華人の母を持つがゆえに、華人に近いと思われるのが嫌で、必要以上に自分が鴉威の民であることを強調してくるのだ。

 イスカはそんな弟を宥めるように、ぽんぽんと頭を撫でた。


「俺はむしろ華人の血を引くお前に期待しているんだぞ。お前のような存在が増えて、この国を華人にとっても鴉威にとってもいい方向へ導いてくれれば一番良い」


 鴉威だの華人だのと、いちいち意識しなくてもいい世界。それこそがイスカの理想なのだ。

 しかしアビは口を尖らせた。

 敬愛する兄に期待されるのは嬉しいものの、子ども扱いされて丸め込まれた格好になっているのは不服だったのだ。

 顔を膨らませた彼は、兄を揶揄するような口調で言った。


「ふうん。それで八哥はあの女にご執心なんだな。毎晩毎晩、飽きずに通っちゃってさ」

「仕方ないだろ。天帝の娘とやらを孕ませるにはこっちが励むしか手がないだけだ」


 イスカが王妃の元へ通うのは政治的意図があってのことなのだ。そこには惚れた腫れたのような下世話な感情は無い。

 淡々とした兄の言葉で安心したのか、アビは少し頬を緩ませた。


「天帝の娘ねぇ……どうも胡散臭い話だけどな。だってさ天帝ってのは水を司る、全身鱗だらけの、細長い龍の格好をした神様なんだろ。それが人間との間にどうやって子を成すんだよ」

「はは。そりゃそうだな」

「それに天の神様の子孫が地上にいるっていうなら、寒波とか干ばつとか、そういうのは全部無しにしてくれたらいいじゃないか」

「同感だ。俺達がこうやって木京を占領している時点で、華人達を加護する天帝ってのが空の上にいないことを証明してしまっている」


 鴉威の民には天帝のような絶対的な神がいない。万物には神が宿るという自然崇拝を行っている。だから華人達の考え方は理解しがたいのだが、それでも彼らは天帝を信仰しているのだ。

 その娘を娶ることで華人達が少しでも納得するなら、それくらいは付き合ってやろうとイスカは思う。

 もしもイスカがもっと年を食っていて、既に正妻や子どもを持っていたのならこの意見は変わったかもしれないが、まだ若くて妻帯もしていなかったから、その点はちょうど良かった。


「しっかし、あの女もよく王妃になることに同意したよな。もちろん従う以外に手は無いんだけど、高慢ちきな皇女様だけに、もっと逆らってくると思ってた」

「そうだな。俺もその点は意外だった」


 イスカは大きく頷いて同意した。

 彼女の側から考えればイスカは祖国を滅ぼした憎い男だ。しかもイスカは瑞鳳宮を占領した夜、木京にいた彼女以外の皇族を容赦なく殺している。余人が天帝の血筋を手に入れ、王位を脅かすことが無いようにするためだ。

 皇帝と皇后だけは行方知れずだが、彼女の叔父や叔母、兄弟達を手にかけているのだから、イスカはもっと反発されてもいいはずである。

 だが彼女は言うのだ。


「それはその……正直なところ、他の皇族達とはほとんど縁がなかったのです。儀礼的に叔父や叔母とは呼んでいましたが、親しくしていたわけでもありませんし、殺された兄弟達は腹違いなので余計に縁も薄く……」

 

 年始の変で皇族をみんな殺したのだと伝えた時、彼女があまりに落ち着いていたものだからイスカが理由を訊ねると、彼女は困惑した表情でそんな返事をしてきた。

 もちろんその言葉が本音だと信じるほどイスカも愚直ではない。この女はイスカに従うふりをして油断させ、背後からグサリと刺してくるつもりなのかもしれない。

 何しろ、初夜の寝所にも折れた化粧筆を持ち込もうとしていたくらいなのだ。

 後刻アビから報告を受けたイスカは、化粧筆なんかでどうにかできると思ったところが女の浅知恵だな、と笑って不問にしたし、以降の彼女はおとなしくしている。

 しかし鵠国の皇女だけに信用はできないのだ。


「あいつも虚飾の国の女だからな」


 イスカは足元の小石を革靴の先で蹴り飛ばした。

 所詮は顔を覆う痘痕を隠して中原の宝玉、翡翠の姫と名乗ってきたような女だ。

 保身のため、そして祖国を復興させる機を伺うために、憎い男に身を委ねるくらいのことはするだろう。

 イスカは最初、彼女の痘痕面にこそ同情したが、それゆえに甘くなりすぎないように、と今は自らを戒めている。

 そんな気持ちは伝わってしまうのか、彼女の方でもここ最近はイスカとなるべく口をきかないよう気を付けている節があり、やはり互いに心を通わせるのは無理そうだ。

 翡翠姫はイスカの子さえ産めばよい。

 威国の王たるイスカにとっては所詮、それだけの存在なのだ。


「王妃と言えば、一緒にいる……」


 アビがふと何かを言いかけた。

 しかし歩いている二人の目の前に、池の中に浮かぶ小さな島と、そこに建っている粗末な造りの小屋が見えてくると、口をつぐんでしまった。

 イスカがどうしたんだ、と聞き返す前に、彼は「なんでもないや。じゃあな。また明日の朝、迎えに来る」と早口で言った。

 そして兄を池の前に残し、大きく伸びをしながら自室へと去っていったのだった。

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痘痕の翡翠姫 環 花奈江 @chorinn

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