一章 翡翠の姫 其の四

 翌朝の二人の元には、大きな包子パオズが届けられた。

 練った小麦粉の皮で羊肉の餡を包んだものだ。

 蒸し上げたばかりのようで湯気が立ちのぼっており、とても美味しそうだったが、何故だか一個しかない。不思議に思っていたら、イスカが半分に割ってくれた。

 もしかしたら婚姻の契りを結んだ朝には、二人で包子を分け合って食べるのが鴉夷の風習なのかもしれない。

 だとすると、この男は本当に翡翠姫を娶るつもりだということになる。

 この男は一夜の慰みものとして鴎花オウファを弄んだのではなく、正真正銘の妻として迎え入れる肚なのだ。


「食べろ」

「ありがとうございます」


 差し出された包子を受け取るべく、すっくと起き上がりたいところだったが、下半身の鈍痛で鴎花の体は悲鳴を上げていた。それに夜もほとんど眠れなかったから、体はぼろ雑巾のようにくたびれ果てている。

 それでもこの醜い容貌ゆえに、一生男性と縁づくことは無かろうと諦めていた鴎花にとっては、処女を奪われたというよりは、一人の女性として扱ってもらった、という感謝の思いの方が強い。

 何より彼が痘痕あばたを嫌がる素振りを見せなかった点に、鴎花はひどく感動していた。

 鴉夷の民は礼儀も知らぬ蛮族だと聞いていたが、華人たちの方がよほど鴎花に冷たく、蔑んだ扱いをして来たものだ。

 もちろん彼は祖国を襲った憎い人物ではあるのだが、少なくとも鴎花にとっては度量の広い、心優しい男であるように思えてしまう。

 鴎花は夜着の前を繕うとなんとかイスカの元へ行き、受け取った包子を食べた。塩味がキツめだったが、肉の旨味が外側の生地にまで染み込んで美味しかった。

 イスカはあっという間に食べ終えてしまい、その後は鴎花が小さな口でもぞもぞと食べ進めるのをじっと見つめていた。

 そして鴎花の口の中に全ての包子が収まるのを見届けた瞬間「今から出かけるぞ」と言った。


「どこへですか?」

「高楼だ」


 彼は夜着しか身に着けて来なかった鴎花のため、部下に命じて着物を用意してくれた。

 とはいえ相変わらず面布の支度は忘れてしまう鴉夷の民だったが、とりあえず人前に出ても恥ずかしくない風体を整えることができたので、鴎花は胸を撫で下ろした。

 そして鴎花が着替え、髪を結い終えると、イスカは表宮の南端にそびえ立つ高楼へと向かった。

 白い漆喰で塗り固められた高楼は、天高くそびえ立ち、登ると四方が見渡せる。もちろん、これより高い建物など他には無いし、木京の町を取り囲む城壁よりも遥かに高い。

 イスカは供の者を下で待たせると、鴎花だけを伴って石造りの階段を登り始めた。


「高楼に登るのは生まれて初めてです」

「そうなのか? こういうものは見上げるだけなんて、つまらないだろ」


 イスカは不思議そうな顔をしたが、鴎花は体を覆いつくす痘痕のせいで、これまで人前に出るような場所へ連れ出されることが無かったのだ。

 瑞鳳宮で育ちながら、瑞鳳宮を知らない。

 鴎花の知っている世界は後宮の中、それも皇妃宮の中のごく一部だけだったのである。

 鴎花は頂上へと向かう階段を、イスカの後に続いてひたすら歩いて登った。

 これが思った以上の辛さで、平然と登っていくイスカを、鴎花はの裾をひらめかせ、肩で息をしながら懸命に追いかける。

 螺旋状の階段を登るうちに、途中にある小窓からの景色が青い空と大地だけになった。いつしか木京を囲む城壁を見下ろす高さまで達していたのだ。

 城壁の上では、黒い旗がいくつも風を受けてはためいているのが見えた。これまでならば鵠の字を金色に染めた白い旗が並んでいた場所だ。

 鵠国は滅んでしまったのだ、と改めて感じることになり、それは悲しいことだったが、何の文字も入れない黒い旗は武骨で荒々しく、鴉夷の民の気質によく似合っていると感じた。

 そしてとうとう頂上へ。

 人が三人立てるかという狭い場所で、遮るものが無いだけに風が強く吹いていた。

 ここに至るまでの間に足が棒のようになっていた鴎花は、突風に煽られても抵抗できずにふらついてしまったが、すかさずイスカが手を差し伸べ助けてくれる。


「まぁ……!」


 鴎花はイスカに背中を支えられたまま息を呑んだ。

 どこまでも続く緑の平原が、そこにはあったのだ。

 なんと広大な景色なのだろう。

 西から東に向かって滔々と流れる太い川の向こうにまで緑の絨毯は広がっていて、遠くには淡い雲に包まれた山並みも見えている。


「この大地はこんなにも広いのですね」


 鴎花は疲れを忘れて感嘆の声を上げた。

 鵠国が広いことはもちろん知っていたが、実際に目にするのと書物で習うのとではまるで違う。

 するとイスカは鴎花の頭の上で、苦笑交じりの声を上げた。


「そりゃあ、無駄飯を食う女たちを後宮に大勢抱えておくような国だからな。これだけの土地が無いと無理だろう」


 鴎花は手すりに手を置き、高楼の真下も覗き込んだ。

 木京の都は瑞鳳宮の何倍も広い。碁盤の目のように張り巡らされた道に沿って小さな屋根がたくさん並んでいて、さすが三十万を超える人が住む大きな都である。

 意外にも街の方は戦乱の影響を受けていないようで、壊れた建物も見当たらなかったし、豆粒のように小さく見える人々もせわしなく動き回っていて、賑やかなように感じられた。

 ただ、瑞鳳宮へ目を向ければ後宮の宮殿の一部が黒く焼け焦げ、紅い瓦屋根を失ったまま放置されているのが見えて、やはりあの夜のことは幻ではなかった、と教えてくれていた。

 イスカは遠く北の方角を指さした。


「俺達の故郷はこの平原の彼方にある」

「あの山の辺りですか?」

「いや、その向こうだな」


 ここからは見えない、とイスカは言った。

 鴉夷の民はそんなにも遠くから馬に乗って駆けてきたのだ。

 それがどんな場所であるのか想像もつかない鴎花は、目を細めて山々の向こう側へ思いを馳せる。イスカも鴎花と並んで立つと、北の方角へ目を向けたまま語り始めた。


「俺たちは百年ほど前、曽祖父の代に鵠国に下った。鴉夷の地で部族同士の争いがあり、疲弊していたところを攻め込まれてな。それ以来、鵠国に臣下の礼を取っていた」


 鴎花もその話は雪加と共に勉強していたので知っていた。

 度々国境を犯して周辺の村々を襲っていた蛮族達を鵠国が平定したのは天暦73年のこと。

 以来彼らは自治が認められた北の大地から出ることなく、平和に暮らしているはずだった。

 しかしイスカはそこから後の百年が、鴉夷にとって地獄のような日々だったと言う。


「俺たちの土地では米や麦が育たないから、代わりに毛織物や家畜で租税を納めることになった。だが鴉夷というのは元々、自分たちが暮らしていけるギリギリの収穫量しか無い土地なんだ。そこに重い租税をかけられれば、当然生活は苦しくなる。それに加えて木京から派遣された役人たちは私腹を肥やすことしか考えていない奴らばかりだった。そして俺たちを蛮人と蔑み、軽んじた態度を取ったんだ」


 過去の話なので、イスカは淡々とした口調で語ったが、鴎花は神妙な面持ちで彼の言葉を聞いた。鴎花が知らなかっただけで、華人たちの住む土地の外では、異民族がひどい扱いをされていたのだ。


「不満は溜まる一方だったが、爆発する決め手になったのは、この冬の大寒波だった。鴉夷の冬は元々寒さが厳しいが、今回は特別でな。凍てつく寒さで家畜が次々と死に、明日食べるものも無い。このままでは年を越せないまま俺たちは死んでしまう。その危機的状況を何度訴えても役人たちは米や麦を渡さなかったし、それどころか、いつも以上に租税を差し出すように言ってきた。それでこれ以上はもう耐えられない、と俺は兵を挙げたんだ」


 誰が女一人を得るために戦争など始めるか、とイスカはせせら笑った。

 鴎花は自分がいかに間抜けなことを言っていたのかを知り、恐縮して肩をすぼめるしかなかった。

 イスカは再び広大な景色の方へ目を向ける。


「あの川より北側はこの二ヶ月あまりで俺たちが制圧した」

「え……」


 川というのは、中原を南北に分断するように西から東へと流れている長河チャンファのことだ。中原で最も長く、水量の豊富な川であり、田畑を潤すためには欠かすことのできない、華人にとってはまさに命の大河である。

 鴎花は目を見張った。

 もしもイスカの言うことが正しいのなら、彼は鵠国の半分、つまり都である木京を含む河北地域を既に手中に収めたことになる。

 そうか。木京を落とした直後から河北の制圧に乗り出していたから、鴎花達を軟禁したまま四十日以上放っていたのか。


「川幅が広すぎて馬で越えられないから、今のところ河南には攻め込めないが、河北だけでも見ての通り十分に広い。華人たちと協力していかないと、数少ない鴉夷の民だけでは治めきれない」

「協力……ですか?」


 意外な単語を口にするものだと鴎花は思った。

 協力とは対等かそれに近い立場で行う行為だ。

 華人の都を一方的に夜襲し、木京を占領しておきながら協力を求めるとは納得がいかない。

 しかしイスカは大真面目に頷いた。


「華人たちへの積年の恨みは、瑞鳳宮を襲った事で晴らしたからな。俺たちが華人と敵対するのはあれで終いにする。もちろん、逃げた皇帝や逆らう者には容赦しないが、この先は華人たちと協力して新しい国を治めていきたいと、俺は本気で思っている」

「新しい国……」

「あぁ。そのためにお前が必要だ」


 イスカはそう言うと、改めて鴎花の顔を覗き込んだ。

 痘痕面ゆえ、あまり間近に迫られると恥ずかしい。咄嗟に袖口で顔を覆うが、蒼く美しい瞳はそれでも真正面から鴎花を見つめてきた。


「俺の子を産め、雪加シュエジャ


 イスカは鴎花の耳元で囁いた。


「聞けば鵠国の皇帝は天の神の子孫だそうではないか。お前もその血を引いていて、神と通じることができるのだろう?」

「はい。天帝の血を引く娘は、この大地と天を繋ぐ存在。数百年に一度あると言われる天帝の代替わりの折には、子孫がこの大地を治めていることを新たな天の神に伝えなければならぬという盟約があります。それが叶わなければ、この大地は崩れ、人の子は住処を失います」


 鴎花は南の方角を指さした。

 木京の城壁の南端をかすめるようにして長河が流れているが、その太い流れの中にはゴツゴツとした岩が盛り上がってできた山のような中洲があり、頂きにほこらのようなものが見える。


「その盟約の為の祭殿があそこにあります」

「よく使うのか?」

「いえ。鵠国の建国の折にはそのような儀式が執り行われたと聞いていますが、最近では使っていないはずです」

「つまり天帝だの盟約だのというのはただの伝説で、実際にそんな儀式が行われるところは誰も見たことが無いんだな?」

「で、ですが、鵠国史書にはちゃんと書いてあります。初代皇帝、太宗の姫がその身を以て地と空を結んだと」


 イスカに鼻で笑われた気がして、鴎花は躍起になって主張した。

 そんな鴎花にイスカは、口元から白い歯を見せ破顔する。


「あぁ、分かっている。だからな、そういう伝説を真面目に信じている華人がいるからこそ、お前を娶るんだ。天帝の娘を妻にし、いずれその血を引いた子を得ることで、俺はこの国の王となる大義名分を得る」

「あ……」


 あぁ、そうか。そういうことなのだ。彼が求めているのは天帝の血を引く娘。

 この男は華人を治めるために、翡翠姫を利用しようとしているのだ。


「期待しているぞ、雪加」


 イスカの蒼い瞳は鴎花を捉えて離さないが……違う。本当は自分がこの人に求められているわけではない。

 彼が必要としているのは雪加であり、ならばこのまま身分を偽ればこの人を裏切ることに繋がる。

 そして将来、取り返しのつかない事態になるかもしれない。

 真実を告げるなら今しかないだろう、と鴎花は思った。

 今ならまだ間に合うはずだ。

 瞬き一つする間に頭の中に駆け巡った考えを、それでも最終的には全て飲み込み、鴎花は「……はい」と頷いた。

 鴎花にとっての主君は、同じ乳を分けて育った雪加なのだ。彼女を裏切ってまで真実を打ち明ける度胸は無い。

 それに……。


「あっ」


 思わぬ方角から風が吹き付け、よろめきかけた鴎花を再びイスカが腕を伸ばして抱きとめた。

 その力強さと逞しさに心が震える。

 鴎花がこんな気持ちを抱くのは生まれて初めてで、今はただ戸惑うばかりだが、この腕を放したくない、と考えている自分がいることだけは確かだった。

 ……いや、分かっている。

 これは間違った感情だ。

 私利私欲のために、翡翠姫で居ようとするなんて、許されざる行為である。


(それでも今は……)


 鴎花はイスカに抱きしめられながら、空を見上げた。

 鴎花のような醜い娘には申し訳無いくらいの、雲一つ無い澄み切った蒼い空。

 そんな空の何処にかおわす天帝に対し、翡翠姫と偽ることの許しを、そっと乞い願うのだった。


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