一章 翡翠の姫 其の三

三.

 瑞鳳宮が闇の帳に包まれる頃、鴎花オウファは灯りを持ったアビに先導されて渡り廊下を歩いていた。

 鴉夷の族長とやらが気紛れなのか、本気で妻にするつもりなのかは分からないが、とにかく今夜、翡翠姫を抱くつもりらしい。

 もちろん雪加シュエジャは行かない。

 せっかく鴉夷の者たちが鴎花の方を翡翠姫だと思っているのだ。誇り高い雪加がその透き通るように美しい肌を蛮族ごときに、みすみす与えるはずは無かった。

 鴎花は黒い外套がいとうを頭からすっぽり被っていた。

 着衣は襲われた日に着ていた薄い夜着のままなので、その格好で表を歩くのは恥ずかしかったし、本来なら高貴な身分の女性が男性の目がある場所を歩く時に必要な面布を、今回は用意してもらえなかったからだ。

 歩いていると廊下の先には、書簡を保管した部屋が見えた。鴎花たちが軟禁されていたのは、どうやら瑞鳳宮の中でも表宮の方だったようだ。

 捕まった時には年が明けたばかりでひどく寒かったが、あれから季節が進んだらしい。頬を撫でる夜風も柔らかい春の草の匂いを含んでいた。空を見上げれば、欠けるところの無い丸い月が宮殿のいらかから顔を出している。

 不思議なことに広い宮殿の中に、人の気配はほとんど無かった。夜だから誰もいないだけなのか、鴉夷の兵の数が少ないだけなのか、それともそのどちらもであるのか……。

 鴎花が注意深く辺りへ目をやりながら歩いていくうちに、廊下の突き当りで男が一人、剣を抱いて座っているのが見えた。彼は黒衣の上に革の鎧を身につけて頭巾も被っていて、どうやらこの先にある族長の部屋を警備しているようだった。


「入れ」


 アビがぶっきらぼうな口調で鴎花に命じた。

 このとき彼が振り向いたことで、その瞳が黒いことに気が付く。

 鴎花がこれまでに見かけた鴉夷の男たち……外套をかけてくれた男も、食事を持って来てくれた兵士も、目の前にいる警備の兵士も、皆一様に蒼い目をしているのに、どうして彼だけが華人と同じ黒い目なのか。

 それでも肌の色だけは、やはり鴉夷の民らしい褐色なので、その違和感から思わず見つめ返してしまった時、彼は鴎花に向かって手を伸ばしてきた。

 鴎花が被っていた黒い外套をはぎ取ったのだ。

 どうやら外套の内側に余計なものを忍ばせていないか調べようとしたらしい。しかしその拍子に高いところで結っていた鴎花の髪が揺れてしまい、中に潜ませていた木片が乾いた音を立てて床に転がった。


「!!」


 木片は化粧筆の柄を折ったものだった。

 拾い上げ、その先端が鋭く尖っていることを指先で触れて確認したアビは「……ふん。やはり華人の女ってのは肚黒いものだな」と鴉夷の言葉をつぶやきながら、顔を大きく歪めた。

 実はこれ、雪加が忍ばせたものなのだ。

 アビが退出した後、鴎花を押しのけて化粧品の入った籠を物色し始めた彼女は、その中から最も太い化粧筆を取り出すと、足を使って強引にへし折った。そして鴎花の髪の毛の中に混ぜ込んで結ったのだ。


「これを使って族長とやらの眼を突き刺し、その隙に首を絞めてくるがよい」


 首を絞めるための紐は、竹籠に何本か入っていた細紐を束ねて編み込むことで丈夫で長いものを作った。これを髪に巻き付けておけば、露見することなく持ち込めるだろう、というのが雪加の考えである。

 男の目を刺した上、首を絞めるだなんて、そんな恐ろしい真似はできるわけが無いと鴎花は拒んだのだが、雪加は許してくれなかった。彼女はとにかく、自分の生活と祖国を無茶苦茶にした蛮族に対し一矢報いなければ、気が済まなかったのだ。

 しかしそんな企てが、まさか男の寝所に入る前に露見するなんて。


「そ、それは……」


 なんと言い訳すればいいのか、しどろもどろになる鴎花の頭をアビは乱暴に掴んだ。


「ひぃっ!」

「いいか。八哥に毛筋ほどの傷でもつけてみろ。八つ裂きにしてやるからな」


 完璧な発音の華語で脅してきた黒い瞳の青年は、その言葉が鴎花の頭に浸透するよう、強い力で何度も壁に押し当ててきた。

 その形相は鬼のように恐ろしく、恐怖で震え上がった鴎花は痛みを訴えることすらできない。

 そしてアビはいまやすっかり乱れてしまった鴎花の髪から長い飾り紐をも奪い取ると、尻を蹴とばすようにして、族長がいるという部屋の中へ鴎花を放り込んだのだった。


「きゃっ」


 あまりの乱暴さに耐えきれず、鴎花はよろめいて膝をついてしまった。

 その背後では異様に大きな音がして戸が閉まる。アビが苛立ち紛れに戸を蹴り飛ばしたのかもしれない。

 心臓が早鐘のように打っている鴎花は、床から立ち上がることができなかった。

 なんということだろう。

 雪加の考えた無謀な計画のせいで、こんなにも恐ろしい目に遭ってしまうなんて。

 だが、考えようによってはこれで良かったのかもしれない。

 唯一の武器を取り上げられたのなら、雪加もまさか素手で首を絞めてこいとは言わないだろう。これで無謀な暗殺をする必要が無くなったのだ。


「何をやっているんだ? 早く来い」


 部屋の奥から不審げな男の声が響いてきた。

 鴎花は呼吸を整えて立ち上がると、乱れてしまった髪の毛を手櫛で整えながら、部屋の中へと目を向けた。

 瑞鳳宮の中ながら、狭くて薄暗い、殺風景な室内だ。燭台が一つだけ置かれていて、床に分厚い毛織物が敷いてあるものの、机や椅子、寝台など調度品のたぐいは見当たらない。

 そして毛織物の上には分厚い座布団を二つ重ね、その上に寝転んでいる男の姿があった。


(あぁ、やはりあの夜のひとだ)


 鴎花は声にならない吐息を漏らした。

 恐らく人の上に立つ立場の者だろうとは思っていたが、やはり彼が族長だったのだ。

 カケスの羽のように綺麗な蒼色の瞳をした彼は、アビと同じく短い髪のザンバラ頭で、同じ黒い衣を着ていた。身分ある人なのに特別な格好をしていないのは、着飾った高貴な人を見続けてきた鴎花には不思議に感じられる。

 彼の手には銀の酒杯が握られていた。手元の盆には同じく銀の徳利と銀の皿が置いてある。皿に入っているのは皺だらけの赤銅色の粒で、恐らく干し棗。どうやらこれを肴に酒を飲んでいたようだ。

 飲食をするのに机と椅子を用いないなんて無作法極まりないが、蛮族たちに礼儀作法を求めるのは無理な話なのだろう。

 俯きかげんで彼の前に出た鴎花は、毛織物の手前でおずおずと膝をついた。

 大国の姫として権高くあるべきかとは思ったが、あの混乱の最中、命を助けてくれた相手に対してあまりにつっけんどんな態度も良くないかと考え直していた。

 あの夜は彼が担いでいてくれたおかげで混乱に巻き込まれなかった。そのことを、鴎花はよく理解していたのだ。


「鵠国皇帝、燕宗が五女、チャオ雪加シュエジャでございます。広大なる北の大地の守護者であられる貴公におかれましては、はるか遠方の地よりよくぞ参られました。これもひとえに天帝のご加護とお導きの賜物でございましょう」


 皇女としての礼節を心がけた鴎花は、男に対し慇懃に頭を下げた。

 しかし丁寧な挨拶を施したにもかかわらず、男は無言で酒を飲み干すだけ。皇女が正式な挨拶をしたのに、当然あるべき返答の文言も述べなかった。

 代わりに彼は、空になった酒杯を鴎花に渡した。


「飲め」

「……は、はい」


 男は鴎花の掲げた酒杯に白く濁った酒を注ぎ入れる。

 しかし口をつけようとするも、杯の淵から立ち上ってきた強い酒精に鴎花は驚き、顔を歪めた。


(なんて強いお酒!)


 それでも覚悟を決めて飲み干そうとするも、口にほんの少し含んだだけでやはり降参。胸を押さえて激しくむせこんでしまう。


「……なんだ。この程度も飲めないのか」


 苦しむ鴎花をつまらなそうな顔で一瞥した彼は鴉夷の言葉で呟くと、寝転んだ姿勢のまま干し棗を一つ口に放りこんだ。


「それでお前はあの夜、どうして逃げなかったんだ? 皇帝も皇后も家臣を見捨てて逃げ出したのに」

「そうなのですか?」


 それは襲撃の日以来、初めて聞く情報だった。

 鴎花が目を丸くしたのを澄んだ蒼い瞳で眺めつつ、男は棗の皿に再び手を伸ばす。

 

「そういえばお前は俺が翡翠姫を手に入れるために挙兵したと思いこんでいたな。もしかしたら皇帝達も同じように考えたのかもしれない。だからお前を残しておけば良い足止めになる……いや、連れていけば俺がしつこく追いかけてくると恐れたのかもしれないな」

「そんな……」


 鴎花は燕宗の名誉を守るため言い返そうとしたが、言われてみるとあの状況は確かに不自然だった。

 燕宗には大勢の妃がいて、子供もそれぞれに産まれているが、正妻であるツェイ皇后が産んだ雪加は何かにつけて優遇されていた。侵略者が襲ってきたのなら、真っ先に彼女に知らせが入って当然だったのだ。


(まさか雪加は捨て石にされた……?)


 青ざめる鴎花を見て、男は唇の端を器用に歪めた。


「娘を見殺しにしてまで逃げ出すとは情けない奴だ。こうやって俺たちに都を乗っ取られたのは、当然の結果かもしれないな」

「こ、皇帝陛下に責任を押し付けないでくださいませ。兵を集め、戦を起こしたのあなたでしょう」


 鴎花は毅然として反論した。

 これが常の鴎花であったなら唯々諾々と彼の言葉を聞き入れたであろう。しかし今は翡翠姫を演じているのだ。誇り高い大国の姫が父帝をられたまま引き下がるのは良くない。


「あなたは平和だった国に戦火を撒き散らし、罪無き者を殺め、後宮で狼藉を働きました。こんな横暴は許されませぬ」

「それはお前が真実を見ていないだけだ。どうしてこの戦が起きたのか、その理由をまるで分かっていない……」


 男は精一杯の虚勢を張っている鴎花をじろりと睨んだ。そして鴎花が握りしめたままにしていた酒杯を取り上げ、残っていた酒をあっさりと飲み干した。


「まぁ、いい。今からその体に現実ってものを教えてやろう」


 空になった酒杯を床の上にぽいと放り投げた彼は、言うなり鴎花の腰に手を伸ばして抱き寄せた。

 その力強さと粗野なふるまいに、鴎花は息を呑む。

 後宮育ちの鴎花は男性と接する機会がこれまでほとんど無く、その腕っぷしの強さを目の当たりにするだけで、すくみ上ってしまったのだ。

 加えて鴎花には強い懸念があった。


「……い、嫌ではないのですか?」


 重ねられた座布団の中に押し倒された鴎花は、覆いかぶさってきた男に向かって震える声で尋ねた。


「うん?」

「わ……妾の痘痕は体中に広がっているのです。触れるのも気色悪いのではないかと……」


 醜い痘痕をこんな間近で見られるのが、恥ずかしくてたまらない。

 今にも泣きだしそうな鴎花の言葉に、男の動きが一瞬止まった。

 しかし眉根を彫りの深い顔の中央へ寄せた次の瞬間、彼は組み敷いた鴎花の着衣の帯を抜き取ってしまった。


「気色悪ければこんなことはしない」

「で、ですが本当に醜くて……」


 怯え切っている鴎花に、男は面倒くさそうな目を向けた。どうやら華語がそこまで得意ではないようだ。言葉を探すように一瞬、視線を天に向けた。


「あのな。女なんてものは胸が大きくて、男のモノを挿れる穴を持っていればそれでいい」

「え?」

「顔の美醜なんてどうでもいいってことだ。灯りを消せばどうせ見えない」


 言うなり、男は燭台に手を伸ばした。

 三本刺さっていた蠟燭ろうそくが彼の一吹きで消え、辺りは漆黒の闇に包まれる。

 

「これでいいな?」


 闇の中から男が確認してきた。鴎花は慌てて首を横に振る。


「あ、あの……」

「なんだ、まだ問題があるのか?」

「名前を教えて下さい。族長であるとは伺いましたが……なんとおっしゃるのでしょう? 八哥殿、ですか?」

「それはアビが俺を呼ぶ言葉だ。俺はあいつにとって八番目の兄貴だからな」


 暗がりの中、男が吐息を漏らしたのが、空気の震えで伝わってきた。


「そうか。お前は自分の国を滅ぼした男の名前も知らずにいたのか」


 男の右手の指が鴎花の顔の輪郭を確かめるように触れてきた。

 反射的にビクッと震えるのを抑え込むように、彼は鴎花の額に自分の額も押し当ててきた。


「いいか。俺の名はイスカという。華人のような苗字はない。ただのイスカだ」


 至近距離で聞く彼の名は、熱を帯びた息遣いと共に鴎花の耳に響いてきた。闇の中で何も見えないままに、心だけが自然と上擦っていくのを鴎花は感じた。


「イスカ……様……?」

「敬称もいらないぞ。無駄は嫌いだ」


 鴎花の頬に彼の唇が触れた。

 世の女たちのような柔らかさが一つもない凸凹した肌なのに、彼はためらうことなくそのまま耳の下にまで舌を這わせる。

 更には彼の手が肢体の方にも伸びていくのが分かり、鴎花は身を硬くした。

 男がこれからする振る舞いというものを、鴎花はろくに学んでこなかったのだ。もちろん女の方がどう応えればよいのかも知らない。

 この痘痕面だからどうせそんな事態にはなるまいと背を向けてきたツケが、まさかこんなところで回ってくるとは……。

 しかし鴎花の戸惑いなどイスカは気にせず、この後も時間をかけてゆっくり鴎花の体を探っていった。

 闇の中で彼の指がうごめく感触。

 肌で感じる熱い吐息。

 そして擦れ合う互いの体温。

 自分が何をされているのかさっぱり分からない恐ろしさはあったが、イスカはその恐怖心さえ丸め込むように、丹念に鴎花を弄り、抱き締めてくれた。

 身を固くするしか対応できなかった鴎花も徐々に力を失い、やがて丸い月が天の頂きへと昇る頃、鴎花はその分厚い胸にしがみついて、彼を自らの体へと受け入れたのだった。


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