一章 翡翠の姫 其の二

 鴉夷の兵士らに捕らえられて以来、鴎花オウファ雪加シュエジャは瑞鳳宮の一室に閉じ込められている。

 部屋といっても、正確にはかわやだ。

 身分の高い者が使う厠は衣装を着替えにも使うので広さと清潔感があり、娘二人が寝起きするには差し障りが無いのだ。

 鴎花は外套を頭からかけられたまま連れてこられたので、この厠が宮殿のどのあたりなのか分かっていない。

 しかし瑞鳳宮を出ていないことだけは確実だろう。備え付けの棚が高級木材の紫檀したんで作られていたのだ。こんな立派なものがあるからには瑞鳳宮の中に違いない。

 食事は黒衣をまとった鴉夷の兵士が日に二回差し入れてくれたし、夜着だけでは寒かろうと毛布も渡された。そして部屋には天窓が備え付けてあったので、日が昇って沈むことだけは確認できた。

 しかしこれまでのところ、厠からは一歩も出してもらえていない。それに食事を運んでくる兵士は一切華語を解さないから、何の情報を得ることもできなかった。

 一体いつまで閉じ込められるのかと、雪加の苛立ちは募るばかりだ。


「父上様と母上様がご無事かも分からぬとは、なんと腹立たしい! 木京ムージンを守る羽林軍は何をしておる! 一体、いつになったら助けが来るのじゃ!」


 食事を出してくれる鴉夷の兵士が出ていき二人きりになると、雪加は決まって金切り声を上げた。


「姫様、どうぞお気を鎮めて」


 鴎花は口元に指を当て、懸命に雪加を宥めた。

 兵士は部屋から出ていったものの、扉のすぐ外で聞き耳を立てているかもしれないのだ。華語は分からなくとも、鴎花達が交わす会話の雰囲気は伝わってしまう恐れがある。


「あまり大きな声を上げると、私が姫様にすり替わっていることを悟られかねません。ここはどうか堪えてくださいませ」


 鴎花は床に頭をこすりつけんばかりに懇願した。

 しかし雪加の癇癪癖は今に始まったことではない。これまでも気に入らないこと、腹の立つことがあると彼女はすぐに足を踏み鳴らして暴れだした。周囲の女官たちは皇女様の機嫌を取るべく、右往左往したものだ。

 それでも今の瑞鳳宮の主は雪加の父ではないし、娘を溺愛する皇后は側にいない。粗野で屈強な北方の蛮族たちが雪加の頭を撫でて甘やかしてくれるなんてことは、天地がひっくり返ってもありえないのだ。

 それに鴎花を翡翠姫の身代わりにすることは、雪加自身が言い出したことではないか。

 あの夜、雪加の寝所で宿直とのいを務めていた鴎花は、騒ぎに気付いて目を覚ますと、廊下へ飛び出した。そして鴉夷の兵士らが邸内へ侵入しているのを目の当たりにし、すぐさま主の元へ戻ったのだ。

 こんなところにまで入り込まれているのでは、逃げることは叶わない。かくなる上は鵠国の皇女としての威厳を持って彼らの前に出るしかない、と鴎花が意見を述べると「そんな恐ろしいことができるか!」と、雪加は悲鳴を上げた。

 そして「そなたが翡翠姫を演じよ。わらわは蛮族どものいやらしい目に晒されるなどまっぴら御免じゃ」と言い出したのだ。

 更に彼女は皇族の娘だけに許された銀のかんざしと絹の面布を鴎花に被せた。


「それがあれば蛮族どもの目などいくらでも誤魔化せよう。どうせ妾の顔など知らぬ連中なのじゃからな」

「し、しかし……」

「蛮族どもは翡翠姫を得んがために、挙兵したのじゃぞ! 妾が捕まれば彼奴きゃつらの思う壺ではないか。そなたはしかと妾を守れ!」


 恐怖のあまり目を血走らせた雪加は、声を裏返して叫んだ。

 そしてこんな話をしている最中も、女官たちのつんざくような悲鳴は辺りに響いていており、もはや一刻の猶予も無いことは明白。

 乳姉妹として幼い頃からずっと側に仕えている鴎花にとって、主君の意向に逆らうのは不忠であったし、この場は了承するしか無かったのだ。

 それに翡翠姫のために鴉夷の民が兵を挙げたという話は、鴎花も確かに耳にしていた。

 雪加が中原の宝玉、光り輝く翡翠の姫と讃えられ、その美しさを歌に詠まれたのは、瑞鳳宮で催された一年前の年始の宴でのこと。

 この歌のおかげで雪加の名は世間に広まり、遥か北の草原で暮らす蛮族までが翡翠姫を知るようになった。

 彼らはそんな美しい姫を得ようとして無謀な挙兵に及んだのだ……そんな話が出回ったのは、今年の新年を祝う、華やかな宴でのことだった。

 それでもこの話は「いやはや、蛮族たちまでとりこにするとは、翡翠姫のお美しさには感服いたします」と締め括られ、誰も彼らの挙兵に危機感を覚えることは無かった。

 辺境での反乱の知らせなど、遠く離れた都で優雅な歌舞音曲と共に聞けば、遥か昔のおとぎ話のようにしか感じられなかったし、しかも都は羽林兵という鵠国最強の兵団が守っていたのだ。

 だから雪加自身も「蛮族の分際で妾を手に入れようとは……なんとまぁ、だいそれたことを考えるものじゃ」と笑い飛ばしていた。

 しかし鴎花や雪加を始め、木京で暮らす者たちは全く分かっていなかったのだ。遠く離れた土地での反乱の知らせは都まで伝わるのにも時間がかかる、ということを。

 だから挙兵の知らせが届いて雪加が一笑に付した、その同じ時には、すでに彼らは木京の近くまで兵を進めていた。馬の扱いに長けた鴉夷の民は、反乱勃発を知らせる伝令とほぼ同じ速度で進撃していたのである。


「鴉夷の者は、まことに翡翠姫を妻にするつもりなのでしょうか」


 鴎花は柱の傷をなぞりながらぼそりと呟いた。

 漆塗りの綺麗な柱を汚すのは申し訳なかったのだが、ここに来てから何日経ったか分かるように、食べ終わった羊肉の骨を使って楊枝を作り上げ、日が昇ると同時に一本ずつ刻んでいるのだ。

 今やその数は四十を超えた。

 蛮族たちが翡翠姫を妻にしたいのなら、いつまでも閉じ込めておくのはおかしいし、わざわざ生かしておく理由も分からない。


「ふん。蛮族どもはそなたの痘痕を見てしまっておるのじゃ。本気で娶るわけが無かろう」


 雪加は寝言は寝て言えとばかりに、肩をそびやかした。

 その横顔は襲撃の夜から続く激しい境遇の変化により、痩せてやつれて見えるが、それがかえって彼女の美しさを際立たせているように鴎花は感じた。

 翡翠姫の名は伊達ではない。

 今の雪加は湯浴みも、髪をくこともままならないが、それでもその名の通り雪のように白い肌を持つ見目麗しい姫なのだ。


「そうですね」


 自分の凸凹だらけの頬を指先でなぞりながら、鴎花は淡く微笑む。

 これについては、鴎花も雪加の言うとおりだと思う。

 疱瘡ほうそうは伝染病で、かかってしまうと高熱を発し、無数の出来物が全身に現れる。

 死に至ることもある恐ろしい病気だが、熱の引いた後にも出来物だけが残ってしまうことが稀にあるのだ。

 疱瘡によってできた痘痕は一生治らない。

 雪加の乳母で、鴎花の実母である秋沙チィシャはなんとかして娘の体から痘痕を消そうと、高価な薬湯や灸を試してくれたが、効果は全く無いまま今に至る。


「翡翠姫が蛮族の妻にされ、その身を汚されたなどと世間に噂されれば、妾にとって一生の恥……これほど悔しいことが他にあろうか」


 雪加の嘆きぶりを見ていると、すぐにも鵠国の軍勢が助けに来てくれ、翡翠姫としての生活に戻れると思い込んでいるようだった。


(……果たして本当に?)


 鴎花は肩にかけていた黒い外套がいとうの端っこを指で弄りながら考える。

 この外套を貸してくれた男は華人たちより逞しい体躯と、鋭い目を持っていた。

 瞳の色こそカケスの羽と同じだったが、あれはまさに獰猛な猛禽類の目。

 ここ何年も外敵に襲われることが無く、平和に慣れた鵠国の兵士では太刀打ちできないのではないかと、不安になってしまう。

 いや、太刀打ちできなかったからこそ、後宮の奥深くまで侵入されてしまったのか。

 今、この扉の向こうがどんな状況なのかは分からないが、都を守る羽林兵たちは既に壊滅し、鵠国の長たる皇帝だって殺されている可能性があるわけで……。


「誰ぞ来た!」


 不意に雪加が弾んだ声を上げた。

 部屋の外、廊下を歩く足音が近づいてきたことに耳聡く気付いたのだ。

 食事を持ってくる兵士ではないはずだ。朝餉を出されてから時間は経っていないし、天窓を見上げて確認したものの、やはり日はまだ高い。夕餉には早すぎる。

 ここに閉じ込められて以来、誰かが訪ねてきたことは無かった。

 この閉塞感を打ち破ってくれるのなら、どんな変化であろうと受け入れたい。できれば救出のためにやってきた鵠国の兵士であって欲しい、と雪加は期待したのだろうが、扉が開いて入ってきたのは、褐色の肌の青年だった。


「おい。翡翠姫は今晩、八哥パーグェのところへ行け」


 にこりともせずに華語で命じたこの男は、前開きになった黒色の上着を革の腰紐で締めていた。穿いている下衣も同じく黒。

 唯一の色は袖口と襟元に施された白と赤の刺繍による文様で、襲われたあの夜に見たのと同じものだった。鴉夷の民はどんな時でもこの着物を着るらしい。

 今日の彼は鎧だけでなく頭巾も外していたから、短く刈り込んだ頭部も顕わになっていた。

 髪の色は鴎花たちと同じ黒色ながら、髪の毛は結って冠を被るのが当然である華人男性ではありえない短さだ。

 丸顔で小柄な彼はまだ少年と言ってもいいくらいに幼く見えたが、口元は癇が強そうに歪んでいて、目つきも剣呑である。

 彼の顔を鴎花は覚えていなかったが、鴉夷の民にしては流暢な華語の発音には聞き覚えがあった。

 そうか。あの夜、雪加を担ぎ上げたアビとかいう男だ。


「何のために? 八哥というのは……?」


 鴎花が尋ねると彼は白い歯を見せて笑った。


「俺たちの族長だ。で、男が夜に女を呼び出す理由なんてのは一つに決まってるだろ?」


 笑うと幼い雰囲気が増すのに、言うことだけは大人ぶっているではないか。

 そして彼は持って来た竹籠と水の入った手桶を床の上に置いた。

 手桶には手拭いが、籠の中には化粧品らしいものがそれぞれ入っていた。どうやら族長の前に出るにあたって身支度を整えられるように、それらしいものを後宮でかき集めてきたらしい。


「日が落ちる頃には迎えに来る。無駄かもしれないけど、せいぜい準備しておけよ」


 アビは鴎花の痘痕面を一瞥すると、再び扉の向こうへと去っていったのだった。

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